体験を語る
- 県民
避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月29日 |
地震発生当初
聞き手
地震発生後の正院地区の被害状況について、例えば、建物や道路の状況などを教えてください。
小町さん
町並みは、8割以上の建物が半壊以上の状態になったように思います。道路状況も、マンホールが浮き出たり、アスファルトの道路の亀裂が走ったり、とても、車がスムーズに往来できるような状況ではなかったですね。
4時10分の本震の前に、4時6分の前震があって、私は、そのとき自宅にいたんですけども、公民館長は、震度4以上の地震になったときには、公民館に駆けつけて、被災状況を確認して、避難所開設の指示を待つという、そういう役目があるんです。それで、大変横揺れがひどくて、これはただごとではないと思いまして、公民館に走ったわけです。ところが、わずか100メートルほどしか自宅から離れていないんですけど、途中までしか行けませんでした。なぜなら、4時10分の本震を道路の上で体験したからです。アスファルトの道路が波打ち、電信柱が倒れ、そして、目の前の家屋がもう倒壊し始めた。これはただごとではない、もう大変なことが起きたということで、立っていられませんでした。それで、公民館に行くのは諦めて、自宅に帰って、家族とともに、いつも避難訓練をしている正院小学校の裏山まで、大変な道路状況だったんですけれども、何とか駆けつけたというのが私の一番最初の体験です。
聞き手
道路は完全に寸断されてはいなかったということですか。
小町さん
そうですね。道路の話は、1日に外に出られた、濱木区長さんのほうが詳しいと思いますので、どうぞ。
濱木さん
私は、1日の地震が来る前、白鳥の写真を撮りに行っていたんです。道路のところに白鳥が大体50羽ほどいたので、その写真を撮るために、農道へ車で入っていって、寒いから窓だけ開けて、撮っていたんです。そうすると、白鳥がカメラのほうに向かってきたんですね。普通は、カメラを向けると、私と反対方向に皆、飛び去るんですが、そのときは、窓を開けて撮っていたら、50羽が一斉に私のほうに向かって飛び立ってきたんです。それで車から降りて、その横で、カメラで撮っていたんです。
飛び去ってから、30秒から1分ぐらいして、農道が、去年の地震なんて比べ物にならないほど揺れたんです。それで、慌てて車に乗って、県道へ出ました。家のほうに向かって走ってきたんですけど、県道を出たら、もう道路が波打ってるんですね。正院町の本町交差点に向けて、海岸に近い自宅のほうへ走ってきたところで、付近にすごい土煙が上がって、全く前が見えなかった。これは駄目だと思って、バックして逃げようと思ったんですけど、そのとき左右で家が倒れてきたんです。それで、とにかく、夢中でバックして、車を止めて、近くの様子を見に行こうと思ったんですけれども、もうとても行ける状況ではありませんでした。その後は、軽トラの荷台に、人を10人ぐらい乗せたりして、皆さん、どんどん避難されていたので、その車両の後ろから、私も車に乗って飯塚というところまで逃げました。
私は車でしたけれども、結構な方が、徒歩で行ったり、軽トラの荷台で運ばれたりして、皆さん、飯塚の小学校辺りに結構すぐ集まっておられました。地震の直後はまだ、携帯で連絡が取れたので、家にいる妻に電話したところ、今、飯塚のほうに向かって逃げているということでしたね。
そのとき、野生の動物というのは、白鳥ですけれども、本当に地震が来ることが分かるのかなと感心したんです。その後、白鳥はずっと、正院には来ていなかったです。
小町さん
来てないですね。
濱木さん
最近、1羽、2羽来ているという話は聞いていますけれども、私たちはまだ見てないという状況ですね。
聞き手
火事は大丈夫でしたか。
小町さん
火災はなかったです。発災当時もありませんでしたし、その後、避難所生活が193日間続くんですけど、その間、火災はなかったです。幸いなことです。
聞き手
地震発生直後は、皆さん、どこに集まっていましたか。
小町さん
