石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 企業・団体

全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応

珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
体験内容
珠洲警察署で対応を指揮した。
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年11月7日

地震発生当初

発災当時のことについて教えてください。

発災時は、珠洲市内の署長官舎にいました。長く激しい揺れが数分の間に二度続いたので、倒壊の危険、津波の対応が真っ先に浮かびました。単身赴任でしたが、元日で妻が来てくれていましたので、妻を高台に避難させて、すぐに珠洲警察署へ向かいました。
既に道路は隆起、陥没し、電柱も信号も大きく傾いていて、その中をくぐるように住民の方々が避難に走っていました。まるで劇画の世界のようでした。
警察署についてから、避難されていた住民や署員らに、すぐに屋上に上がるように大声で指示しました。直後の津波の現実味は相当なもので、東日本大震災の映像が、何度も脳裏をよぎりました。津波を横目に、必死に署に参集した署員もいました。
3年以上群発地震下でしたし、昨年5月の奥能登地震もありましたので、屋上への避難など様々な想定や訓練はしていました。

警察署ではどのように対応されたのですか。

同じ震度だった5月の奥能登地震のときとは、目に見えて状況が違いまして、なかなか動きが取れず、初動態勢もままならない状況でした。その中で、警察本部や、能登町にある珠洲警察署能登庁舎と情報共有しながら、管内情勢を把握しつつ可能な限り安否確認や救助に対応しました。

その晩は警察署の中で、職務対応に当たりながら、翌日を迎えたのでしょうか。

とにかく午後4時ですから、すぐ暗くなって、何をすべきか、何ができるかという状況でした。通報があれば可能な限り出動し、住民の皆さんの安否、署員とその家族の安否も大事ということで、誰が来て、誰が来ていないか、そして連絡が取れているか、いないかという確認も同時に進めました。

通報の内容は、どういったものがありましたか。

やはり当初は、倒壊家屋の中に取り残されているという通報が多く、そのうち珠洲市内も能登町も火災の発生通報がありました。日に日に通報内容はシビアになり、ネットでは虚偽の通報も混じり始めていたので、慎重に対応していました。

消火活動は消防がされると思いますが、警察では火災についてどのような対応をされるのですか。

通常は、まず救助や避難誘導等で、以後は、消防と連携しながら原因を究明していくことになります。ただ、数日は本当に消防も警察も初動態勢がままならない状況で、通常の動きができないというジレンマで、とても苦しい思いがありました。

その後も何日間かそのような状態が続いたのですか。

そういう状態がしばらく続きました。初日はすぐ暗くなるので、まず、ライフラインを確認しました。もちろん水は出ませんでした。最初、今回はちょっと長くなりそう、3日から5日、いや1週間は見ておいたほうがいいかもしれないぞと署員に言っていましたが、署の蛇口から水が出たのは4か月先でした。
当日夜には、本署と能登庁舎に何とか参集できた署員を、対応する班と連絡を受ける班に最低限の形で分けました。停電はしばらくなかったのですが、水道が止まっている状態で、まず、活動の基となる備蓄の確認をしました。水、非常食、乾パン、年末年始用に用意していたカップラーメンにすごく助けられました。とにかく備蓄はあるけれども、これでどれぐらい持つかということも問題でしたが、事案対応をしながら夜が更けていきました。
初日は布団を敷いている余裕などありませんし、数日は全員机の上で突っ伏して休憩を取りました。休憩に関しては、いわゆる上とか下とか関係なく、疲れたときに横になっても構わないし、机に突っ伏してもいいから、随時休憩を取るように、体調が悪いときは遠慮なく申し出て休むように言いました。署員も被災し心労も多かったでしょうし、倒れると、病院の状況も分からない中で、より厳しい状況となるのは避けたいという思いもありました。
1日目は覚えているような、覚えていないような状況で、直近のこともさることながら、この先のことや、管内の被災状況、住民の皆さん、署員と家族の安否、もう思いつくことを、そのときそのとき、みんなで共有しながら、珠洲警察署の1階のロビーも使いながらやっていました。
2日目も同じような状態で、現場に行く人員確保も含めて、なかなか思ったとおりにならない状況が続きました。
1月2日の夕方近くだったと思いますけども、全国の警察で組織されている広域緊急援助隊員が、100名を超える体制で到着し、珠洲署に入ってこられた瞬間、一筋の光が差したように感じたことを覚えています。
道路は寸断されていますので、ヘリで珠洲市内に降り立ったんです。これは県外部隊の方々で、珠洲市内にヘリが下りる場所を臨時で設けていただいて、100名以上の部隊が歩いて珠洲警察署に入られた。POLICEと刺繍された青色と黄色の活動服を見たときは、それはもう本当に戦隊もののヒーローを見るような気持ちでした。今でも目に浮かびます。

