体験を語る
- 県民
高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年11月27日 |
地震発生当初
聞き手
発災当時の様子と、その後どのように避難されたか、教えてください。
佐小田さん
1月1日は、どこにも行けなかったので、家族みんなで車中泊しました。2日に、周りの住人をみんな集めて、これは危険だということで、5年以上使っていない集会所で、水も電気も来ていなくて、汚かったんですけど、みんなで掃除して、避難しました。全部で24人だったと思います。ところが、2日の夜に雨が降り出して、雨漏りしたので、雪があって非常に危険でしたけど、3日に屋根に上って瓦を直して、雨漏りを止めて、8日まで過ごしました。その間に、もともと状態の悪いお年寄りが1人、4日か5日に亡くなっています。
その方を連れていってもらえないかって連絡をしたんですけど、天候が悪くて駄目ということでした。それからたしか7日目に、一人で自宅にいた人が亡くなりました。集会所ではちょっと寝起きがつらくてできないというので、お年寄りが、1人でうちへ帰ったんです。次の日、朝になっても来ないなと思って見に行ったら倒れていて、そのときは息がありました。1台携帯電話が通じたので、救急車をお願いしたけど来ることができませんでした、今度は自衛隊のヘリを要請して、ヘリが来たのが2,3時間後ぐらいかな。今度は、天候が悪くて、連れていけない。ロープでつり上げようとしたんですけど、それもできないということで帰ってしまいました。そのうちに呼吸が止まってしまい、その間、4時間ぐらいみんなで交代して心臓マッサージをして、そうこうしているうちに、もう一回、自衛隊のヘリが来て、今度はその人ももう息が止まっていたので、自衛隊の人に死亡診断をしてもらって、あとは親族の方に見てもらいました。
鵜飼・能登町方面へ帰る人が3人いたのですが、もう孤立状態で、山が崩れちゃって、とてもじゃないけど、お年寄りとかは行ける状態じゃないし、下に降りるにも、上から行こうにも同じような状態でどこへも行けなくなった。急斜面の大きな岩がいくつもある所を乗り越えていったのですが、もしも、そこで地震がもう一回来ると、谷底に落ちて死んでしまうだろうなという状況でした。
話が戻りますけど、3日の日に、そういう状況でも、とにかく行かなきゃいけないということで、1人では危ないので、私ともう一人で、歩いて市役所まで、状況を報告しに行きました。
聞き手
どれぐらい時間がかかりましたか。
佐小田さん
歩いて2時間以上かかりましたね。私たちのところは、全壊のうちも幾つかあったんですけど、見た感じで崩れているものはあまりなかったんですが、鵜飼まで下りてきたら、ほとんどうちが潰れて、1階がないものもいっぱいあって、これは、うちの地区のことを伝えても、助けが来るのはいつになることやらと思いながら、市役所まで行きました。
4日には、帰省していた人を帰さないといけなくて、さっきも言ったとおり、鵜飼方面に行くのは絶対に無理だったので、山を駆け上って、反対側から帰しました。それも2時間かかって、道がないところを通って行ったので、夜暗くなると、帰れなくなるおそれがあって、本当に急いで、帰ってきたのは夕方の5時、あの当時はもう5時には真っ暗なので、ぎりぎり帰ってきましたね。
そのときは、7人くらいで行って、帰りは2人で戻ってきました。行けるかどうか分からなかったので、1回、下見に行ったんです。川があったので、チェーンソーを担いでいって、木を倒して橋を作って帰ってきました。チェーンソーが結構重くて大変でしたね。
その後は、飯田の緑丘中学校へ避難しましょうということになって、そこへみんなで避難しました。そこから、3日ぐらいして、金沢へ行くバスが出るという話がありました。
聞き手
2次避難のバスですか。
佐小田さん
とにかく行けば2次避難させてくれるという話だったと思います。それで、みんなに2次避難してもらいました。
聞き手
避難されたのはお年寄りですか。
佐小田さん
帰省していた人を帰すのと、お年寄りも行きました。みんな行って、残ったのは私と妻だけです。私と妻は、宇出津にいる娘のアパートへ避難していました。
聞き手
地震発生直後の、完全に孤立しているとき、食料や水はどうしていたんですか。
佐小田さん
食料は、正月だったので、みんなでお節料理などを持ち寄って、7、8日までもちました。途中から、自衛隊が食事とかも背負ってきてくれて、すごいなと思いました。水は、やっぱり困りました。雪を溶かして使いましたね。
聞き手
その水は何に使ったんですか。
佐小田さん