正院の避難所は、大きく2つあるんです。正院小学校の避難所と飯塚保育所、もともとは飯塚小学校なんですけど、今はスズズカと言いまして、その2か所です。正院公民館も指定避難所なんですが、大津波警報が出て、波高想定が5.8メートルで、標高3メートルですから、避難所として使うのは無理だったんですね。それで、正院の人たちは、みんな正院小学校のほうに集まりました。
ただ、正院小学校の中ではなくて、その裏に殿山という避難場所があるんです。標高30メートル、海岸から約350メートル離れたところに、まず上るというのが訓練をしてきたことなので、そこに上ったんです、かなりの人数でした。上ったんですが、珪藻土の土質なので、残念ながら、途中で崩落したんです。それで、てっぺんまで上ることができない。夕闇が迫ってくるのでどうしたかというと、正院小学校に垂直避難をするという形になりました。
その後、本部長がいらっしゃらなかったんで、私が副本部長として、大体、30名の人たちで、仮の避難所運営の本部を立ち上げました。まずやらなきゃいけないことは、避難者の名前、住所、年齢、性別の確認です。公民館に用意してあった避難所カード、名簿を使って、スタッフで手分けをして、1階、2階、3階、玄関、廊下、そういうところに集まってきた人たちに、全て、1対1で即座に面談をして、避難者名簿を作ったんです。その数が、たしか、その日の8時、夕方のもう発災から4時間後の8時半の段階のメモがここにあって、これは、避難所日誌で残っているんですけれども、485です。詳しく言うと、65歳以上の高齢者は233人、幼児は15人、それから、小学生が29人、中学生から64歳までの人が208人です。合計すると、485人という数の方が、正院小学校の屋内に避難されました。体育館は被災で天井が壊れて、使えなかったんで、みんな、さっき言ったように、1階、2階、3階の教室、そして、廊下、玄関です。もちろん、車で避難された方もいらっしゃいます。グラウンドはもう、100台ぐらい集まっていたんですが。残念ながら、車中の方の人数までは確認することはできませんでした。体感的に、500名プラス、1台の車に2人として、700名くらいの方が、屋内外にいらっしゃるというふうに、本部のほうで把握をしたというわけです。
そういう記録やミーティングのこととか、支援物資がどんなふうに入ってきたかというのも、事細かく時系列に避難所日誌として記録してあります。
聞き手
消防団や地域の自主防災組織の動きはどうでしたか。
小町さん
自主防災組織は、本部長の濱木区長会長さんが、毎年10月1日の珠洲の防災訓練のときに、避難場所に避難をしましょうという呼びかけをされてきたわけなんですが、やっぱり、いろんな状況がありますので、残念ながら、自主防災のメンバーが全部集まるというわけにはいきませんでした。集まったのは、やがて来られた方も含めて、自主防災の本部長、副本部長、公民館主事、それから、役所の職員で避難された方。行政、保健師、看護師、理学療法士、こういう方々。自主防災以外の方でも、教員、それから僧侶、そして、自主防災の核となる消防団員含めて、約30名が集まって、仮の本部を立ち上げたわけです。もちろん、それ以外の区長さんも避難所の中にいらっしゃいましたが、区長さんは区長さんで、濱木さんを中心にスタッフができていて、教室の中にいながら、運営を助けてくださったという形になります。
聞き手
避難所について、体育館以外の場所は、壊れたということはなかったのですか。
小町さん
そうですね。ここに1月1日のプロセスが残ってるんですが、仮の本部立ち上げの話を今しました。次に、名簿作成しました。次に、トイレの設営、マット等の対応、灯油運搬、安全確認とありまして、教室は、ものが散乱してましたけど、避難所としては機能できるなというふうに思ったので、それぞれに教室に入っていただきました。もちろん、壁に亀裂が走っていたり、危ない部分もあったんですが、安全確認で危ないコンクリートの破片はちゃんと掃除をして、みんなが通れるようにしました。
それで、当然、夜が迫ってくるわけですから、マットとか、毛布とか、そういうものを準備しなきゃいけないんです。たまたま、正院の小学校の横に、第二体育館というのがあって、珠洲の場合、トライアスロンをずっと30年くらいやってて、トライアスロンのバイク用の、道路にはみ出さないようなマットがいっぱいあったんです。そういうものを、各教室に持っていって、そして、それをかぶったりして、あるいは敷いたりして、備蓄品の毛布とともに暖を取っていました。
