体験を語る
- 避難所・避難生活
防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年8月29日 |
地震発生当初~被災生活の開始
聞き手
能登半島地震が発災してから避難するまでの状況について教えていただきたいです。
寺口さん
地震が起きたとき、私は孫、娘と息子夫婦と合わせて8人で、お昼寝をしていました。遅めの昼食を済ませたところで、みんなちょうど眠っていたんです。そのとき地震が起きました。
家のテーブルは少し大きめだったので、子どもたちを一人ずつ抱えて、みんなでテーブルの下に入ったんです。地震が少し収まったとき、外に出て様子を見ました。
私の夫は、まさか地震が来るとは思ってもおらず、孫と娘の夫の3人で釣りに行っていて、釣り場では何も釣れなかったので、少し場所を移動しようとしていたときに地震が起きたんです。海辺にいたので津波警報が出て、慌てて山の方へ避難し、その後家に戻ってきました。
近くの能都中学校の避難所は、当時電気がしばらく使えない状態だったんです。私の住んでいる家は一部損壊で、基本的には家にいても問題なかったのですが、やはり余震などが怖く、家の中には入らずに外で過ごすことにしました。外でも瓦が落ちてくる可能性があるので、安全な場所を確保しました。
私の住んでいるところでは、電気がすぐに使えたのですが、万が一何かあったときに困ると思い、外で焚き火をして暖を取りながら過ごしました。お正月だったこともあって、食べ物は十分にあり、作ってあったスープやおせちの残りなどを温めて、みんなで食べました。
家の中で寝るのは怖かったので、布団や毛布を持っていって、車で2晩寝ています。3日目には、車中泊にも疲れてきたので、夫と相談して「何かあったら外に避難しよう」と決め、家で寝ることにしました。避難所には行っていません。
町内の集会所には、何人かが避難しているのを見ています。日中は明るいので行動しやすく、自宅に戻る人もいましたが、夜は一人暮らしの人などが心細くなるため、集会所で寝泊まりする人もいたようです。しかし、その集会所が山崩れの影響を受けることになり、「ここに避難してはいけない」と指示が出たため、各自家に戻るか、金沢方面などへ避難する人も出ました。
聞き手
地震があったときに、どういう思いがあって外に出ようと判断されたのですか?
寺口さん
小さい子どもたちが寝ていたので、地震が起きた直後にはすぐに外に出ることはできませんでした。そこで、まずはテーブルの下にみんなで隠れたんです。次に地震が来ても、すぐには行動できないので、最初の段階で外に出る判断をしました。
我が家の被害は、テレビが倒れたくらいです。そのテレビは地震の前年の7月に購入したもので、転倒防止用の器具はあったものの、結局つけていませんでした。結果的に地震の影響で、一発で倒れて壊れてしまいました。
テレビがないと情報を得る手段がなくなるので困りましたが、幸い、替えのテレビを息子がすぐ出してくれて、情報を確認することができました。他の被害は、食器が少し割れた程度で大きな被害はありません。
聞き手
水についてはどうでしたか?
寺口さん
私自身、防災士の資格は持っているのですが、この地域では日頃からの水や食料の備蓄がほとんどありませんでした。地震が起きる前は何も準備していなかったです。
家にはペットボトルの水が2本ほどと炭酸飲料が少し、娘の夫の車の中にも少し水や炭酸飲料がありました。電気はすぐに復旧したので、「ご飯を炊こう」となって、2リットルの水でさっとお米を2回洗い、その後、残りの水も使ってご飯を炊きました。
後で集会所に行ったときは、すでにどこからか水が届いていて、「寺口さん、いりますか」と声をかけてもらって、3本もらいました。
また、うちの近くの駐車場は高台ということもあり、多くの人が避難して来て、車がたくさん止まっていたんです。そこにいた女性に「水はいりますか」と聞いたら、ほしいですとのことだったので、手元にあった1本をお渡ししました。
その後、先生をしている娘の夫あてに、教え子から「夜中に物資を持っていくので必要なものを教えてほしい」と連絡があったんです。水のほか、0歳、1歳、3歳の孫がいたので、おむつもお願いしました。結果として、必要な分の水や物資を少しずつ確保することができ、とても助かりました。
また、このときは水が十分には出なかったので、みなさん除菌シートを必要としていたんです。知り合いの方から「除菌シートが欲しい」と言われたので、手元にあった分をおすそ分けしました。
聞き手
トイレはどうされたのですか?
寺口さん
トイレは、夫が日頃から雨水を溜めていたのもあって助かりました。
非常用トイレの予備がなく、流していたんですけど、家は山のほうにあって、真っ暗になったら周りが見えないので、申し訳ないけど外でしたこともあります。
聞き手
洗濯については?
寺口さん
うちの次男は、土木関係の仕事をしていて、地震が起きてすぐに社長から連絡があったんです。どこへ行ったのかなと思っていたら、能都中学校の避難場所が、電気を使えなくて、暖房類もダメで、どこで探してきているのか分からないけど、ストーブや灯油の用意をしていました。息子が帰ってきたのは夜中の2時か3時頃です。
息子らは10日間ぐらい水を配ったりもしていたのかな。その合間にこの町内の崩れたところを二次災害にならないように、ブルーシートを男の人たちでかけていたみたいです。だから、帰ってきたら泥だらけで、洗濯しなければならない。
私はお風呂から洗濯機にホースで水を上げて使えることを知らなくて、毎日外で手洗いです。最初のうちはいいけど、大きいものになってきたらもう両腕が痛くて。それでも洗って、今度は溜まった水のところですすぎ洗いをして、夫はお湯を沸かして、そこで仕上げをして、それで脱水にかけてっていう流れで洗濯はもう大変でした。
聞き手
避難所には行かなかったのでしょうか?
