石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 県民

難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める

珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
体験内容
日置地区の避難所運営に携わった。
場所 珠洲市
聞き取り日 令和6年10月29日

地震発生当初

日置地区の被害状況について、建物の状況はどうでしたか。

建物は50世帯ほどのうちの20世帯くらい、要するに4割が半壊以上、6割は一部損壊のような状況です。中島と中前田と上出という3つの集落のうち、上出が特にひどくて、ほぼ全滅でした。

上出がひどかった理由はなんでしょうか。

詳しいことは地質調査でもしてみないと分からないですが、砂地の上にできた宅地だったので、岩盤がずっと地下にあったのではないかと思います。

道路の被害状況はどうでしたか。

崖崩れがあって大きな石が道路に落ちていましたし、寺家が津波でやられて、道路ががれきで通れない状況だったり、県道が大きく崩落していたり、それから、狼煙の端にある家の隣で崖が崩れたり、道路はどこもズタズタでしたね。
3日の日だったか、寺家の道路が通れるようになったという情報があって、孤立して通信も全く途絶えているから、状況の確認と報告のために、私ともう一人で、軽トラックで市役所の災害対策本部まで行きました。狼煙の住民は100人ほどなんですけど、元日は観光客と帰省客がいて、その1.5倍ぐらいいたんです。観光客に一緒にくるか聞いたら、後ろに5台ぐらい付いてきました。
市役所まで16キロぐらいで、ふだんは20、30分のところが、1時間半かかりました。道が割れていたり、段差になっていたりしたので、危ないところはもう一人に先に歩いて見てもらいながら通っていきました。道路は、この近辺もひどかったけども、珠洲市全体もズタズタです。だから発災当時はパンクする車もありましたね。

避難者の対応はどうでしたか。

新年互礼会を町でやっていました。昨年5月の地震で、集会所の壁が落ちたり、玄関の戸が壊れたりしたのが、12月に直ったので、きれいになってよかったねと言って、集会所でお酒を飲んでいたんです。
そこで1回目の地震があって、これはひどいとなって、うちに帰ろうと集会所を出たら、最大震度7の地震がありました。長くて、半端な揺れではない。
私は屋外にいたから、家が平行四辺形になるのが分かりました。いまにも壊れそうでした。揺れが終わって、大津波警報が出ていたから、家に帰って、足が悪い母親を連れて、灯台の台地に上がりました。
狼煙の場合は、避難場所がポケットパークと灯台の台地、旧狼煙小学校の跡地の3か所あって、その段階で避難者の確認はできませんでした。一旦避難が終わったのは4時半ぐらいだと思います。4時10分に地震が起きて、高台に上がってすぐに津波が見えたから、本当に、地震が終わってから、数分のことでしたね。
高台から見たら、港の堤防の沖から、白い津波が真一文字にこっちへ来るのが見える。これは東日本大震災と同じだ、かなりひどくなるんじゃないかと思って見ていましたが、堤防を全部越えることはなかったし、港の中には上がってきたけども、道の駅まで上がってくることはなくて、川沿いに上がってくることもなかった。
その後、4時半を過ぎて、そろそろ暗くなるので、このまま屋外にずっと避難し続けるのは無理だということで、道の駅の駐車場へ皆さんに集まってもらいました。そのときは、まだ大津波警報も出ていたから、まだ上にいる人もいました。
下りてから安否確認をして、住民が1名いないことが分かりました。家が潰れたところに、足の悪い高齢者が1人いたということで、これはまずいぞと思って、携帯電話にかけたら、電話に出て、一発目の揺れのときに逃げられず、そのまま座っていたら家が潰れたけど、隙間があって大丈夫だったということでした。何人かに行ってもらって、隙間から出してもらいました。
全員大丈夫ということを確認して、その後、まだ道路の状況が分からないから、車中泊をしようと提案をして、道の駅の駐車場で車中泊をしました。津波が来ても、標高が若干高い横山の方へ車で逃げられると思っていたのですが、実際には狼煙と横山の間にがけ崩れがあって動けなくて、たまたま、二波、三波が来なかったから、大丈夫でした。
携帯電話の基地局は、非常用バッテリーの電源があるうちはつながるみたいで、その日の夜12時頃までは、まだ携帯電話がつながっていたんです。市長の携帯電話に、住民は全員大丈夫ですと連絡して、その日は車中泊しました。

