体験を語る
- 企業・団体
拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年12月12日 |
地震発生当初
聞き手
宮元さんのふだんのお仕事について教えてください。
宮元さん
消防職員として珠洲市で働いています。現在は珠洲消防署大谷分署で勤務しています。
聞き手
発災したときの状況はどうでしたか。
宮元さん
発災当日は大谷分署で、私を含めて3名で勤務していました。最初の震度5の地震が発生したとき、消防車両を車庫から出して、震災対応をしようとしていました。そのとき2回目の地震が起きて、津波警報が出たので、すぐに避難しようということになって、本来であれば、旧西部小学校の高台に避難するのですが、崖が崩れて避難できない状態だったので、避難を呼びかけながら、反対側の長橋町に向かいました。
聞き手
避難のときは消防車に乗っていたんですか。
宮元さん
救急車、消防車、連絡車の3台で避難しました。外部マイクがついているので、車に乗りながら、皆さん避難してくださいと広報しながら避難したという感じです。
聞き手
高台には何人ぐらいの人がいましたか。
宮元さん
旅行者も含めて、30人程度の方がいました。さらに高いところに別の集落の地区があったので、そちらのほうにも避難している方がいました。
聞き手
その高台には、どれくらいの期間、避難していたんですか。
宮元さん
16時10分に発災で、大体16時30分にはその場所に着いていました。そこで住民から、長橋町にも建物の下にまだ人がいるという話を聞いたので、そこで2名を救出して、津波警報が解除された後、大谷町に戻ってきました。そのときには多分民間の方が、崖の崩れたところを除去していたので、車も通れました。
そこを通って、旧西部小学校に行って、車が100台ぐらい、人数までは把握できませんでしたけれども、そこに避難している人たちと合流しました。夜8時前後だったと思います。
聞き手
そこから1日の夜は旧西部小学校で過ごされたんですか。
宮元さん
大谷町の現状を把握するために、一度下りて、大谷町の周囲を確認に回っています。そこで倒壊建物の下に人がいるという情報が入ってきました。当時3名勤務で、約9名が倒壊建物の下敷きになっているという情報があって、消防団と協力して救出活動しようと思ったんですけども、もう夜間で暗くて対応が困難で、照明もないので後日にするということになりました。
その時点で、地元の方から大谷町が孤立したという連絡があったので、1度、旧西部小学校に行くことにしました。大谷小中学校にも何人かいましたので、消防団と本部長さんにお任せして、私は旧西部小学校に上がりました。
旧西部小学校に上がったときに、胸が苦しいという方がいて、救急車の中に入ってもらったんですけど、大動脈解離の疑いで、通常の状態でも緊急搬送が必要な症状であり、消防本部に連絡を取って、自衛隊のヘリコプターを出せないかとお願いしました。しかし、夜10時前後に、今はヘリコプターを出すのは無理だと言われて、心電図モニターなどを全てつけた状態で、点滴処置等をしながら、救急車の中で休んでもらい、ヘリコプターが来るのを待つという状態でした。
そうしている間に、もう1名、倒壊建物に小指を挟まれて、指が取れかけているという方が来たので、止血を実施しました。消防本部には車内の酸素や、点滴ももうなくなりそうという状況と、この2名を緊急搬送したいことを伝えました。それで、一晩を明かしたという感じですね。
聞き手
点滴などの備蓄はふだんからある分しかないという感じでしたか。
宮元さん
私たちの場合は、主な搬送先が珠洲市総合病院で、搬送した後、珠洲消防署で資機材を補充するという形なので、大谷分署には備蓄していなかったんです。そのため、市街地のほうに行けず、補充ができない状況でした。
聞き手
その方が搬送されたのはいつ頃ですか。
宮元さん
2日の朝8時30分くらいにヘリコプターが来ると聞いたのですが、そのときはまだ救急車が大谷小中学校まで行けない。200、300メートルくらいの距離なんですけども、橋のところを通過できないということで、ストレッチャーといわれる担架で、ヘリコプターが来る小中学校のグラウンドまで搬送しました。このとき、大谷小中学校に避難している方で、もう1人具合が悪い方がいましたので、合計3名の方を一緒にヘリコプターで搬送した形ですね。
聞き手
けがをして、処置をされたのが、その3名ということですか。
宮元さん
そうですね。その後、私たちは捜索と救助に向かっていたので、ヘリコプターが何回来たかというのは、分からなかったです。
聞き手
夜が明けてから、下敷きになっている方の救出に向かったんですか。
宮元さん