それから、備蓄品というのは、指定避難所にあるものだけじゃなくて、もっとおおらかに考えて、安全な場所、家にも必ず備蓄してあると思うんで、そういうところから許可をもらったものも集めて、何とかしのぐという発想で、寒いので、許可をもらった家から、ストーブや灯油、ほかにもいろんな形で、例えば、お正月ですから、お節もお餅もありますよね。そういうものも、消防団の人を中心にして持ってきてもらって、運営に活用しました。
避難所の運営について
聞き手
避難所に大体500人来たということですが、教室ごとに何人ぐらいいたのでしょうか。
小町さん
最初は、来た人から入れて、教室の指定はできませんでした。日数がたつと、足腰の悪い人は下のほうに替わってくださいとか、健常な人は上に上がってくださいっていうことは言いました。最初は来た順番に入ってもらったので、一部屋に20人ぐらいは入っておられたと思います。
聞き手
教室の使い方は、家族ごととか、性別で分けたりとか、何か工夫はありましたか。
小町さん
基本的には家族ごとで入っていたんです。町内ごとに区分けされた避難所もあるそうですが、私たちのところは、同じ正院町内ですから、お互いに顔見知りなわけで、町内が違ってもあまり違和感はなくて、その形をずっと踏襲しました。ただ、さっき言ったように、足腰の弱い人は、1階の大きなランチルームに部屋を移ってくださいって皆さんにお願いをして、部屋の移動は、何回か繰り返しやっていきましたね。
聞き手
小さいお子さんはいましたか。
小町さん
もちろん小さいお子さんもいました。家族と一緒に、同じスペースでマットを敷いて、毛布かぶって寝ていましたね。
聞き手
何家族か一緒の部屋だったのですか。
小町さん
そうですね。何家族か一緒です。
聞き手
子供の夜泣きとか、そういうことで対応されたことはありましたか。
小町さん
遅くまで起きているとほかの方が迷惑しますということで9時就寝というルールをつくったんですが、そのことについての大きなトラブルは、本部のほうには別に上がってこなかったと思います。皆さん顔見知りで、お互いさまという精神もありますので、そこは迷惑かかったらごめんね、迷惑かけるかもしれないけどお願いしますという声掛けをして、そこで過ごされていたと思います。私自身は、消防団の人と一緒に寝ておりました。
聞き手
小さい子向けのスペースを作ったりはしていましたか。
小町さん
図書室がじゅうたん張りで、本が落ちて、散乱して大変だったんですけども、子供たちを中心に、小・中学生が一生懸命整理整頓をしてくれて、そこを気分転換するようなプレイルームみたいなのとして活用したと思います。
聞き手
高齢者で介護が必要な方もいらっしゃいましたか。
小町さん
いらっしゃいました。1月5日に石川県の災害支援ナースの方が来られて、その方たちを中心に健康相談とか、介護対策とかっていうのをやりました。それまでは、理学療法士とか保健師の方も避難者の中にいましたので、そういう人たちが、介護を要する方たちの面談、その支援ナースが来るまでの間、面談をして、相談に乗っていました。支援ナースの方が来られてからは、医療介護班と6つの班を1月4日に立ち上げたんですけども、その医療介護班を中心に介護を要する人たちの対応をしてもらって、やがて、本当に介護を要する人たちは、長寿園等の介護福祉施設に移動していただくというような配慮をしました。
聞き手
その移動は、いつ頃のことですか。
小町さん
1月10日以降だと思います。
聞き手
6つの班を作ったということでしたが、どういう班がありましたか。
小町さん
1月4日まで、スタッフでいろんな役割を重複しながらやっていたんですが、それが続くと、決して、長期の避難所運営には対応しきれないと思って、それまでの活動を整理して、6つの班をつくったんです。
医療介護、炊き出し、掲示、物資、ごみ、これは後々衛生班という名前になります。それから見回り班です。この6つをつくったんですけど、状況に応じて班の構成は変えなきゃいけないということで、1月4日に発足をして、ミーティングで提案をしました。
