体験を語る
- 県民
皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年11月27日 |
地震発生当初
聞き手
被害状況からお伺いしたいです。発災直後から、町並みや御自宅の被害の状況をお聞かせ願えますか。
瀬戸さん
地震発生当時、私は外浦にある清水の親戚宅へ挨拶に行っていました。1回目の地震で家を出て、車に乗ったんですけど、長橋ぐらいまで来たところで2回目の地震があって、揺れがすごくて、途中で運転できなくなりました。外浦だと、左側が海岸、右側は崖というところもあるんですけど、たまたま止まったところが畑で、崩れるようなものがなかったので、そこで被害はなかったです。
地震が収まってから動き出したんですけど、そのときは道もかなり段差ができていて、車の底を擦りながら行きました。大きな石が落ちていたり、電線がぶら下がっているところもあったりしながら、大谷の橋近くまで行くと、消防の人から、この先はもう行けないので戻るよう言われました。まず津波が来ると思って、長橋の避難場所に上がりました。
息子は、正院消防団に入っていたのもあって、地域の人と一緒に、倒れた家から人の救出を手伝ったり、独り暮らしの家を見て回ったり、デイサービスの車に人がいないかなどをチェックしたりしていました。その日は車中泊をして、翌朝に帰ることにしました。家にいた家族と、一応連絡は取れていたんですけど、帰らないと状況が分からなかったので。
次の日、トンネルは崩落して、橋は崩れて、もう通れない状況で、大谷のところで車を止めて、半日かけて正院まで歩いていきました。
瓶子さん
私は、家にいたんですけど、1回目の揺れのときはまず、慌てて外へ出ました。前の家に独り暮らしの方がいたので、どうでしたかって見に行ったら、びっくりしたと言って座っていたので、大丈夫だったねって言って、外に出た途端に2回目の地震が来たんです。
それで、もう一度さっきのお宅に戻って、どこにいるのって言ったら、たんすが倒れたせいで戸の下敷きになっていて、そこから声が聞こえてきました。娘さんと電話中だったそうで、急にキャーって言って電話が切れたので、娘さんもびっくりされたそうです。それで、なんとか戸をどかして助けて、取りあえず、着のみ着のまま小学校へ行きました。
途中で、川の水が引いていたんです。こんなに水が引いたから、津波が来るんじゃないかと判断して、取りあえず、殿山という高台の場所で、小学校の裏に避難場所として指定したところがあって、そこへ登りましょうということになりました。
ただ、母親が独り暮らしで、珠洲市内の少し離れたところにいるんです。それが気になったので、一緒に逃げてきた方を近所の人にお願いして、家に戻って車で行こうと思って、途中で出会った人に、津波が来るから早く逃げてって言いながら行きました。
横目で見ると、川のそばに家が潰れていて、まだ中に人がおいでたんですね。息子が消防団で、その方を助けて、救急が来るまで様子を見ていたらしいです。私は、寝たきりの母親が心配で、小学校側の道は、家が倒壊して全く見えませんでしたから、ここは駄目だと思って、反対側の農免道路を通ったりしてなんとか行ったんです。少し行くと、電柱が4本倒れて、道を塞いでいたので、横に車を止めて歩きました。川があって、ずっと回らないといけないし、目の前なんですけど遠くて、長く感じました。辛うじて小さい橋が壊れていなくて渡れたので、何とか家まで行ったら、母親はベッドに首だけ出した状態で、家の様子を見たら、もうあ然としました。ガラスというガラスは全くなく、戸も折れたようになって全て飛んでいって、壁も落ちて、よく母親のところにガラスが飛ばなかったなという、そういう状況でした。
そこから3日間、動けないからどこにも行くことができず、絶えず余震が来て、電気もない、不安な中でそこにいたんです。
日中は、少し離れたところに1軒だけ、家が比較的大丈夫だった方がいたので、そこから飲み水をもらいました。手を洗うのは、山水を使って何とかしていました。幸い、ストーブがあったので、すごく役に立ちました。あのとき少し雪が降ったと思うんですけど、雪を集めてきて、鍋に入れて、レトルト食品みたいなものを温めて、おかゆを母親にあげたり、少しずつ食べたりして、心細かったんですけど、何とか過ごすことができました。
4日目に自衛隊に移動してもらって、正院小学校へやっと来ることができた。そこから2日間は母親といたんですけど、母親は県外から妹が来て連れていってくれた。それで私は動くことができるようになって、4月21日まで避難生活をしていました。
