体験を語る
- 避難所・避難生活
区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月2日 |
地震発生当初の状況
聞き手
被災直後から避難所を開設するまでの状況を教えてください。
前川さん
1月1日の16時すぎに地震が起きました。1回目の地震は「また来たか」と思いましたが、2回目が長くて大きな地震でした。
私はたまたま自宅にいて、今からテレビを見ながら酒を飲もうと考えていましたが、地震で家中がガタガタになり、そこへ「津波が来るから皆さん避難してください。志賀小学校に避難してください」と放送があり、私は家族と一緒に車で小学校へ向かいました。
道路の亀裂や橋は段差になっていて、それを乗り越えてようやく小学校に着いたのですが、渋滞していて入れませんでした。
しばらくして近所の方と携帯電話がつながり、「やすらぎ荘が避難所になったから、やすらぎ荘へ来てくれ」と連絡があって、嫁さんと長女と母親は小学校で車中泊することにして、私はやすらぎ荘へ行って、集まった方々を確認しました。
また、区のほうから「1月1日から区長となるので、ここの責任者に」と依頼され、責任者として避難所を運営しました。
やすらぎ荘は、被災当日は休みの日で鍵がかかっていて開けられなかったので、別の方が窓を割って中へ入ってから玄関の鍵を開けました。
最初は若い方からお年寄りまでの80名くらいの方が避難してきました。 雪はなかったものの、1月1日のため寒かったんですが、幸いなことに建物は空調、いわゆる電気が大丈夫で、これが本当に助かりました。
避難所の運営
聞き手
電気が通っていたということですが、水道はどうでしたか。
前川さん
水道は完全にダメでした。最初の内はトイレも使えましたが、地震の影響で排管がやられて溢れてくるため使えなくなりました。
聞き手
トイレが使えなくなってからはどうされたのですか。
前川さん
役場に伝えて、少しして簡易トイレを4つ外に用意してもらいました。トイレを流すための水や手洗いの水は、我々が井戸から汲んできました。
もう1つ助かったのは、飲料水を寄付してくれる方がいたことで、それは本当にありがたかったです。
聞き手
ボランティアの方なのでしょうか。
前川さん
個人の方もいれば、グループで水を持ってきてくれる方々もいましたが、ボランティアの方なのかは分かりません。2日の朝4時ぐらいに東京から車で来た方もいました。
私はずっと地震関連のメモを書いているのですが、1月1日はすぐ夜になって、ほとんど何もできませんでした。
聞き手
1日は避難者の把握を行っていたのでしょうか。
前川さん
そうです。名前などを把握して部屋割りを行いました。大広間に70人ぐらいはいたと思います。ガラスが割れていた部屋も使いました。
聞き手
ガラスが割れたままで使われたのですか。
前川さん
段ボールで塞ぎました。でも、それだけでは寒いので、あまり寝られないという方もいました。
聞き手
寝具はどうされていましたか。
前川さん
やすらぎ荘にも少しありましたし、家から持ってきた毛布もありましたが、暖房が効いていたので、羽織るものさえあればなんとか寝られるという状態でした。
聞き手
初日の食料はどうされましたか。
前川さん
まず夕食と朝食が必要なので、近くの家から5人用ぐらいの炊飯器を持ってきてもらいました。農家が多くて、米があったので、米を炊いておにぎりにして食べましたが、1人1個で我慢してもらいました。
自宅や周りの道なども心配で、いろんな人が集まってきて、寝るに寝られないという状況でした。
聞き手
横になって寝られるスペースもありましたか。
前川さん
みんな畳で雑魚寝していました。ただ、電気が通って空調があるだけありがたかったです。
聞き手
テレビなどで情報収集はできましたか。
前川さん
はい。テレビをずっとつけっぱなしで、情報収集の面ではテレビが一番有効手段でした。
携帯電話がつながったので、友達や知り合い、親戚から「大丈夫か?」などたくさんの連絡が来ました。その時は大変だからと連絡がなかった方からも後で連絡がきたこともありました。
電気と携帯電話がつながっていたことが非常にラッキーでした。色々と不便な面はありましたが、他の避難所では電気が通じないとか、寒くていられないという話も結構聞いたので、そういう面では恵まれていたと思います。
聞き手
やすらぎ荘に備蓄はありましたか。
前川さん
なかったです。ここは避難所というよりも、一時滞在目的で使用していました。本来はこの地区の下甘田防災センター(旧下甘田保育所)がメインの避難所で、ここはその付属で、近所の方々を集めるという形でした。
聞き手
80人の避難者に対して、この建物は十分な広さでしたか。
