体験を語る
- 県民
厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営

場所 | 珠洲市 |
---|---|
聞き取り日 | 令和6年11月27日 |
地震発生当初
聞き手
発災当時のことをお話しいただいてもよろしいですか。
田中さん
元旦ですから、家に家族全員で集まって、新年の挨拶をしている時間帯でした。この揺れは経験したことがない、ちょっと違うなと感じて、家の前に出た瞬間に、向かいの家が潰れていました。
道路に家が倒れていたので、七尾から来ていた孫を抱いて、屋根を渡ったりしながら、指定避難所まで逃げました。
聞き手
指定避難所はどこだったのですか。
田中さん
野球場です。この地域は、防災訓練でもそこに避難することになっていました。近所の人とみんなで逃げたんですけど、冬なので寒いし、みんなで相談して、地震が少し落ち着いたときを見計らって、子どもが家へ車を取りに戻りました。
あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、無理やり通ってきたので、車体がボコボコになりました。ただ、そうしないと、孫たちが、着のみ着のままで逃げているから、そこで一晩過ごすわけにもいかない。
まだ車なら、エンジンをかけていられるだろうということで、車が50、60台で固まって、一晩を過ごしました。
聞き手
野球場で一晩過ごされたんですね。
田中さん
野球場だけど、大津波の警報が出ていたから、みんな車で、山のほうへ上がったんです。そこにみんな一列に並んで車を止めました。
次の日、指定避難所の小学校まで行くと、人がいっぱいでした。私たちと一緒に動いていた中に、車椅子に乗ってるおばあちゃんがいたんです。それで、何とか入れないかと言ったら、2階に少しスペースがあると言われたんですけど、車椅子のおばあちゃんを2階まで上げるというのも大変ですし、相談して出ることにしました。それで、どこか開けてほしいとお願いして、保育所を開けてもらいました。
聞き手
その保育所は、もう使われていなかったのですか。
田中さん
そうです。去年かおととしに合併してちょうど使っていなかった。その代わり、中には何にもなかったですけどね。
開けてもらったら、後のことは頼むと言われました。それで次から次へと、口コミで皆さん入ってきたので、ある程度、親しい人、知っている人で振り分けて、部屋割りをしました。
聞き手
鍵を開けた日は、何人ぐらい来たんですか。
田中さん
80、90人来たかな。一部屋に十数人で入ってもらって、ホールにも入ってもらいました。そのとき、玄関で、みんなから靴を脱ぐのか聞かれて、衛生上は脱いだほうがいいですよね。でも、そこで脱いだ靴をどうするのか。最後は、私の靴はどれかという話も出てくるから、そのときは、部屋まで土足で上がって、部屋も入るときに脱いでもらうようにしました。
聞き手
部屋の手前で脱いでもらうようにしたんですね。
田中さん
玄関の入り口に靴が散乱しても困るし、とにかく、もう土足でいいと。後で、こういうときだから土足で上がってもらったという説明はしました。
少しずつ落ち着いてきた時に、スリッパが欲しいとか要望もしつつ、保健師さんとも相談して変えていくというような形でした。
聞き手
部屋の割り振りは、初日からされたんですか。
田中さん
そうです。四、五人ずつ分けて入ってもらって、次に人が来たら、知っている人のところに入ってもらうようにしました。
聞き手
なるほど、顔見知りのいる、入りやすいところに。
田中さん
そういう振り分けにしないと、同じ蛸島地区にいても、誰が親しいのかは分からないので。
聞き手
そうやって分けたことが、結構よかったんですか。
田中さん
例えば、本人に直接言いにくいことも、知り合いの人から言ってもらうということもありましたし、やっぱりみんな気がいら立っていて、ちょっとしたことでもトラブルになりやすいから、そういう振り分けでやってもらったおかげで、トラブルも少なくて助かりました。
避難所の運営について
聞き手
鍵を渡されて、後を任されたということで、やることがたくさんあったと思うんですが、組織づくりはどうされましたか。
田中さん
10人ほど、すぐ集まってくれました。助かったのが、子どもの同級生もいて、その若い3人には、物を運んでもらいました。そして、うちの妻が調理師で、三、四人のグループがいたので、御飯のことをお願いして、それからたまたま看護師の方が二人いたので、お年寄りの面倒を見てもらえないかとお願いしました。そうこうしていると、やっぱり、何かすることないかと聞いてくれる人もいたから、玄関やトイレの掃除をお願いしたりして、自然とみんなの仕事が決まっていったというか、自分たちがするものだと思うようになっていきました。