聞き手
今いる公民館は、自主避難所として使っていたということですか。
瀬戸さん
ここは使っていません。
瓶子さん
この公民館も、後ろ側は被害が大きいんです。外の地割れもひどいですし、水も出ないんです。それで、小学校を避難所にするということで、急遽本部を立ち上げられたんですね。
瀬戸さん
避難してきた若い人が中心になって、本部を立ち上げたのは2日。職員室を本部にして、職員室にあるものを全て隣の部屋のほうに移動させました。小学校は、体育館が雨漏りしていたので、各教室が避難所になっていました。
瓶子さん
最初は3階まで使っていました。それこそ、1日目は廊下にも人があふれていたと聞きました。
瀬戸さん
私も1日はいなかったですけど、歩いて2日の昼頃に着いて、家族と合流しましたね。大谷の峠も2台ぐらいが車止まっていたので、みんな歩いて移動したり、トンネルの近くまで迎えに行ったりしたんじゃないですかね。
瓶子さん
4日目に来たとき、広いフロアのところで、皆さんほんと、頭もくっつくくらいの、ほんとに雑魚寝でした。夜も、目隠しも何にもないし、いびきも聞こえるし、苦痛に感じた人もいたと思います。2階に上がっても、みんな床に布団を敷いて雑魚寝という感じで、布団ならまだよくて、薄い毛布を敷いて寝ている方もいました。
ちょうど正月ということで、帰省されていた看護師の方がいらっしゃって、皆さんの様子を見てくれて、すごく助かっていました。ただ、感染対策も十分にはできないですし、フロアで一緒だった人がコロナになり、母親が県外に行ったとき、感染していたらしくて、連れていった妹もコロナになりました。症状は比較的軽かったんですけど。
瀬戸さん
4日目ぐらいに自衛隊から毛布が来たけど、どう配布したらいいか分からないから、しばらくはそのままって言われて、すぐには支給されなくて、潰れた家から、毛布を持ってきたりしました。
最初の頃は、学校にあるカーテンとかいろんなものを外して、卒業式などの式典でかける布も使って、学校の品物を全部使って暖を取っていました。最終的にどこに行ったかすごく探すことになりました。
お年寄りがいる家族が2次避難で出ていってから、避難所のスペースを確保することができましたね。テントがもらえたり、ダンボールベッドが来たりしました。
最初は明かりもなくて、お寺からろうそくを持ってきて使っていました。
瓶子さん
危険だということでやめて、3、4日目に電気が来たときは、皆さん手をたたいて喜んだぐらいでした。
正院地内にお寺が結構あって、皆さんがだるまストーブを持ってきてくれたので、灯油も皆さんの家から持ってきて、廊下などに置いていました。
瀬戸さん
最初は仮設トイレもなくて、トイレも花壇に穴を掘って作っていました。
瓶子さん
消防団が穴を掘って、テントを張ってブロックも置いてトイレを作りました。雪が降ったら滑りますし、危なかったと思いますけど、それは仕方ないとなって、3日後には凝固剤が来ましたね。凝固剤は使用するまでが大変で、誰かがトイレを掃除しないといけないので。
瀬戸さん
公民館の主事さんとか若い人がそれを始末していましたね。
瓶子さん
だんだん、避難所から出て、知り合いのところへ行くという感じで、人が抜けていくでしょう。そうすると、班として役割も決めていたんですけど、そこも抜けてしまって、衛生面は一番大事なことだから、やっぱり誰かがしないといけないということで、手を上げた人と主事さんの3人でやっていました。
避難所の運営について
瀬戸さん
避難所は、一応、公民館が主体となって仕切ることになっていました。自主防災組織もあったけど、全然、機能していなかった。消防団が結構みんなしっかり動いてくれて、あと公民館とお寺さんも自主的に動いてくれて、みんなで、2日の日に、場所づくりから始めました。5月に地震があったときから、災害看護学会さんとかいろいろ入っていて、高岡のヤマヤ物産が、大きな鍋や釜を2つ持ってきて、2日からもう炊き出しも始まりました。御飯とみそ汁だけで、御飯も少なかったですけど。そのときは、避難所の中にいる人、グラウンドで車中泊する人、在宅の人って、3通り避難している人がいたので、おにぎりを作っても、みそ汁を作っても、みんなに行き渡るわけではなくて、主として、避難所にいる人や車中泊の人に配りました。
瓶子さん