前川さん
不十分でした。50人程度の広さかなと思います。元々ここは泊まるための施設ではなくて、大広間があるので泊まれるのでは、と言われますが、実際にはそんなことはありません。ここを1ヶ月ほど使いましたが、だんだん避難者も減っていき、最終的には30人ほどになりました。
聞き手
やすらぎ荘から出られた方々は自宅へ戻られたのですか。
前川さん
自宅へ戻った方もいますが、親戚の家や他の避難所へ行った方もいます。
聞き手
倒壊した家はありましたか。
前川さん
ありました。ただ、私の家もそうですが、すぐに倒壊したのではなく、一部壊れていても、まだ使える場所もあったので、そこに居ようと思えば居られました。でも、みんな余震が怖いため、避難所に居た方がいいと考えたのだと思います。
もう一つは食べ物。ここの避難所へ来ると、ありがたいことに朝昼夕の3食、自衛隊が食料を運んでくれたので、助かりましたね。
聞き手
被災後何日で自衛隊の支援は来ましたか。
前川さん
自衛隊が来たのは1月5日ぐらいです。それまでの食料は、私達がかき集めたり、1月3日からゲンキーというドラッグストアが開いたので、朝早くから並んでパンなどを買いに行ったりしました。
聞き手
ゲンキーのある地区にも電気は通っていたのですか。
前川さん
電気は通っていました。
聞き手
基本的には食料はご飯とパンですか。
前川さん
おにぎりやお菓子、カップヌードルなどを持ってきて下さる方もいて、それらの差し入れをみんなに配れたので、大変助かりました。
聞き手
1日3食は食べられていたのですか。
前川さん
基本的に3食出していました。実際は役場で用意をして、自衛隊が決まった時間に配ってくれていました。事前に、こういうものが何人分欲しいと依頼すると、それに合わせて持って来てくれていました。
聞き手
お風呂はどうされていたのですか。
前川さん
本来はここが温泉場なのですが、基本的に着の身着のままで避難したため、ペットボトルの水を少し出して顔を洗い、あとはウェットティッシュなどで体を拭いていました。
被災後2週間ほどで町の温泉施設に順番で入れるようになったので、券をもらって入りに行ったことはありました。お風呂はみんな我慢していたと思います。顔を洗ったり、歯を磨いたりというのは最低限必要なので、もらった水が大変役に立ちました。 わざわざ小松市からたくさん持ってきてくれたりして、すごく助かりました。本来は町役場を通じて送らないといけないのですが、すぐに必要だろうということで、直接持ってきてくれたんです。町役場を通じてお礼は伝えてもらいましたが、本当にありがたかったです。
聞き手
断水中でしたし、水は重要でしたか。
前川さん
様々な面で水が一番重要だと思いました。今回はたまたま電気が通っていましたが、本来は電気と水があればなんとかしばらく暮らしていけるかなというイメージですね。
聞き手
冬という季節は関係していましたか。
前川さん
例年は、1月は寒くて雪が積もっていますが、雪がなかっただけでもだいぶ違いました。
聞き手
当時は新型コロナウイルスが流行していたと思いますが、どうでしたか。
前川さん
この談話室をコロナの隔離部屋にしていました。それから入口に手洗い、除菌、マスクをしてくださいと注意して、ものすごく衛生面には気をつけていました。
ところが、1月3日のお昼に突然、ある方がマスクや手洗いもしないで入ってきて、集まっている人達のところへ「皆さん大変ですね」というふうに声を掛けに行ったんです。その翌日に一気にコロナ患者が出ました。
その後も国会議員や町長などが来て、「皆さん大変ですけど、我々一生懸命頑張ります」と言うんですけど、冗談抜きで来ない方がありがたかったです。
お付きの人が大勢来る国会議員もいて、玄関だけならまだ良かったのですが、全ての部屋へ入っていき、コロナの患者も出て大変でした。
普通の病院には連れて行けないので、遠くの病院へ車で連れて行ったり、感染対策のために隔離しないといけませんでした。寒い中、1時間おきに窓を開けて換気やアルコール消毒をしました。
役場の対応もちょっと遅れていて、コロナに罹った方を集めて他の所へと言って、どうやって連れていくのかと思いましたが、なんとか収めたんです。
病院関係の方、自衛隊、警察とたくさんの方が来ましたが、いかがかと思ったのが、報道陣でした。私はテレビ、新聞関係はアポを取らないといけないと思います。一番驚いたのは小松から来た方は取材させろと、タクシーで横付けされたことです。突然来られても対応できませんし、他にも大変なところはあるので、別の場所を紹介しますから、そこへ行った方がいいですよと話をしました。
