体験を語る
- 避難所・避難生活
街の人だけの避難所

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月5日 |
防災センターについて
堂下さん
この施設は、いわゆる原発防護施設です。だから、このカーテンは鉛でできていて、そうでないと、窓ガラスから放射線が全部入ってしまいます。この施設は1人3.3平米で70名収容ということになっています。
ほかにも、放射線が入ってこないように、玄関は「前の扉を閉めないと、もう一方の扉は開かない」というシステムになっています。今回避難したときは、どのように利用したかといいますと、着替えをする時に、ここにダンボールハウスを入れてもらって、中に電気ストーブを置いて、そこで男性・女性限らず、使用中、解除中という形で使いました。
こちらは、管理人室みたいなもので、当時、避難所運営の支援に来ていた神奈川県と愛知県の皆さんの休憩場所でした。また、新型コロナの感染者が出た時は、ここを隔離部屋にしていました。避難所によっては、人が多すぎて隔離部屋が確保できず、感染した人の隣に寝るような状態で、それに危機感を覚えた人が退所してしまうこともあったそうです。
そのほかパイプベッドや布団、毛布といった避難施設としての備品が置いてある倉庫の部屋、職員の備品などが置いてある部屋がありました。
この施設は、地震で水道管が壊れ、水が来なかったんです。合併浄化槽も、沈下と隆起の関係で使えなくなり、施設の中のトイレは全く使えませんでした。それで、トイレは、ここにスペースを作って、中にラップポンという簡易トイレを置いて、使うようにしていました。神奈川県の防災アドバイザーの女性が持ってきたものです。
その人が来た時、倉庫の中のものを全部、整理整頓して、名前の表示もするようにしました。おかげで、その後、保健士さんをはじめ、いろんな人が避難所に来た時に「この避難所は参考になりますね」と皆さんから言われました。

聞き手
ラップポンとは、どういうものですか。
堂下さん
使い終わった後、自分で凝固剤を入れて、袋を捨てるんです。袋は自動的に封がされて、次の袋も自動的に出てくるようになっています。袋の取り付けは、自分達でやるのは難しくて、若い職員や各自治体の職員の皆さんにやってもらいました。
やはり一番問題になったのはトイレでした。ペットボトルの水が来て、飲料水はあるけども、トイレの水がなくて大変でした。仮設のトイレが五基来まして、三つは女性用、一つが男性用、一つは兼用という形で使っていました。当初来たのは昔の和式タイプの仮設トイレで、これが不便でして、かがんでお尻を拭こうとしたら狭いんですね。トイレの水は、近くの用水へ交代で取りに行って補給していました。
そのうち洋式の水洗タイプの仮設トイレが来て、最後には、保険医協会などから、臭いのしないバイオマスを利用した洋式トイレが来ました。そういう形でトイレが変遷していきました。


防災センターの環境
堂下さん
あちこちに指定避難所や自主避難所があったんですが、ここの一番の特徴は、避難してきたのがこの地域の人だけだったことです。小さいときから顔なじみの人ばかりで、自助・共助で運営できました。
でも問題も出てきまして、顔なじみの人ばかりなものですから、普段の近所づきあいが出ちゃうんですね。気まずいとか、喧嘩しているとか、普段から近所づきあいの悪い人は長くいられないんです。そういう人は、2、3日後には、息子さんのいる金沢に行ったり、他の避難所に行ったりしました。
逆に、一旦息子さんたちのところに行っても、ちょうど受験の時期とも重なっていましたし、普段から別に生活をしていますから、やっぱり一緒にいられないということで、ここへ来た人もいます。
これが500人といるような大きな施設になってきますと、また全然違う問題が出てきますよね。
聞き手
隣にある集会所は使っていましたか。
堂下さん
使っていません。そこまで必要にはなりませんでした。
聞き手
地震が起きてから、すぐ防災センターに避難されたのですか。
堂下さん
実は私がここに避難してきたのは1月10日なんです。1月1日は家にいて、家は大丈夫だったものですから、隣の家の一人暮らしの方に声をかけて無事を確認し、近辺の様子を見ておこうと思って車で出かけました。しかし、道路の亀裂と陥没で、これ以上行くと危ないと思ったものですから、帰ってきて、1月5日までは自宅にいたんです。