関係機関との連携

救助や火災のお話もありましたが、交通関係、道路の誘導などの対応は何かされていたのですか。

オフロードのバイクを用意していただいて、珠洲署の交通課員や本部の部隊が管内の情勢を確認しました。例えば、隆起陥没、土砂等で通行ができない、できる、あるいはこれ以上は行けないというところを、本当に署員らが頑張って確認してくれました。
それから、広域緊急援助隊や他県の部隊が徐々に入ってくる中で、信号が機能せず交通整理が必要な交差点については、誘導や手信号で交通規制をしました。オフロードバイクなどで把握した管内情勢を警察本部に集約し、必要な県外部隊や県警本部部隊に入っていただくなどして、交通規制を含めた対応を実施しました。

被災後はマンホールが1メートルぐらい道の真ん中に飛び出て、通れなくなったりしていましたけど、そういう道路の状況を、バイクなどで確認して、集約して把握されていたのですか。

確かに発生直後からすごい状況で、署の前の道路もひどくゆがんでいました。情報は署や警察本部で集約しつつ、珠洲市長にも能登町長にも本当によく連携を取っていただいて、消防、自衛隊、行政、警察で管内情勢や交通情報を集約して地図上に落として活動に反映していました。そのうち、地図上で、このエリアは消防が安否確認や捜索活動をする、このエリアは警察、ここは自衛隊というようにエリア分けが進められていきました。それぞれが持ち寄った情報を集約するということは、本当に生きた活動につながることを実感しました。当時はそう感じる余裕もありませんでしたが、協力と連携こそが被災地での活動の基礎だと思います。

各機関の情報交換や連携に役立った会議というのは、市役所で行っていたのですか。

珠洲市は、珠洲消防署に情報が集約され拠点となっており、毎日夕方に消防、自衛隊、行政、警察が集まる会議で情報を共有し、救出救助活動に反映していました。能登町も同じように会議があって、情報共有した上で活動していました。道路状況は、市役所や町役場でも集約されていました。土砂で孤立集落もありましたし、道路啓開作業の進捗が救助活動の大きなポイントでした。

そういう会議で機関同士の連携が図られていたのですね。

ふだんから、例えば先ほど言ったように火災現場では消防と協力して現場検証を実施している関係性もありますし、災害時に1つのところに集まって、集約された情報によって対策を立てるというのは、本当に意義がありました。自衛隊の力も大きいものがあったと思います。

最初の活動において、課題に感じたことや、こんなことができたらよかったということは何かありますか。

今回は長く激しい揺れが2回続いて、地震で想定される全ての災害事象が数分で発生しました。倒壊、津波、火災、さらには、山あいも多いため土砂災害も多発しました。巻き込まれた方や、寸断されて孤立した集落もありましたし、そういった全ての災害事象が広範囲に同時発生したことが大きかった。ですから、通常の消防、自衛隊、自治体、警察の活動というものが、初期段階においては、ままならなかったということが現実としてあります。行政の皆さんのお力添えもあって、比較的早期に会議等で情報共有が図られていったとはいえ、やはり初期段階の活動がそれぞれままならず、大変なジレンマがあったので、そこは課題というか、どうしようもなかった部分はあるにせよ、今でも何とかしたかったなという思いはあります。