煮沸して飲み水にしたり、いろいろ使いました。
聞き手
トイレはどうされていましたか。
佐小田さん
トイレは、しばらくは、水を汲んできて集会所のを使いました。容量に限りがあったのでできるだけ外でしました。簡易トイレの備蓄もなかったですし、途中で自衛隊が持ってきてくれるまでは、外でするしかなかったでしょうね。
聞き手
集会所以外に避難するところはなかったんですか。
佐小田さん
その集会所、生活改善センターは、さっきも言ったように、5年ぐらい使ってないので、使えるのか、どうしようかという話になりました。近くに小屋ダムの事務所があって、県のダム事務所にも、避難できるか聞いたことがあるんですけど、狭くて無理ということでしたね。ただ、自家発電で電気もあったので、携帯電話はそこで充電させてもらいました。2階は結構広いんですけど、ダムの機材がいっぱいあって、そこに入るのはまずいな、やっぱり無理だなということで、集会所を使いました。
聞き手
生活改善センターは自主避難所ですか。
佐小田さん
そうです。
聞き手
みんなそこに集まってきたんですか。
佐小田さん
集まってきたというか、みんなで相談してそこへ行くしかないなという感じでした。
聞き手
宝立地区では、避難できるような場所はほかになかったんですか。
佐小田さん
災害訓練では、土砂災害しか想定してなかったんですよ。地震でうちが潰れるなんて考えなかった。もしも、土砂で道路が塞がったら、誰かのうちに集まるしかないかなって思っていたんです。ところが、うちが使えなくなってしまった。
聞き手
宝立小中学校が指定避難所ですか。
佐小田さん
宝立小中と、体育館もそうだったと思いますけど、その体育館が使えなかったんです。道が分断されて、私たちは孤立しちゃったので、集会所にしか行けなかった。その後、ヘリで隣の町の緑丘中学校に避難しました。
聞き手
ヘリがもっと早く来てくれればとは思わなかったですか。
佐小田さん
それはなかったです。しばらくは食料もあったし、和気藹々としていました。1回来ているのですが、そのときはちょっと避難できませんでした。そのときは、亡くなった人を運んでほしかったんですけど、天候も悪くて、なかなか来なかったですね。避難したときも、ヘリが来たのはいきなりでしたけど、もう、さすがにこんなところにいられないので移動しましょうということで、無理やりにでもみんな避難させたんです。
聞き手
残りたいという人も中にはいたんですか。
佐小田さん
どうしてもという方はいなかったですね。
聞き手
水が来ていない状態で、お風呂やシャワーはどうされていましたか。
佐小田さん
お風呂は入らなくても死なないですからね。みんな、1週間以上入っていないです。私は、気持ち悪かったので、川の水で頭だけ洗いました。すごく冷たかったですけどね。
後で、小屋ダムの事務所のお風呂が使えるというのが分かったんですが、そこも数人が入ったら、水がなくなって、三、四人しか入ってないかな。お風呂はそんな状況でしたね。
緑丘中学校へ避難して、2、3日目ぐらいからやっとシャワーを使えるかも、といわれて、そこでやっと入ったかもしれないです。それも人数がすごくて、順番待ちでした。
聞き手
発災当時、電気はどうでしたか。
佐小田さん
小屋の集会所にいたときは、電気がないので、懐中電灯とストーブが明かりでしたね。
聞き手
情報はラジオだけですか。
佐小田さん
情報は困りましたね、ラジオだけです。だから、何があるのか全然分からなかった。そのうち自衛隊が新聞を持ってきてくれたんですけど、3、4日前の新聞でしたね。あとは数人、auの携帯電話が通じたので、それを借りて、電話したりもしていました。
聞き手
こういう情報が欲しかったというのはありますか。
佐小田さん
あのとき、何が欲しかったかな。何も分からなかったですからね。大変なことがいっぱいあったので、亡くなっている人をとにかく運んでほしい、何とかしてほしいということしか考えられなかったな。あれだけ道が崩れると、直すのに何年かかるのかと思って、本当に絶望的でした。
聞き手
道が崩れて、行き来もできないっていうのはすぐ分かったんですか。
佐小田さん
集落のすぐ近くが崩れていたのですぐわかりました。私たちは、いろいろ出歩いたりして、この宝立小中の近辺がどうなっているかが分かりました。それが分からなかったら、もっと不安だったかもしれないですね。
聞き手
電気や通信が問題なく使えるようになったのはいつ頃ですか。
佐小田さん
まず道が直らないと、電気、通信は来ないですよね。道が直ったのが3月中旬ぐらい、その辺りから工事始まって、3月中にはたしか電気が来たような気がしますね。