手が足りなくなったら、ほかの人に声を掛けて手伝ってもらうようになって、掃除も1日3回ぐらいしてくれていました。
御飯も、ほかの避難所は既製品も多かったかもしれないけど、うちは結構手作りでやっていました。正月で、家に食材もあるので、最初は皆さんで持ち寄って、それがなくなってくると、畑から大根とか白菜を畑から取ってきて、お味噌汁や漬物、煮物を作るなど、色々考えてやってくれていました。
聞き手
指定避難所でなかったということで、初めは物資がなかったんですね。
田中さん
避難所として把握されていないから、どうしても最初は物資が来ないんです。指定避難所のほかに避難所になっている場所が分かったら、連絡を入れてもらわないと、ほんとに回ってこない。ただ、携帯電話が通じないから、連絡の取りようないんですよ。通じてもすぐ切れるし、何が欲しいというのを言う余裕もない。
あと、行政の人にも言っているけど、物資も、例えば、100人収容の避難所でも、200、300人入ることもあるわけです。そのときに、100人の3日分の物資が置いてあっても、300人が入ったら一日で終わりです。行くところがない人に来るなとは言えないので、そういう問題が出てきます。
保育所でも、最初は、一部屋に十二、三人入ってもらったけど、その1部屋に対して、1日分の水は、2リットルのペットボトル1本です。それだけ物資が来ない。悪いけど、これ1本ずつ何とか分けて飲んでくださいとしか言ってあげられないんですよ。
病気になる人がいれば、水分補給も要るだろうから、全部配るわけにはいかないですし、やっぱり数本は置いておかないといけない。そういう人たちには、後で言ってもらうようにしました。2、3か月の子どもがいるお母さんが、申し訳なさそうに、子どもにミルクをあげないといけないと言ってきたときも、余分に置いておいた中からあげました。でも、十何人の部屋で1日1本じゃきついですよ。
聞き手
その後も、ずっと水がない期間は続いたんですか。
田中さん
1週間ぐらいで物資がぼちぼち入ってくるようになりました。
聞き手
最初は自衛隊ですか。
田中さん
そうです。あとは、一般のボランティアの方で、先日も来てくれたんだけど、1月9日に来てくれた女性の方です。前回で3回目かな。最初の状況を見ているから、何とかここまでになったねという話をしていました。
聞き手
ここは自主避難所ですけど、みんな、どうやって知ったんでしょうか。
田中さん
調べたみたいです。そういう人はいっぱいいますよ。例えば、寝袋とかトイレを持ってきてくれた会社もありました。一番助かったのが、妊婦さんとか、二、三か月の子どものいる家族の方々が、二、三日して、金沢へ出て行ったあと、何が必要か、見ていて一番分かるわけですから、物資を集めて、1回、4トントラックいっぱいに物資を持ってきてくれて、本当に助かりました。
その人たちは、例えば、暖房がないから灯油が要るだろう、電気が来てないから、発電機のためにガソリンが要るだろうとか、こういうものが要るだろうって、着るものも持ってきてくれました。あれがなかったら大変だったと思います。
もらっておいてこんなことを言うのも申し訳ないんだけど、自衛隊や行政の物資は、水と布団、アルファ米やカップ麺とか、一緒なものしか来ないんですよ。
それから、能美市の赤十字の方が、何が欲しいか聞いて、次のときに持ってくるっていうので、毎週来てくれたんです。例えば、調味料がないから調味料が欲しいとか、店も開いてないから、たまに肉や魚も食べさせてあげたいという話になって、極力それに応えられるように頑張って持ってきますという形で、保育所が閉まるまで来てくれました。
愛媛県の方も、トラックにいっぱい野菜とか積んで5回くらい来てくれたかな。保育所から、仮設住宅に移って、だんだん人数が減ってきたら、仮設住宅の人たちにあげたりもしました。
これからも、指定避難所に人が入り切らない状況になったときは、自主避難所が出てくることになるわけですから、行政にもそれをしっかり把握して、物資を配送してほしいなと思いましたね。指定避難所と自主避難所では、すごく差があるんですよ。まず指定避難所に優先的に行って、そこで残ったものが自主避難所へ来るという形になる。スリッパを頼んでも、2か月しても来なくて、指定避難所に行ったらいっぱいあったので、そこからもらったんです。要らないところへあって、欲しいところにない。物自体はあるのに、これが一番もったいない。
これは今回の地震だけじゃなくて、どこでもあり得ることだと思うし、やっぱり物の管理は一番大事かなと思いましたね。
