体験を語る
- 医療機関
災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月8日 |
地震発生当初
聞き手
本日は、主にどのようなことについてお話しいただけますか。
河崎さん
私は現在、市役所本庁に勤務していますが、2007年の能登半島地震のときには日本初の福祉避難所を設置し、その後厚労省と日赤による福祉避難所ガイドライン策定と初回改定にも携わりました。2024年の地震では輪島病院の事務部長として被災下の診療を立て直し、応急修繕を経て病院の機能回復に努めました。今回の地震後から、病院が従来の診療機能を回復するまでの113日間の記録を手記としてまとめています。
2024年の能登半島地震は、2007年の地震と比べ、建物と設備の損壊による居住環境の低下が顕著でした。特に医療機関にとって、施設内と施設外を結ぶ上下水道配管が断裂したほか、院内配管が断裂し施設内洪水を引き起こしたほか、医療機器が倒壊したことにより、医療機能すべてが機能停止したため、それらの重要性を痛感しました。これまで輪島市や輪島病院は、ここまでのレベルにおける建物損壊がない前提でBCP(事業継続計画)を作成していましたが、今回のような大規模災害では、従来のBCPでは対応できないことが分かりました。そのため、建物と構造物が最も重要だということを改めて強調したいと思います。
聞き手
ご自身の被災状況について教えてください。
河崎さん
地震が起こったときは、妻の実家でお寿司を食べようとしていたころでした。私は能登町小木で被災し、最初の揺れは震度5強くらいで、家族はみんなこたつの中に入っていました。条件反射的に私は外に出て、病院の状況を確認するため電話をかけました。
病院からは、患者や入院患者、職員の怪我人の有無や建物や水道の損壊状況について、現時点で問題ないとの連絡をもらいました。電話を切るとすぐに2回目の本震が来て、私は外で揺れが収まるのを待っていました。その間、私は揺れの様子を撮影しようとしましたが、後から見ると何も写っていなくて。気が動転してどうやらボタンを押せていなかったようです。家の中には色々なものが倒れていたのですが、中にいる家族は誰も騒いでおらず、外からの見聞で家族の安全を判断しました。それからもう一度、職場に電話をかけたのですが、今回は全然通じませんでした。
その後、私は病院に向かおうとしたのですが、家から輪島方面に向かう道が全て崩れたり、通行止めになっていたりして、結局5時半ごろに家に戻りました。私の家は、小木石という岩盤の上に建っている高台にあり、比較的安全だったため、家の中には親戚も避難していました。
聞き手
病院と連絡が取れない中でどのように過ごされましたか。
河崎さん
病院とは最初のうちは連絡が取れませんでしたが、メッセージアプリで現場の状況を把握することができました。病院は最初停電していて、電気はすぐに復旧したけれど、敷地外からの水道管が破損し、タンクに残された水しか使えない状態になっていました。大津波警報が出た後は、一般市民が100人ほど押し寄せ、負傷者も次々とやってきていると聞きました。お正月ということもあり帰省者も多く、実際の現場では想像以上の怪我人が病院に駆け込んできました。
最初は、軽症者から病院に来ることができるので、簡単な処置を行っていましたが、夜10時頃には災害現場から助け出された重症患者の処置で軽症者にはすでに手が回らなくなり、病院の逼迫した状況が明らかになりました。この日は私のように現場に到着できない職員が多く、当直の医療従事者と近くの職員だけで頑張っている状況でした。現場が混乱している中、こちらから連絡を取ることも迷惑になるのではないかと感じ、連絡を控えていました。朝が来て1か所だけ通れる道があることを聞き、妻も職場に行かなければならないということで、とりあえず子供は妻の両親に面倒を見てもらうことにしました。道中、松波という海沿いの街を通ったのですが、車の窓を開けたらみんな真っ黒で、地面の様子や匂いでここに津波が来たんだなと分かりました。2日のお昼ごろに家を出たのですが、夜にようやく病院にたどり着くことができました。
病院内の対応
聞き手
病院に到着した後、どのように対応されましたか。
河崎さん
病院に着いた時、初動に加われなかったことについて悔しさを感じました。同時に、現場の状況を伺おうとしましたが職員は皆忙しそうにしていて、逐一話を聞くことも憚られました。
彼らとの情報と経験の差をどう埋めていくかが、私にとっての最初の課題でした。とりあえず、今後は事務部長室があらゆる会議の本拠となることを想定して地震で散らかったその部屋を整理しました。
上に立つ人間があたふたしてはいけない、と自分の心を落ち着けてから業務を始める必要がありました。病院内は継続的な処置ができない状態で、患者さんには簡単な処置だけを行い、DMAT(災害医療支援チーム)による調整ができるまで搬送を待ってもらうという状況でした。
負傷者等の院内搬送は、自衛隊が階段で空いた病室まで運んでくれました。エレベーターは使えなかったので、狭い階段を何百往復もして搬送してくれて、本当に助かりました。
3日の昼、さまざまな雑務に追われる中で、4日(平日)からの診療体制について院長と相談し、対応方針を決めました。一般外来は休診し、救急の部分だけ対応することにしました。ネット等による情報伝達ができなかったため、市の防災対策課に防災無線を流してもらい、4、5日は休診する旨を告知しました。
聞き手
災害が起きたときの対応に関して、マニュアルのようなものはありましたか?