聞き手
電話はいつ頃、回復したんですか。
佐小田さん
携帯電話は、4月前には通じていたような気がします。
聞き手
それだと、1月から4月ぐらいまで、携帯はほとんど使えなかったんですね。
佐小田さん
駄目だったと思います。中継局のアンテナに電気が来ていなくて駄目だったので、電気が来てから通じるようになりました。
聞き手
テレビはどうでしたか。
佐小田さん
テレビは見られなかったですね。電気が来ても、ケーブルテレビの線をつないでくれないと映らないので駄目でした。見られるようになったのは、結構遅かったですね。
聞き手
洗濯はどうされていましたか。
佐小田さん
洗濯は、松波のコインランドリーへよく行きました。でも台数が少なくて、いつもいっぱいでした。あとは、アパートの近くに、自衛隊の給水車が来ていたので、そこから水をくみに行って、洗面器で、手で洗っていましたね。
聞き手
避難所には子供はいましたか。
佐小田さん
子供はいないですね。
聞き手
ペットはどうですか。
佐小田さん
猫を連れている方は1人だけいました。緑丘中へ行くときに、車に猫を置いていきましたので、私がたまに様子を見に行っていました。
宝立小中学校でのコロナ対応
佐小田さん
宇出津にいる娘のアパートで生活しているうち、1月19日だったか、区長会長から、宝立小中が大変だから手伝ってほしいと言われて、宇出津から毎日通いました。私はもともと医療職で、ちょうどコロナがはやり始めていたので、感染した方を小中学校の隣にある養護学校に移してもらいました。私が行ったときには、40人を切るぐらいだったと思います。
聞き手
コロナになった人のお世話をされていたんですか。
佐小田さん
そうです。元のところに戻ると、蔓延しちゃうので、様子を見ていたというか、食事なんかは私が運んでいました。
聞き手
日中は、避難所にいて、おうちに帰っていたんですか。
佐小田さん
はい。それが2月後半くらいまで続いたかな。そのうちに、妻の実家も電気が来るようになって、娘のアパートも狭いので、そっちへ移って、家の修理もしながら、宝立小中へ行って避難所のスタッフをしていました。
聞き手
距離はどれぐらいだったんでしょうか。
佐小田さん
道も悪かったので、宇出津からだと車で30分以上かかったかもしれないですね。
聞き手
コロナの対応をずっとされていたんですか。
佐小田さん
コロナとインフルエンザ。インフルエンザは結局、出なかったです。もう一つ、ノロウイルスが隣の町で出ていたのですが、出ると大変なことになるので、隔離というか、ほかの人と全く接しないように準備はしたんですけど、結局、それも出ませんでした。
聞き手
面倒を見る方々は、何人ぐらいのチームだったんですか。
佐小田さん
全体で15人ぐらい。コロナ関係の人が自分も入れて3人ぐらいでした。
聞き手
その人たちは、常にそれぐらいの人数がいたのか、交代していたんですか。
佐小田さん
入れ替わりです。最初は夜も受付のところに1人いたと思います。コロナ関係の人は夜の担当はなしでした。
医療関係の支援団体から、ドクターと看護師さんが、6、7人来ていて、だんだん落ち着いてきたので、2月いっぱいで引き上げていきました。
聞き手
コロナにかかった方は最大で何人ぐらいいらっしゃったんですか。
佐小田さん
最大のときには、私はいなかったんですけど、50人ぐらいいたらしいです。私が来たときには、ちょっと収まりかけで、40人ちょっと切るくらいでした。8部屋ぐらい使っていました。50人ぐらいいたときは、上の階も使ったそうです。
聞き手
そういう大変な状況で、区長会長さんから呼ばれたということですね。業務の中で大変だったことはありますか。
佐小田さん
いろんな人がいますから、なかなか言うことを聞いてくれない人もいましたけど、結構スムーズにいったかなと思います。
聞き手
コロナ関係者の役割はどんなことですか。
佐小田さん
コロナ関係だけですね。何をしていたかというと、感染した人には実質7日ぐらい養護学校にいてもらうので、部屋を案内して、荷物の受け渡しとかは、入り口に置いてくれたら、大体は連絡して本人に持って行ってもらいました。あとは食事の世話と、トイレ掃除は中にいる人に自分でやってもらって、必要な物品を隣の小中学校からその都度持ってきて受け渡しをしていましたね。
あと、小中学校のほうで朝礼をしていたので、こんなことに気をつけてくださいといった連絡を私たちが聞いて、掲示板に貼ったりしていました。
聞き手
薬はどうしていたんですか。
佐小田さん
必要な薬があれば、掲示板に書いてもらって、持ってきていました。そこまで忙しいわけでもなかったです。とにかく、ノロが出なかったのが一番よかったです。
