体験を語る
- 県民
道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月29日 |
地震発生当初
聞き手
火災の被害状況についてお願いします。
高さん
鵜飼の海岸線に近いところで、火災が発生して、当時、私は消防団の副分団長だったんですが、正直なところ、火災の現場へは行けなかったんです。
一日に家に5人いた中で、家から外に出ることができたのは私だけでした。御近所の方が声を掛けながら回ってくれたときに、私が家からはい出たのを見てびっくりされた状況で、娘と私の妻は倒壊した家に挟まれていました。
2時間ほどかけて2人を救出して、近くの避難でき得る施設まで何とか抱え込んで行った時点で、高台の一時避難場所から、火の手がもう見えていました。ただ、火の手が見えたといいながら、道路はもう全くの寸断された状態で、私の車庫に車が2台、外にも1台、合計3台ありましたが、うちの建物で潰されてしまったので、その日はもう徒歩で移動するしかなく、負傷者の手当、救急要請に時間がかかりその時点では連絡がついた他の団員にその旨を伝えて火災の現場には向かいませんでした。鵜飼分団では、消防の待機所の車庫も損壊したので、消防車が出せなかった。隣町の上戸分団から応援をいただいて、鵜飼分団からは人間だけが手伝いをして、火災の消火に当たりました。
資料にあるとおり、分団のポンプ車が出せない、行けないという葛藤の中で、隣町の消防車両と一緒になって火災に対応して、早朝4時頃ぐらいにはほぼ鎮火したような形です。
私は、夜が明けて、次の日の昼過ぎまで、火災ではなくて人命救助のほうをずっと回っていました。高台から火の手が見えるのは確認していたんですけども、現場には行けなかったのが実情です。ただ、その夜、消防署から、どこそこのお宅におばあちゃんがいるはずだとか、倒壊建物の中に人がいるはずという連絡があって、夜中ずっと回っていた中で、ガズボンベからガスが出ているところは2か所確認しています。その都度、閉めて回りました。
通常、建物が壊れても簡単にはガスが漏れない仕組みと思われますが、津波のあったところだったので、ボンベごと流されて、ガスの調整器からボンベの継ぎ手辺りのホースが破けて、ガスが出ているといったことが原因だったのかなという気はしています。
聞き手
次は道路の被害状況をお聞きしたいです。
高さん
道路はもう全滅状態です。皆さんが今日来られたときに通った、そこそこの大きめの橋も小さい橋も、橋自体は結構丈夫なんですけども、道路との継ぎ目のところにすごく段差ができていました。だから、一日の晩から二日のお昼頃まで、よじ登って飛び降りることの繰り返しだったことを何となく覚えています。道路の亀裂も、かなり大きなものがあちこちにありましたし、それと、倒壊してしまった建物が車の行く手を阻むという形でした。私は鵜飼から少し山手のほうに住んでいるので、人がどこにいるのかを見て回るのに、何度も何度も鵜飼の町なかに行きましたけど、道路を歩くんじゃなくて、屋根を登って降りて、また屋根を登って降りての繰り返しで。多分、一日の津波の頃も皆さん、屋根の上を登って、宝立小中の避難所まで行ったものと思います。
聞き手
消防車両はどうやって現場に駆けつけたのでしょうか。
高さん
橋が駄目でも、かろうじて通れるところが何か所かあったので、鵜飼の火災の場合は、宝立小中の手前の交差点のところまでは何とか通ってこられて、それから今度、第三長寿園という高齢者施設のほうへ迂回して入ったと聞いています。
聞き手
通れる道路は幾つかあったということですか。
高さん
そうですね。それもやっぱり地元の道路のことを分かった人間じゃないとすぐ気がつかない感じだったと思います。
困難を極めた救助活動
聞き手
人命救助は、連絡が来たところに行きながら、あとは周りを見ながらという感じだったんですか。
高さん
人命救助というか、消防団の活動なのか、もう人がいるからそこ行くんだという、使命感だけで動いていたような気がします。
通信手段、携帯電話が途絶えたんです。家族が家に挟まれたり、怪我をさせてしまったのを何とか助け出して、高台の建物へ行ったときに、30人ぐらい人がいたんですけど、その中に、ちょうど帰省で帰ってこられた女性の方で、携帯電話に詳しい方がいて、私のスマホは4Gだったのですが、電話がつながらないとみんなで騒いでいたら、その女性が3Gにしようというので、設定を変えて3G優先で電波を拾えるようにしたら、一気に私の電話がつながりやすくなりました。