次に、1月10日に若干再編成をして、最終的には2月6日に最終形をつくって、それが4月20日に正院小学校から正院公民館に移すまで、その班の体制でいきました。班の見直しをかけたときには、私たちのスタッフの同列に県内外の支援チームも中に入れたんです。なぜかというと、1月5日に福井県のほうから対口支援で来られた、あるいは防災士の方も来られる、あるいは、災害支援ナースの人も来られる。ミーティングの最後に、そういう方に1日の様子を見てもらった感想を言ってもらって、それを避難所運営に反映していくということで、自分たちの避難所の中の班の横にですね、県内外支援チームというのをつくったんです。
最終的には、8つの班をつくったんですね。例えば、シルバーリハビリ班、略称シルリ班って言うんですけど、エコノミー症候群対策です。避難所に長期に座っていると血栓ができますので、そういうものを防ぐために、1週間に2回、得意な人に担当してもらった。それから、連絡班、これは、災害支援ナースの人が2月5日に撤収されたので、その後、健康状況が把握しきれない場合がありますから、各班、避難所の教各室の方に参加してもらって、ミーティングで、健康状態を素人で把握できる程度でいいんで言ってもらう。そして、ミーティングで決まった中身を還元してもらう、そういう形で最終的に8つの班ですね。プラス、県内外支援チーム。
聞き手
避難所運営については、こういう動きをしましょうというマニュアルがあるんですか。
小町さん
いや、全くないです。
聞き手
発災してから、皆さんで考えてやってこられたのですか。
小町さん
そうです。10月1日に毎年、本部長の濱木さんを中心に防災訓練はしているんですが、避難場所に逃げて、終わったら、集まってベッドを作り、受付をつくり、それなりの簡単な避難訓練はしたんですが、実際に班別構想で、こんなふうに避難所運営しましょうという話はしていなくて。でも、今まであったようなことがベースになって、中には防災士の方もいらっしゃいますから。そういう方々の意見も取り入れて、班構成をしてやっていけば、長期の避難所運営に対応できるんじゃないかということで、班を立ち上げたわけです。そのトップの中に私たちが入って、そして、この横に学校っていうのがあるんです。当然、校長先生がいらっしゃって、学校の再開と避難所の運営が共存するわけですから、学校との連携も取りながら、スタッフで会議をして、それを避難者の方々にお知らせをして、避難者はゲストではなくキャストだということで、避難者、スタッフ、県内外の支援チームの方がオールキャストで、避難所運営に臨んできたということです。

避難所の状況
聞き手
水道やトイレなどの設備はどうしていましたか。
小町さん
まずトイレは、当然、断水してますから、小学校はトイレがいっぱいあるんですけど、使えません。それで、どうしたかというと、みんなで相談をして、学校の前に穴掘りトイレを4基作りました。
前庭に4か所作ったんです。消防団の人たちを中心に鍬で穴を掘って、トイレを作るんです。もちろんプライバシーがありますから、学校にあるテントを借りて作ったわけです。その写真が、生々しいんですけど、穴掘りトイレの完成形です。ブロックを置いて、高齢者もいますから、手すりも置いて、暗いですから、ろうそくも置いて。僧侶の方もいらっしゃって、お寺は全壊だったんですけど、ろうそくならいっぱいあるよということで持ってこられて、ろうそくを片手に、長い行列ができましたけれども、トイレをしました。消防団長から危ないということで、途中でろうそくは使わなくなり、懐中電灯にしたんですけど。
幸いなことに、1月5日に仮設トイレ2基搬入、それから、1月7日に3基搬入されて、全部で5基です。そのときはまだ、300人以上避難者はいたので、数は少ないんですけど、トイレ問題にほっとする部分があったかなと思います。
この前庭のところはどうなったかというと、秋になって、きれいな花が咲いて、たわわにとうもろこしが実ってですね、自然の還元が行われました。校長先生からももう全然問題ありませんということで、今は、何事もなかったようになっております。