ストーブで暖を取りながら、なんとか過ごしていましたが、1月5日に、ここと隣の地区の県道ののり面が崩れて、今後もそういうおそれがあるからとにかく避難しようということになって、隣の地区の大工さんの作業場に、地域の人たち15、16人で避難しました。そこには、1月5日から1月10日のお昼ぐらいまでいました。
そこは自主避難所で、正月の料理を持ち寄ってみんなで食べました。暖房設備がなくて、夜は寒いから、大体の人は車中泊です。私らも二人と犬 1匹で5、6泊は車中泊でした。
10日の午後にさっき言った県道の斜面が本格的に崩れて、避難指示が町から出たので、ここに来ました。ここへ来た時は大体70、80名はいたかと思います。
聞き手
この防災センターはいつから避難所として開設されていたんですか。
堂下さん
1日からと聞いています。皆さん避難して来て、区長さんがたまたま鍵を持っていたので、開けてくれました。この地区はほとんど被害がなかったですから、この地区の人たちはほとんど避難していませんでした。
聞き手
収容人数は70名ということでしたが、1月1日時点ではそれより多く人がいたのですか。
堂下さん
120名ほどいたそうです。足の踏み場がなかった、廊下にまで寝ていたという話も後から聞きました。
聞き手
そこから少しずつ皆さんがご自宅へ帰られたんですか。
堂下さん
そうです。
聞き手
自主避難所で車中泊された方もいらっしゃったというお話ですけど、こちらでも車中泊されていた方はいるんですか。
堂下さん
数名いました。避難所からマットレスみたいなのを持って行って、それを車の中に入れて、なるべく水平にして寝ていました。
聞き手
やっぱり自分の空間が必要な方もいたんですね。こちらの避難所では、仕切りを立てることなどはされていないのですか。
堂下さん
一応、皆さんに仕切りがあることは言ったんですけど、普段から顔見知りの関係で、積極的に欲しいという人がいなかったものですから、こちらもそれ以上のことはしなかったんですよ。
聞き手
ベッドを少し離すくらいで大丈夫だったんですね。
堂下さん
本当にびっしりと区画で仕切る避難所もありましたが、そういうところは、ベッドの上で食事をしていましたね。
ここでは、皆さん食事する時はテーブルに集まる形でした。掃除も、毎日朝食が終わった後、全員で掃き掃除をしていました。
聞き手
そういったことは、誰かが主体となってされていたんですか。
堂下さん
自然に皆さんやっていましたね。

防災センターの状態
聞き手
電気は通っていたのですか。
堂下さん
ここは自家発電があって、冷暖房完備です。体育館での雑魚寝と比べれば、避難所としては安全な場所でした。
聞き手
ストーブも使っていたんでしょうか。
堂下さん
石油ストーブを使っていました。神奈川県の皆さんが来たときに、ストーブの給油をしたことがないと言われて、生活環境が違うなと思いました。皆さんマンションなどに住んでいるから使用禁止なんですってね。
聞き手
私も七尾市で被災したんですけど、避難所で石油ストーブを使った時に、初めて給油の仕方を学びました。
先ほど見せていただいた倉庫には、ベッドなどもあったんですか。
堂下さん
私たちが来てから一週間ぐらいは、空気を入れる簡易マットみたいなものの上に寝袋を置いて寝ていました。 その後にパイプベッドが来たので、部屋の両サイドにベッドを置き、机を二つ並べて、食事は地域の皆さんで一緒に食べるようにして、畳の部屋では、年配の方を中心に寝てもらいました。たまたまここに2人、看護師のOBの方が避難していたおかげで、リハビリ体操をして、体を動かしていました。
聞き手
高齢者の方が多かったのですか。
堂下さん
平均年齢はおそらく70代で、一番高齢の方は93、94歳でしたね。若い人は、結局ここで寝泊まりはせずに車中泊していました。
聞き手
車椅子の方など、体の不自由な方はいらっしゃいましたか。
堂下さん
そういう人はいなかったんですが、精神的な病気の人がいました。2007年の地震で被害を受けた時も全く避難所に寄らずに、自宅で過ごしていました。
聞き手
