石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 県民

連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした

珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
体験内容
日置地区で消防団として救助活動などを行った。
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年10月28日

消防団の活動状況

消防団としてどういうふうに活動に当たられたか、お聞かせいただけますでしょうか。

当日は、自分の地区におらず、宝立にある会社に行って、会議の用意をしていました。1回目の地震が来たときには、また大きい地震が来たなと思ったんですけど、そのあと5分間ほど間があったので、終わったと思って、また作業をしていたら、2回目の地震が起きて、今度は今までと違うなと。ちょうど自分の机のところに、後ろから棚が倒れてきて、机から少しずれたところにいたので当たらなかったんですが、机にずっとつかまったままで、身動きが全然できませんでした。
事務所の中の棚も全部倒れてしまって、大きなガラスも2枚も3枚も割れたので、雨が降ると都合が悪いなと思って、向かいの工務店から戸板をお借りして、応急的に雨が入らないようにしてから、うちに帰ろうとしたんですけど、土砂崩れで、道が塞がれていたんです。
木の枝がいっぱいあって、車も渋滞してきました。たまたまチェーンソーを使える人がいたので、会社から持ってきて、枝を切ってもらって、片道だけでも通れるようにしました。
自分のうちは外浦地区にあって、一度山のほうに上がってから海岸沿いに下がるのですが、行こうと思っても、道路が寸断されて、どこがどうなっているのか全然分からず、行った先が通行止めでまた戻ってきてという状況でした。そのうち真っ暗になってきて、もううちには行けないので、車中泊をしようかなと思っていたら、一緒に木の枝をどかした人から、飯田小学校が避難所になったという電話がかかってきました。飲み物や食べ物ぐらいは何かあるということで、そっちへ行って、結局、中には入らず、車中泊でしたが、そこで一晩過ごしました。次の日、改めて道を見ながら地元まで帰りました。

次の日には自宅にたどり着くことができたのですか。

土砂崩れで道が通れず、結局うちまで車で行けなくて、ちょっと広い退避場みたいなところに車を置いて、旧の小中学校のところにある日置ハウスへ歩いて行きました。そこは指定避難所ではなかったんですけど。

自主避難所だったんですね。

着いたとき、正月で帰省している人もいて、大体120名ぐらいいたかな。そこに2月くらいまでいました。

ちなみに指定避難所はどういう状況だったんですか。

隣の川浦町の人も一緒の地区なので、指定避難所の公民館へ集まってきたんです。そうすると、人がいっぱいになって、とても入りきらないので、日置ハウスに皆さん避難されました。

消防団として動くことはできたのでしょうか。

消防団は、日置地区の中の地域ごとに集まることは難しかったです。集まれる人と、あとは年の若い人、動ける人で、一軒ずつ声を掛けて、返事があったところを探しました。倒壊した家から、7名を一応救出したんですけど、そのうち4名が亡くなっていました。

パトロールしながら声掛けをしていたのでしょうか。

田舎で、誰がどこのうちにいるのかは大体分かっていて、倒壊しているうちに声を掛けてみて、声がしたところを探して助け出しました。

そういった活動はいつから行われたんですか。

1日目からです。

地震が起きたらそういう行動をするというマニュアルみたいなものがあるのか、それともそういう指示があったのでしょうか。

連絡を取ろうにも全く通じない状態でしたが、地区のここに誰がいて、ここは空き家でというのは分かるということで、道具も持っていなかったので、声が聞こえたところを、もう屋根から瓦から全部めくっていきました。

団員の方が率先して自分の地区でそういうことをされていたと。

そうですね。

団員同士で連絡を取り合ったりはできたんですか。

連絡がなかなかとれなかったです。電話はかかるけど出ないとか、そういうのばかりでした。

通信自体はできたのでしょうか。

最初はよかったんですが、何日か後から、携帯が通じないようになりました。
停電もしていて、みんなが避難している日置ハウスに、分団の発電機を持ってきて、炊事場の明かりの電源に使っていました。外に置いてありましたけど、エンジンなので音も響くし、みんなが寝る9時ぐらいには消していましたね。
あとは、ここは地滑り地帯なので、水抜きのライナーが幾つもあるんです。そこから大抵水が出ていて、毎日くみに行く必要はありましたが、その水がトイレとか生活用水に使えて結構助かりました。

