石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 県民

避難生活を通じて、防災の重要性を再認識

珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
体験内容
上戸町で避難生活を経験
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年11月1日

地震発生当初

まず上戸の保育所が避難所になったと思うのですけど、この地域の被害状況を発災当時から教えてください。

1月1日の発災時は、ここからもう少し山手のほうですけど自宅にいました。子どもや孫と家にいたんですよ。がががっと長い大きな揺れで、うわっ、これは大変だって、もしかしたら家も潰れてしまうのでないかと思って驚きました。しかし、あのとき全然動けなくて、ただ呆然と立っているだけで、潰れないことだけを祈っていました。それこそ、いつも訓練でやっているように机の下へ入ったりとかもしないで、突っ立っていただけでした。人間って突然に揺れると何もできないものだなって思いました。幸い家は潰れなかったからよかったのですけど、私の家族はみんな家にいたので、潰れていればただでは済まなかったはずで、潰れるかもしれないという恐怖は本当に計り知れないものでした。家の中はがちゃがちゃになり大変でしたが、それでも助かったって思いながら慌ててみんな外に出ることができました。
地震発生の晩から3日間は駐車場で車中泊をしました。地震によって、ここでは電気もない、水もない、トイレもできない状況になったので、長女の家族は2日の午後に高岡へ帰りました。12時間ほどかかったようです。4日には少し周りが見えてきて、近くの集会所に集落の人達が集まっているみたいだということで、1月4日の晩から約2週間、20日ころまで集会所での避難生活をしていました。
その集会所は、避難所になっていなかったのですけど、20人ぐらい避難しているので、市にお願いをして避難所と同じ扱いにしてもらいました。それからは、自衛隊の方が水とかパンなど食料を運んでくれたので大変助かりました。
集会所にいたのがどうして20日ころまでかというと、電気が来たのが16日ごろだったからです。電気が来たら、避難していた人達は次々と家へ帰りました。私達も家は危なくて入られないけど、家の横に車庫があって、一部損壊でしたけど、車庫に布団をひいて寝泊まりしました。冬なのでちょっと寒かったけれども、石油ストーブを焚いて過ごしました。避難所は有り難かったのですが、やはりストレスがちょっとあるから、電気が来てからは車庫での生活でした。
1月1日は隣の家に80歳を過ぎたおばあちゃんが独り暮らしをされていましたが、中に閉じ込められたまま、その家が潰れたんです。おばあちゃんの名前を呼んだら、潰れた家の中から声が聞こえて、何かの隙間の中に挟まっているらしいとわかりました。それから慌てて119番、110番に電話を掛けたのですが全然つながりませんでした。

電話が混雑していたということでしょうか。

110番、119番はなぜかつながらないし、携帯電話も最初は使えたんだけど、そのうち通信不能になりました。おばあちゃんを助けないといけないけど、重機か何かないと私達では積み重なっている建材などを持ち上げることはできなくて、どんどん日が暮れて寒くなってくるし、本当に困りました。
何とかしたいなと思っていたら、津波の警報が出たようで浜の方にいた人たちが、若い人たちも含めて10人ぐらい、私の集落へ逃げてこられました。その人たちのなかに建物の構造を知っているという大工さんがいて、何人か手伝いもして、戸を開いたり、塞がっているものを出したりしながら、家の中へ入っていき、おばあちゃんをおぶって大工さんが出て来られました。その時は本当にうれしかったです。
おばあちゃんを助けることができないままだったら、多分その夜は眠られなかったと思います。大地震でひどい目に遭ったけれど、隣のおばあちゃんが大工さんと協力してくれた皆さんのおかげで、助け出されたことが一番うれしかったです。