在宅の人は、正月ということで、家が潰れない限り、ある程度の食料は確保していたと思うんですけど、慌てて家から出た人は何にも持たないから。2日ほどしてから家に戻って、材料を持ち寄って、それを鍋に入れて、大鍋に入れて炊いたりしたそうです。最初は、電気も使えなくてお米も炊けないし、レトルトやカップ麺を食べている人もいたと思うんです。でも、避難所へ来たときには何もないから、ありがたかったと思いますよ。本当に少しずつだったと思うんですけど。
瀬戸さん
おにぎりを食べ終わった後にみそ汁が来るとか、そんなこともありましたけど、公民館長さんや主事さんが仕切ってくれたので、混乱はなかったですね。みんな順番に待ってくれました。
それから何日かして、もう衛生班とか物資班とか役割を分けていきました。
聞き手
公民館が主体となって避難所を運営するというのは、もともと決まっていたんですか。
瀬戸さん
決まってはいません。たまたま、誰が中心になるかってなったときに、本部長になっている区長会長さんは、地震発生当時ここに来られなかったので、公民館長さんが、主体となって動き始めました。
聞き手
公民館を主体にして組織ができたんですか。
瀬戸さん
避難所に集まった若い人が中心になって、いろいろ班分けしました。帰省した人や和歌山県からたまたま旅行で来ていた人、高校生などの若い人が、炊き出しを中心にやってくれました。
聞き手
1.5次避難や2次避難で、担当の方が抜けてしまうという話があったと思うんですけど、抜けていった人をどうカバーしたんですか。
瀬戸さん
そのときは、残っている若い人がいて、学校の先生と区長会長、公民館館長が中心になって、そこに長野県の防災士さんや、福井県の職員の人とか、いろんな人が入ってくれるようになって、徐々に物資も入ってきてという感じで、運営できました。
聞き手
それはどのくらいの期間ですか。
瀬戸さん
割と早い段階から、最近までずっと。
瓶子さん
正院は主に、長野県の防災士さんが来てくれています。昨日も地震がありましたけど、どうでしたか、けがしませんでしたかということで、気にかけてもらっています。
瀬戸さん
ピースウィンズ・ジャパンの人や、災害看護学会の人が交代で来たり、いろんなボランティアさんが入ってくれたりして、運営を手伝ってくれたんです。
瓶子さん
炊き出しとかもすごく助かりました。
瀬戸さん
正院では、2日からずっと炊き出しがありました。
瓶子さん
あるときに、正院の外から物資をもらいに来た方がいて、炊き出しを案内したら、今までずっと缶詰ばっかりだったので、温かいものがもらえるのはいいねと言っていましたね。それが2か月たってからのことなんですよ。そういう、炊き出し自体が避難所でできていないところもあって、正院は恵まれていたと思いましたね。
去年の5月の震災のときから計画してくれていた方がいて、十何時間かけて富山から来てくれた。
聞き手
1月2日に来られたんですか。
瀬戸さん
そうです。その後、アジア子どもの夢という、富山のボランティア団体の人も、チョコレートやあめなどの甘いものを持ってきてくれて、小学校でコーヒーを沸かして、みんなへ配ってくれたりしましたし、正院は早くから本当に恵まれていて、ほかの人に気の毒なくらいでした。水はなくて、1、2日なんか、お年寄りが薬を飲むのも難しかった。
瓶子さん
ペットボトルの蓄えも少ししかなくて、皆さんに行き渡るほどはなかった。
聞き手
正院小学校に備蓄が少なかったということですか。
瓶子さん
備蓄は公民館にあったものです。小学校には全くなかったです。
瀬戸さん
小学校は、先生が全然来られるような状況じゃなくて、自分たちで鍵を開けて入ったそうです。
瓶子さん
そうするしかなかったです。裏山は崩れて避難所に上がれない、公民館も危ない、700人が入るのは、やっぱり学校しかない。学校に行ってもぎゅうぎゅう詰めだし寒いしで、車中泊という人もいて、2日目までそんな感じだったと聞いています。しょっちゅう余震があったので、もう家にはいられない、いつどうなるか分からないということで、グラウンドにも、止めるところもないくらいに車がいっぱいありました。皆さん、ちょっとパニックになっていたかもしれませんね。
瀬戸さん
私は、1日は6人家族のうち、3人は大谷、あと3人は家にいて、家は全壊。妹夫婦も入れて5人が家にいて、玄関先にいたからすぐに出られた。それで、どこもかしこも電気がない中で、お宮さんも潰れている横を、山道を通って町内みんなで一旦裏山に上がりました。みんな、一応、避難袋とか水を準備していても、2階が1階になっているような家がほとんどでしたから、持ち出しはできなかった。玄関がほぼ潰れている状態だから、靴がなくて、はだしで上がる人、袋を履いて、石ころだらけの道を歩く人、いろんな人がいたと聞いています。