そのうち、プッシュ型の支援でいろんな凝固剤型のトイレも来たので、トイレにかぶせて使って、トイレ問題を解決しました。ただ、トイレ問題はミーティングで、いつも課題になってましたね。やっぱり清掃が大変なので、屋外トイレだけにすればいいんじゃないかという話もあったんですが、高齢者の方もいらっしゃるので、なるべく使い方の指導をきちんとして、屋内トイレで、健常な人は屋外トイレ、お子さんが夜出ていくのは大変ですから屋内トイレいうことで、併用してやっていきました。
聞き手
飲み水や料理に使う水はどうしていましたか。
小町さん
もちろん断水ですので、公民館にも学校にも少しペットボトルがあったんで、そういうものを使っていったわけですが、近くの八幡神社から湧き水が出るので、そこの水を大いに活用しようということで、消防団の人が、道がガタガタなので、車では行けなくて、リヤカーで何回も何回も運んだわけです。それは、飲み水ではなくて、炊き出しに使う水です。
炊き出しも、1月2日に高岡のほうから1人でトラックに、食材とか炊き出しの道具を乗せて、支援に来てくれた方がいらっしゃるんですよ。1月2日です。あの里山海道のひどいとき。どうやって来られたか定かじゃないんですが、十何時間の道のりを越えて、炊き出しをしに来られたんです。それを玄関前に広げて、1月2日の夕方から炊き出し、温かいものを提供したんですが、水が必要ですので、消防団を中心に、何回も何回もその八幡神社のほうの取水のところに、井戸へ行って、搬入してきたということがありました。飲み水はペットボトルを利用して、やがて、プッシュ型の支援で、記録によると、1月3日に、珠洲市のほうから、水と食料が搬入されてますから、そういうものをもちろん使って、そのうち、自衛隊からもたくさん来ました。
聞き手
お風呂とか、シャワーはどうでしたか。
小町さん
日本財団から循環型のシャワーが玄関に2基設営されたんです。1月中だったと思いますが、シャワーがまず1基。それから、後でもう1基追加されて、時間は1人15分にしていました。シャワーは、若い人が中心になって、番頭さんをしてくれて。ちゃんと受付に名簿を作って、何時から何時までって予約をして入りました。それ以外の入浴については、正院町には自衛隊の入浴施設がなかったので、お風呂に入りたい方は、蛸島の自衛隊風呂等を活用していたと思います。
聞き手
洗濯はどうでしたか。
小町さん
実は、炊き出しの支援に来られた方から、洗濯機が当然要るだろうということで、洗濯機と、プロパンガスの乾燥機を寄贈してもらったんです。実は、それはまだ公民館に新品のまま置いてあるんですよ。というのが、設置しようとしたら、市のほうから、排水溝がまだ傷んでいて、そういう生活排水が集まるとよろしくないということでストップがかかったんです。それで、珠洲市の指定避難所ですから、洗濯機は使わないでくださいということでした。
私は、週に1回、家族が、金沢やかほくに洗濯物を抱えていって、洗濯していました。あるいは、どうしてもできない方は、正院地区の山手の平床地区のほうに、山水が出るっていうことで、そこで洗濯できるという情報があって、そこに持っていって、洗濯をされた方がいるという話は聞いております。そのうちに、ある避難所にドライクリーニングの施設が入ったり、民間のクリーニング店が立ち上がってきたりして、皆さん、そういうのを活用してやってらっしゃったと思います。避難所には、たらいで洗濯する姿は見ませんでしたね。
聞き手
電気についてはどうでしたか。
小町さん
電気は1月1日から3日まで来ていませんでした、真っ暗です。正院中が暗闇の中に入った状態です。
聞き手
非常用発電機もなかった。
濱木さん
なかったですね。
小町さん
1月4日に関西電力と北陸電力の、恐らく合同の支援で、高圧電気車が正院小学校のほうに来たんです。それで、裏手のほうに設置して、6,600ボルトありますから、触れば死んでしまいますので、安全のためにコーンをぐるっと張めぐらせて、助手席と運転席に2人が24時間ずっと滞在して、直接、高圧電気車から電気を中に入れたんです。1月4日の夕方だったと思いますが、学校に電気が通って、そのとき、拍手喝采でした。校内放送も使えるようになって、一斉に指示ができるので、避難所運営もすごく楽になりました。皆さんに、実はこれは、電線を通ってきた光ではなくて、高圧電気車の電気ですので、裏手に高圧電気車がありますから、絶対に近づかないようにという指示を出しきました。