水が使えないつらさ

車中泊は寒かったけど、みんなで毛布をかぶりながら過ごしました。集会所でもみんなで力を合わせて生活していましたが、トイレは凝固剤を使いながら仮設トイレを使っていました。水がないので、トイレが使えない、洗濯ができない、風呂に入れない、こういったことがとてもつらかったです。
避難中は毎日、小学校の給水所へ水をもらいに行くのと、ストーブを焚くための灯油と食料を買いに行くことなどが主な日課となっていました。それと1週間に1度、土曜日に長女の住む高岡へ行って、銭湯に入って、コインランドリーで洗濯して、晩は長女の家に泊まり、日曜日の朝に帰って来るという生活でした。
3月の終わりぐらいにやっと水道が修理されました。しかし、水が来ても、さらに長い間水は使えませんでした。敷地内に水漏れがあったからです。業者に修理をお願いしても順番待ちでなかなか来てくれなかったので、知り合いの方に応急的に直してもらったり、ボランティアの方に来てもらったりして、ようやく水が使えるようになったのは4月20日でした。水が使えるようになって洗濯ができるようになったので、うれしかったです。でも地震で浄化槽がこわれているので、水が来てもトイレが使えない状況でした。また浄化槽に風呂の水を排水するので、風呂も入られません。トイレは結局ずっと仮設トイレで、6月に仮設住宅で、水洗のトイレが使用できたときは本当に涙が出るほど嬉しかったです。

仮設住宅に入られたんですね。

はい、小学校前のグラウンドに建てられた仮設住宅に入居できました。仮設住宅でトイレが普通にできるってこんなに有り難いことかって思いました。毎日トイレを使うたびに、いつも感謝していました。もちろん風呂も入れるし、洗濯もできるし、仮設住宅の有り難さをかみしめながら生活しています。

避難生活を通じて感じたこと

集会所と小学校と保育所が避難所になっていたということでしたが、集会所はもともと避難所に使う予定はなかったのですか。

私は避難所のことには直接関わっていなかったので分からないのですが、集会所(隨念生活改善センター)はもともと避難所に使うつもりはなかったようです。ただ、山手の人たちは、小学校とか保育所の避難所へ行くには随分遠いのです。車を持っている人はよいけど、車のないお年寄りたちは行けないので、みんな集会所に集まっていました。

保育所はもともと避難所に指定されていたのですか。

それも私は知らなかったのですが、旧保育所はもともと避難所に指定されていたわけではなかったようですが、大地震のあと上戸の方たちは、小学校と旧保育所に避難されていたようです。

追加で集会所が避難所になったということですか。

そのようです。発災後、数日過ぎてから山手の集会所に20人ぐらい避難者がいるので、避難所と同じような扱いをしてほしいと市へお願いをしました。

その集会所はどれですか。

隨念生活改善センターという集会所です。

避難所となっていた集会所(隨念生活改善センター)

この震災の前から、この地域で自主防災組織みたいなものはあるのでしょうか。

ずっと以前から上戸地区自主防災組織があります。

避難訓練など、何か活動はされていましたか。

私は今年度から区長会長として自主防災組織の本部長になっていますが、去年まではあまり自主防災のことには関わっていませんでした。でも上戸町では、例年、上戸地区自主防災組織として避難訓練や見守りマップ作り、各種会議など、いろいろと活動をしていたようです。ところが、これまでの防災訓練は地震や津波が起こったときにどう避難するかということが主でしたが、今回の地震のように家が潰れて道路が塞がってしまうとか、橋が壊れて渡られなくなるといういう想定はしていなかったので、実際にはあまり役に立たなかったという話を聞きました。
もう一つは避難した後のことで、避難した直後のことはいろいろ検討・協議していたようですが、長い期間の避難所運営などについては、これまであまり協議していなかったようです。このたびの大地震後の避難所生活では初めてのことばかりで、みんなすごく疲れました。私たちのたった20人ほどの小さい避難所でさえ、しかも気心の知れた人たちばかり集まっていてもとてもストレスがたまりました。それが、人数の多い避難所では本当に大変だっただろうなと思います。これからの自主防災の活動では、地震や津波を想定しての避難訓練ももちろん必要ですが、避難したあとの避難所生活のあり方などについても話し合っておくべきだと思いました。