この地区はあまり被害を受けていないのもあって、自宅で過ごされた方が結構多いんですかね。
堂下さん
そうですね。あとは水が来るようになってから自宅に帰る方が多かったです。
聞き手
水が来るようになったのはいつ頃ですか。
堂下さん
1月の下旬以降ですね。志賀町の中では場所的に一番遠いですから。
聞き手
この辺では、下水は合併浄化槽でしょうか。
堂下さん
そうです。この施設ですと、50人槽とかになるので、発注してからできるまで相当時間がかかるんですね。1月10日に私たちが避難してから、10月4日に避難指示が解除されるまで、9か月ここにいたんですが、中のトイレが使えるようになったのは 9月に入ってからのことでした。
聞き手
仮設の水洗トイレはどこからの支援物資ですか。
堂下さん
民間の支援団体から来ていたと思います。愛知県か岐阜県の事業者の人が持ってきてくれて、「まだ欲しいです」と言ったら、じゃあ今から取りに行きますと言って、次の日に持ってきてくれました。行き渡ったところから足りないところへ順番に回しており、奥能登の方から持ってきたと言っていました。
聞き手
お風呂はどうされていたんですか。
堂下さん
お風呂をどうするかは問題で、町の施設で無料になったところに行ったり、遠くまで行ったりしていました。私の場合は、羽咋の友人のところに行って、洗濯を含めて、お世話になったり、金沢にいる妹のところへ、1週間に一回、洗濯物を持って行ったりという感じでした。 私の高校の先輩は、ボランティアでお風呂を沸かして、かなりの人を受け入れていました。一人が入るとお風呂の水を入れ替えていましたから、月の燃料代が 20 万円もかかったと聞きました。
聞き手
泥棒などの被害はなかったですか。
堂下さん
怪しい話はありましたが、被害はなかったと思います。おまわりさんが一週間交代で巡回して、防犯の活動もしてくれていました。女性の警官は、よく施設の中に入って、皆さんといろいろとお話しされていました。
食事について
聞き手
自主避難所では、備蓄がなかったから、お正月の残り物などを持ってきて食べていたということでしょうか。
堂下さん
自主避難所にも、指定避難所に準じた形で皆さんに食事が届いていました。朝はパン2個、昼はおにぎり2個、夜はお弁当を食べていました。弁当などは早くからあったと思います。
聞き手
それは物資として届いていたものですか。
堂下さん
災害救助法で食事を提供することになっていますので、おにぎりやパンなど、毎日ほとんど決まったものですが、届いていました。ただ、それで満足できるかはまた別の問題で、どうしても飽きてしまうと言うか、例えば、野菜やフルーツなど、もっと変わったものを食べたくなってきます。これからの避難所の在り方として、変えていかないといけないところだと思いました。災害関連死のことにもつながってくると思います。
聞き手
炭水化物ばかり取っていると栄養も偏りますしね。
堂下さん
カップ麺も来ましたけど、普段は食べても月に一、二回程度ですよね。避難所で毎日のように食べている人もいましたけど。
聞き手
5日まで、ご自宅にいらっしゃった時の食事はどうされていたんですか。
堂下さん
うちは農家で、米もありましたし、ご飯を炊いて食べていました。
聞き手
支援物資はどのように送られてきたのでしょうか。空輸ですか。
堂下さん
空輸はなかったですね。当初は学生時代からの友人らにこれとこれが欲しいとか電話をすると送ってくれたんです。宅配便も来ないから、営業所まで取りに行っていました。
あとは、以前、熊本の水俣で活動していましたので、当時の同僚からも、何か足りないものがあったら言ってくれと言われましたので必要な物資をお願いしていました。
備品はありましたけども、例えばオムツなどもなかなかサイズが合わないとか、使い勝手が悪いということがあったので、このサイズのものを欲しいと連絡して大量に送ってもらったりしていました。
聞き手
こちらの避難所では、食事には非常食を使っていたのですか。
堂下さん
そうです。基本的には配食のおにぎりや弁当ですが、時々長期保存食などを使っていました。
聞き手
非常食の箱もありましたけど、どのように配っていたんですか。
堂下さん
