体験を語る
- 県民
防災訓練の経験が避難所運営に生きた

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月29日 |
地震発生当初
聞き手
被害状況をお伺いします。
北風さん
私は若山町の出田というところに住んでいるんですけど、とにかく地震でびっくしりして飛び出しましたね。うちの隣に白山神社というお宮さんがあって、そこは出田の代替の避難場所としていつも使っている場所なんですね。そこに避難してくる人が多くかった。
私は、そのときは本部長をしていまして、若山の本当の避難所へ駆けつけなければならなかったんですが、幹線道路が崖崩れで塞がれて、そこから上へは行けないようになりました。それから、鈴内の方を回って、もう一本、迂回路があったんですけど、そこも幹線が完全に塞がれていて、橋が通れなくなってたり、そっちにも行けなくて、結局、私は、避難所へは行けなかったんです。
そういうことがあって、出田の人は続々と地震の後、神社に集まってきました。飯田の町から、津波に追いかけられて、こっちの高台の方に避難してきたという方も何人かいらっしゃいました。
その当時、電気はもう通っていませんし、真っ暗でしたから全然周りの様子が分からなかったんですが、うちは何とか持ちこたえたので、他も何とかなったのかなと思っていたら、周りの状況を聞いてみると、津波とか、ここまで通ってくるときにうちが二、三軒潰れていたとか、そういう話をたくさん聞きまして、今までみたことがないような被害に遭っているんだなという予感がしましたね。
結局、若山の避難所へ行けなかったので、全体的な様子が分かったのは1週間も後のことです。それまで、テレビは映らないし、電話もつながらないし、情報は入りませんでした。固定電話は全然つながらない、インターネット関連で動いているところがあって、携帯電話はつながったので、大体の状況はつかめましたが、詳しいことは分からなかったですね。
ちょうど、前年の11月に防災の避難訓練があったんですね。そのときには若山小学校でやったんですけど、それもあって、私が行かなくても避難所の現場では動いてくれていて、たまたま携帯電話が通じた公民館長に対応をお任せしました。
朝起きてみると、うちの集落で潰れた大きなうちが1軒あって、隣の隣ぐらいにあった古い家屋も潰れて、ここでもこんなふうになってたら、ほかはもっとひどいのかなと思って、国道沿いの道まで来たら、1軒、うちが潰れていて、うちの母ちゃんが下敷きになってて何とかしてくれという話を聞いたんです。
それは1階が潰れて、2階建てが1階になったみたいな状態でしたので、どうしようもなくて、消防に連絡ということになったのですが、連絡つきようがなくて、聞いてみたら、一応、消防に連絡したけども、なかなか手が回らないという話で、どうしようもないということでした。何人も生き埋めになった方がいらっしゃって、生存が分かる方の救出が先だという話だったみたいです。何とかしたかったけども、二次被害が怖くてね。どうしようもなくて、そのままになっちゃった。残念な結果でした。何もできなかった。
あとは何もできなかったですね。ただ、ただ見ているだけ、残念ながら。それでも、防災訓練をしたことの一部が避難所では役立っていたということなので、ちょっと安心しました。
聞き手
震災直後の晩は自宅で過ごされたのですか。
北風さん
私は自宅というか車中泊で、うちの前の市道も車で身動きが取れなくなっちゃったので、皆、朝方まで車中泊をされていました。避難してきた方はほとんど歩いて来られたので、神社に上がって休めばという話をしたところ、鳥居は倒れてるし、階段はおかしいしで、そんな状況でないと言われて、上の建物は建っていたので大丈夫だと言ったんですけども、入ってまた潰れたらどうにもならないということで誰も中へは入らない。それなら、ということで、一晩野宿で過ごされて、明け方になってから帰った方が多かったですね。
聞き手
避難者への対応はどうされていましたか。
北風さん
ここは一時的に集まって避難する場所だったので、あとはそれぞれの避難所へということで、飯田の方は飯田へ行って、ここからは本来の避難所の若山小学校に行けなかったので、緑丘中学校と飯田保育所へと、2か所に分かれて行ったみたいです。
聞き手
北風さんは自宅にそのままいたのでしょうか。
北風さん
落ち着くまで車中泊でした。避難所には行きようがなかったということですね。あんまり動かない方がいいかなということで、若山小学校の方に行ける道ができたときに初めて行きました。もうあまり覚えてないですけど、結構長いこと行けなかったですね。無理して行こうと思えば、山沿いの道から行けるという話は聞いたんですけど。
聞き手
車中泊をしているときはどう過ごされていましたか。
北風さん
私は家が大丈夫でしたし、水道も割と早く開通しましたし、電気はすぐ来たし、ケーブルテレビはなかなか来なかったんですが、インターネットからテレビを引っ張ってきて、それで見ていました。
うちの周りをうろうろしているだけで、何も情報が分からなくて、市役所に行ってもみんな大変そうで、情報としてはほとんどなかったと言ったほうがいいですね。若山の避難所に行って、初めていろんな情報が分かったし、向こうもこちらの情報が分かってきたという感じです。