集会所は、避難所としてはいつごろ閉じたのですか。

集会所の避難所は、在所に電気が来てしばらく経った1月20日ごろに閉じました。
また、小学校の避難所は3月中頃に、保育所は8月中頃に閉じたようです。

避難所となっていた旧珠洲市立上戸保育所(2025年1月7日撮影)


それから、私自身の反省をすれば、近年何度も大きな地震が来ていたのに、やはり自然の力をあなどっていました。私の一番の反省点は、5月5日にあれだけ大きい地震が来たのに、そのあとに家に筋交いをかけて倒れないようにするなど、もっとしっかりと耐震工事をしておけばよかったということです。箪笥とか本棚に突っ張り棒をするくらいはしていたのですが、駄目でした。大きい地震では、そのくらいの対応では全然だめでした。もっと真剣に大きな地震が来るという想定をした対策をしないといけなかったということです。
また、自主防災活動としては、まずは能登半島地震直後の避難行動のことや、その後の避難所運営についても検証をすべきだと思っています。今回の実際の避難所での経験などをしっかりと記録に残して、次の災害に備えないといけないと思っています。
実は、11月9日に避難所運営を検証する会を予定していました。ところが9月21日に大雨が降って、河川が氾濫して大洪水になり、そういう予定が吹き飛んでしまいました。畑や田んぼの中はみんな土砂や流木だらけで、家の中も泥が入ってぐちゃぐちゃになって、何もかも計画が後回しになり、まずは水害の復旧をどうするかということになりました。もう一回地震が来たみたいな混乱でした。
今度の水害では、がけ崩れ、土砂災害もひどかったです。竹中川も大氾濫して私たちの集落の景色が一変してしまいました。私の大好きなふるさとが、荒れ果てた景色になってしまいました。何で私たちだけひどい目に遭うのかって、何も悪いことをしていないのにって言っています。
地域の皆さんは心が折れそうになっていて、私も本当は心が折れそうなんですけれど、一応、皆さんに頑張ってやっていきましょうと言う立場なので、心を強くもって明るく前を向いて進んでいきたいと思っています。

災害を経験して

地震に続いて水害で大変だと思いますが、これからも地震が来る可能性があると考えたときに、何が一番重要だと思いますか。

やはり地震や水害などの災害に対する心構えと対策が大事です。生半可な突っ張り棒をしたぐらいで済ませても全然駄目です。もっと根本的に自然の脅威に対する心構え、準備が大事だと思います。近年天候が極端になっているので、これからも水害、山崩れなどを起こす大雨が降ることも予想されますし、地震ももちろんまだ完全に収束したとは思えません。そういう地震、水害がある中で、果たして珠洲にいていいのか、今の場所に家を建てていいのかと、まだ迷っている方が多くおられるようです。
でも、珠洲には知っている人がいっぱいいますし、私も高齢になりました。これからも自然が豊かなところで生きたいですし、全く知らない地域へ行っても多分つまらないと思うのですよ。だから大好きな上戸町にいたいと思っています。

20日ごろまで集会所が避難所になっていたということですが、どういう方がいらっしゃったんですか。

集会所近くのいくつかの集落から、多い時で25人ほどいました。高齢者が多かったです。

高齢の方の中には、要介護の方もいらっしゃったのでしょうか。

先ほど話した、潰れた家から助け出されたおばあちゃんは、目が不自由だし、歩くのも難しかったんですけど、食べ物を差し上げたり、トイレに連れて行ったりして、みんなでいろいろお世話をしていました。でも、1週間ほどして金沢にいるおばあちゃんの息子さんに連絡して迎えに来てもらいました。その方のほかは皆さん、自分で自分の用事を足せる人たちでした。