河崎さん
実際、マニュアルはここまでの被害の災害を想定していなかったので、外来診療の整えかたについて臨機応変に対応する必要がありました。
例えば、消火器内科や呼吸器内科、循環器内科、血液内科など、特別な診療が必要な分野については、外部からドクターを週に1回、または月に1回呼んでいる状況です。大学から派遣されている医師の調整を、院長と私の二人で行いました。
聞き手
最初に来た100人の一般避難者はどうなりましたか。
河崎さん
1階にどっと流れ込んできた避難者については、とりあえず大きな会議室やリハビリ室など3箇所ほど開放して入ってもらいました。しかし、一般避難者がいることで、少なからず衛生環境は悪くなり、診療行為に影響を及ぼすことも考えられるので、病院の対応として彼らには出て行ってもらうしかありませんでした。
2007年の能登半島地震での避難者数は最大2400人だったのに対し、今回は避難者数が1万3000人に達しており、どうしても避難所は溢れかえってしまっていました。避難所に入れなった人たちが病院へ戻ってきて文句を言う場面も多くありましたね。最終的には、DMATの力を借りながら病院への避難者全員を院外の避難所等に移してくれました。また、食事提供についても、入院患者同様に避難者にも提供したこともあり、備蓄はすぐに底をついてしまい、入院患者には3日の夜からはゼリーだけを提供せざるを得なくなり、自衛隊には緊急物資を要請して、4日ぐらいから物資が届きました。そのおかげで、入院患者への影響は最小限にとどめることができました。
聞き手
避難所に関する衛生面では、どのように対応されましたか。
河崎さん
衛生面ではやはり、トイレが大きな課題でした。最初、避難者の数も多かったため、病院のトイレが足りない状況が続いていました。私は、トイレトレーラーの存在を知ってはいたのですが、1月2日に現場に向かうまでは病院の設備が壊れていることまでは予想できなくて。病院へ向かう道中の渋滞中に福祉関係の知り合いから「トイレトレーラーが必要ではないか」との申し出があり、私はすぐにお願いしました。すると、1月4日の夜9時半にはトイレトレーラーが届き、5日から供用開始できたことで病院内外の衛生環境が劇的に改善し、避難者の不満も減少しました。避難者や職員にとって非常に助かりましたね。福祉避難所をきっかけに、今回のトイレトレーラーの提供を受けることができ、人とのつながりの大切さを実感しました。ほかにも福祉避難所に関する講演を行ってきた際の聴講生が、後に私にアドバイスをくれたり、支援してくれたりしました。災害時においてはこういったインフォーマルなつながりが本当に重要だと感じています。
また、大学の友人たちが支援をしてくれるなど、多くの人たちとのつながりが、困難な状況を乗り越える力となりました。さらに、福祉防災コミュニティ協会という団体で講師をしていることもあり、その団体の教授や仲間たちが訪ねてきて、義援金を持ってきてくれたりもしました。こうした支援がなければ、私も乗り越えられなかったでしょう。
福祉避難所をきっかけとしてさまざまな人と知り合たことは、非常にありがたいことだと感じています。今回の地震では、特にトイレトレーラーの重要性を痛感しました。
聞き手
職員への支援や工夫はどのように行われましたか。
河崎さん
病院内にある院内保育所を小学生まで無料開放し、職員のお母さんたちが日中だけでも働ける環境を作りました。また、職員の半分が孤立地域に住んでいるため、空いている病室を職員の宿泊所として提供したり、年休を使い切ったあとにそれでも休暇が必要な職員について、賞与等に影響がでないような交渉を本庁給与担当と調整を行うなど、離職防止のための工夫をしました。
さらに、車がない職員には公用車を貸し出し(カーシェアリング)、買い物などにも対応しました。特に過疎地では職員の離職を防ぐためには環境作りが非常に重要です。職員向けの仮設住宅を作るために知事に直談判し、少し遅くなりましたが8月末に居住開始ができました。このように、形を見せることが職員のモチベーション向上に繋がり、結果的に職員の離職が想定以下であったため病院が機能しました。また、在籍出向制度を導入して一旦輪島を離れ、県内の公立病院に就職し、その後戻ってくれば退職金を通算できるようにしました。結果的にこの制度を利用したのは2人ですが、戻ってきてくれたことに感謝しています。
病院が機能するためには、人材の確保と維持が欠かせないと痛感しています。特に、検査技師や放射線技師、リハビリ職員、薬剤師などが不足すると、救急対応も難しくなるので、過疎地の病院では人材が非常に大切だと感じています。