消防団はどういう状況でしたか。

さっき言った閉じ込められた人は、子どもが金沢にいて、そこに電話をかけているんです。多分、子どもから消防か警察に連絡しているはずなんだけど、来る手段がないわけですよ。消防団員も、みんなばらばらに住んでいますし、正月でみんな家にいるわけで、この地区で集まることができたのは2人ぐらいじゃないかな。その人たちと住民で生き埋めになった人をなんとかしようとした。だけど、人力ではどうしようもなくて、4人が亡くなった。人がもっといて、機械があれば助けられるような状態だったというのは聞いています。
みんな分断されて動けないから、結局、集落ごとに避難所に集まるしかなくて、消防団の活動は全くできなかった。道路が寸断されているから、指定避難所に来られず、自主避難所にみんな避難したという状況です。ただ、指定避難所に来ていたとしても、すぐいっぱいになってしまうから、ばらけたほうがよかったという面もあります。

避難所の運営について

指定避難所はここだけで、自主避難所はどのくらいあったのですか。

指定避難所は1つだけど、自主避難所は6つありました。消防団は動けなかったけど、3日には災害ボランティアがすぐ来てくれたんです。レスキューアシストという、奈良県に本部のある団体ですけど、去年5月の地震のときにも屋根の修繕をやってもらったんです。
そういうこともあってよく知っていたから、連絡したら、3日にもう来て、日置ハウスを基地にして活動を始めてくれました。
ただ、世の中の情報が全く分からないわけですね。携帯電話がもう2日の朝から全く使えない。それから、インターネットも、この辺は光回線ではなくてケーブルテレビで、土砂崩れで道路が潰れて、ケーブルが切れちゃったから、テレビもない、ネットもない、新聞もない、行ける道路もないという状況だから、全く情報が取れない。それで、4日から1週間ぐらいは、毎日、自主防災の区長連絡会をやって、お互いの情報交換をして、災害NPOにもそこに入ってもらいました。
NPOの方には、最初、屋根の修理をお願いしたんですけど、去年と状況が違うから、避難生活のお手伝いをします、ほしいものがあったら私たちが持ってきますと言ってくれて、自衛隊が運ばないような物資も運んでくれました。
自衛隊が運んでくれる物資は非常食みたいなものしかないんです。でも、例えば、生ものとか、食べたいものもあるわけですよ。当時は、ここから金沢まで10時間ほどかかったから、金沢から穴水までと、穴水からこっちと、班を2つに分けて、金沢で買って、穴水で受け渡す形で運んでくれました。
そうすると、金沢からこの辺までの状況が分かるわけですよ。市内の情報もある程度分かってきました。私たちも行こうと思えば行けないこともなかったんだろうけど、何せ、ガソリンもあんまりなかった。若い人たちは、どこかに行って電波を拾おうとするけど、そのたびにパンクしてきたり、ガソリンを使ったりするから、動かないように言って、その代わりに、NPOの方から情報を得たり、お互いの集落の情報を聞いたり、あるものを交換したりということを1週間ほど毎日やって、新しい情報が入ったら、それを集会所の避難者に伝えたりして、対応できました。そのときは自主防災組織が一定機能しました。消防団も集落ごとにばらけているから、その中で活動してもらったと考えればいいのかなと思っています。

御自身は、ずっと避難所にいたんですか。

狼煙生活改善センターの避難所の責任者でした。

水道や電気などはどうでしたか。

水道も電気も駄目でしたが、プロパンガスと灯油で火は使えました。プロパンガスは、潰れたうちからボンベを持ってきて使いました。それから灯油も、みんな正月でタンクに灯油を買っていたので、壊れたうちの人が使っていいと言ってくれて、当面困ることはなかった。火はあったから、調理もできました。