正直なところ、最初は、救助に向かうところはどこだということで珠洲消防署に電話したんじゃなくて、負傷者を救急車で何とか運んでもらえないかという電話だったんです。119番にかけても、全部輪島の本部につながるので、地元の人間が電話を取ってくれれば、細かい道筋、どこまで行けば、せめて30メートルか50メートル担架に乗せて行けば、救急車で運べるというのが分かりますし、結構なけがだったので何とかならないかということで、珠洲の消防署に電話をかけたら、私の電話がつながるというのが分かったのかもしれません。
それから次々と、どこそこのうちに挟まれている方がいるはずだからという連絡が入って、見に行ってくれ、見に行って出せそうなら出してくれ、出せなかったらまた連絡してくれという繰り返しで回りました。
私が行ったのは、ほぼ家族の方がいるところで、おばあちゃんと一緒にいて、自分は外に出られたけど、おばあちゃんが中にいるとか、夜中の3時、4時ぐらいに、金沢のほうからお母さんを心配して見に来られた方もいました。そういうところに行って、この辺りから声が聞こえるというところを探しました。
最初は徒歩で行って、今、何とか1人出したということで連絡すると、じゃあ次は、どこそこの町内の人の安否が分からないと言われて、そこへ行って。行ったら、屋根を破った跡があったので、出たのかなということで避難所へ行って、名前を確認したら救出されていたということの繰り返しでした。
うちの中にいるはずだけど、どの部屋、どの辺りにいるのか分からないお宅は難しかったです。おばあちゃんが、いつもこの辺りでこたつに入っているから、この辺にいるはずというところは、どんどん中に潜ったりしました。
道路がもう全く駄目だったので、ほぼ徒歩でした。ただ、夜中の3時、4時のくらいのとき、ちょうど見附島の近くのところへ行ったときに、会社に入れるかもと思って、最悪ガラスを破ってでも入ってやると思って来たら、全面ガラスが割れていて、どこからでも入れる状況だったんです。そこで車の鍵を出して、それまで素手だったところから、多少の道具を手に入れることができて、そのまま活動しました。車の行けるところまで行って、途中で乗り捨てて、また歩いて、ということの繰り返しでした。
大津波警報の防災無線が鳴り響いていた頃は、私は山手の方にいて、うちの家族を救出して、その後、津波のひどいところへ行きました。そのときに、どれだけの津波だったのかというのが初めて分かりました。まだ警報が解除されていない時間帯だったと思われますが、それほど現場は混乱していました。

避難の状況
聞き手
最初にみんなが集まった場所は避難所ではなかったのですか。。
高さん
避難所ではありませんでした。動かせない負傷者がいたこともあり、道路の亀裂や倒壊建物で指定された避難所に行くことはできず、近くに集まれる場所があったので使わせていただきました。
30人近い人間がいて、日が暮れて寒くなってきていたので、うちの近くにある施設に入ったんです。施設の中の椅子とかを急いで片づけました。
ちょうど帰省していた娘が、市外の保健所に勤めていたので、ある程度避難所のマニュアル的なことがわかっていたようで、段ボールの切れ端で、近所の奥さんたちと名簿作りや就寝スペース土足可能スペースの区切りなどを行っていました。
5日間、そこにいたんですけど、そこも地震の影響で、余震があるとだんだん、基礎の辺りの地面がむき出しになって、危なくなったので、4日の晩辺りに、みんなで協議をして撤退することを決め、あさひ避難所へ行く人や宝立小中に行く人に分かれて、避難が始まっていきました。
私は避難所の対応というよりも、一日から二日にかけては、ほぼ消防団の活動をしていました。
手の空いた者は避難所の設営ということで、近くの工務店にバックホーを借りて、仮設のトイレを地面に穴を掘って造ったり、食料は、お正月に食べるようなお餅とか残っているものを出してもらったりしました。
1日の当日は、けがをした方の体を拭こうにも水もなくて、その辺にあった雪でタオルを濡らして体を拭いたりという感じでしたね。
ほぼ毎日、私は消防の活動に行って、避難施設に帰ってくると、最初は30人で、途中から20数人に減ってはきていたんですけど、電気もないですし、家に帰ってがれきの中から発電機を掘り出してきて、携帯を充電したり明かりを点けたりという作業をみんなでやっていました。
女性陣は、じゃがいもや玉ねぎとか、その辺の食材をみんな持ち寄って、潰れたうちのがれきの中から乾いたものを持ってきて、たき火で煮炊きしていました。