必要な人に渡していましたけど、足りなくて困るということはなかったです。だいたい町のほうにお願いすれば、翌日か翌々日には物資が届くようになっていましたから。
聞き手
それも炭水化物ばかりだったんですかね。
堂下さん
どこかから仕入れてくるのではなくて、支援物資で来たものを分けていくわけで、あれが欲しい、これが欲しいと言えるようなものではないですからね。
聞き手
野菜は食べられていましたか。
堂下さん
野菜は、あちこち行った時に補給していました。果物も、私はかつて住んでいた水俣からデコポンや甘夏の差し入れを頂き、皆さんで食べました。
聞き手
料理もここでされていたのですか。
堂下さん
弁当が来ていましたし、調理する設備もスペースもないので、料理はしていません。IHのコンロはありましたが、なにかを温める程度でしたね。 隣の大西公民館の自主避難所は、皆さんで食事も含めて、男性、女性に限らず、いろいろと役割分担を決めてやっていました。しかし、どこに負担が行くかというと、結局は女性陣に行くわけです。避難所も1、2日だけのことじゃないですから、ずっと続いてくると、またいろんな問題が起きてきます。
聞き手
大人数の料理をしないといけないのは大変ですよね。別の避難所では、3人くらいでやっていて、すごく大変だったという話も聞きました。
堂下さん
そういった意味では、ここは男性・女性に限らずに皆さんで入っていただいていますね。地区の責任者の方は、元消防署の職員で、仕事で夜に泊まりになることもありますから、作り慣れていますし、自分たちで作って食べていました。
傷病者について
聞き手
怪我をされた方やコロナやインフルにかかった方はいましたか。
堂下さん
コロナに感染した人は5、6名いましたが、看護師OBの人たちが対応してくれたので助かりました。日中、朝9時半から夕方6時頃までは、神奈川県の県職員の方をはじめ、各自治体の皆さんが来ていたんですが、夜はいなかったので、私がいろいろと対応していました。
聞き手
高齢の方は、常備薬の確保などはどうされていましたか。
堂下さん
避難所に持ってきていた人もいますし、町内の薬剤師の方も持って来てくれていました。当初はDMATの先生方も毎日のように診察に来てくれたんです。そのうち、1週間に一回、2週間に一回という感じで減っていきましたが、高齢者が多いということで、引き続き、気にかけてくれていました。
全国から派遣されてきた保健師の皆さんも毎日来てくれまして、お医者さんにはその場で処方箋を書いて、この病院に行きなさいと指示してくれたので、本当に助かりましたね。
聞き手
換気はどのようにされていたんですか。
堂下さん
換気装置がある部屋もありましたし、予防医学会から支援物資として、空気清浄機が5台来ました。
聞き手
アルコール消毒はしていましたか。
堂下さん
徹底してしました。消毒液などは全部揃っていました。


情報について
聞き手
こちらの地域では、電話やラジオ、テレビなどは大丈夫でしたか。
堂下さん
ほぼ大丈夫でした。ここは完全に防音の施設で、外の防災無線も全く聞こえないので、NTTさんが提供してくれたWi-Fiの設備がなかったら大変でしたね。テレビとスマートフォン、パソコンで基本的には情報を手に入れられました。最近は、ラジオを聞く人はあまりいません。
聞き手
では、被災当初から、家族とも連絡は取れていたのでしょうか。
堂下さん
取れていました。
聞き手
他の地区では、テレビは全国的な目線での情報なので、地区の情報が取れなくて不安だったというお話もあったのですが、どうでしたか。
堂下さん
それはどこも同じだと思います。ただ、同じ志賀町でも、場所によって感覚が違います。
この地区は隣が輪島市ですから、例えば、天気予報にしても、輪島の予報を見ると大体合いますし、生活圏も地域的なつながりが多くて、買い物にしても、近くて、ものも揃っていますから、穴水のショッピングセンターに行きます。能登空港も近いですし、いろんな会合も、すぐ東京まで来いと言われても行きやすいくらいです。
聞き手
土砂崩れや段差で通れない道もあったと思いますが、そういう情報はどこから来たのでしょうか。
堂下さん
町からの情報も含めて、あの辺が危ないな、大体ここから通行止めになるなというのは日常的な感覚で分かりますね。
聞き手
封鎖された状態ではなかったということですか。