建物の状況はどうでしたか。

集会所の建物も、さっき言ったように、せっかく直したのに、また玄関が同じように壊れました。ただ、塗り壁からクロスに変えていたので、壁は壊れたけども、落ちることはなかったです。後で被害を判定してもらったら、準半壊という状況でしたが、避難所を閉鎖したのが3月14日で、水が来る2月24日ぐらいまでは結構人がいたので、その間、ここで生活できたのは、やっぱり去年直したおかげだと思います。

避難所には、大体何人ぐらいいたんですか。

最初60人くらいいたかな。割と大きな集会所で、24畳と18畳の和室、30畳の洋室がありました。10畳ぐらいのスペースの流しがあって、あとは事務室、廊下とトイレです。そこに最初は60人ぐらいいました。
観光客は25人で、平屋の旅館を借りて、そこの大広間に3、4日ほどいたかな。その2つを避難所として使っていました。
残りの人は、車中泊の人や密なところに行きたくない人、自宅で寝泊りしている人で、食事は集会所で炊き出しをしていました。旅館にいる人や外にいる人にも声は掛けたけど、全部に声を掛けられたかというと、そこまではできなかったかな。

部屋の使い分けはどうしていましたか。

集会所の和室は、仕切りを取り払って、基本的に寝るスペースにしました。お年寄りはほとんど和室にいて、真ん中にテーブルを置いて、話をしたり、お茶を飲んだりしていました。
トイレは、最初、簡易トイレを使っていたんで、お年寄りは慣れなくて大変だったようです。
洋室は、食事するときはテーブルを出して、あとは、段ボールベッドを入れたり、ソファーや床で寝たりしている人はいましたけど、基本的には食堂兼談話室みたいな感じでした。

避難された方の介護は、御家族がされていたのでしょうか。

皆さんでやっていました。全く1人の人もいるし、家族がいる人もいましたが、観光客とは部屋を別にして、顔見知りが集まっていましたから。
足の悪い人もいるんだけど、全く動けないという人はいなかった。認知症の人は、ふだん、うちで家族といるのと環境が変わっているから大変でしたね。でも、その人も、みんな顔を知っているので、何かあれば、周りで対応しました。ただ、お世話をする側も、70歳いかないくらいの年代ですよ。うちの地区の100人の年齢構成を言うと、100歳以上が3人、90代が10人、80代が21人いて、70代が28人。これを足したらもう3分の2になる。だから、3分の2の人を、3分の1がお世話するみたいな状態。年齢が上の人でも、元気な人もいますけど。
1週間くらいたって、ASTENAホールディングスの社長の岩城さんという方が、頑張ってホテルや旅館を確保してくれて、2次避難をしようということで、うちにも声が掛かりました。行くどうかという話を1週間ぐらいしていると、県の2次避難がスタートしました。
介護が必要な人は、1.5次避難所のスポーツセンターでやってもらえるということで、県の2次避難に行こうと決めました。いろいろ意見があったけれども、最終的にはそうしましょうということになりました。
30人が2次避難して、残ったのが20人ぐらいですね。基本的に自分でやっていける人やこっちに仕事がある人、離れられない人と、どっちでもいいという人の中から、動ける人には残ってもらって、女性と高齢者を中心に、2次避難をしてもらいました。
介護が必要な人、認知症の人については、最初、県の1.5次避難所で、ちゃんと介護できるのかという心配がありました。認知症の人を全く知らないところに置いていくことになるので、難しいなと。でも、その人を連れて、どこかのホテルに行ったとして、家族がいないのに、その人を部屋に入れたらどうなるかということも考えないといけなくて、部屋から出たら、もう迷子になってしまいますよ。結局、介護が必要な人たちは、金沢にいる子供や孫に連絡して、引き取ってもらいました。ほかの人は、一月半ほど、加賀温泉の百万石に行きました。行くときも、ここにいても電気も水もないし、トイレもできない、風呂にも入れるし、2次避難した方がいいと言って、女性と高齢者を飯田のすずなりまで何とかみんなで送って、そこからバスに乗って行ってもらいました。