そうです。倒壊建物の救出に向かって、何名か救出しました。仁江町で、一家が全員埋まっているという情報が入ったので、すぐそちらにも向かいました。
聞き手
その後も旧西部小に避難されていたんですか。
宮元さん
旧西部小には備蓄がほとんどなかったので、1月2日の翌日時点で、全員と大谷小中学校に避難しました。それで、合計500名くらいがここで避難していたという状況です。
聞き手
宮元さんも一緒に避難されていたんですか。
宮元さん
私たちは、ずっと人命捜索に行っていました。
聞き手
夜はどうされていたんですか。
宮元さん
大谷分署があるんですけども、そこ自体がもう使えなくて、無線も一切入らない状態だったので、避難所の方に行き、私たちも共に過ごしました。大谷地区の大半の方が集まっていましたので、何か起きても、一番近いのはここだという判断で、臨時の大谷分署をつくりました。もちろん住民の方が避難しているため、自分たちの自家用車を大谷分署から持ってきて、その中で寝泊まりしました。
聞き手
捜索には、分署に勤めている3人であたられたのですか。
宮元さん
2日の朝、大谷地区に実家のある、珠洲消防署の職員が2名避難してきたため、合計5名で活動できるようになりました。
聞き手
捜索活動はいつ頃までされていましたか。
宮元さん
4日から、大谷地区と仁江地区の2か所を自衛隊が捜索活動する形になりました。4日からは、緊急援助隊の新潟県隊、新潟市消防局の指揮隊の方がヘリで来て、大谷地区の捜索は自衛隊に入ってもらったのと、行方不明者はほかの地区にはいないという状況が分かったので、その後は多分、別のところに向かわれていますね。
聞き手
4日には大谷地区で行方不明者はいなくなっていたんですか。
宮元さん
大谷でも倒壊建物の中に数名いたんですけども、仁江地区のほうでまだ捜索は続くという形ですね。
聞き手
地震が発生したときのマニュアルがあると思うんですけど、そのとおりの活動ができたのか、全然予定どおりにはいかなかったのか。
宮元さん
全然予定どおりにいかなかったですね。最初は旧西部小学校に避難するというマニュアルがあるんですけども、発災時はそこへ上がれない。そこが駄目なときに、もう1か所別のところに避難するという決まりもあったんですけども、そちらのほうにも行けない。そこでもうマニュアルが使えなくなってしまい、当日、私が隊長だったので、私の判断で長橋町の高台に行くという形を取りました。
その時点で、もうマニュアルが役に立たなかった。通常であれば、消防団の方に沿岸地域の避難広報に行ってもらうという形だったんですけども、沿岸地域がまず車で通れない状態なので、そういう広報等もできない状況でしたね。
聞き手
救出活動を1日からされていたということですが、実際にされて分かったことはありましたか。
宮元さん
圧倒的な人手不足があると思います。よく勉強会で、土砂災害に対応するような救出訓練もあるんですが、今回、仁江町や大谷町では、まるで役に立たないと思いましたね。例えば山の斜面が一部崩れてきているとか、そのくらいなら対応も可能ですが、今回の場合は山自体が全部崩れている状態なので、これは今までの方法では厳しいな、大型重機が必要だなと感じましたね。
聞き手
大谷小中学校に車で避難したということですが、車中泊は、いつ頃まで続けていたんですか。
宮元さん
3月ぐらいになると、避難所の避難者自体が減ってきたので、一部、奥にあるテントをお借りして、寝泊まりすることができました。
聞き手
避難所の運営に関わる形で避難していたということですか。
宮元さん
そうですね。実際に消防として活動したのは、震災当初から数日だと思います。私たちの救出活動を自衛隊や緊急援助隊が引き継いだ時点で、通常の業務に戻る形で、本来であれば救急車の出動も多かったと思うんですけど、要請自体がもうなくなってしまった。1月17日の時点で集団避難があったからです。大谷地区の方が2次避難先に大量に出られたので、もともとの人数が少なくなったということが1つ理由としてあるのかと思います。救急車が呼ばれることもなくなった。火災もほぼなくなった。電気が通るようになったこともあるんでしょうけど、灯油を買いに行く術がない人たちがいるので、ストーブが原因での火災とかそういうものがなくなったのかなと思いますね。
聞き手
地震が起きたときに火災は発生していましたか。
宮元さん
大谷管内ではないです。珠洲管内ではあるんですけど。
聞き手
その後にストーブを使ったりして火事になったというのは。
宮元さん
それはないです。火災件数が極端に減っていると思います。
聞き手
それは、水が使えないということで火災を出さないように呼びかけたこともあって少なかったんですか。