聞き手
病院を動かしていくうえで、事務職の方の存在は大きいですか。
河崎さん
はい、災害時において事務職員は非常に重要な役割を担っています。
例えば、検査室の場所や機器・配管の位置、職員の特性など病院の全体を把握しているのは事務職員だけです。災害時にその重要性が顕著に現れました。また、その特性から事務職は、外部からの援助は期待できない存在です。
そのため、事務職は250時間という長時間勤務を強いられました。帰れない、代わりもいない中で、非常に厳しい状況が続きました。私も自室に病院で余ったマットレス等枕を持ち込み、寝泊まりしながら仕事をしていました。
院内の不衛生なトイレで用を足すことを嫌った私は1日にパン1個と水1本のみを摂取し、1日1回、夜に川沿いに行くことにしていました。オムツをはいたまま業務を行っていた看護師さんもいましたね。
聞き手
病院として最初にできることは何でしたか。
河崎さん
最初に考えたのは、訪問診療の再開でした。
1月8日から訪問看護、訪問診療、リハビリを再開させました。最初は職員の反対もありましたが、院長と協力して1月22日には外来の一部再開、2月4日には全外来を再開できました。実際のところ市外に2次避難をした人も多く患者数が減少し、病院の経営状況が悪化しました。それでもまだ避難所に残って生活している人のために、医療機能を維持し続けることが病院に求められました。
特に、寝たきりの人たちを支えるため「介護医療院」の設立を決断し、1月19日に院長に提案しました。医療施設を介護保険に対応した施設に変えるため、数々の難題を早急にクリアする必要性に迫られました。私は介護保険事務の経験もあり、県庁に出向していたこともあったので、関係者の協力を最大限に仰ぎながら、発案からわずか81日で介護医療院を開設することができました。結果として、病院収益不足の一部をカバーでき、市内全体の医療介護機能を支える体制が整いました。最終的に、4月22日には応急復旧宣言を出し、病院の機能がほぼ回復しました。このように、迅速かつ臨機応変な対応と職員の協力が重要でした。
聞き手
介護医療院に転換された際は、建物自体はそのままで、病床数を調整して対応されたのでしょうか。
河崎さん
そうです。病床数を減らして、介護用のベッドに転換しました。それに伴い、新たに介護職員やケアマネージャーの募集も行いました。また、1月24日には市の福祉課職員と、福祉に関わっているDMATの職員が病院に来て、市内の福祉全体を取りまとめていただきたいという依頼を受けたため、2月には事業者を集めて、病院の思いを共有し、その後、定型的な会議を開けるような道筋をつけることができました。その後、本年4月に市役所健康福祉部に異動してからは、輪島市の福祉方針や今後進めるべきことについても考え、福祉避難所の整備にも取り組んでいます。
聞き手
病院の初動から時期が進むにつれて、対応はどのように変わっていきましたか。
河崎さん
最初は、患者をどう救うかということから始まりました。その次に感染症が流行し始めたので、感染症対策をどう講じるかが病院の役割として重要になりました。感染症対応をしながら、次に病院がどの方向に進むべきかを考える必要がありました。その中で、外来の再開時期をどう決めるかが中心的な課題となり、それに伴って職員をどう守るかということも発案し、具体的に示していきました。
その後、病院の収益をどう確保するか、病院を守るためにはどうすべきかを考えました。病院のインフラ、診療器具、建物の構造などをどう修復し、何を優先すべきかを継続的に考え続けました。そして、すべての対応が整った段階で、応急復旧宣言を出し、病院の一つの区切りを迎えることができました。
聞き手
水の供給が難しかったというお話でしたが、その際、透析患者の方々はどのように対応されたのでしょうか。
河崎さん
透析患者は、1月4日までに全員、他院への搬送が完了しました。
実は、2007年の能登半島地震の際にも透析患者の対応が課題となり、その後、石川県透析連絡協議会が設立され、災害時の透析患者の受け入れ体制が整備されました。透析専門の「みずほ病院」を中心に、毎年行っていた図上訓練が役立ちました。
地震が発生した1月1日の夜から透析連絡協議会と協議を始め、患者の搬送準備を整えました。最初は携帯や避難所を通じて連絡を取り、1月4日までにはすべての患者の搬送が完了しました。また、災害時には透析患者の他にも、在宅酸素を使用している患者の安全の確保が重要です。病院には酸素のストックがありますが、在宅酸素の患者は酸素が不足すると非常に危険です。今回は運よく、どこにどれだけの酸素が残っているかを把握でき、早急に対応することができました。その結果、在宅酸素の患者も全員無事で、病院に来てもらうことで酸素供給を行いました。すべての対応が1月3日までに完了し、患者に安心を届けることができました。