避難所生活の中でコロナなどの感染症は大丈夫でしたか。

小学校とか保育所の避難所ではそういう話も少しあったように聞きましたが、私たちがいた集会所での20日間ほどの避難生活の中では、病気とか具合が悪くなった人はいなかったです。病気になったりすれば、どうやって病院に連れて行こうかとかそういう心配もあったので、これはありがたかったなと思っています。

避難所になってからは支援物資が届いたということでしたが、医療機関のサポートなどもありましたか。

ありました。福井県だったか、兵庫県だったかのボランティアで医療機関の方が訪ねてこられて、体の都合が悪い人がいませんかとか、困ったことないですかと言って、何回か訪ねて来てくれたのは覚えています。

ボランティアの方は何人かで来ていたのでしょうか。

4、5人ぐらいのグループで、県外からのボランティアということを示して、皆さんの健康管理のために来ましたと、優しく寄り添い、体調などを聞いてくださいました。そういう方達が回って来られると安心ですよね。

集会所は、1つの部屋に皆さん集まっていたのか、複数の部屋に分かれていたのか、どのように過ごしていたのでしょうか。

集会所は広間というか、1つの大きい部屋の中にそれぞれ布団を持って来て、仕切りも何もないところで、家族ごとに固まって布団を敷いて寝ていました。夕食や昼食などのときは布団などを隅へやって、真ん中にストーブをおいて集まって、お湯を沸かしたり、しゃべったりしながら、水を加えると出来上がる御飯みたいなものとか、各種の支援物資などをみんなでいただいていました。

携帯電話については、すぐにつながらなくなったのでしょうか。

私の記憶では、地震発生直後の携帯電話はつながっていたので、110番や119番に電話を掛けることができました。しかし、呼び出し音は鳴っているのですが、誰も出てくれませんでした。何度か掛けましたがダメでした。その後、少し時間が経つと携帯電話が全然つながらなくなりました。それで、発災後からは、テレビも見られない、新聞も来ない、携帯もつながらない状態で、情報が何もありませんでした。
そのうち、なぜか、珠洲市内の方々とは携帯がつながらないのに、金沢や県外からのLINEが届くようになりました。電話がつながらなかったのは1週間ぐらいで、携帯電話がつながっても、テレビも見られないし、新聞もこないので、携帯電話だけが大事な情報源となりました。
固定電話は全然使えないし、携帯電話は登録してある番号にしか掛けられないという中で、一応できる限り親戚、友人、知人などの安否確認の連絡をしました。
テレビなどでは、能登では地震の被害がすごかったということが全国に流れていたようです。私には俳句関係の友人が全国にたくさんいるので、通信ができるようになってからは、LINEやショートメールが一斉に来て、大丈夫ですという連絡を返すのが大変でした。お見舞い電話も何件もありました。
不思議だったのは、県外の人たちとか金沢の人たちとは連絡ができるけど、地元の友人たちとは連絡ができないことがありました。電話がつながらない方の中には、携帯電話が駄目になった人もいて、携帯電話が潰れた家の中にあるとか、津波で流されたとか、水浸しになって使えないとか、いろんなことがあったようです。ようやく金沢へ避難して携帯電話を新しく買って初めてその人とつながったということもありました。やっと電話がつながり、お互い生きていてよかったね、などという連絡を、地震発生後何ヶ月も経ってから交わした人もいます。
地元の方とも電話連絡ができるようになり、新聞が届くようになり、テレビが見られるようになると、地震による大惨事のようすや、多くの方の家の倒壊、大事な先生や知人が亡くなられたなどという辛い情報がたくさん入ってきました。また、被災したことによって、私はこれまで務めていたいろいろな責任を果たせなくなりました。多くの悲しみと責任を果たせない苦しさ、そんな重苦しい心境の期間がつづいていました。夜の8時には寝る避難所で、私はなぜか真夜中の2時頃に目が覚めるのです。それからは夜が明けるまでの間、眠られなくて、避難所だと皆さんに迷惑がかかるから、電気をつけて本を読むこともできない。だから布団の中で悶々としていて、いろんなことを考えてしまって、その時間が非常に辛かったです。