聞き手
こちらの地区は孤立されていたということですか。
北風さん
上黒丸のほうが孤立は多いですね。あそこは孤立集落が大分ありまして、そちらの情報がほとんど入ってきてないので分からなかったんですが、上黒丸は旧の上黒丸小中学校が避難所になっていて、そこへ避難所が開設されて、そこもうまく運営はされていましたけどね。南山、北山、白滝、洲巻とかその辺り、吉ケ池もそうだったみたいですけど、長いこと孤立していたと言っていました。
聞き手
若山小学校まで道をたどって行けるようになったのはいつぐらいですか。
北風さん
簡単に行けるようになったのは1か月ぐらい経ってから。当初は一度、緑丘中学校のほうまで出ないといけなかったんです。広栗橋のところが駄目で、それが直るのに2か月ぐらいかかったかな、もっとかかったかもしれないですね。
聞き手
それまでは皆さんどうされていたのですか。
北風さん
緑丘中学校と旧の保育所の2か所に避難していました。出田の脇田谷内池というところがあるんですけど、そこの人は大体飯田に行って、ほかの人は緑丘ですね。広栗も一部緑丘のほうへ。鈴内から向こうへは行けなかったので、緑丘のほうへ行った方が何組かいらっしゃいました。
避難所の状況
聞き手
避難所に行ったとき、様子はどうでしたか。
北風さん
それはもう人がいっぱいでした。避難訓練もしていたので、テントができていて、ベッドも作られていました。講堂いっぱいに人がたくさんいて、それでも、開設初期のことは、私はあんまり知らないので、聞いてみたら、だんだん、うちが安全な方は帰って、私が行ったときには、少し静かになっていたそうです。
聞き手
テントやベッドの設置に防災訓練が役立ったのですか。
北風さん
それもありますし、避難所の運営の方が一番役立ったみたいですね。私はいなかったんですけど、ちゃんと責任者をつくって動いていたみたいです。
聞き手
それは自主防災組織ということですか。
北風さん
はい。若山に1か所、区長会が運営しているみたいなものです。
聞き手
消防団はどうでしたか。
北風さん
消防団の動きは全然知らないんですけど、どこにも行けなくて結構苦労したみたいです。避難所の運営の中にもちゃんと消防団が入ってきてやってくれていましたし、外回りとかそういうことは消防団が全部やってくれました。道路災害を見つけて市役所に連絡するみたいなことをやっていたみたいです。あとは警備、夜回りみたいなことをよくやってくれていました。
聞き手
緑丘中学校にはもう発災直後から行けるようになっていたのですか。
北風さん
飯田の方から回ってなんですけど、なんとか行けました。避難者は緑丘のほうが多いですね。しばらくして、道路が通れるようになってから若山小学校の方に行くようになったんですけどね。
あとは、なかなか電気と水道の復活が遅くて、上水道はいいんですけど、下水道が使えなくてね。上水道が何とかなっても下水道が通らなかったら水が使えませんから。夏でもまだ水が来てないところがありました。上水道は9月頃にもう全通したのかな、それでも下水道は使えなくて。
聞き手
お風呂はどうされていましたか。
北風さん
仮設ですね。当初はここにはなくて、上戸とか飯田とかの支援の風呂に行っていたんですけども、途中から自衛隊が小学校横の中学校の跡地へ来て、温浴施設を作ってくれましたので、あとはずっとそっちの方です。上戸に仮設住宅ができるので、その場所にあった温浴施設が若山に来たということです。それ以降は大丈夫でしたね。
聞き手
若山小学校の状況を教えてください。
北風さん
トイレはすぐ仮設ができたみたいです。結構数ありましたかね、一番多いときで200人ぐらいいたみたいですから。私が行ったとき100人ぐらい残っていて、しばらくしてから、50人ぐらいになったので、講堂を閉めて、教室3つに分かれました。支援物資は豊富にありました。
聞き手
電気はどうでしたか。
北風さん
電気は割と早くから使えました。
聞き手
物資はどうだったのでしょうか。
北風さん
支援物資については本当に豊富にありましたから困ることはなかったですね。食べるものは豊富でしたし、全く不足したことはなかったです。
聞き手
布団はもともと小学校に備蓄されていたものもあったのですか。
北風さん
最初に使ったのは備蓄されていたものですけど、その後すぐ段ボールベッドなどもたくさん来ましたし、毛布類も結構たくさんありました。
聞き手
食事の準備はどうしていましたか。
北風さん
ほとんど台所を使わなくてもいいような感じでしたね。炊き出しがよく来られていましたから、テントを設営して外で調理したり、学校の料理室を使わせてもらったりしていたみたいですね。避難している人はあまり使うことはなかったみたいで、炊き出しで、下水を流さないようにして、備蓄の水や差し入れの水で料理したということです。
聞き手
若山小学校の避難所の運営をしていくに当たって、困難だったことがあったら教えてください。
北風さん
私がいなかったので困っていたところもあったかと思うんですけど、大きなトラブルはなかったと聞いています。やっぱり他人の集まりですから、ちょっとしたトラブルはあったみたいですけど、それでもうまくいったみたいでした。
聞き手
運営で工夫されたことはありますか。
北風さん