聞き手
慢性疾患患者について、急性期の怪我などの患者が優先される状況下で、数日後には慢性疾患患者に関しては、どのような対応をされましたか。
河崎さん
在宅患者については、私たちは1月8日には訪問診療と訪問看護を再開し、すぐに患者のところを回りました。田舎の病院での一番の課題は、慢性疾患の入院患者の転院対応です。
この問題については、病院間の軋轢を生まないようにDMATが対応してくれましたね。最大20隊、80人のDMATが輪島病院に派遣されました。DMATは3泊4日のシフトで来ていて、最終日に帰るときには患者を一緒に救急車に乗せて次の病院へ搬送してくれました。当初金沢までの移動時間は片道8時間もかかり、輪島病院の職員だけでは到底対応できなかったところをDMATがサポートしてくれたおかげで、患者の対応を継続することができました。
聞き手
現在、病院の方で抱えている課題は何ですか。
河崎さん
地震前、コロナ前の時点では外来患者は毎日550人来ていたんですが、コロナが明けてからは外来患者が450人に減少し、今はさらに300人にまで減ってしまいました。これは大きな問題だと感じています。
同時に、医師の確保も大きな課題で患者が少ない病院では、医師は実際に症例を見て経験を積むことが出来ません。そのため派遣元の大学病院も、症例数が少ない病院には医師派遣をためらってしまうこともあるのです。そうなると、病院の経営に直結することにもなるのです。
みなし福祉避難所の開設
聞き手
今回の地震では、『みなし福祉避難所』が特例的に開設されたと伺いましたが、実際にはどのような形で活用されたのでしょうか。
河崎さん
在宅で生活している方は、普段、家族の介護はヘルパーさん、デイサービスなどで支えられているのですが、地震でそのサービスが受けられなくなります。そこで今回、「みなし福祉避難所」を新たにつくり、一時的な避難所として対応することになりました。
DMATは東日本大震災での経験を通じて、救急医療以外にも避難所での感染症対策や患者の搬送、新たな支援活動や研修を重ねてきたことが今回の能登半島地震で功を奏したのかなと思います。輪島病院や市内の避難所、災害対策本部に派遣されたDMATは、患者をどこに送るか、誰をどこに振り分けるかなど、迅速に調整し連絡を取りながら各避難所を紹介してくれました。どこでも助け合いの精神で取り組んでくれたことが大きかったです。
聞き手
みなし福祉避難所について、どのように運用されたのか詳しく教えてください。
河崎さん
輪島市では21か所の福祉避難所を指定していましたが、今回の地震で実際に開設できたのは10か所です。ただしこれは、他地域と比べればかなり多い方です。
その理由は、輪島市が2007年の地震以降、マニュアルを整備し、毎年訓練を積み重ねてきたことにあります。今回の福祉避難所は高齢者用・障害者用・妊産婦乳幼児用と属性に区分けをしており、特に妊産婦乳幼児用の福祉避難所は保育所に設定されていたため、他の属性と混在せずに済んだのは良かったですね。
ただ、最初の妊産婦乳幼児用の福祉避難所の開設は1月10日で、それまでのブランクは課題として残りました。
また今回は、避難所の建物自体が被災したため、高齢者と障がい者の福祉避難所では、本来の福祉避難所の枠を超えて受け入れを行わざるを得ない状況もあり、属性に応じた受け入れは現実的ではありませんでした。制度上、福祉避難所は「特養等に入るほどではないが一般避難所では過ごせない人」のための場所とされていますが、今回は寝たきりや認知症の方も福祉避難所に避難せざるを得なかった。本来であれば平成27年の厚労省の通知では、特養などは災害時に定員を超過しても受け入れて良いとされているとおり、そのような方々は介護保険施設に緊急入所することになるのですが、今回の地震ではその施設も大規模な被害を受けたために、受け入れることができなかったのです。
聞き手
障害者といっても、精神・知的・身体など様々な種類があると思います。それぞれに対して、どのような対応をされたのでしょうか。
河崎さん
精神障害のある方については、基本的に個室での対応が必要です。今回の地震でも、精神に課題のある方々はすべて、障害者施設の個室に入ってもらうようにしました。これは非常に重要な対応でした。