支援物資が来るまでの間は、食べ物は、皆さんで持ち寄っていたのですか。

そうでしたね。正月は買物があまりできないからと、みんな年末に結構買いだめしていたようです。ですから地震発生が正月の1日だったから食べ物は、数日分はありました。傾いた家の冷蔵庫を開けたら、肉とか魚があったので助かりました。
食料は、しばらく他の皆さんもそんなに不自由していなかったようですが、そのうち冷蔵庫の中のものがなくなってきて、結局は支援物資に頼るしかなかったです。支援物資として、おにぎりが来たり、水を入れたらすぐ炊き上がる御飯や、牛丼が出来上がるみたいなものもありました。とてもありがたいなと思いました。

集会所に台所はあったのでしょうか。

調理室はありましたが、地震の被害で使えませんでした。部屋の真ん中に石油ストーブを2つ置いて、そこに鍋を持って来てお湯を沸かしたり、簡単なお吸い物を作ったり、ラーメンぐらいは作れましたね。最初は箸がなかった。箸ないのでみんな家に帰って、私も恐る恐る家の中に入って箸を持ってきたら、今度は箸ばっかりいっぱい集まったという、面白いことが起こりました。

みんなで持ち寄って。

そうでしたね。みんなで必要な物を持ち寄りました。ポリタンクなんかは見た目が一緒で、最後、避難所を解散するときに、誰のか分からなくなるということで、それぞれ自分の名前を書いて、そのポリタンクを軽トラに積んで、小学校まで水をもらいに行ったりしました。

暖房器具は石油ストーブだけだったのですか。

暖房は石油ストーブだけでした。もともと集会所にも幾つかあったのですが、私も家から1つ持って来たりして、4つぐらいありました。ただ、気をつけないといけなかったことは、ストーブの一つは不完全燃焼を起こすものがあって、一酸化炭素中毒を心配していました。夜はストーブを消して寝るようにしていたのですけど、消したつもりが消えていなくて、不完全燃焼だ、窓開けろと言って騒ぎになったこともありました。

布団はどうしたのですか。

布団は集会所にはなかったので、敷き布団とか掛け布団、毛布は、皆さんがそれぞれ家から持って来ていました。そのうち支援物資で毛布が来て、足りない人はどんどん使ってくださいと言われました。だから、あまり寒くはなかったです。

避難所を運営する方はいらっしゃったのですか。

これは難しいところなんですけれど、責任者というか、誰が外部と連絡を取るかというのは、最初は全然決めていませんでした。それでも何となく決まってきて、これは知り合い同士が集まった20人くらいだからでしょうけれど。そのうちに誰か責任者をきちんと決めましょうということになって、やはり動ける若い人が適任だなと思っていました。たまたま若い方がいて、みんなからお願いしないうちから、その方が
いろいろ動いて世話をしてくれていたので、この避難所のまとめ役を頼むことになりました。
市から来る連絡もこの方が受けるし、皆さんの要望もこの方を通してお願いする形になりました。あとは細かいところが難しくて、例えばトイレとか部屋の掃除を誰がいつするかとか、最初は気の利く特定の人がしていたから、これはよくないなと思って、みんなでしようということで呼びかけて、何時から何時まで掃除タイムですよ、夜は8時過んだら寝ましょう、などという避難所でのルールが少しずつ話し合いでできていきました。
それから、まとめ役の方が集会所にあった黒板にルールや連絡事項を書くようにしてくれました。その黒板の記載事項で、今日は小学校で炊き出しがあるとか、自衛隊が集会場へ支援物資を持って来るとか、小学校のグランドに自衛隊のお風呂が設備されたなどということが、周知されるようになりました。夕方にみんなで食事するときに、その伝達事項などについても話合うことができて、とてもよかったです。

当時の経験を語る中川政幸さん(2024年11月1日撮影)

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