宮元さん
そういう広報もあって、住民の方も、水が出ないから、火事が起きたら大変だというのは、皆さん分かっていると思うので、自分たちで気をつけていたという部分もあるかと思います。
避難生活について
聞き手
避難者が少なくなって、残っている人たちもいるので、その人たちのお世話をしながらいたんですか。
宮元さん
水回り関係、生活用水の補給など、避難所でできることをやっていました。
聞き手
生活用水はどうやって確保していたんですか。
宮元さん
山水ですね。ここから5キロぐらい離れた場所でくんできました。そのときには軽トラックの荷台にタンクを乗せて、そこに積んで、こちらで使うという形ですね。
聞き手
飲み水にも使っていたんですか。
宮元さん
飲み水では使ってないです。水洗の仮設トイレが来たので、それ用に使うとか、あとは皆さんの顔を洗ったり、歯磨きしたり、そういうことは全部山水でやっていましたね。
聞き手
施設のトイレは最初使えなかったんですか。
宮元さん
使えないです。携帯トイレを使っていました。段ボールの上にナイロン袋をかぶせて、蓋と排せつできる穴が開いているものを使って、女性はトイレ内に設置して、男性は外の用具置き場を使ってもらいました。
聞き手
携帯トイレは備蓄があったんですか。
宮元さん
そうですね。
聞き手
いつぐらいまで、備蓄で賄えたんですか。
宮元さん
2日には自衛隊のヘリで水、食料等の物資を配送してくれていたので、それほど困ったことはなかったです。
聞き手
携帯トイレが自衛隊から来るようになって、そのうち仮設トイレが来たんですか。
宮元さん
はっきり覚えてないですけど、2月ぐらいに仮設トイレが来たと思います。
聞き手
仮設トイレはどれくらいの数でしたか。
宮元さん
最初にくみ取り式のトイレが2台来て、今ある水洗式の仮設トイレが2台来て、合計4台来ました。くみ取り式のトイレ2台は、3月くらいには撤収したと思います。
聞き手
水道はどうですか。
宮元さん
5月末には、復旧して避難所でも使えるようになりました。もともと大谷地区は下水じゃなくて浄化槽なので、浄化槽が使えるところは、そのまま使っていました。
聞き手
電気はどうでしたか。
宮元さん
最初は発電機を使っていました。途中で高圧電源車が入って、それで避難所の電気を賄っていました。その後、電気は、1月中には来ていたような気がしますね。
聞き手
電気については、そんなに困るということはなかった。
宮元さん
最初の1、2週間は皆さん困っていたと思います。電気もそうですし、皆さんやっぱり情報が入ってこないので、携帯電話を使うんですけど、電波がない。ただ皆さんは情報がほしいからダメ元で携帯電話を使う。そのうち携帯電話の電源がなくなる。新聞も来ない、テレビも映らない、一切情報が入ってこない状態で、じゃあどうしようというときに、地元の電気屋さんが学校のテレビを持ってきて、パラボラアンテナを取りつけて、衛星放送だけ見られるようにしたんです。そこで、避難者の皆さんが、ようやくこの珠洲市の現状が分かったということですね。それが1週間後ぐらいのことだと思います。
聞き手
その1週間はずっと情報がないまま過ごしていたんですね。
宮元さん
はい。2日か3日に、携帯電話の中継局の電源が落ちてしまっているので。その後は情報が入ってこない。ようやく衛星放送が見られて、市内もひどい状態になっているのが分かったという感じですね。
やっぱり地域のつながりというか、皆さんが集まってできることをやっていくという形で、電気屋さんは電気屋さんで自分のできること、水道屋さんは臨時で配管をつないでみようかとか、やっていました。
聞き手
お風呂はどうされていたんですか。
宮元さん
お風呂やシャワーは、皆さん入ってないですね。仮設のシャワーが来るまでは、寒いですし、半開放的な避難所で、男女も当初は混ざって寝ていましたから、更衣室を使って、物資で送られてきたウエットティッシュで体を拭いたりはしていました。
あとはお湯を沸かして、タオルで体を拭くとか、皆さん、家が潰れている状況なので、最初タオルも、ほとんどなかったです。ウエットティッシュとか、そういうものはいっぱい来たんですけど、タオルは物資でほとんど届いていなかったので。
聞き手
ほかの避難所では、家から毛布を持ってきたという話もよく聞くんですけど、どうでしたか。
宮元さん
今、皆さんが使っておられる布団類は、自分で持ってきたものを使っています。これだけ人数が減ってしまうと、皆さんが置いていった布団が大量に余っている状況ですね。持っていくように言っていますけど、処分することになると思います。
聞き手
みんな残していくんですか。
宮元さん