瓶子さん
私も7人家族で、私だけ抜けていたから、あとの孫3人とお父さん、息子とお嫁さんとで、最初は避難所に行きましたけど、人がいっぱいで、机にうつ伏せに寝るような状態で、子どもにもよくないし、3日目には、加賀のほうへ避難してもらいました。道もガタガタでも何とか通れるかという感じで、車も傷んだんですけど、何とか行ったらしいです。お父さんと私と、息子は消防団なので残りました。こっちに残った者は最後までいたという感じです。
聞き手
いつ頃まで小学校を避難所として活用されていたのですか。
瓶子さん
4月21日に公民館へ移動してきました。
瀬戸さん
それで、七、八人がテントを張っていました。
瓶子さん
隣の和室は消防団の事務所でした。
瀬戸さん
小学校の避難所でも消防団がいて、見回りしたり、ポンプ車で毎日必ず巡回したりしていたということです。
瓶子さん
21日にここに移動するまでずっと学校で、そろそろ子供たちに返さないといけないということで、仮設住宅に入る方も多くなってきて、ここに来たとき、最終的には11人だったかな。
瀬戸さん
最初、正院のグラウンドに仮設住宅ができたときにまず人が出て、公民館に移ってからも、家も気になるし、水が出たら帰るという感じで、子供のいる家族が出ていったら、ほぼいなくなりましたね。
正院は、避難所を閉鎖するのは早かったと思います。学校から公民館へ移るのも、公民館から人が減るのも早かったですし。
瓶子さん
最後に残った方は、高齢の独り暮らしで、周りに誰もいない中で家に戻るのは気になったので、いられるだけいていいよって言っていました。結局は、皆さんが仮設住宅に入るから、私も帰りますということになりましたが、区長さんが様子を見て回るようにしてもらいました。今も一人で、周りはもう解体してしまったんですけど、一人で頑張っていらっしゃいます。たまに見ると声を掛けたりして、元気にされています。
聞き手
避難所生活で当番はあったんですか。
瀬戸さん
小学校でも部屋単位で掃除当番を決めていましたが、人が徐々に減っていったら、ちょっと厳しくなって、2つの部屋を合わせたりしていました。
瓶子さん
皆さんでしましょうって言ったら、反対も出なかったし、男性も女性も掃除しました。トイレ掃除も皆さんで振り分けて、何も異存がなく、うまく回っていきましたよ。
瀬戸さん
食事も、いつも若い人たちに作ってもらって食べてきたけど、若い人が徐々に仕事に出ていくようになって、私たちと同じ年代の人に声を掛けたら、喜んでやってくれました。本当は、若い人にしてもらってばかりですごく申し訳なかったけど、中に入るのもちょっと気が引けたのもあったと話していました。
聞き手
自然に移り変わったんですね。
瀬戸さん
鍋をきれいに洗ってくれたり、まめに掃除してくれたり、灯油を補充してくれたり、ポットに水を入れてくれたりとか、すごく気を回してくれる男性がいたんですけど、その人が、水が出たからって家に帰ったら、さあ次は誰がするのかとなりました。
そこで年配の方、ふだんはあまりしゃべらない男性でしたが、声を掛けたら、いいよと言ってやってくれましたし、みんな、声を掛けたらちゃんと動いてくれました。
瓶子さん
みんな、本当は言ってほしかったんじゃないかなと思います。
瀬戸さん
若い人は色々工夫されて、普通、アルファ米は袋にお湯を入れて食べるんですけど、お寺から大きい炊飯器を持ってきて、そこにまとめて入れて、その分量のお湯を入れて作って、それを皆さんによそったり、おにぎりにしたりしました。だから、物資で届いたアルファ米も結構消費しました。
瓶子さん
一人ずつお湯をかけて食べるのだと味気なくて、たくさん作って、みんなで食べる方がおいしかったです。
瀬戸さん
御飯が残ればおにぎりにして、発泡スチロールにホッカイロを入れて、保温しておけば、朝、温かいものを仕事に行く人が持って行くことができましたし、本当に若い人はすごく頭がいいなと思いました。
聞き手
若い方は結構いたんですか。
瓶子さん
若い方は少ないです。ただ、たまたま小中学生の子を持つお母さんがいて、その家族の方が、凝固剤の補充から、御飯のことから、掃除から、みんな動いてくれたんです。だから、その子たちが出ていったときも、じゃあ、今度は私らがしようって感じで、やっぱり助かったんですよね。小さい子が一生懸命頑張っていて、みんなにこにこしていました。癒やしになっていましたね。