堂下さん
町境も封鎖されて、孤立状況にありました。県道の仮設道路ができるまでは通行止めで、私は 1月10日から2月20日まで、家に帰れなかったです。
ボランティアについて
聞き手
ボランティアの方はいらっしゃいましたか。
堂下さん
毎週のようにマッサージに来てくれる方、足湯を持ってきてくれる方、コーヒーを入れに来てくれる方などがいて、本当に助かりました。ほかにも歌手の方、漫才師の方など、いろいろと来てくれました。町内の方も楽器を演奏してくださいました。
あとはこの地区出身の人が、ボランティアで炊き出しに来てくれました。
聞き手
防災センターの前で炊き出しをされたのですか。
堂下さん
玄関の前ですね。地域の皆さんも居ました。
聞き手
炊き出し係というか、お手伝いなどはされたのですか。
堂下さん
皆さん自分達でやってくれたので、我々は食べるだけでしたね。隣の地区の避難所の人に配ることもありました。
避難生活のトラブル
聞き手
避難所の生活でトラブルはありましたか。
堂下さん
ちょっとした喧嘩などはあったでしょうけど、私たちが仲裁しなきゃいけないといったものはなかったです。
聞き手
寝息がうるさい、ペットの鳴き声がうるさいといったことをよく聞きますが、そういうのも別になかったですか。
堂下さん
私も保護犬を飼っていたんですけど、車の中に入れておけば、大人しくしていましたし、また、連れ合いがやっているグループホームへ連れていきました。
隣の地区の避難所だと、ペットを玄関に置いていて、よく鳴いていたので、不快に思っていた方もいたかもしれませんが、皆さん了解していました。
聞き手
ご高齢の方が多いということで、足腰が悪くて、夜一人でトイレに行けない方などはいらっしゃらなかったですか。
堂下さん
一人で行けない人はいなかったんですが、電気が全部つくか全部消えるかのどちらかしかなくて、トイレに行く時に危ないからということで、電気を一晩中つけっぱなしにしていたんです。
消したらどうかという話もあったんですけど、他になかなかいい案も浮かばず、そのままになりました。アイマスクをして寝ている人もいましたね。
避難所の閉鎖
聞き手
ここには皆さんいつ頃までいらっしゃったのですか。
堂下さん
だいたい10人ほどが10月4日までいましたね。避難指示が出ている地区の方が避難していたので、長かったんです。
帰れる人から順番に帰っていって、最後に残っていた方々は、避難指示が解除されるまでここにいたんですけど、9月には、仮設住宅の入居が決まっていたんです。
でも、自宅の被害状況としては、避難指示が解除されたら、仮設住宅入居の対象にならなかったので、結局入居しませんでした。
聞き手
その方々は、今はどちらに住まわれているのですか。
堂下さん
自宅にいます。10月4日の朝に避難指示解除という連絡が出たものですから、仮設住宅には全く入ることなく、家に帰りました。
仮設住宅への入居が10月に入ってからの予定だったので、家財もいろいろと買った人もいましたし、買わずに、家にあるものを持っていけばいいかなという方もいましたね。
聞き手
仮設住宅はここの近辺にあるんですか。
堂下さん
大西公民館のグラウンドや運動場、そこに24戸です。地域の皆さんに希望を取って、ここに住みたいということで建てたものです。木造の住宅ですね。 2年間の仮設住宅としての使用期間が終わったら、今度は家賃を払って住んでもらうという想定になっています。
聞き手
戸建てですか。
堂下さん
戸建てじゃなくて、二軒を長屋で建てました。穴水と内灘が戸建ての住宅を要求していましたが、能登全体で見ると、戸建ての仮設住宅ほとんどないんじゃないですかね。
建物の被害状況について
聞き手
堂下さんがご自宅に戻られたのは、避難指示が解除されてからのことですか。
堂下さん
その前にも、天気のいい日は、皆さん、時々自宅に帰って息抜きをしたり、洗濯をしたり、片付けをしたりしていました。雨が多くて危ないなと思った時は避難所で過ごしていました。
聞き手
土砂崩れは結構頻繁に起きていたのでしょうか。
堂下さん
1月5日ぐらいまで、毎日、断続的に起きていましたね。基本的には一時的な対応しかできなくて、土砂をどけられないか、どかしてもすぐに戻るような状況でした。今は本格的な工事に取り掛かろうとする地区も何箇所かあります。