警察署内の様子

職務に当たりながら、吉村さんはずっと警察署にいらっしゃったのですか。

私は署長室で数週間過ごしました。2、3日目ぐらいかな、数に限りはありましたが、県外部隊や署員のために、署にある布団全部を畳があるところに敷きました。先ほど申し上げたように、疲れたときに休めばいいし、倒れたら負けだぞ、と言っていましたが、署員は5日間、誰も布団に入らなかったです。
震度5クラスの余震も続いていて、揺れへの対応、津波のこと、家族のことも考えていたのかな。そんな中で任務が続く。署員も不安な思いがあったと思います。5日目になって、先は長い、1、2週間じゃないぞ、この状況はということで、頼むから布団で寝てくれと署員に頼みました。それで、徐々に横になって休むようになって、任務の編成がより明確になっていきました。
署内は数時間の停電はありましたが、その後はおおむね電気は通っていたのが幸いでした。それでも、ほぼ全域で停電なので、官舎に戻っても真っ暗なので、署で寝泊まりする署員が多かったと思います。私は署長室に泊まり込みましたが、掛け布団はもうなかったので、残っていた敷き布団を、掛け布団代わりにして、持ち込んでいたジャージとTシャツを枕にして、数週間は署長室のソファーの上で休憩を取りました。

電気はしばらく来ていたということで、暖房も大丈夫だったのでしょうか。

燃料の配管等の損壊が想定されたため、早々に使用を中止しましたが、不思議と寒さを感じた覚えがありません。気が張っていたんだと思います。徐々に物資も供給され始めストーブなども使えるようになっていきました。

通信状況については、基本的には常に外部とつながる状況だったのですか。

無線と警察電話は、ほぼ通じていました。携帯電話は、やはり通信状態が不安定で、電話がつながらない、メールが届かない、5日後にメールが届くということもありました。

通信状態が悪かったのは、発災してから結構長い期間ですか。

状態やキャリアにもよるのかもしれませんが、1か月前後は不安定だったと思います。

通信環境が悪いと、行政から情報を発信しても届いてないということになってしまいますね。

そうですね。妻は珠洲市内の旧保育園の避難所にいたのですが、やはり電気が来ていなくて、電源のある施設に、みんなで交代して充電しては戻るということを続けていたそうです。
電気がなければテレビも映らないので、当初はスマホに頼ることになりますが、問題は通信状態と電源の確保になってきます。そこがつながらないと、情報は極端に得られにくいことになります。
あと、もちろん新聞は来ませんし、数週間してから県警本部の広報室にお願いして、金沢のほうからの行き来も始まっていた頃なので、遅れてでもいいから新聞をいただけないだろうかとお願いしたこともありました。

外部から応援に来た方も、寝泊まりは庁舎内でされていたのですか。

たくさんの部隊の方が管内に入ってくれましたので、珠洲警察署だけでは足りませんでした。広域緊急援助隊は鍛えられていますので、車中泊なども想定していますが、警察本部から部隊の待機場所確保の依頼がありました。まずは、珠洲警察署の道場と、珠洲市役所には市役所の横の産業センターの一角を確保していただき、当初、この2か所を待機場所に設定することができました。これは本当にありがたかったです。

今お話しされたような状況がしばらく続いたのでしょうか。

少しずつですが往来が可能となり、応援部隊や物資の輸送が活発になっていきました。停電は数週間かけて徐々に解消されていきましたが、断水は続き、電波の状態も不安定でした。応援部隊のお陰で警察活動の範囲は飛躍的に広がりましたが、現場活動はシビアな状況に変わりはありませんでしたし、安置所の状況も気掛かりでした。飲食は、あるだけでもありがたかったのですが、水と簡易な食事だったので、体に悪いだろうなと思いながらも、食べていくしかないという状況でした。水と食料はもちろん大事ですが、トイレの問題は切実でした。
簡易トイレは備蓄があったのですが、通常は1回で袋に凝固剤を入れて閉めるところを、すぐに足りなくなるため、いっぱいに溜まるまで使いました。珠洲署も、市役所も、消防署も同じような異臭が漂っていて、災害時におけるトイレの問題は本当に差し迫った問題でした。2週間ぐらい過ぎてから仮設トイレが2つ来て、本当に大きく改善しました。カッパを着て署員と一緒にゴシゴシ掃除をしましたが、トイレが大事だということは、被災地で過ごした方全員が強く感じていることだと思います。