瀬戸さん
普通はもう子供のいない家庭がほとんどだけど、避難所は子供がいたし、今までと違う生活ができた面もあると、半分は思いました。
瓶子さん
ただいま、おかえりって言うだけでも、1つの家族みたいになって、それはすごくよかったなと思っています。今まで話しかけたことのない人も引き込んでいくことができたというか。皆さんと話ができて、幅広く顔なじみになれたような気がします。
聞き手
正院地区は家屋が結構倒壊しましたが、水道や電気、ガスといったライフラインはどうでしたか。
瓶子さん
復旧は遅かったですね。
聞き手
家屋の下に水道管が埋まっているから、なかなか復旧工事の対応が遅れているようなイメージなんですけど。
瓶子さん
倒壊家屋が多いから、残った在宅の人から先にするとか、そういう感じでしたね。下水のほうも、大通りとかメインの通りが修繕されて、検査してくださいという紙が入っていたから流してみたら、大丈夫なところもあるし、全く駄目なところもありました。私の家は、水は出るんですけれども、ボイラーを通して水を出さないと出ないので、流しもトイレも使えない。家は解体予定ですからいいんですけど、そういうところもあります。
瀬戸さん
私は商売をしていて、家は全壊で、事務所も、車庫を潰した更地に仮の事務所を置いてから解体するから、無駄なお金を使えないんです。
私は、当初から、避難所には通いのスタッフです。誰かがいないと盗難が心配なので、いつも朝に避難所へ行って、手伝いをして、家へ帰るという状況です。電気は来ていますけど、水道は通ってないし、解体すると決めているから、工事費をかけてまで無駄に直すことはできない。家に水を通すより他を優先してほしいです。
瓶子さん
私も理容店をやっていて、営業はできるんですけど、トイレはできないから、凝固剤を使っています。お客さんには、トイレは公民館とか集会所に行ってくださいってお願いしています。公民館は、ふだんは開いていて、トイレも自由に使えるみたいなんですけど、休みのときで、集会所も何か催しをしていて入りにくかったということもありました。
避難所で、私も1つテントをもらって寝泊まりしていましたけど、結構、夜中に猫が入ってきて食べ物を漁る音がしたり、手洗い器が誤作動して、水が出て音がするので止めに行くということが何回もあって、いろいろ気になりました。
でも、避難生活も、今までお話ししたこともないような方とも、話合いというか、助け合えたことはよかったと思います。
瀬戸さん
高齢者の独り暮らしばかりだったのが、子どもと触れ合ったり、声を掛け合ったりしてね。今は、みんな仮設住宅に一人で入っていて、寂しいというか、それもよくないんじゃないかなと思います。
被災生活を経験して
聞き手
一人で話さないでいるのはよくないですしね。集会所もありますけど、何かコミュニティーの輪を広げるようなものはあるのでしょうか。
瓶子さん
ベンチを寄附してもらったんです。天気のいい日は、必ず誰かがいて、周りに人が集まってくるんですね。だから、すごくいいと思っていて。
瀬戸さん
冬は少し難しいですけど、天気がよければ、さっと集まってしゃべれる。正院の集会所は、いろんなイベントもやっています。お茶会とか、一服せんかいねって、ずっとやっています。私たちは蛸島の仮設住宅にいるんですけど、正院で活動しています。
地震があって、家族がばらばらになりました。うちにも、88歳の母親と娘夫婦がいたんです。娘は地震のとき妊娠中で、母親は、倒れたたんすから、おなかの大きい娘を守って、ろっ骨を骨折して、白山市の妹夫婦が、何時間もかけて母親を白山市に連れていったんです。母親は、コロナにかかるわ、肋骨は折れているわ、血圧は上がるわで、かなりひどい状況です。娘は、行きたくないと言っていたんですけど、病院もないし、やっとできた子だしということで、母親の後に、娘も向こうへやりました。仮設住宅に戻りたいとは言っていますけど。そうやって、地震で家族ばらばらになった家もいっぱいあると思います。
瓶子さん
うちは来年から中学校に入る子が金沢へ行くって言っていて、お母さんがついていくんです。そうなると二重生活ですよね。
寂しいですよね。今まで7人家族で1つにいたものが、仮設住宅が3つに分かれて、それこそ、顔も見ない日もあるし。一人一人の気持ちの持ちようで、横にいるからという気持ちもあればいいのかもしれませんけど、一緒にいないのが当たり前の生活になってくるというかね。お年寄りは残りたいけど。