聞き手
炊き出しについて、避難者の中で炊き出し班もあったということですが、食料は備蓄や持ち寄ったものですか。
小町さん
1日の夜はさすがに、手持ちのものでしのぎました。1月2日の夜からは、炊き出しの方が来られて、お米とか、野菜とか、そういうものをいっぱい積んでこられたんですね。炊き出しの調理場を作って、そして、スタッフだけでは足りませんので、有志を募って、調理をして、提供した。その提供するカップなんかも、その方がトラックに積んで持ってこられたわけです。温かい食べ物は健康の維持につながりますから、それからなるべく炊き出しを欠かさないように、ピースボードの炊き出しコーディネーターさんとか、珠洲市の炊き出しコーディネーターさんと連絡を取りながら、続くように努力しました。
聞き手
避難所でコロナやインフルエンザが、はやったりはしましたか。
小町さん
私が振り返ると一番緊張感の走った時期で、1月10日過ぎから、感染症の拡大の兆候が表れ始めたんです。ただ、そのときに、支援ナースの方が、三密の状態なので、感染症は発生しても全然不思議ではない、感染症を拡大しないことが大事なんだよとおっしゃったことが、今でも心に残っています。ちょうど、そのときにテントとかマット、ベッドも搬入されてきたので、みんなで協力をして、各教室にテント、ベッドを搬入して、なおかつ保護部屋を設けたんです。そして、校内放送で、マスク、うがいの徹底を呼びかけ、実は子供たちも活躍して、子供新聞、ケセラセラっていうのを書いたんですが、その子供新聞の中にも、感染症予防のための心がけを書いて壁に貼り出す。そして、スタッフで、次亜塩素酸を使って、手すりとか、ノブとか、全て消毒し、そして感染の基になるトイレ掃除は、避難者全員で、交代制で掃除をしてきた。そのおかげで、1月12日、1人とか、13日1人とか感染はありましたが、爆発的な感染はなくて、1月の終わり頃には、傾向も落ち着いて、正院の避難所で爆発的に感染が拡大したことはないです。
聞き手
避難所にいろんな区長さんもいたというですけど、区長さんはどういうことをされていたのでしょうか。
小町さん
各町内の安否確認をしなきゃいけない、避難所に集まっている人はいいんですけど、それ以外の方々が、どんな健康状態で過ごしてらっしゃるか、把握しなきゃいけませんよね。それで区長さんに、自分の町内で、誰がどこにいらっしゃるのか、避難所なのか、避難所以外なのかということを調べてもらったんですよね。区長さんがいらっしゃらない町内もあったので、そこは代理の方に書いてもらって、これを災害支援ナースの人と消防団と組んで、全部回ったんです。一軒一軒、正院町の町内を全部。1月7日からずっと毎日、今日はどこ回りましょう、どこ回りましょうって言って。そして、安否確認と健康状態の確認をした。その基になる資料を作っていただいたのが、各町内の区長さんだったということで、非常にありがたかったですね。
避難所からの人の移動について
聞き手
自宅にいた人はどのくらいの数だったのでしょうか。
小町さん
それは、なかなか難しくて。今だったら、在宅102戸という数は分かるんですけど、その当時は、100人から150人、何でかというと、避難所以外の人にも炊き出しを提供し始めたから、そのときの人数で、大体、プラス100食ぐらいかなという数で分かるんです。もう一回、拾い上げていけば、消防団と災害支援ナースの人が回った件数は出てくるはずですので、100軒ぐらいかなというふうには思っているんですけど、100軒だと、150人くらいかと思います。
聞き手
避難所にいた500人は、その後、どこに移動したのでしょうか。
小町さん
まず、1月1日ですので、帰省客の方がいっぱいいました。例えば、避難所の名簿を見ると、江南市や京都市、名古屋市とかからの帰省客の方は、やっぱり帰らなきゃいけないですので、1月4日、5日辺りぐらいまで、何とかして、道路事情が悪い中、帰っていかれたと思います。それから、避難者の数が大きく動いたのは、1月12日の2次避難のときですね。