本当に助かった良い面もたくさんあれば、そういう困った面もありましたし、失礼ながら、ありがた迷惑というところもありました。赤十字の方や病院の先生など、いろんな方が順番に来ると、必ずそこへ行かなといけないので、ゆっくり休んでいる暇はなかったです。だから、良い面もあれば悪い面もあったというのが私の正直な感想です。
全体を通じて思うのは、今もですが、「辛抱」これが1つです。いつ、何にしても、いろいろ言われたりすることを辛抱しないといけないからです。 もう1つは「感謝」です。本当にありがたいことに、この場所を提供してもらって、多くの方にいろんなものをいただきました。大学の友達から草木染めで「頑張れ」と送られてきました。他にも、義援金や、飲み物、食べ物も含めて本当に感謝しかないです。
聞き手
医療関係者も来るタイミングや、来る回数というのも難しいですね。
前川さん
難しいと思います。ほぼ毎日、多い時は1日に3、4回も別の人が来るんです。他にも県や町、赤十字の方と、毎回その対応だけでも大変です。
今回助かったのは、地区の役員の方々に色々と手伝ってもらったことです。これを運んでください、ゴミを出してください、空調やトイレ関係をやってくださいというふうに色々手伝っていただきました。
やすらぎ荘には約1ヶ月いましたが、地震のおかげという言い方は変ですけども、本当にすごく良い経験をさせてもらえたなと思っています。普段会えないような方や、皆様方にもこうやって会えていますし。
聞きたいことがあると言って、フランスの写真家が来たことにはびっくりしました。何を聞きたいのかもよく分からなくて。地区のことなら答えますが、原発をどう思うかなどは申し訳ないけど、町役場の方に聞いてほしいと伝えました。東日本大震災の原発のイメージを持っていて、それと比較するために聞いてきているのかなと思いつつ、下手なことを言えないので、申し訳ないけどそれは答えられないと伝えました。
いろんな人に会えて、いろんな経験もできましたが、次にそれを活かせるかというと分かりません。17年ほど前の能登半島地震も経験しているんですが、当時は会社にいたので会社を回すのが大変で、こういう避難所もなかったですし、被害も今回より小さくて、壊れた家も地区で2軒程でした。
でも、今回は私の家も含めて、広範囲で今まであったものがなくなりました。何十年も過ごした家がなくなって吹きさらしのようになり、残っていたものが全部捨てられました。こんな寂しいことはないですが、乗り越えないといけないと思います。
聞き手
新型コロナやインフルエンザへの対応は非常に苦労されたということですが、他にもペットや赤ちゃんの部屋分けのようなことはありましたか。
前川さん
部屋は何箇所かに分かれており、ペットは基本的にお断りしていましたが、1人だけ、どうしても犬から離れられないとおっしゃる方がいて、ずっと犬を外に繋いでいました。犬が鳴いたりして、他の所に迷惑をかけているという話も聞きました。
子どもはあまりいなかったです。最初はしばらく小さいお子さんがいたんですが、迷惑になるだろうということで、他のとこへ行ってしまいました。やはり住み分けは難しいです。 部屋をダンボールなどで仕切っていたんですが、「うるさいからあっちへ行ってほしい」「あの人なんとかして」「イビキがうるさい」「朝早くからウロウロしている」とか私へ個別に言ってくるんですよ。
聞き手
そういうトラブルは多かったのでしょうか。
前川さん
どこも大なり小なりあると思いますが、ここや下甘田防災センター(旧保育所)は少なかったと思いますし、良い方だと聞きました。 他の避難所では、空調が利かなくて寒いとか、食べ物やトイレなどの文句が山ほどあって収拾がつかなかったという話も聞きます。役場の職員も色々と苦情をお聞きしたそうです。
聞き手
役場の方々も大変ですよね。
前川さん
本当にありがたい反面、もうちょっと上手くやって欲しかったということもありました。良い人がほとんどですが、直接水を持ってきてくれた方に「直接持って来られると困るから帰ってくれ」と言った方がいるんです。そういうマニュアルができていました。
聞き手
ちゃんとその通りやらないといけないという考えからでしょうか。
前川さん
それは分かるんですが、好意で持ってきてくれたのに、そんな言い方はないですよね。
基本的に良い人ばかりですが、一部、融通の利かない言い方をする方もいます。こういう緊急時では特例的に対応していかないとうまく回らないと思います。
聞き手
マニュアルなどがあっても、緊急時に使えるかというのはまた別の話ですね。
前川さん
災害対策マニュアルやBCPはご存知ですか。BCPはビジネスコンティニュープラン、災害時になんとかやっていける、乗り越えていける、対応していく、復旧していく、そういうのを企業に当てはめますが、実際は一般にも全部当てはまります。