今回の地震の特徴のひとつは、高齢者施設は建物の損壊などから利用者を外に避難させたのに対し、障害者施設の多くは利用者を外に出さなかったという点です。特に、精神や知的障害のある方は、新しい環境への適応が困難なため、「施設にとどまる」という選択を取った事業所が多かったんです。その判断と体制が、結果として大きな安全確保につながりました。また、障害者施設の一部では、高齢者の受け入れも柔軟に行ってくれたんですよ。今回のような大災害では、受け入れ先が足りない中で、非常にありがたい対応でした。
ただ、今回の経験で、「福祉避難所はもうやりたくない」「もう限界」という声が事業所側からも上がりました。福祉の現場がどれだけ負担を抱えていたかが分かりますね。でも一方で、「うちで福祉避難所やりましょうか」と名乗り出てくれた事業所もあって、本当にありがたいと感じました。そうした事業所は、地域に対する奉仕や還元の精神を大切にしていて、「住民を守る気持ち」で動いてくれる。そういうところは今後も大切にしていきたいと思っています。
これからの福祉避難所について
聞き手
これまでさまざまな経験をされ、今回の大地震と福祉避難所の運営を経て、今後「福祉避難所をこうしたい」と思う点があれば教えてください。
河崎さん
まず、福祉避難所という言葉自体は、事業所の方々には浸透していると思います。ただ、輪島市全体で見たときに、今回の地震前の時点で市内の多くの社会福祉施設でBCP(事業継続計画)が運用できる体制になかったことが大きな課題でした。つまり「BCPに何を盛り込むべきか」という根本的な議論がされていない現状があったと感じています。だからこそ、今後は事業者を集めて、BCPの在り方について講義やワークショップを開きたいと考えています。BCPというのは、単なる書類作成ではなく、災害発生から応急対応、そして事業再開までの一連の流れを想定しておくべきものです。そのために大事なのは以下の3点です。
1.もともとの福祉事業をどう継続するか
2.定員超過時の受け入れをどう判断・対応するか
3.法人として地域にどう貢献するか(=福祉避難所をどう位置づけるか)
この3つを、総合的にBCPの中に組み込むことが重要です。本来であれば、これは県ではなく輪島市が主導して設計するべきだったと感じています。
これまで、福祉避難所の訓練や整備は行政主導で行われてきました。2007年の能登半島地震の際もそうでした。
でも、今回のような激甚災害、特に震度7のような被害規模になると、行政だけでは限界があります。ライフラインも寸断され、職員も思うように動けない中では、「事業者主導型」の福祉避難所へと発想を転換する必要があると強く感じました。
今後、市全体や国全体として、事業者が主役となる福祉避難所政策を進めていくことが必要ですし、私自身もその動きに貢献していきたいと考えています。
聞き手
福祉避難所というのは、一般の避難所とは別に考えた方が良いのでしょうか。
河崎さん
そうですね。最近では、一般避難所の中に福祉避難スペースを設けるという考え方も出てきていますし、それは一つの方法として有効だと思います。でも、福祉避難所の特殊性を考えると、やはり一般避難所とは切り分けて考えるべきだと思います。そもそも、一般避難所は市町村などの自治体が設置・運営するものですが、福祉避難所となると話が違います。特に、障害のある方が避難してくる場所ですから、専門的な対応が求められます。自治体の職員は、異動が3年おきなどで専門性が蓄積されにくく、そうした人たちが障害者支援の現場にいきなり入って、的確に対応できるかというと、やはり難しいと思います。
たとえば、障害のある方のもとに突然知らない人が来て「あなた誰?」から始まってしまうような状況では、安心して避難してもらうことすら難しいです。だからこそ、福祉避難所には専門職が常駐していることが重要です。そして、もう一つ大事なのが施設そのものの専門性です。バリアフリー設計であったり、個室があったり、ケアに適した設備が備わっているかどうか。人と場所、両方の“専門性”が福祉避難所には求められるというのが、私の考えです。
伝える
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
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「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
-
七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