そこに小さいお子さんもいたのでしょうか。

子どもがいる家庭は、うちも入れて3つあったけど、奥さんの実家や、おばあちゃんの実家に、早い段階で動いていきました。うちの孫もいて、金沢在住なんだけど、帰れないので、4日ぐらいまで避難所にいました。

お孫さんは何歳ですか。

うちは2歳、4歳、6歳かな。2歳の孫は、たまたま、お嫁さんの東京の実家に行っていたから、地震には遭わなかったですね。それから、他のところは、0歳、6歳、8歳と、小学校4年生と中学1年か2年。それだけしか子どもはいませんでした。

お子さんの様子はどうでしたか。

6歳の孫は、去年の5月5日にもうちに来ていたので、2回連続、じいちゃんのところに来たら地震に遭いました。それ以来、知らない建物の中に入るのを怖がって、最初は避難所で寝ようとしたんだけど、寝られずに、母親と一緒に車中泊していました。小さい子どもはそんなに心配なかったです。

コロナやインフルエンザなど感染症についてはどうですか。

コロナ、インフルエンザの前に火事が一番気になりました。倒れた家がそのままになっていて、プロパンガスもつながっているし、電気も来る可能性があるわけですよ。
まず、動ける人で手分けして、水道とガスの元栓、電気のブレーカーを全部止めてきました。輪島でも火事が起きていましたが、火がついても、消防は動けない、水もないので絶対駄目だということで、気をつけました。
1週間ほどたってから、インフルエンザやコロナが入ってくるとすぐ蔓延するということで、住民の中に保健師とケアマネージャーの方がいたので、介護が必要な人の対応や衛生管理をお願いして、マスク着用や消毒を徹底してもらいました。
さらに何かあったら困るということで、集会所の向かいの家が割と大丈夫だったので、その家の人に言って、もし発症する人がいた場合に隔離できる場所をつくってもらいました。幸いにも、体調が悪くなる人はいなくてよかったです。

水はどのように確保していましたか。

大体のうちに井戸があったから、バケツで井戸水をくんだり、湧き水を使ったり、雨水を使ったりして、流しの水などにしていました。
さすがに飲み水にはできなくて、2軒ほどペットボトルの飲料水を確保してくれているところがあったので、自衛隊が3日に来るまでは、そこから水をもらって、御飯を炊いたり、みそ汁を作ったりしました。それから、道の駅に自販機があって、それも使いました。たばこの自販機まで発電機を持っていって、壊さないで、ちゃんとお金を入れて、たばこを買っている人がいて、それを見た観光客の人が、お世話になっているから、ということで、発電機を借りて水やお茶を買って、皆さんに配ったりもしていました。
3日に、私が観光客を連れて市役所まで行ったとき、対策本部に内閣府の人がもう来ていました。その人から、狼煙に海自から水とパンが入りますと聞いて、帰ったら、ちょうど向こうから来ていて、港が隆起していたので、沖に船を止めてボートで運んでもらいました。
その日の昼ごろに、ヘリコプターが来て、救急患者はいませんかということで、空から降りてきました。救急者を運びますと言うので、そのときはいませんと答えました。
3日だったか、陸上自衛隊がきて、安否確認しますと言ってきて、安否確認は終わりましたって言ったけど、させてくださいと。潰れたうちに行って、声を掛けて、返事がなかったら、それで安否確認したことになるかといえば、ならないですよね。そこにいる人しか誰がどこにいるか分からないですよ。人がいっぱい来て、安否確認しますって、歩いて回っていましたけど、一体どうやって安否確認するのかと思いましたね。
その後も自衛隊が安否確認に2回来て、結局、自衛隊3回、警察1回、消防1回で、合計5回安否確認に来ました。私は初日に市長に言ってあるのに、それが伝わっていない。それから、1回目に自衛隊が来て、安否確認していったはずなんですよ。昨日も来ていましたよと言っても、上から言われたものはやらないと駄目なんでしょうね。
5日には、足を捻挫した人がいたのと、いつも飲んでいる薬が足りないという用事があって、病院へ行ったんです。そうしたら、飯田の町の中は消防車だらけで、緊急車両が邪魔になっているような状況でした。安否確認ばかりやっても無駄ですよね。うちはもう安否確認が終わっていましたし、もっと被害がひどいところもいっぱいありました。助けないといけないところもありました。自治体、自衛隊、消防、警察、各自ばらばらで横がつながっていないなと思いました。