日置ハウスでは、トイレは使えたんですか。

初めは皆さん、水が流れないのに、そのまま次々とトイレを使うので、詰まりました。水をくんで来て、バケツで水を流せばできるといって、掃除して流すようにしたんです。浄化槽は何とか大丈夫だったみたいです。

消防団員が集まる場所はあったんですか。

いつもはポンプ小屋というか、ポンプ車が入っている車庫に集まるんですけど、そこは潰れてしまって、シャッターが外れて、ポンプ車が出せない状態でした。うちの団員が、シャッターを分解して車を出して、日置ハウスのところまで上げたんです。

火災の被害はなかったんですか。

ここではなかった。宝立地区はあったように聞いています。

消防団では救助のほかにどういった活動がありましたか。

消防団としてよりも、避難所の中の世話係みたいなことと、水くみ、あとは、廊下や玄関ににも寝ている人がいて、1月で夜は寒いので、玄関にストーブが置いてあって、夜に歩いて回って、ストーブの油が少なくなったら足してということを毎日していましたね。燃料は、時々自衛隊などが持ってきてくれていました。

パトロールもされていたんですか。

パトロールもしようと思ったんですけど、何せ道が寸断されて行けない状態なのと、もし火事になったときに燃料がなくなると都合が悪いので、極力、必要なとき以外には回らないことにしていました。近くに給油所もなかったので。

その方針はどうやって決めたのでしょうか。

本来は月に2回、回っていたんですけど、もう道も回れない状態ということで、私が決めました。日置ハウスにポンプ車を持ってきたこともそうです。

消防署からの指令はあったんですか。

本当に必要な指令は来ていたと思うんですけど、細かいことまではしていられなかったと思います。各団でそれぞれできることを全部していたと思います。

避難所の状況

避難所には、例えば、高齢者や小さいお子さん、障害のある方といった要配慮者の方はいらっしゃいましたか。

お年寄りもおられました。お年寄りの人や具合が悪い人は、10数人が2次避難していきました。

いつ頃のことですか。

1月の中頃かな。

それまでの間は、例えば、介護の必要な方やお子さんはどう過ごされていたんですか。

そこまで要介護の方はいませんでした。あまり小さい子供はいなくて、中学生か高校生でした。

避難所では大部屋に雑魚寝という感じだったのですか。

段ボールベッドがあったので、それを組み立てましたね。部屋がなかったんで、廊下にも片側に全部くっつけて置きました。

段ボールベッドは、もともと備蓄してあったのでしょうか。

備蓄してあったものと、支援物資で届いたものとあったと思います。

自衛隊の物資ですか。

自衛隊の物資もあったと思います。2日に一度ずつぐらいか、結構まめに来てもらいましたね。最初は2日目だったかな。
そのとき、食料は、各家庭に米などをストックしていたので、あるものを持ち寄っていました。ちょうど正月で餅もついていたし、食べられる物はみんなうちから持ってきて、みんなで分けていたんです。

食料にはあまり困ることはなかったんですね。

そうですね。カップラーメンみたいなものは後から入ってきたんですけど、最初は御飯やみそもみんなうちにあるし、野菜も少しあるし、蓄えを持ち寄っていました。
食器も、後になると紙のものも来たんですけど、簡易宿泊施設なので、皿や箸は多少あったと思います。必要そうな物はみんなうちからも持ってきていました。

お風呂はどうされていたんですか。

初めの頃は入っていません。一か月は入っていないと思う。どれぐらいたってからか、ボランティアさんが来始めて、ライナーから出てきた水を使って、浴室の外側で大きな釜にお湯を沸かして、それを風呂にためて入っていたんです。

最初は何名ぐらいの方が避難されていたんですか。

大体120名と聞いています。

避難所の運営について

避難所の運営について、お聞かせいただけますか。

区長さんもおられたので、中心になって運営されていました。

何か物資が足りないとか、自治体と連携を取ることはあったんですか。

それも区長さんが市役所と連絡をして、必要と思うものがあれば、玄関先のホワイトボードに書くようにしていました。

それはいつ頃のことですか。

1週間、10日、そのぐらいじゃないかな。初めのほうは何もなかったように思います。

初めのほうは、かなり混乱もあったと思いますが、どういう状況でしたか。

雨風はしのげる施設がありましたが、停電もしているし、まずはこれからどうするかという感じでしたね。毎日水を持ってくる人、それから、夜の火の番は、お年寄りはできないので、私たちみたいな、40代や50代、60代の人が率先的にしていました。さっきも言った、何が必要かみたいなことなどは、区長さんが班長みたいな感じでやってくれていました。
帰省している人は帰っていって、だんだん人数が少なくなっていきました。そうすると、今度は婦人部というか、お母さん方が朝昼晩、御飯の用意をしないといけないので、今日は不在だとか、食事が要らない方は名前を書いてくださいということにして、先に聞いておかないと多く作ってしまいますから。多いときはまだいいけど、少ないと都合が悪いですしね。