こうすればいち早く復旧する、被害も少なくなるという事前の準備が基本にあり、災害の状況、いつ何時にどのような天候かによって全部変わってきますが、防災訓練をやっておくと、みんながある程度応用が利きます。
何もしないで、どうしたらいいかと右往左往するよりは、いざという時に動けます。町でも災害対策マニュアルがあり、それに準じて動いていたと思いますし、今もやっているはずです。コロナ患者がでた時はどうしたらいいのかということや、本当は防災訓練も年に1、2回やればいいと思います。
聞き手
この書類のメモは当時の状況を書き記してあるのでしょうか。
前川さん
当時の状況は基本的にここに1月1日から記録していました。
聞き手
こちらは自主的に書くようにしていたのですか。
前川さん
そうです。書いていても忘れることがあるので、誰がいつ来た、何があったということを毎日のように記録していました。
最終的に、2月5日にこの避難所を閉鎖しましたが、状況、電話番号、誰から何をもらったかなどが書いてあります。
野々市のナガイさんという方は、被災した翌日5時に水などを持ってきてくれました。
何故うちの避難所なのかと思って聞いてみると、その時にはインターネットに町内の避難所の一覧が出ていて、ここが一番先に出てきたようです。これが本当に助かったんです。水や菓子パン、トイレットペーパーや、バナナ一箱などたくさんです。
聞き手
キッチンカーなども来ましか。
前川さん
キッチンカーも何台か来ました。寒い中炊き出しに来てくれてありがたかったです。たくさん持ってきてくれて捨てるのも忍びないので、最後はみんなで「食え、食え」と2人分ぐらい食べさせたりしました。
お金をいただいたこともあり、そのお金の一部でここにあるマッサージ機を1台寄付したというのもあります。
大学の友達からいただいたものも大事に取ってあり、覚え書きと言いましたが感謝のノートです。大事な記録ですし、これを次にどう生かすかです。
だからあなた方がこういう話をまとめて、さっきのマニュアルなどを整備していただけたらと思います。
日本は地震大国ですし、南海トラフ地震がすぐ起きると言われているので、その時にどう生かしていけるかだと思います。我々はこういうのをできるだけ、次に活かして、少しでも災害を小さく、復旧を早くしていただきたいです。
もう1つ個人的に悔しいのは、やっぱり復旧が遅いことです。
国が、やると言いますが結局やれていないです。全部、県や町で制限がかかってしまいます。お金1つ出すにしても、多くの書類を提出するなど時間もかかります。
やはり復興なので、国の責任者が来て、特別にお金を出しますということをしないと進まないと思います。本当はうちよりも輪島市や珠洲市などの奥能登がもっとひどい状況なので、そこを復旧させないと、どんどん人口が減っていくと思います。
聞き手
真の意味での復興というのは、全体ができて初めてということでしょうか。
前川さん
東北がすごく時間がかかっているというのは、経験して初めてわかります。いろんな面で遅いです。いまだに1年8ヶ月前と変わらずに道路もガタガタしています。そこの山もそうですが、手つかず状態でいかがなものかなと思います。
聞き手
せめて普段よく使う道路だけでもしっかり整備してほしいですね。
前川さん
おっしゃる通りです。
あと、やはりコミュニケーションが大事だとつくづく思いました。特に防災面などで、今はもうないですがホワイトボードを置いて、そこに記録し、重要な情報は皆を集めて、こんなことをやりますから、皆さん注意してくださいなどと私から説明しました。
聞き手
普段のコミュニケーションも大事にして、非常時に協力できるようにしておかないといけないですね。
前川さん
その通りです。役場側から来る情報は、まずは我々のところに届き、それから下ろしていくという形を取っていました。ネット情報もありますが、お年寄りの多くはLINEなどを使えないですし、その辺の情報共有をうまくやらないと、不満も出てくるので、そういう面では安全とか安心面では重要かなと思います。
聞き手
広間で皆さんと情報共有をしていたのですか。
前川さん
そうです。食事をしたり、テレビで地震情報などをずっと流していました。 また、1週間ほどで段ボールベッドが届いたので、それを使っている方もいました。
聞き手
この場所で皆さんが生活していたのですね。
前川さん
住み分けが難しく、広い部屋がいいという方や、狭い部屋がいいという方もいましたが、我々が言うと良くないと思い、それをみんなに任せていました。
テーブルに食事や、いただいた物などを置いて、好きなものを食べてもらったり、ホワイトボードで注意点などを周知したり、講師を呼んで元気体操などもしました。