電気の状況はどうでしたか。

電気が来たのは10日ほどしてからですね。電気が来るまでは、いろいろありました。1週間ぐらいしたとき、自主防災の連絡会に、オープンジャパンの方が来て、太陽光発電のついたモバイルバッテリーやカセットボンベで使える発電機をもらったり、借りたりしました。
別のボランティアの方からもLEDの投光器をいただいたり、狼煙町の住人の子供が差し入れで持ってきてくれたりして、30畳ぐらいの部屋を投光器で照らして明るくなりました。
最初のころは、携帯電話も、メールは見られない、ネットはつながらない、電話もできない。写真を撮るぐらいしか使えないんだけど、みんなやっぱり、手放せないんですね。それも、モバイルバッテリーで充電しました。そういったもので何とかなりました。あと、ケーブルテレビの線がつながらなかったので、なかなかテレビが見られなかった。
電気が来たあと、17日ぐらいにKDDIがスターリンクを持ってきてくれました。電気が来れば、携帯もつながるんですね。電源が来るまで、ドコモやKDDI、ソフトバンクは、通信車を何台か市内に置いていました。KDDIは、発電機を持ってきて基地局につなげていました。でも、基地局はたくさんあるので、彼らが行って、発動機に油を入れて、エンジンつけても1日ほどしか持たないんです。だから、次々やっていかないとならないんですけど、一周りしてくるまでに、3日ほどかかるんですね。そうすると、1日ぐらいつながるけど、あとはつながらない。油と鍵をくれたら、私たちがやりますよと言ったんですけど、駄目でしたね。そんな状態が12日ぐらいまで続いたかな。
こちらの住民も、どこまで行けば電波があるとか聞いて、そこまで行って、メールを受信して、また帰ってくるみたいなことをしている人もいました。

トイレはどういう状況でしたか。

トイレは最初、駄目でした。簡易トイレを備蓄していた人がいたので、その人に提供してもらって、最初の四、五日は便座に袋を敷いて、凝固剤を入れるという簡易トイレでして、それを縛って外に出していました。途中から支援物資の中にもありましたけど、やっぱり、そういうのは必要ですね。11日に2次避難でお年寄りと女性を出してからは、集会所の浄化槽が大丈夫だったので、ためた雨水を使って、水洗トイレでしていました。

入浴やシャワーはどうしていましたか。

入浴は、自分の家が薪風呂兼ボイラーだったから、井戸から水をくんで、風呂に入れて、お湯を沸かして、大きなタンクでお湯と水を混ぜて、かけ湯にして、皆さんに入ってもらっていました。
2月に入ってから、日本財団がWOTAという循環型シャワーと手洗い機を持ってきてくれました。それを倒壊してない家の車庫に設置して使いました。
それから、これも2月の初めだったと思うけど、土砂崩れの防止工事で横にボーリングを入れたら、湧き水が出るので、タンクに入れて、水道屋さんに、ポンプで家の水道の栓につなげてもらって、飲み水以外は家の中で自由に使えました。それを2軒ぐらいの家でやって、みんな、そこで洗濯したり、風呂やシャワーに入ったりしました。
豪雨の断水のときも、また岩城さんがボランティアで動いてくれて、高齢者の家に水のタンクを設置して、そこから水道の外栓につないで、ポンプを入れてくれました。狼煙で3軒、折戸で4軒ぐらいだったと思います。電気さえ来て、ポンプが回れば、タンクに給水車から給水するか、湧き水、井戸水でも使えます。