寺口さん
私は別に行く必要がなかったんです。ただ、何日か経って、娘たち一家が金沢に帰ってちょっと時間ができたので、避難所に何人も人がいて、ご飯の用意とかいろいろ、特に夕食の時が混むと聞いたので、一応お手伝いには行きました。でも、能都中学校は役場の男の人たちもいたし、他にもたくさんいらっしゃったのと、避難所にいる人たちが皆さん協力的で動いておられたので、あまり用事はなかったみたいです。
聞き手
避難所にはだいたい何人ぐらいいたのですか?
寺口さん
100人くらいはいたと思います。4日目でそれぐらい。
聞き手
地域のコミュニティができているから、うまくいったこともあるのでしょうか?
寺口さん
やっぱり顔も分かりますし。私は1月の終わりぐらいからボランティアに行っていて、知っている方のお宅にも行ったりしました、そうしたら、「ボランティアをお願いしたけど、全く知らない人ばかりなんかなと思ったら、知っとる人で良かった」っていうこともあります。何かあったときに、向こうも言いやすいのかもしれません。
近所の人で、家がだめになって、ずっと避難されていて、今後どうしようかなっていう悩み事を聞いたりもしました。この年になると今更新しい家は建てられないし、かといって家族がいるし、金沢に出る勇気もなく、こっちに子供が働いていたりすると、この先どうしようかなってやっぱり悩みますよね。
被災経験を振り返って
聞き手
防災士として、今回の震災からの教訓はありますか?
寺口さん
実は、2023年に能登町の防災士会で各公民館単位、能登町でいうと15ありますが、その地区に防災士がどこにいるかをマップで確認しようという話をしていました。防災士がまばらにいるのか、中心地に集まっているのかでもやっぱり違うと思うので、そういうのを各公民館単位で集まって話をしていたんです。この宇出津は一番人数の多いところでした。
ハザードマップの確認とか、宇出津で危険な地域はどこかというのを公民館単位で集まって話をしてくださいっていうのがありました。集まれる人だけでしたが、宇出津地区では1回集まって、一応LINE で、チャットグループを作ったんです。その方が連絡にしても、誰かが入れるともうパッと広がるので。携帯によってチャットに入れない人もいらっしゃるし、携帯も持っていないっていう人もいらっしゃるし、全員が全員入るわけじゃないので、何人かだけ入りました。
地震の時に一人マメな女の人がいて、状況を常に発信してくれていました。うちの集落の集会場に避難しているのは何人で、今途中の道が崩れたみたいで通れない状況ですとか、いろいろ送ってきてくれて、やっぱりそれを見たらみんな分かるじゃないですか。LINEのチャットにしようって言ったのは、写真も送れるし、様子が分かるのでというのがあったからです。だから、もっと前にそういう話を煮詰めておいたら、もっといい方向に向けたのではないかかなっていうところがあります。
防災士として私は何ができたのかなって一瞬考えるのですが、やっぱりこの災害が起きて一番に考えることは身内のことでしたね。まず机の下に潜ったとか、家の外に出たって判断がちゃんとできたのは、防災士ならではかなっていう気がします。だけど、最初の何日間かはうちのことしかできてなかったな、せいぜい近くの集会所へ行ってどうですかって聞くぐらいしかできなかったなって思っています。
町内によっては、ここは一人暮らしで、連絡先はどこでとかを把握しているところもあるみたいです。やっぱり町内でそこまでしていかないとダメなのかなって思いました。一人暮らしの人のところを防災士が訪ねて、今日は大丈夫ですかっていう動きをしておられた町内もあると聞いています。
一人暮らしの方で、姿が見えんけどどうしたんだろうってなったときに、誰かに子供のところへ行くと言ってくれればいいのですが、そうじゃなく黙っていなくなって、どこに行ったのかなというのがやっぱりあるので、その辺を町内として何か詳しく書いたものがあったほうが良かったのかなって思います。
聞き手
プライバシーのこともあって難しいですけど、有事の際はそういったものって大事ですよね。
寺口さん
どこに誰が住んでいるかとか、連絡をどう取るとかね。突然連絡が取れなくなったという話も聞いたので、それがやっぱり一番いいのかなと思っています。
防災士にもかかわらず、水の蓄えなく、食料の蓄えなく、非常用トイレの準備もしていなかった。都会のマンション暮らしをしている人に聞いたら、やっぱり水や食料、それとトイレの蓄えがある。地震が起きたらマンションではトイレを流さないでと言われるそうです。だから最初から予備をたくさん持っている。
聞き手
最後に、将来の防災を支える学生に対して何かメッセージなどありますか。
寺口さん
今でもボランティアに来ている人は、ちょっとした片付けとかでも、誰にも何にも言われなくても、自分で動いていらっしゃる。
私はいつも、せっかくするなら人に喜ばれることを、と思っています。例えば今日どこかのお宅に行くじゃないですか。その日のうちに完了するように、一生懸命するんです。いやいや、明日もまた来られるじゃないのって最初のうちは言われる方もいるのですが、お宅がスッキリとなったらとっても笑顔になられる。その笑顔を見るためにという気持ちで動いているし、また明日と残すと、ああ、まだこんなあるよねってなります。
その人の笑顔を今日見たいために一生懸命する。一気に綺麗になると本当に喜んでくださいます。みなさんにもそういった人の笑顔のために頑張れる人になっていただきたいです。

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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
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「避難所の運営を手伝って」 -
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企業・団体
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