困ったのはトイレです。外に仮設トイレを4つ設置してもらいましたが、仮設トイレまでが遠く、外へ出ないといけないので、雪が降っていると大変でした。
聞き手
お年寄りはトイレまで歩くのも危ないですね。
前川さん
そうです。流す水がないので、近くで地下水を汲みあげて持ってきていました。
聞き手
井戸水ですか。
前川さん
井戸水ではなく、飲めない農業用水だったので流す程度でした。
聞き手
水を運ぶのに結構人員を割かないといけませんでしたか。
前川さん
軽トラに積んでいました。また、途中から愛知県の職員の方が2名ずつ1週間ごとに来てくれて、その方達は「寝られるだけで幸せです」と寝袋で寝泊まりして手伝ってくださりました。
聞き手
ガスは使えましたか。
前川さん
ガスも使ったし、電気があったので炊飯器などが使えて、お米を炊いて、おにぎりを作っていました。
聞き手
塩むすびですか。
前川さん
おにぎりにはいろんな具を中に入れて、ロシアンルーレットのようにしていました。何が入っているか、チョコレートが入っていたらどうしようとか言っていました。
聞き手
ささやかな楽しみになりますね。
前川さん
本当に。残った物をここに置いておくわけにはいかないので、最後は水やカップラーメンを最後に残った人に分けました。
聞き手
ご飯は足りていましたか。
前川さん
最初の頃は無かったです。その時はもう大変で、特にコロナ患者が出てからは誰がどこの部屋に入るかというのが悩ましかったです。
聞き手
コロナ患者の隔離部屋はずっと維持されたんですか。
前川さん
2週間ほどです。1月5日頃に患者が出て、そこから2週間ほどでコロナは収まりました。インフルエンザはなかったです。お医者さんが毎日のように来てくれたおかげかもしれませんが、それ以降は病気などもなかったです。
地区の見回りや防犯について
前川さん
最初、我々は何に気をつけたかというと、1月2日朝に家や道路などの安全確保のため、3チームに分かれて皆で確認に行き、危ない所にはピンクのロープを張りました。
ここにいる方々を集めて、地図を囲み、この道路は陥没しいて通れないので、家に行くのはいいけど、気をつけて行ってくださいというのを話し合いました。
もう一つは防犯についてです。家が空きっ放しなので、富来の方で、泥棒が出て鉄くずを盗んだという話を聞いて、やっぱり抑止として、こっちでも対策しないといけないということで、地震後にチームを組んで、時間を決めて、夜中に地区を回って泥棒対策をしていました。
聞き手
見回りはいつまでされたんですか。
前川さん
最初はやっぱり皆さん避難所に来て家が空いているので、夜中に時間を決めてやっていましたが、1週間でやめました。 1月2日の朝早くに、男性一人で四日市から車で来て、「何かご用はないですか」と言うんでびっくりしました。興味本位の泥棒ではないかとみんなで噂していました。
聞き手
ボランティアでしょうか。真相は分からないですね。
前川さん
残念ながらそういうことがあり得るということです。悪意を持ってやられた日には大事なものを取られてしまうので、そこは注意しないといけないなと思いました。
聞き手
被災されて一番大切だと思ったのはなんでしょうか。
前川さん
本当は電気も大切ですが、私はやはり水だと思います。あとは皆さんの助け合いです。未だに助かっている部分はありますし、皆で乗り越えていかないといけないとつくづく思います。 色々と持ってきていただいた方や激励していただいた方に対して、元気になっていくことでしかお返しする方法がないです。
地震後の暮らしについて
聞き手
現在はお1人で住んでいるのですか。
前川さん
家族と仮設住宅に住んでいます。近所の方も住んでおり、そこでまたコミュニティができて、この前も飲み会がありました。良い面もあれば、隣の物音が聞こえるということもやはりあります。この前も大雨があってうるさかったです。
聞き手
生活音は気になりますか。
前川さん
朝の4時から新聞が来たり、ゴミを出したりという方もいますが、仮設住宅でもなんとか暮らせています。
聞き手
私は、富来の赤崎地区の街並みを残したいということで、研究しているのですが、やはり地震で人口は減少していますか。
前川さん
うちの地区は36軒ありますが、今、家を壊して建てるまでの間、仮設に4、5人、それとアパートなど賃貸にも4、5人住んでいます。最終的には家を壊して、金沢に中古の家を買って住むという方もいますので、人口はだいぶ減るんじゃないかと思います。