聞き手
スタッフの方が感染しないような工夫は、何かされたんですか。
佐小田さん
私以外は直接対応しませんでした。私はもともとが医療関係者で、どうすればいいかは大体、分かりますから、一応、気をつけましたけど、そこまで気にはしていませんでした。
聞き手
気をつけることというのは。
佐小田さん
どこでも触らないとか、手袋、マスクをする。あまりひっつかないといったことです。大体は飛沫感染ですからね。
聞き手
トイレもスタッフ用と利用者用で分けていたんですか。
佐小田さん
別です。なので、あまり気にはならなかったです。実際うつることもなかった。
聞き手
コロナ対応は、いつまで続いたんですか。
佐小田さん
だんだん減っていって、4月頃にはもうゼロになったんじゃないかな。
聞き手
4月ぐらいにゼロになって、養護学校はもう使わなかったんですか。
佐小田さん
そうです。教育関係の施設なので、いつまでもというわけにもいかないですし。
聞き手
養護学校を運営しながら、一部を貸すという形でしたか。
佐小田さん
最初は、休みだったからか、生徒もいなかったけど、途中からいました。卒業式もしていたと思います。4月からはもう完全に戻ってきていました。
聞き手
学校からは、部屋の移動をお願いされることはなかったですか。
佐小田さん
移動はしなかったですね。最初から最後まで同じところを使って、最後は片づけて、みんな返しました。
聞き手
コロナの方の食事はどうされていたんですか。
佐小田さん
支援物資です。途中から夕食は自衛隊の弁当に変わりました。宝立はキッチンカーがよく来たので、それを持っていってあげたりもしましたね。朝食は、御飯やパン、カップラーメンとか、支援物資を使って、自分でやってもらいました。
聞き手
佐小田さんは、避難所の運営は、最初の集会所と、養護学校ということでよろしいいでしょうか。。
佐小田さん
そうです。最初の集会所と養護学校です。養護学校の方が大体4月ぐらいまでで、その前から、小中学校のほうも、みんなと一緒にお手伝いしていました。
聞き手
小中学校ではどういうことをされていたんですか。
佐小田さん
避難物資の管理とか、催物をやるときに学校と連絡を取ったり、色々していました。
聞き手
養護学校で、コロナの方を入れるときの部屋割はどうされていたんですか。
佐小田さん
男女別とか家族で、大きい部屋はパーティションで区切ったり、高齢の方はトイレが遠いと困ると思ったので、近いところに入れたり、そういうところは考慮しましたね。
聞き手
子どもだけ感染した場合はどうされたんですか。
佐小田さん
小さい子どもはいなかったんですが、親と一緒にしないといけないとは考えていましたね。
聞き手
部屋は十分あって、その中でやり繰りできたのですか。
佐小田さん
最初の頃は、それでも足りなかったらしいです。私が行ったときは、もう結構、余裕があったので、好きなように、振り分けもできました。
聞き手
スタッフ用の部屋も十分確保できたんですか。
佐小田さん
スタッフ用の部屋はないです。小中学校のスタッフも一緒に玄関にいただけですね。玄関は開けっ放しで、ストーブをたいても寒かったですよ。この間までやっていましたから、夏は暑いし。まさか、こんな一年近くやることになるとは。
聞き手
椅子ぐらいはあったんですか。
佐小田さん
玄関の靴置き場で、机や椅子を置いて、みんな座っていました。
聞き手
段ボールベッドが入るまで、なかなか感染症対策が大変だったという話も、他のところでお聞きしました。
佐小田さん
小中学校は、私が行ったときには、もうありました。当然必要だと思います。やっぱり、歩くと、ほこりが飛びますし、そこに菌が引っついていると思うので、危ないですよね。高さを上げないといけない。
豪雨について
聞き手
水害のときはどうでしたか。
佐小田さん
公民館の前はすぐ近くまで水が上がってきましたね。私が避難していた若山のほうは床上浸水になっちゃって、住むところがない。1週間ぐらいは、避難所に泊まったり、小屋の仕事場のほうに泊まったりしました。自分のうちは、水が来なくてトイレが使えないだけで、電気は来ていて、寝ることはできたので、そっちに泊まったりしていました。そのうち、ボランティアで泥をかき出してもらって、乾かすのに2週間ぐらいして、きれいになったところで、自分で床を貼って、一部屋だけ寝られるようにしました。床を貼るといっても、ただ、板を貼ってあるだけです。地震よりも水害のほうがひどかったですね。
聞き手
ほかの家庭はどういう状況だったんですか。
佐小田さん