ホワイトボードに書いていたんですか。

大きいカレンダーの紙を使って、この日は、朝昼晩の朝は要りません。昼はお願いしますとかって、名前を書いて、大体の人数を把握して、食事を用意していました。

そういう役割分担みたいなものは話合いで決まったんですか。

話合いというより、頼んで決めるという感じでしたね。

台所はあったということですね。

下の倉庫というか、コンクリート張りのところに、ガスコンロとか大きなガス釜を持ってきて作りました。

日置ハウス自体には台所はなかったんですか。

日置ハウスにも台所はありますよ。ただ、そこは皆さんで食事するところだったので、食事を作るところは、別に用意しました。玄関のすぐ右側で、場所的にもちょうどよかったので。

日置ハウスの設備はどうでしたか。

初めは水が来なかったので、シャワーはなかったですね。

手を洗ったりするのはどうしていましたか。

水をくんできて、2リットルのあのコック付の容器に移していました。そして、仮設トイレも1基だけ持ってきて、玄関先の隅に設置したんです。

数としては少ないと思いますが、トイレはその後増えたりしたんですか。

仮設トイレは1基のままでした。あとは、この施設のトイレを掃除して、水は出ないけど、トイレの窓に段になっているところがあったので、そこに水を入れたバケツを置いておいて、それで流して使ってもらいましたね。

水をくむのは、誰か担当していたんですか。

私たちが、毎日、水の残り具合を見て、なくなったらくみに行って、大きなバケツに入れて、なくなったらまたくみに行っての繰り返しでした。

そのほかに何か避難所での役割はあったんですか。

私たちは水くみとかをやっていましたし、婦人部の方が、廊下などの掃除をしていましたね。朝御飯もずっと婦人部ともう一人の男性で作っていました。

大体100人分ぐらいですか。

そうですね。初めはパンともう一品、みそ汁とか簡単にできるものを作っていました。毎日、ある材料を見て、よく考えてやっていて、よくできたなと思います。

食材を見ながら作るものを考えていたんですね。

救援物資が入ってくるようになると、またそれを見て、今日は何を使おうかとなっていました。

救援物資が増えてきたのは、いつ頃ですか。

初めはなかったけど、1、2週間後ぐらいから本格的に増えてきました。

それは自衛隊からの物資ですか。市のお弁当みたいなものは。

自衛隊ですね。市のお弁当はなかったです。自分たちで作っていました。

そのほかの活動は何かありましたか。

水くみは毎日していましたね。あとは、倒壊したうちから物を出す手伝いをしたりしていました。私たちは、11日頃には、もう仕事に行っていました。班長さんは、会社に休ませてくださいと連絡して、避難所のことをしていたらしいです。

食事はそれぞれの家から持ってきてというお話だったんですけど、食事以外に何か避難所で足りなくて、家から持ってきた物はありますか。

毛布ですね。足りなかったので自分もうちから持ってきました。

洗濯はどうされていましたか。

洗濯はくんできた生活用水を使って、みんな手で洗っていたかな。電気はまだ全然通らなかったので。

ポンプ小屋の車庫から持ってきた発電機は、主に何に使っていたんですかね。

消防活動の夜間のライトを動かすのに使っていました。

日置ハウスは、最後まで洗濯機も乾燥機もなかったんですか。

後で電気が通ってきてからは、洗濯機も中に3、4台あったので、順番で洗濯していました。乾燥機もたしかあったんじゃなかったかな。

シャワーは、電気が来たらもう使えましたか。

そのときは、水がまだ来なかったので使えませんでした。

仮設のシャワーの提供もなかったんですか。

循環式のシャワーが、1か月ぐらいしてから来たんじゃなかったかな。

薬など、医療用品は大丈夫でしたか。

うちが潰れた人から、薬を取ってきてほしいと言われて、とても入れる状況ではなかったので、結局病院へ行ってもらったんですけど、ほかはあまり必要なかったですね。私たちのいる山手の方は、浜の方に比べると、家の状態もまだよかったので、何かあれば、薬もうちの中にあるだろうとなりました。