部屋ごとに責任者を決めて動いていて、部屋が3つあると代表者が3人いて、何か問題あると集まっていました。3人のうちの誰かがまとめ役をして、その人が主に避難所の運営をされていました。私は避難所に泊まらなかったので、そういう細かいところはその人に任せていましたが、うまく運営してくれていました。支援物資の配付についてもちゃんと行き届くようにして、在宅の避難者さんにも、いつ取りに来ても大丈夫なようにしていました。
聞き手
各部屋の代表者はもともと決まっていたわけではなくて、集まった人たちの中から自主的に決まっていったということですか。
北風さん
最初の講堂に集まっているときは、防災組織の役員をしている人たちが仕切っていたんですけど、その後はうちへ帰る人が多かったので、宿泊している人たちの代表で運営してもらったということになります。自然発生的にそうなったということではなくて、皆さんで集まって相談して、引き受けたというやり方ですね。皆さんで決めた代表ってことになります。そうすると、自分たちが決めた人ですから、かえって、やりやすかったですよね。誰かが決めると文句も出るんですけど、自分たちで決めた人ですので、みんなでそれに従う。決まり事についてはみんなで決めたんですから、それに従うという格好で動いていました。
掃除もごみ捨ての順番とかもちゃんとしていました。トイレは水洗が使えなくなっていましたので、もっときれいに使ってくださいとか、そういうちょっとしたことはあったみたいですけど、みんなで決めた人がいたので、そんな大きなトラブルにはならなかった。
学校の運営との兼ね合い
聞き手
若山小学校の授業が始まるときはどうでしたか。
北風さん
多いときは全校で150人とかいたんですけど、現在は50人に満たないですし、複式学級でいくと、1年から6年まで3教室あればいいんです。だから、空いた教室がいっぱいあったのが幸いしたということになりますかね。
講堂も授業が始まるので空けたんです。講堂から引き上げて、教室に移ると授業に全然差し支えはなくて、学校側も運営はやりやすかったのかな。こっちもそうですよね、授業の邪魔をしなくていいので。あまりよくはないんですけど、子供たちの人数が少なかったので避難所の運営は楽だったということになります。
聞き手
うまく共存できていたということですか。
北風さん
はい。特別教室だけちょっと使えないところがあったのですが、先生に聞いても何とか運営できたって言ってくれると思います。避難所としてはよかったですね。あと、トイレが使えれば、文句なしというところでしたけどね。トイレは今でも使えないです。子供たちの2階以上は使えるんですが、避難所のある1階は使えない。足の丈夫な人は2階に行って使ってくださいと。
聞き手
2階へ上れない方もいらっしゃいますよね。
北風さん
そういう人は1階で今でも携帯トイレを使っています。下水の配管が駄目なので、地下はなかなか触れないけど、2階だったら見えるので、裏から配管を引っ張ってきて外へ出して、下水の処理装置は大丈夫なのでつなぎ直して、2階と3階は使えるようになった。だから子供たちは水洗トイレを使っているんです。3部屋を避難所に使っていたときは、2部屋は2階にしていたので、その2部屋の人たちは水洗を使っていて、下には足の丈夫な人がいるようにして、というように采配していたみたいです。
聞き手
若山小学校はまだ避難所として使用されているのでしょうか。
北風さん
しています。今はもう残り3人かな。1部屋使っています。もう一つ、救援物資を置いている場所があるので、2つの教室を使わせてもらってます。
聞き手
その方たちも仮設住宅が出来次第、出て行かれるのでしょうか。
北風さん
そうですね。もう最後の仮設住宅が学校の横にできるので、それができれば避難している人もいなくなると思います。
聞き手
若山小学校の隣に仮設住宅ができるんですか。
北風さん
そうです。元の中学校の跡地があるので、そこへ仮設住宅ができれば、多分そこで地震の避難所は終わりだと思っています。大雨で避難してきた人は、今、公民館にいます。
聞き手
避難所を分けたのは何か理由があるんですか。
北風さん
市役所に聞くと別にしてくれと。よく知らないですけど、地震被害と洪水被害で避難の費用負担が違うんじゃないですかね。今は同時に使ってもいいよって話になっていますけど、最初は地震と大雨は別だという話でした。地震と大雨が一緒になることは想定外だったという話で、一緒にすると、何か始末しにくいんでしょう。それで、分かれていた方がいいって話で分けたみたいですね。地震の被害は学校、大雨の被害は公民館。公民館の方がちょっと人数は多いかな。
私は防災の本部長なんですけど、最初に避難所まで行ければずっと仕事もできるんですけど、最初に行けなくて、その間に、さっき言ったみたいに、ちゃんとした組織ができていたので、逆に言うと、現場がうまく動いてたっていうことになりますかね。本当に一番弱ったことは幹線道路が使えなくなったこと。若山はいままで、こんなふうに上と下とで完全に分断されてしまうことはなかったんですけどね。何年かかるか分かりませんけど、災い転じて福となすになってくれるといいなと思います。

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