そうですね。仮設住宅の入居が決まった方は、全国の皆さんの支援で、仮設住宅の中にも人数分の布団が入っていますので、新しいほうを使う。ここで使っているものは、誰が使ったか分からない状況なので、置いていくということが多いですね。
聞き手
最初に500人ぐらい集まったというというお話でしたが、最初から体育館だけを使っていたんですか。
宮元さん
最初は体育館と1階にある教室を使わせてもらっていました。病気がちな人は個室にいてもらって、被災した地元の大谷町の看護師さんも数名いたので、その方たちに救護班をお願いして、保健室も使っていました。保健室の隣に教室も4部屋あるので、そこも使っていました。ここの避難所は、被災当日から、炊き出しをずっと続けているということもあって、家庭室も使っていますね。家庭室で作って、今はランチルームで食べていますけど、当時は人数が多いので、体育館まで持っていきました。あともう1つ、予備室も使っていました。
聞き手
予備室にも避難者の方がいたんですか。
宮元さん
ペットを飼っている方もおいでますし、ペットが苦手な方と、ペットが離せない方がいますので、ペットを飼っている方の部屋にしました。猫、犬などペット類に関しては体育館の中には入れていません。
聞き手
学校が再開したのはいつぐらいですか。
宮元さん
1月下旬ぐらいじゃなかったかなと思います。生徒さんたちもここに避難していましたので、学校の中から学校の中に通うという形ですね。
聞き手
避難所として使っていたところ以外で、学校として、児童・生徒さんたちは過ごしていたわけですか。
宮元さん
はい。2階と3階を使っていました。
聞き手
1階の部屋を使っていたのは、いつ頃までですか。
宮元さん
保健室の並びの部屋は、使っていた方が二次避難に向かったのもあって、1月末の学校が始まるくらいのときに解除されていますね。
聞き手
分署として使っていたのはいつからですか。
宮元さん
それはごく最近です。生徒さんが大量に転校していったこともあって、4月ぐらいから、1室使わせてくださいということでお願いしました。
聞き手
そうなんですか。
宮元さん
もともと23名いた生徒さんたちが、4月から5名しかいないという状況で、そんなに使う教室ではない1室をお借りしています。
聞き手
その5人は今も登校しているんですか。
宮元さん
はい。
聞き手
避難所生活の1日の流れについて教えてください。何時に起きていたとか。
宮元さん
電気が来てからは6時半起床で、9時に消灯でした。ただ、テレビを見たい方もおられるので、10時まではテレビはつけてもいいことにして、体育館の照明は消しますが、テレビを見たい人は見ていました。
聞き手
炊き出しはどういう人がされていたんですか。
宮元さん
それも住民の方で、奥様方が中心になってやっていました。途中から、旧西部小学校の向かいにある、潮騒レストランの料理人の方がこちらのほうに避難してきたので、その方を中心にやっていました。
私たちは2日から小中学校に入っていますけど、食事に関して不便に感じたことはないです。当初は避難の期間がどれぐらいになるか分からなかったので、食事の量も少なかったですけど、そういうことを言っていられないですし。当時、食事はたしか朝10時と夕方5時の2回だったと思いますけど、2次避難の方が大量に出た後は、人数が減って、物資に余裕が出てきたので、3食になっていきましたね。
聞き手
みんなで一斉に食べていたんですか。
宮元さん
体育館まで持ってきて、朝10時と夕方5時頃に渡してという感じですね。
聞き手
掃除などは当番制でやっていたんですか。
宮元さん
当時は、運営本部の下に物資班と水調達班、あと調理班、清掃班と分けてやっていました。その班に班長がいて、朝にミーティングを行って、1日のスケジュールを確認してやりましょうという形ですね。
聞き手
そういう組織づくりは誰が主導で行われたのですか。
宮元さん
本部長さんと区長さんの2人を中心にやっていこうとなりました。そのうち、班員や班長の人たちも、避難していき、高齢者が残ったので、そこから私たちも協力するようになりましたね。
聞き手
避難者の人数の管理などはされていたんですか。
宮元さん
避難者の中に市役所職員も数名いたので、数の把握など事務的なことはその方がやっていました。入退所が分からなくなるので、まず、この避難所にいる人全員の名簿を作るということで、2日の昼の時点で人数把握が終わっていましたね。そのあと自主的に出ていく方に関しては、隣で一緒に寝ていた人などに聞いて把握していましたが、何件か続いたので、1月の上旬には退所届に記載してもらう形にして、金沢や東京に行かれた方にも、大谷や珠洲市の状況が分かるように、広報や地区だよりの発送といったことは続けていました。