署員の皆さんも、厳しい環境で献身的に職務に当たられ、また自身も被災者で、避難所に家族の方がいるという状況だと思いますけど、健康面や精神面では、どうでしたか。

署員は職務への意識が強く、鍛えられているので、休むのは申し訳ないという気持ちがあったと思います。だからこそ、署長としては、署員や自分が倒れたら活動の基盤が崩れるという思いで、頼むから布団で寝てくれということにつながるんです。署員の心身の健康状態は、管内情勢と同様にすごく気掛かりでした。
2月に入って、県警本部から健康管理の部隊が来て、署員の血圧測定や問診をしていただきました。その後、惨事ストレスの専門家の方も来られて、レクチャーを受け、署員と自分自身に対する健康面のアドバイスをいただきました。ちなみに私は、2月の血圧計測時には、上が150で、下が110になっていました。気をつけてはいましたが、どうしようもなかったですね。

本当に大変な状況だったのですね。

署員も被災者ですし、職務、自分自身、家族、生活と様々なことに折り合いをつけて生きていかなければなりません。元日でもあり、署員の所在も平日とは違いましたし、被災した度合いもそれぞれでした。そもそも自宅や実家が奥能登にある署員は、5月の奥能登地震で少なからず打撃を受けて、今回さらに大きな被害を受けてしまいました。奥能登以外の実家に帰省していて難は免れたけど、管内の居宅が倒壊した人もいました。帰省中で署に参集できずに足止めされていた一部の署員は、県警本部の差配で、1月3日にヘリで金沢から輸送していただいて、少しずつ、いつもの顔がそろっていき、私自身がほっとする瞬間もありました。
中には、発災当初、金沢方面からの悪路をバイクで参集した署員や、車の底を擦りながら署にたどり着いた署員もいました。本当に頭が下がる思いでした。

被災経験を振り返って

今のお話しについて、全国の警察の方も教訓として見ることになるかと思いますが、最後に、今回御自身が体験されたことを踏まえた教訓があればいただけますか。

珠洲警察署管内は3年半にわたり、群発地震下にありました。令和4年には震度6弱、令和5年5月5日には震度6強の奥能登地震、そして、令和6年元日に今回の能登半島地震が発生しました。教訓として自分が思っているのは、警察官ですから、まず初動が第一で、そのためには任務と生活を含めた広い視野に立った想定と準備が、その基礎だということです。この地震の8か月前に同じ6強の奥能登地震が発生しました。そのとき対応できた初動活動が、今回の能登半島地震では、ままならなかったという現実があります。地震で想定される全ての災害事象が数分のうちに同時に発生したのです。初動活動がままならないという状況が、現実にあるということなんです。それでも、何ができるか、何をすべきか、何を準備しておくべきかと、最悪を想定した初動態勢の確保が最初のステップでしょうか。発災後は住民も署員も大変な生活をしていくことになります。だからこそ、管内情勢、署内の環境、食料、飲料、水、電気、トイレの問題など、ライフラインの状況に応じた想定と準備が必要だと思います。そういったことを見据えないと立ち往生しかねない。
警察署長としては、やはり、地域住民を守る、管内の治安を守ることが警察の使命であること、それを守っていくのは、我が署員であるという想いが一番大事かなと思います。
この地震で、家族全員を失った署員もいます。今でも無念に思います。この先も、被災地で共に過ごした皆さんと、あのときの署員の「想い」を一生忘れずにいたいと思っています。

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