避難所生活での決まりなどはあったんですか。

団体生活ですから、特に誰が決めたわけではないけど、お年寄りばかりでしたし、夜9時になると、電気を消して寝るようにしていました。

何時に何をするかという、1日のスケジュール的な決まりはあったのですか。

何もしないと体もなまるということで、朝6時ぐらいに、みんなでラジオ体操をしていました。

それは部屋の中でしていたんですか。

玄関でやっていましたね。強制ではなくて、ラジオが鳴ったらみんな来ていました。

寝室は家族単位で分かれていたんですか。

家族で固まって寝ていた人もいたし、あとは個々に寝ていました。うちも母親は廊下で、私は玄関に寝ていました。家族単位で何畳ずつ分けたということはなかったですね。

寝室に使える部屋はどのぐらいあったんですか。

3つぐらいしかなかったかな。

高齢の方や体調が悪くなったりした方を別の部屋にみたいなことはなかったのですか。

具合の悪い人たちは、なるべく、段ボールベッドを置いた部屋にいたみたいです。あと、簡易宿泊施設で、壁際に2段ベッドがある部屋もあったので、そこも利用していましたね。

コロナやインフルエンザになる方はいらっしゃらなかったですか。

そのときはいなかったです。

特に隔離しないといけないことはなかったんですね。

なかったです。

120人いたとき、車中泊の方もいらっしゃったんですか。

車で来ている人もいたんですけど、車中泊はあまりいなかったかな。

玄関や廊下とか、場所を選ばなければ横にはなれたんですか。

そうです。ごろ寝でしたね。私もずっと玄関にいました。そのうちに、保健所が回ってきて、玄関に寝るのは衛生的によくないと言われたので、2階に上がったんです。2階にも当然寝ている人はいたんですけど、そこに混ぜてもらいました。

初めのころ、段ボールベッドはなかったんですか。

玄関に、たまたま薄いマットレスがあったから、毛布を二、三枚持ってきて、敷いて寝ていました。

上の階に行ってからは、段ボールベッドが用意されていたんですね。いつ頃のことですか。

2週間ちょっと経ったときのことだと思います。

2次避難が始まる直前ぐらいですか。

帰省していた人が帰って、そのうちにお年寄りが2次避難するというので、だんだん人が少なくなって、ちょっと余裕が出てきていました。

2次避難の方が出て行った後は、何人ぐらいいたんですか。

40数人はいたと思います。

金瀬戸さんは、いつまで避難所におられたんですか。

2月いっぱいぐらいじゃなかったかな。

その後はどちらに移動されたんですか。御自宅ですか。

自宅です。電気より水が必要なので、初めの2か月は、幾らうちが建っていても、水が使えなきゃどうにもならんということで、結局避難所にいました。

3月から水が使えるようになったんですか。

そのときはまだ水が来ていなかったかな。なので、うちへ帰るときに、避難所にあるペットボトルの飲料水や食べ物を分けてもらって、洗濯はちょうど自分のうちの近くにライナーの水が出ている場所があるので、そこからポリタンクでくんで来ました。

御自宅に移ろうと思われたきっかけは何ですか。

自分の母親も高齢で、色々お世話とか、あまり皆さんに迷惑をかけたら駄目かなと思いまして、うちなら多少はいいかなと。

日置避難所は、いつ頃閉まったんですか。

7月末です。仮設住宅ができるまでありました。

仮設住宅に移られた方は何人ぐらいいましたか。

30人ぐらいかな。

ほかの避難所に応援に行くことはあったんですか。

各公民館や集会所で、それぞれやられていましたね。

避難所同士で連絡することはあったんですか。

物資が入ってきたときには、人が多いところに置いて、他のところに連絡してくださいというのはありました。

そういうやり取りがあったのは物資のことぐらいですかね。

そうですね。

今は御自宅に住んでいらっしゃるということですが、御自宅の被害はどうだったんですか。

住宅は一部損壊で、同じ番地にある離れは中規模半壊です。

戻ってから修理されたのですか。

サッシが2枚ほど割れたのは入れ直しました。離れは、物を入れたりはできるんですけど、傾いてしまって、寝泊まりはできない状況です。

当時の経験を語る金瀬戸さん(2024年10月28日撮影)

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