聞き手
高齢の方や障害のある方、小さいお子さんなどの要配慮者の方へどう対応されていたか、教えてください。
宮元さん
ほぼ高齢者だったんですけども、日本災害看護学会が大谷避難所の担当で来ますと言ってくれて、1月の中頃ぐらいからほぼ常駐する形になっていたと思います。
今日もいらっしゃっていますが、輪番で、全国いろんなところから来ていただいて、一緒に寝泊まりして対応していただきました。
聞き手
そういう方の配置は誰が決めていたのですか。
宮元さん
市の健康増進センターの依頼でこっちに来られたんだと思います。
聞き手
例えば高齢者の人を部屋に固めるとか、小さい子がいるところを分けるとか、寝泊まりする場所の移動はあったんですか。
宮元さん
段ボールベッド自体がなかったので、仕切りも最初はなくて雑魚寝で、布団を敷いて寝るだけでした。最初に布団を敷いたところから、皆さんあまり動かないですし、男性と女性が並んで寝ているような状況だったんです。日本災害看護学会が来られて、せめて男性と女性で分けませんかと言われて、皆さんにお話はしたんですけど、不思議なもので、別にそのままでいいとおっしゃる、若い女性の方も、おじいちゃんとかおじさんが隣でも、昔から知っている人だから別にいいと。
聞き手
知っている人で固まっていたんですね。
宮元さん
そんな感じでしたね。大谷の地域性なのか分かりませんけど、雑魚寝のときも、段ボールベッドが届いたときも、男女分けるかお話ししたんですけど、別にいいと言われました。せめてパーティションでも作りましょうかと言っても、別に要らないと。さすがにもう人数も少なくなってきて、スペース的にも余裕があるので、分けますということで、男性と女性で分かれました。
聞き手
男性と女性で分かれたのは大体いつ頃ですか。
宮元さん
多分4、5月くらいだと思いますね。
聞き手
高齢者の方が、体育館で過ごしていたときも、そのままでいいということだったんですか。
宮元さん
はい。一部、車椅子の方は、個室に行きましたけど、その方も、1月中旬には2次避難のほうに行きました。
聞き手
赤ちゃんとか小さいお子さんがいる御家庭もいらっしゃいましたか。
宮元さん
小学校に入っている子ばかりですね。現在、未就学児は、大谷地区に1人しかいなくて、その方は多分こちらのほうには避難してきていないですし、今は自宅で暮らしています。
最初、1月1日に避難してきたとき、小さい子もいたと思うんですけど、その辺は私たちも把握できていないです。そういう世帯の方は、早々に避難していったと思います。車の底を擦りながらとか、バンパーが壊れようが出ていったという話も聞いたことがありますね。
聞き手
残っている生徒が5名ということですけど、避難時からですか。
宮元さん
避難時は20人ちょっといたけど、2次避難や引っ越して転校していきました。
聞き手
いつごろのことですか。
宮元さん
1、2月の時点で転校していった子もいたはずですが、大体は4月の学年の区切りのときだと思います。卒業式にはみんな来ていましたし。
聞き手
避難所の中で、子供向けのスペースを作るといったことはありましたか。
宮元さん
最初キッズスペースとして、バスケットゴールの下に、テントを作ったり、広いスペースを作ったりしましたけど、あまり使ってなかったですね。やっぱり皆さん、携帯ゲームとかで遊んでしまうので。私も自宅に戻ったときに、漫画を持ってきたんですけど、あまり読まれてないですね。小説もあって、それは避難者の方が読んでいたみたいです。
聞き手
冷蔵庫やテレビ、机のある団らんスペースみたいなものもありますが、いつ頃からああいう形になったんですか。
宮元さん
2次避難が始まったときからですね。1月終わりぐらいには、人数的に結構減ったので、団らんスペースを作ったりしました。
聞き手
漫画コーナーや、リクライニングチェアみたいなのものもありますね。
宮元さん
漫画や小説は自分が持ってきたもので、リクライニングチェアは赤十字からの支援で来たものです。冷蔵庫は市内で被災した方がもう要らないというので、もらってきました。
聞き手
ファミリールームと書いてあるテントもありますけど、何に使っているんでしょうか。
宮元さん
洗濯干し場です。でも、洗濯する人も、そんなにいないのかな。当初は洗濯機があったんですけど、洗濯すると水が大量に減って、二、三回使った時点でタンクがなくなるので、あまり使っていないです。
聞き手
皆さん洗濯はどうされていたんですか。まとめてコインランドリーに持っていくなどされていたんですか。
宮元さん
家族の多い人はそうしていたと思います。自分も、4月に水が自宅に通るまで市街外のコインランドリーを使っていました。

聞き手