聞き手
雨による洪水などはありましたか。
堂下さん
大規模に川が氾濫するということはあまりなかったです。
聞き手
時々帰っていらっしゃったという話ですけども、皆さん、ご自宅は危険ではなかったのですか。
堂下さん
うちの地区では、住宅の被害は大体が準半壊で、全壊の家はなかったんです。隣の地区では全壊に近い家もあって、半壊以上で公費解体の対象になりますから、皆さん軒並み解体してしまいました。半分以上、家がなくなったような地区もあります。
この辺は昔から付き合いもありますから、何がどこにあったか全部分かります。だが町の中心部では被害が大きく、公費解体が進み、町の景色が変わってしまいました。
聞き手
私の自宅は瓦がずれて、屋根からの雨漏りがひどく、二階はほぼダメだったのですが、堂下さんのご自宅では、そうことはありませんでしたか。
堂下さん
うちは一昨年たまたま屋根瓦を葺き替えた後だったこともあって、瓦はずれましたけども、昔と違って屋根板自体も防水になっていますから、家の中はほとんど大丈夫でした。瓦を葺き替えていなかったら、今頃住めなかったと思います。
聞き手
この写真の場所はどこでしょうか。
堂下さん
ここから車で 10分ぐらいのところで、私の通っていた昔の稗造小学校があった場所です。2007年の地震の時は、ここに仮設住宅を建てて住んでいたんですけども、今回は水の関係で仮設住宅を建てるのは無理だということです。この辺はほとんど解体されて、誰も残っていません。

聞き手
こちらは被害が大きいですね。
堂下さん
場所によって全然違います。こういった大きな家がみんな解体になっています。
ここが交流センターです。ここに明日、地区のお祭りがあって、東洋大学の皆さんが来ています。
東洋大学の前の理事さんがこの町内の出身で、この近くの山の地主です。それで、その山をいろいろ利用したいということで、十数年ほど前から、東洋大学の学生や先生が来ているんです。
聞き手
今でも交流が続いているんですか。
堂下さん
明日のお祭りの神輿の担ぎ手として、オーストラリアからの留学生も来ていて、地域の皆さんとの交流ということで私たちも呼ばれていました。
聞き手
どんなお祭りですか。
堂下さん
地域の秋祭りです。この地区に限らず、もうどの地区のお祭りも応援があってはじめて成り立つようなものがほとんどですね。
防災への意識について
聞き手
地震に対する意識の問題があったという話も他ではありましたが、今回の地震を踏まえて、意識が高まった面はありますか。
堂下さん
私は意識的に情報を集めたりもしていますけども、全体的にそうなっていかないと、あまり意味をなさないと思います。
そういった思いもあって、あちこちから全国の皆さんが視察に来たら受け入れています。輪島市門前町黒島の海岸など、被災地域が今後の学習の場になると思うんです。現場を見てもらうことで、私も改めて気をつけなければならないなという気持ちになります。
聞き手
避難訓練などはされていましたか。
堂下さん
訓練らしい訓練はあまりしていなかったですね。
聞き手
原子力関係の訓練についてはどうですか。
堂下さん
毎年11月23日に持ち回りみたいな感じでやっていましたが、いつも見るだけでしたね。例えば、ヘリコプターが校庭に飛んできて、そこに乗るのを見ていました。
毎年やっているんですけど、冬になるかならないかの時期で、そうすると、波が高くて船が着かなかったり、ヘリは風が強くて飛んでこられなかったりというのが多い。天候に左右されるのですね。
北海道で看護関係の大学の先生が、真冬の体育館で実際に避難するということをやっていましたが、一枚の段ボールがあるだけで体温を下げないとか、そういったことも含めて、現実的な対応を実際やってみることが大切です。
防災訓練にしても、大概の人は防災グッズすら用意しません。今は、いろんなものも売っていますし、完璧なものを揃える必要はないですが、必要なものを持ち出して、すぐ取り付けるぐらいの訓練をしないと。
そこに気をつけて、反省する形にしていかないと、ただお客さんとして見ているような感じじゃダメですよ。
聞き手
堂下さんとしては、トイレ、お風呂、食事、この辺りがやっぱり大事だと思われましたか。