被災経験を振り返って

大変だったことはありますか。

まず大変だったのは、津波の避難場所から下りるときの判断ですね。大津波警報は簡単に終わるようなものでなくて、多分、朝ぐらいまで出ていたと思います。今回、狼煙には1.5メートルぐらい波が上がってきて、2波、3波が来るのも分かっていました。ただ、今まで、奥尻の地震や、秋田沖の地震、私が小学生の頃にあった新潟の地震でも、津波が起きて狼煙の港の道路ぐらいまで波が来ていて、つい一番最近の奥尻の地震のときは、港の中でかなり船がやられたりしていて、今回も同じように港や船がやられましたが、家には全く影響がなかったから、波が来たとしても、大体そのラインかなと思っていました。
外浦なので全く津波がないわけではないですが、今までも何回か津波が来たのを見ていて、体験的には、2波、3波で1回目以上の波は来ないだろうということで、ともかく行こうという感じで下に降りました。
それから、まとまって30人に2次避難してもらいました。ほかのところは、個人で申し込んでいましたが、まとまって行ったほうが、お年寄りは楽ですし、認知症の方もいたので、珠洲市の担当者と話しながら進めました。保健師の人を隊長にして、副隊長も決めて、若い男の子にもお手伝いとして一緒に行ってもらいました。1.5次避難所でちょっとトラブルがあって、こっちに電話がかかってきたんですが、対応のしようがなくて、金沢にいる知り合いの県議に電話で相談しました。2次避難も、みんなからはどうなんだろうという意見もあって、結果的にはよかったのですが、その判断も大変でしたね。
最初は、本当にすごい地震でひどいなという感情はありましたけど、それよりも、100人ぐらいの人が、助けが来るまでばたばたして大変でした。
この地区の自主防災の本部長でもあったので、お互いの状況を聞いて、対応しないといけない。そんなことが大変でしたね。大きなトラブルはあまりなくて、避難所運営も、誰かが決めるというんじゃなくて、大変なときは、皆さんやっぱり協力が取れているから、割とスムーズにいきました。次、何をしたらいいか、しないといけないか、情報を取って、先々を読んで考えるというのが少し大変だったかな。
あと、固まって2次避難した人もいるけど、例えば、子供のところとか親戚のところに2次避難している人や、みなし仮設に行っている人もいるわけで、そういう人たちと連絡を取るのに結構手間がかかりますね。
特定地域づくり事業協同組合の事務職員になっている若い移住者の方が、例えば、住民のLINEグループを作ってくれたりして助かりました。それでつながらないお年寄りは電話でつないだりして、そういうコミュニティ維持のための連絡を取るのが結構、時間と手間がかかるので気をつけないといけないところですね。
だから、連絡するための名簿はしっかり作りました。もともと避難者確認名簿というのを5年ほど前に作っていました。個人情報満載で、携帯電話番号も、普段どこに行っているかも書いてもらいました。もし平日に何かあったら、働いている人は外に行っていて町にいないので、お年寄りだけになるわけですよ。子供も学校に行っている。そうすると、連絡の取りようがないから、名簿を用意していました。それから避難所にいるときも、子供のところへ行くときには、連絡先を聞いておくという作業が結構手間でした。
御飯を作らないといけないので、毎朝、人数確認もしないといけない。自主避難所だから、誰も世話をしてくれない。最初はボランティアも来ていないし、自分たちでやらないといけないとのが大変でした。私はしていなかったけども、御飯の用意をするのも大変だったと思います。

日置地区全員の名簿があったのですか。

避難者名簿は、日置地区全体で作ったんです。だから、各区長が、それを持っていて、毎年更新しています。避難してからは、避難所の名簿と自宅にいる人の名簿を別に作って、連絡を取れるようにしています。

避難所の名簿というのは、狼煙の避難所ですか。

狼煙の避難所だけです。狼煙のグループLINEと、LINEに入ってない人も携帯電話の番号と行き先は、避難所から出たときに聞いています。そうすれば、情報は伝えられるので。

ほかの避難所との情報共有はありましたか。

そこまではできないですね。避難所ごとにそれぞれが対応したと思います。うちはそのグループLINEがあったおかげで、今でも何か連絡するときに使っています。

避難所運営に携わった経験を語る糸矢さん(2024年10月30日撮影)

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