発災したときに、家に挟まれた方もいたというお話でしたが、帰省でたくさん人がいた中で、人数の把握はできたんですか。
宮元さん
隣近所の付き合いが深いところなので、あそこに娘がいた、孫も来ていたという話は皆さん聞いていました。本部長や区長も、もともと、どこに何人家族がいたというのを把握していたのもあって、仁江町に行ったときも、もともとおじいちゃん、おばあちゃんとお父さん、お母さんしか住んでいない家に子供や孫が帰ってきていたというのはすぐ教えてくれましたし、そういう地域のつながりが被害の減少にもつながったのかなと思います。
聞き手
都会ではないことですね。
宮元さん
人数把握の件で言えば、苦労しなかったです。
豪雨について
聞き手
9月21日に豪雨がありましたが、地震を受けて、行動が変わったことはありますか。
宮元さん
9月21日も自分は勤務していて、隊長だったんですけども、地震を受けて改善されたことというのは、ほとんどなかったです。ただ、時間が早かったというか、交代時間とほぼかぶっていたので、地震のときは3名しかいなかったんですけど、豪雨のときには5名いたので、ある程度対応はできたのかなと思います。
ただ、大谷町でも1名亡くなっていて、私もそのお宅まで行って呼びかけているんですが、奥をのぞいても返答がない。その時点でもう、建物自体が土砂に押されてめきめきと音がしている状態で、これ以上は危険ということで戻りました。全部で3回、大谷分署として出動したんですけど、1回目、人がいるみたいだということで、車で途中まで行った時点でもう、土砂が流れてきている状態で、車で行けなかったので、1回戻って、3名でそちらに向かいました。その間は多分20分ぐらいですけど、最初はくるぶしくらいまでの深さの土砂なので、行けると思ったんですけども、2回目に行った時点でもう膝上くらいまで来ていて、これ以上は駄目だということで引き返しました。30分くらいして、3回目に行った時点ではもう、胸くらいまで土砂が来ていたので、災害が進むのが速過ぎたと思います。
水があふれてきたとか、床下浸水しそうだとか、そういうのは今まで何度か経験があって、土のうを積んで終わりだったんですが、今回のような土砂災害は私たちも経験がなかったので、怖さを感じましたね。あのまま作業を続けていたら危なかったと思います。
被災経験を振り返って
聞き手
いろいろ対応してきた中で、1番印象に残ったことは何でしょうか。
宮元さん
1番印象に残っているのは、仁江町の家族が生き埋めになったことですね。亡くなられた女性が私の妹と同級生で、小学校の頃から自宅にも遊びに来たり、泊まりにきたりしたので、その方たちの家族を助けられなかったことは、今でも悔いが残っています。
聞き手
これから大谷が復興して、どんな町になったらいいと思いますか。
宮元さん
震災前の町並みが戻れば1番ですし、戻れなくても仮設住宅に入っている方たちが、今までどおりのコミュニティーを築ければいいなと。仮設住宅に入ったからといって、コミュニティーが崩れるのは、1番つらいかなと思いますね。

伝える
- 体験を語る
-
県民
-
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」
-
珠洲市宝立町区長会長
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学校
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企業・団体
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珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 - 珠洲市消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市飯田分団長 大丸耕司さん
「被災したスーパーの営業再開で地域の皆さんの生活の助けに」 -
珠洲市直消防団員 須磨一彦さん
「人手が足りない中、ガソリンスタンドの営業再開に尽力」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
「全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応」
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珠洲市総合病院
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関係機関が作成した体験記録