堂下さん
例えばトイレにしたって、田舎なら、極端なことを言えば、後始末をきちんとすれば、その辺ですることがあっても仕方ないわけです。都市部ではそんなわけにいかない。田舎に住んでいても、都市部に行ったときに地震に会わないとも限りませんが。
特に、県の震災想定にもある森本-富樫断層なんて、ちょうど一番人が多く住んでいるところでしょう。邑知潟断層も含めて、地震があったときに、備えをどうするか考える必要がありますね。
去年、熊本学園大学の知り合いの教授から、一度地震のことを報告してほしいと言われて行ったんです。市役所の職員や防災関係の人、気象庁の人が来て話す、「災害と社会」という講座で話をしてきました。
熊本では地震や球磨川の大氾濫もありましたし、その大学では、ボランティアのために一つの部屋を用意していて、熊本から能登まで遠いから、学生を送り込むために、大学としても派遣するための交通費を集めているということでした。
聞き手
日本はいろんなところで災害がありますし、いろんな方に石川に来ていただいたところですから、別の場所で災害があったときには、こちらから行くような意識も持った方がいいですね。
堂下さん
今回ここに神奈川県の皆さんが来ていましたけど、コロナのときに緊急事態の対応をしていた人が結構多かったです。愛知県の皆さんは、南海トラフの関係もあるので事前演習の気持ちも含めて来たという人が結構いました。東日本大震災のときは文化財保護の関係で被災地へ行っていたという人もいました。
聞き手
ボランティア受け入れの調整などはされたんですか。
堂下さん
大々的にではないですけど、掲示板で「何月何日にボランティアの方が何名来ますから、必要な方は申し出てください」とお知らせする形にしていました。ここに来れば、ボランティアのサービスも受けられるし、ボランティアの方が来るという情報も得られるようにしていました。
ほとんど毎週のように来てくれた整体師さんがいて、ありがたかったですね。日中は他のボランティアに行って、夕方から夜までこちらに、という感じでした。
ボランティアは、結構、専門職の方もいまして、例えば、屋根瓦の修復とか、大工仕事ができる人も来るんですね。だから、結局そういう人たちのほうが力量も経験も圧倒的に上なんです。
県も町も各自治体も含め、行政の皆さんも今回みたいな事態は初めての経験で、そういう人たちにどう対応していいか分からなかったんじゃないかと思います。3トンのダンプで来て、ダンプで寝泊まりしている30代の女性の方もいて、何かの時に、行政とちょっとうまくいかなくて、話し合いのできる場を作ってくださいと言われたこともあります。
一応、行政としては、危険なところに入らないように言うんですが、そういう人たちは少々危険でも、それなりに入れるなと思ったら、長い間の経験もあって、自己責任で入っちゃうんですよね。東北へ行って、熊本へ行って、熱海も行きましたという人もいました。
淡路島から来た人たちは、少々傾いている家でもジャッキで傾きを元へ戻すみたいなことをしていました。「解体は最後の最後」という看板を出して、事務所を挙げて、むやみに解体したらダメだと言っていました。その社長は仕事の仕方の本まで書いて、講演も呼んでくれれば行きますとおっしゃっていました。去年も高岡市の商工会に呼ばれていました。
古民家とまでいわないが、今ある家を色々と利用したいということで、解体してしまったら、人が帰ってこられないし、寄る場所もなくなるから、とにかく利用できる家は利用したいということで、能登全体で100戸はそういうことで利用したいという方もいました。当初は、地域で、長期民泊で滞在してもらい、次は二拠点生活の一拠点として利用してもらい、ゆくゆくは気に入ったらここに住んでいただき、そして買い取ってもらえればということです。 公費解体は、とにかく困っている時に解体してもらえて、ありがたい制度でもありましたが、 何もかも解体してしまうという、逆に災いとなった面もあったと思いますね。

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「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