近所の人も地震でやられて、3軒しか住んでないんです。隣のうちは、ちょっと小高いところだったんで大丈夫でした。その隣は、もう全然駄目で、うちよりひどくて、近所に使えそうなうちが1軒だけあったんで、そっちに今も避難しています。
聞き手
今はどちらに住まれているんですか。
佐小田さん
若山のほうで住んでいます。水が来てくれれば、道は多少ひどくても、小屋のほうに帰れるんですけど。
聞き手
仮設住宅には入れないんですか。
佐小田さん
罹災証明で、うちは一部損壊だったので、もうその時点で駄目でした。小屋で、うち入れると3軒だけ、半壊までいかなくて、仮設住宅に入れなかったんです。ところが、今度は、水が9月中には出るという話だったのが、いまだに出ない。そうしたら、私以外の人たちは、仮設住宅に入ってくださいということになって行ったんです。ところが、私は若山に避難しているので入りませんでした。
被災経験を振り返って
聞き手
今回の経験を踏まえて、思うことはありますか。
佐小田さん
まず道ですね。いまだにマンホールが飛び出ています。早く直さないと、これから雪が降って、除雪もできないけどどうするつもりなのか、あれぐらい、すぐにできないのかなって思います。道を直さないと何もできないですよね。
あと一番は、若い人がほとんど出ていってしまって、もうお年寄りしか残っていない。2、3年後には解体業者もいなくなりますよね。これから先、本当に誰もいなくなるのかなと思います。町として機能していけるのか。
お祭りもあったんですけど、キリコは全部海沿いに保管していたので、流されちゃって、もう文化も一緒に消滅です。とんでもない金額なんで、元に戻すのは無理でしょうね。それに若い人もいないので、運営することも難しいかなと思います。何か外からの手助けでできるのかどうか。
聞き手
将来の災害に備えて、こういうことに備えておいたらよかったとか、メッセージやアドバイスみたいなものがあればお願いします。
佐小田さん
とにかく一番困るのはトイレです。あと、自分で何とかしようという気を持たなきゃいけない。私のうちも、一部損壊と言われながら、結構傾いているんです。もう一回、大きい地震が来たら倒れるかなと思って、隣の大工さんに教えてもらって、今までやったこともなかったですけど、壁を作って、割れたところにコンクリートも入れて、自分で直しました。今、大工さんも、左官屋さんもほとんどいないです。あまり頼りにできない。別に、そんな立派なものでなくてもいいから、何とか住めるように、やろうと思えばできますので、自分で何とかしようという気持ちが一番大事かなと思います。

伝える
- 体験を語る
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県民
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珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」
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珠洲市宝立町区長会長
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学校
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企業・団体
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珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 - 珠洲市消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市飯田分団長 大丸耕司さん
「被災したスーパーの営業再開で地域の皆さんの生活の助けに」 -
珠洲市直消防団員 須磨一彦さん
「人手が足りない中、ガソリンスタンドの営業再開に尽力」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
「全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応」
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珠洲市総合病院
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関係機関が作成した体験記録