また、ここで家を建てようとしても高いです。具体的には、地震前までは平屋建てで坪80万円と言われていましたが、今は坪120万円ほどで、しかも元々が田んぼで、液状化によって地盤が緩んでいるので、杭を打つのにもお金がかかって建てられないという点があります。だから、私はどうするか悩んでいます。
聞き手
新しく家を建てるのは厳しいでしょうか。
前川さん
建てる人もいますが、液状化の検査の関係もあるので、悩んでいる人は結構多いです。いま住んでいる仮設住宅がコンテナで運べるので、土地があるからそこへなんとか運べないかと役場に相談したこともありますが、10年ほどしか使えないと言われて、何をするにしても非常に悩ましいです。
聞き手
もっと大々的に補助を出してもらいたいですか。
前川さん
補助は結局補助でしかなくて、基本は自分で出さないといけないんです。
それから、参考までにお話しすると、火災保険でも、私が入っていたものは、火災だと全額出ますが、地震では半分しか出ません。尚且つ、自宅は大規模半壊だったので、さらにその半分となって、4,000万円の保険に入っていたら1,000万円しか出ないんです。最近は、地震で保険が出ないものが多いので、お金がかかることは悩ましいと思います。
聞き手
地盤などの点でどうしようもないこともありますよね。
前川さん
すでに建てた人もいますが、地盤の関係で、当初想定していた予算の倍ほどかかったという話も聞きます。
今後について
前川さん
物価がどんどん上がってきているのに政府は全然対策を取ってないと思います。国民のためにやらないといけないのに、自分達の目先の利益だけを考えているような政治家は変だなとつくづく思いますので、若い方がそういうのを変えていってください。
選挙もさることながら、いろんなことを知り、働きかけないとダメです。こういう災害時は特に問われますし、熊本の災害にしても、まだまだ足りないと思います。
参考までに、町の区長会の会長も今年からやっています。それも順番でやっているんですけど、これもいろんな経験をさせていただきました。やっぱり前向きにね。
聞き手
プラス思考ですね。
前川さん
こういう良い経験をしたから次に活かせるとか、そういう風に持っていかないといけないと思います。だけど、やっぱり1人のやれることには限りがありますので、そんなのは周りに協力をいただいて。
聞き手
区長会会長として、他の地区の情報で、見聞きしたこと、参考にされたことがあればお聞かせください。
前川さん
志賀町は、富来方面も被害が大きいですが、当地区もひどいと思います。場所によって色々と差もありますが、皆の不満を聞いて納得できるようにしていくしかないと思います。
ただ、能登半島全体で見ると、珠洲市や輪島市、能登町はもっとひどくて、手を付けられていないところがいっぱいありますが、残念ながら我々はそこに応援はできません。
だから我々はやってもらってありがたいなと感謝して、「他にどうですか」と聞かれたら、「我々は助かっているので奥能登をもっと支援してあげてください」と伝えています。
でもそれはやっぱり国のトップダウンでやっていかないと、町や市に任せてもできないんです。やっぱり1日でも早く復旧して、移住という選択をしなくて済むといいです。みんなここに住みたいんですよ。そういう形に是非ともしてほしいなと思います。
今回のインタビューをお受けしたのも、こういう記録が次の代に繋がって、若い方に、災害に対応できるシステムを作るなどしていってほしいと思っているからです。すぐには無理ですけども、1歩1歩でも是非ともやってほしいです。
聞き手
責任重大です。
前川さん
プレッシャーを感じる必要はないんです。気持ちの持ちようで違いますから、悩んで、ネガティブでいるよりも、ポジティブでいればみんな助けてくれます。

伝える
- 体験を語る
-
避難所・避難生活
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
小橋敦郎さん
「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
-
行政
-
輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
-
輪島市復興推進課(当時)
-
消防
-
七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
-
七尾消防署 署長補佐
-
警察
-
医療機関
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
-
教育・学校
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
-
企業・団体
-
ボランティア
-
関係機関が作成した体験記録