それが5日間続いて、あさひ避難所に行ったら、今度は一気に人数も増えて、車中泊の方も含めて40数人ぐらいになりました。そこに行った時点では、ガスは近くの燃料店から持ってきたり、ガスコンロを持ってきたりして準備されていました。車中泊される方と、中で休まれる方がいて、私は最初に行ったときは、自動車販売店のレンタカーのマイクロバスがあったので、椅子を倒して、その中で休みました。
聞き手
指定避難所である宝立小には行ったのでしょうか。
高さん
旧宝立小には、一日の夜中に1回、確認に行っています。旧宝立小学校の旧体育館が高台にあって、ソーラーパネルもたくさんあるところで、そこが津波の避難所になっていたんですけど、天井が全部落ちていまして、中に入ることができなかったんです。ただ、そこには段ボールの仕切りとか、トイレ用品とかの備蓄があったんで、見に行ったんですが、数百人が外にあふれかえって、たき火をしていました。その状況を見て私は愕然として、宝立小中の避難所に入ることはできないということで、あさひ避難所に残ったんです。宝立小中のところには800人くらいいたと聞いています。あさひ避難所は、私が行った時点で40人ぐらいでした。
聞き手
あさひ避難所には備蓄はなかったのですか。
高さん
そうです。物資が届くようになったのは3日の夕方から4日くらいかと思います。
最初は宝立小中へ物資を取りに行っていたのが、そのうちあさひ避難所にも持ってきていただけるようになりました。800人いた宝立小中の避難所は、一日の晩から二日の朝や昼にかけて、食料や飲み物は、結構、苦しい思いをされていたと思います。
私たちは少人数だったもので、皆さんが持ち寄った食料に加えて、有志の奥様方の炊き出しで食べ物に困ることはありませんでした。
聞き手
避難所は今どういう状況でしょうか。
高さん
公民館にまだ数名いらっしゃるのと、この前の豪雨で、市内全体ではまだ避難所にいらっしゃる方がおいでるはずです。うちの応急仮設住宅も、あと少しで床上に水が乗るところでした。
消防団、自主防災組織の活動状況
聞き手
自主防災組織と消防団との関係はどうでしたか。
高さん
消防団の活動については、うちの場合、今回は全員が集まることが難しかったですし、連絡を取り合うことができなかったので、組織としての活動というよりも、団員それぞれが自然にできた数人ずつのチームで頑張って動いてくれたということに尽きると思います。
普通は、分団長なり副分団長が指示を出して、誰それはこっちということで走るんですけど、今回の場合はもう、うちから出られる、出られないというところから始まっていますので、消防団というよりも、今まで消防団で一緒に頑張って来たみんな、分団OBの方々も、もう本当に使命感でただ動いてくれた。中には救えた命も救えなかった場面もあるかとは思うんですけども、分団としては、やれるだけのことはやったのかなという気はします。
私たち消防団はもう救助と火消しに回るし、自主防災組織の方々は、避難所の人を移動させたり物資を出したりということで、各々で動いていらっしゃると思います。一緒に活動という形には、今回の場合はできなかったです。
聞き手
震災前の想定ではどうなっていたのでしょうか。
高さん
避難訓練で、消防団は後方に回るとか、それぞれ役割を決めてやっていました。津波を想定した避難所、今回は天井が崩れて使えなかったところへ、まず私たちが一回行って確認をしたり、人数の確認をしたりという訓練の打合せは、いろいろあったんですけど、今回はもう、各々みんな頑張ってできることをやったというか、統率を取ってやるような状況ではなかったです。
聞き手
避難所の運営はどうされていましたか。
高さん
宝立小中の避難所については、区長会とか区長さん方と、自主防の人たちがお手伝いをして、地元の有志の方々がいろんな活動をしてくれていました。
私も実際には、震災のときは区長ではなくて、2月1日からバトンタッチしたような形なので、今まで、区長としての防災にはあまり関わっていなかったんですが、防災訓練となると必ず消防団も出ていますので、そちらの立場では関わっていました。
やっぱり訓練があったから、みんなで高台を目指したんだろうし、各々、この地区の人はこの施設という形で、大体みんな頭の中にあったというのは、うちの団員も言っています。消防団員もばらばらの地区に住んでいますので、自分たちの地区、宝立町の中でも小さいいろんな町会の中で、いろんな形で動いたというようなことも聞いています。
聞き手
震災の前にこれをしておけばよかったということはありますか。
高さん
人を逃がしたり、避難誘導したりという訓練は、今まで何回もやっているんですけど、建物に押さえ付けられた人間を引き上げる訓練なんて、消防団員はやったことないです。私も初めてやりました。