瀬戸さん
若い人は帰ってこないでしょうね。
聞き手
若い人も、お子さんがいたりすると、結構、金沢のほうに行ってしまったという話もありましたけど、帰ってきたいという思いはあるんでしょうか。
瓶子さん
小さい子は、やっぱりあのときの怖さはトラウマになるんじゃないですかね。テレビで、小さいお子様を守ってあげてくださいと言っていて、そのとおりだなと思って聞いていました。背中をさすってあげてくださいとか。
地震で、子供はもう怖い思いをしたくないというのが一番じゃないですかね。目の前で家が潰れていくんです。怖いですよね。車も、倒壊した家の中へ、揺れるたびに入っていくんです。でも、どうしようもないから、車はもういいやと思いながら、もう一台あるのに乗っていくって感じでした。
瀬戸さん
私はそのとき外浦にいたので、家が潰れるのは見てないですけど、電話があって、瓦が落ちているというのを聞いた後、つながらなくなりました。車庫は、2階が1階になっていて、車2台がパーになりました。
外浦から帰ってくるときに仁江も見てきたんです。まず、仁江に入る手前で倒れた家が道路を塞いでいて、その後、土砂崩れがありました。地元の人も、海岸が隆起したのを最初分かっていませんでした。いつもと違うけど、水が引いたのかと思って、私たちも、いつになったら津波が来るのか待っていたけど、結局来ませんでした。隆起していたんですね。
瓶子さん
近くの川も隆起したのか、水が全然なくなったんです。ずっと水がなくなって、水はどこへ行ったんだろうという感じでした。家は地盤沈下で液状化して、川は上がったという感じですかね。
瀬戸さん
正院地区は、30年前にも地下水が吹き上げたりして、液状化したと言われています。
瓶子さん
家も液状化で基礎がもう駄目になってしまいました。息子がまた建てると言っていますけど。
瀬戸さん
私のいる川尻は軒並み更地になって、今残っているのは、1軒だけかな。でも若い人は、いろいろとまちづくりを考えて動いています。
聞き手
まちづくりの会合みたいなのは開催されているんですか。
瓶子さん
若い人は毎週、私たちは1か月に1回参加して、ここはこうしたほうがいいとか、ここをもう少し変えていこうとか、そういうことを話し合ってくれています。今はまちづくりをしていくための準備段階で、珠洲市にいた人たちに連絡を取って、まちづくり協議会を発足するための許可というか、やっぱり知ってもらわないといけないし、更地になった土地をどうしたいのか、住むのか住まないのか、そのままにしておくのか、公営住宅などに提供してもらえるのかとか、そういうアンケートも取っています。何回もアンケートを取らないといけないです。
そういうことをしてくれているから、応援して、みんなで一緒に考えていますね。お年寄りからも、こうしたほうがいいんじゃないかという意見も結構出されます。正院地区は結構早くから、そういうことを続けています。
瀬戸さん
若い人たちが頑張っています。
瓶子さん
応援していきたいです。

伝える
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県民
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学校
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企業・団体
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珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
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「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
「全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応」
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珠洲市総合病院
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関係機関が作成した体験記録