珠洲市のほうから2次避難の希望者を募ってくれっていう話があったんですね。それで、急遽、スタッフで手分けして、全ての教室の避難所を回って、2次避難というものがあるんですが、行かれますかっていうふうに尋ねて、同意をもらって、名簿を作って、そしてバスで行きました。
濱木さん
60人ぐらいね。皆さん、加賀温泉のホテルのほうに行かれた。
小町さん
そうですね。たしか、正院の場合は、おびし荘と辻のやと喜田八だったか、加賀温泉の3つの温泉に20人ずつぐらい分かれて、バスに乗っていかれた。
濱木さん
私はお見送りをしました。
小町さん
あれでぐっと減りましたね。
聞き手
家族ごとに移動される方もいたんですか。
濱木さん
おられます。おばあちゃんと一緒に家族ごとで行かれました。
聞き手
1.5次避難所に行かれた方は、いらっしゃらないんですか。
小町さん
1.5次に行った方は、お一人いますね。
聞き手
正院地区で、避難所同士の連携や情報共有はあったんですか。
小町さん
常にしていました。飯塚のほうの運営の責任者である、飯塚の区長さんと、例えば、正院避難所に炊き出しをしますけど、要りますか。こういうような支援物資が入りましたけど、不足のものはありませんかって、常に電話で連絡を取りながら、どちらの避難所も長期対応できるようにしていました。
聞き手
連絡がつくようになってからですか。
小町さん
なってからです。連絡がつく前は、直接、支援物資を取りに来られたりしました。
聞き手
小学校が避難所の中心になっていたのですか。
小町さん
そうですね。正院小学校の避難所が一番人数も多かったですし。上戸のほうは最大で80人かそこらだったと思います。
聞き手
小学校の方に人が移動したりすることはなかったのですか。
小町さん
集約するようなことはなかったです。もう1か所、正院の場合、山手のほうは、スターラインって言って、飯田のほうに太い道がつながっているので、緑丘中学に直接行かれた方もいらっしゃいましたね。
避難生活を経験して
聞き手
避難所で大変だったことはありますか。
濱木さん
私は、甥に障害があって、私の家の近くに、親戚の別荘があったので、電気も水も使えなかったのですが、家族とそこに避難していました。そして家族が金沢の息子の家に帰ることになったら、私が避難所へ出てきました。だから、学校のほうへは全然、顔を出せなかったと。
小町さん
私は、先ほども言いましたが、感染症の拡大の兆候が出たときに、どうやって、それを防ぐかというのが、一番心配の種でした。それで、県内外の支援チームの方々の専門的な知見を、知識を生かすために、きちんとした受入れ態勢を整えて、その方たちの力が十分に発揮できるような、そんな避難所運営を目指していきたいなと思っておりました。1人の人が指示を出して仕切るんじゃなくて、ミーティングを115回重ねたんですけど、そのミーティングの中で、いろんな班から意見を出してもらって、それを取りまとめて、何が課題か、何が解決されたかというのを明らかにして、そして、運営をしていく。なぜかと言うと、1次避難所っていうのは、その避難者の方が次のステップ、生活再建のために、心身共に健康な状態で行くっていうのが目的ですので、ふだんの生活にしたら比べるべくもないですけど、なるべくそれに近いような状態で衛生環境、それから炊き出し、食料の環境というものを、できる限り、珠洲市、それから、いろんな支援ボランティアの方々の力を借りて運営していきたいなというふうに思っておりました。幸いにも、避難所の中で感染症が拡大しなくて、共倒れにならなくて、私は本当によかったなと思っています。皆さんに感謝です。

伝える
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「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」
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