だから、まずバールの1本も、のこぎりの1本もない状態からのスタートなので、みんな手でかき出すくらいのところから始まっています。
1人目の救助のころは何もなかったので、手で瓦を下ろして、その辺にあった瓦礫の木材をてこにして出しました。重い建物がのしかかっているところは車載のジャッキを使って、少しずつ浮かして引き出すという状況でした。
そんな訓練なんて、レスキュー隊と違って、私たちは全く受けていなかったんですけど、消防団員だけでなくて、消防団OBの60代後半の方や、帰省中の20代、30代の人がみんな頑張ってくれたんです。消防団員じゃなくても、地元の方で家からチェーンソーを持って出てこられた人もいました。
鵜飼分団が関わって、生存された方を救出できたのは22、23人かなと推定しているんですけど、多分、帰省中の若い人たちが救出した方も入れるともっと人数は増えてくると思います。
本当に、うちの娘も言っていたんですけど、防災用のリュックに水やズック、いろんな物を入れてというのも、建物が残っているところなら、それを背負って出られるんですけど、今回のように家がぺちゃんこになっているところは、そういう物を持って出ることすらできなかったです。何か必要な物とか今まで使っていた物とかも、家の中に入って確認することもできないところもあります。
もう10か月になって、あのとき頑張ったのは何だったのかって思うけども、たまに町でそのときのおばあちゃんに会うとやっぱり喜んでくれるし、それに尽きるのかなという気はしますね。
娘からは、自分が最初に外へ出て、家の1階部分が押し潰されるのも全部見てから、自分が別棟の建物の下敷きになってしまったので、自分だけが生き残って家族は全員死んだのかなって思ったという話を後で聞きました。
もう一つ、これだけ道路が寸断されていると、救急車はほぼ駄目でした。私の活動では、10人を建物の倒壊のところから出したんですけど、そのうち3人は冷たくなられていました。あとの方も、3人は救急車を呼んだけども、現場まで来れないということでした。うちの場合は、二日の午後になっても救急車が来てくれなかったので、バイパスの橋の段差の解消が確認できた時点で、一時避難場所の近くの道路の亀裂は、スコップで、砂利で埋めなおしたりしながら、自家用車で負傷者を病院まで搬送しました。ほかの方も、明るくなっても救急車が来なかったので、道路をあちこち迂回しながら病院に向かったと後で聞きました。
人がたくさんいるところには消防署もあって、消防車もたくさん配備されているんですけど、人口が減ってきたところになると、だんだん消防本部も遠く行って、救急車の台数も確保ができなくなってきている状況で、こんな震災が起きたので、もしかしたら救えた命もあったかもしれないというのは、やっぱりあります。
人間、飲まず食わずで閉じ込められたときに、72時間以内に救出ということで、よく72時間の壁といいますが、今回、72時間のうちの20時間は、消防団員とか地元の人間だけでした。夜が明けかけたくらいのときに、自衛隊のオートバイの部隊が少しは入ってきたらしいんですけど、オートバイの部隊はそこまで救助の装備は持ってないですし、結局は2日のお昼前くらいに、少しずつ市外、県外から応援隊が入ってきた形なので、72時間のうちの20時間は、この珠洲の人間、宝立町の人間だけで頑張っていたということになります。
3日、4日くらいになると、中部ブロックの愛知県、静岡県、富山県、福井県、岐阜県の皆さんにどんどん入ってきていただいて、その時点で、私たち消防団員は救助に向かうところの案内やお宅の確認に分かれていきました。4日、5日くらいになったら、ほぼ応援隊の皆さんにお任せして、みんな、それぞれの生活というか、自宅に戻れた人間は、うちの分団はほぼいないので、皆、避難所に行きました。
東北の震災のことを思えば、被害の度合いは比べようもないくらい少ないかもしれない、被害に遭った人の数も多くないのかもしれないのですが、助ける側の人間の数も少ないので、もしかしたら救えた命がもっとあったのではないかという気持ちはあります。
みんな使命感だけで動いていたような感じです。知り合いの人もたくさん亡くなっていますし、一緒に消防団の活動を頑張っていた先輩も亡くしてしまいました。助けたというよりも助けられなかったところがたくさんあったという気持ちのほうが、やっぱり強いです。

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