あとはトイレが大変で、女性陣はかわいそうだけど、穴を掘ってやってもらいました。簡易トイレも仮設トイレも何にもないし、水洗は電気が止まっているから流れない。最初は、川からバケツで水をくんできて流していたけど、あふれてしまった。その後、凝固剤入のトイレセットが来るようになったら、数が足りないから、1つの袋に、例えば1回したら、上に紙を乗せて、またしてもらって紙を乗せてというようにして、四、五人で1個使ってもらいました。
聞き手
物資が来たのは何日後ですか。
田中さん
1週間ちょっとぐらいかかったかな。
聞き手
それまではバケツで水を汲んできてされていたんですか。
田中さん
あとは穴を掘って、保育所の遊具の中に木の橋を渡して、カーテンやシートを巻いて、女性はそこでしてもらいました。男性は、悪いけど、掘った穴でしてもらいました。
聞き手
穴は何か所掘りましたか。
田中さん
6、7か所掘りました。
聞き手
保育園では、水や電気、ガスはどうでしたか。
田中さん
水の来たのが3月ぐらいですかね。電気は2月ぐらいです。
ガスはプロパンガスです。カセットコンロが来て便利でした。御飯も炊けるし、みそ汁もできるし。そういうのも利用して調理しました。
最初、百何十個おにぎりを作ったときは、女性陣がほとんど手伝いに出てくれて、一人一個、小さいおにぎりでしたけど、やっぱりガスで炊いて、うまいと思いましたよ。
旧保育所に入れなくて車中泊している40人と、動物を飼っている人が三、四人いたかな。観光客もいました。その人たちにも御飯を提供しないといけないし。
聞き手
観光客の方は何人いらっしゃったんですか。
田中さん
二人いましたね。見ず知らずの県外の人は、どうしても避難所には入りにくいというか。
聞き手
いつ頃帰られたんでしょうか。
田中さん
2月かな。結構長い間、車中泊をしていました。犬も元気がなくて、物資で犬や猫の餌も回ってきたから、そういうのも渡したりしました。ただ、車の中で何日も寝泊まりするもんじゃないと思いましたね。
聞き手
一番多かったときで、何人ぐらいいたんですか。
田中さん
旧保育所に120人ぐらいで、車中泊の人が40人ぐらいです。障害者の方もいて、周りの人に溶け込むことがちょっとできなかったので、その家族だけ、その息子さんと誰かが交代で、車で寝ていました。子供はずっと車の中にいたので、避難所に連れてきたらどうかと言ったこともありますが、迷惑がかかっても嫌だしと言われると、あんまり無理に言うこともできなくて。
聞き手
その方は、最終的にどちらに行かれたんですか。
田中さん
珠洲市の障害者を受け入れるところを世話してもらいました。その後、1.5次避難とか、2次避難が始まって、病気を持っている人なんかは、医者や看護師がいるところのほうが安心ですし、自分で歩くのもやっとという人もいたから、家族の了解を得て、極力、移ってもらいました。家族の方も大変だけども、私たちも、老人ホームみたいな施設じゃなくて、素人だから、自衛隊のお風呂連れていこうって思っても、何かあったら怖いんですよ。そういう施設で働いている人は女性も多いですし、例えば、おじいちゃんをお風呂入れるのに、ほかの人が入っている中で、入れるわけにもいかないし。だから、ひどいと1か月以上、お風呂に入らなかった人もいますし、私も自衛隊のお風呂に入ったのは十何日ぶりのことです。それまでは入る余裕もなかった。
聞き手
そういう方々は2次避難されたんですね。
田中さん
赤十字とか保健師さん、DMATとか、いろんな方に相談して、極力、そうしました。
聞き手
2次避難したのはいつ頃だったんですか。
田中さん
割と出るのを嫌がるというか、ここでいいわという人が多かったので、この日に1,2人という形で。
聞き手
1回で、まとまって行ったわけではないんですね。
田中さん
それはないです。保育所で、2次避難した人は、10名いないぐらいです。
聞き手
それは、どういった理由からですか。
田中さん
やっぱり地元から離れたくないのと、家が気になるのと、知っている人同士で部屋に入れたから、逆に、誰も知らないところに行くことになるというので。
子どもが連れていくというなら、まだ話も早いと思うんだけど、東京にいるから無理だとか、余裕がないという話も出たので、まずは、元気な人はバスに乗って2次避難でちょっとゆっくりしてくれということになりました。
一番気になったのは、施設に入るか入らないかのぎりぎりのラインのお年寄りの方ですね。
聞き手
そういう方って、自分ではあまり判断できないですよね。
田中さん
まず、このまま珠洲にいられればいいなと思うのが普通で、身内の方が説得してくれるか、どうしても駄目なときは、やっぱりお医者さんから言ってもらうか。赤十字の先生方が、これは病院に行って治さないといけないよと言うと、また違うから。私たちから言っても、医者でもないのに何が分かるって言われるので。
聞き手
やっぱり専門の方が来て言ってくださると違いますか。
田中さん
そうです。4、5回も足を運んでくれた先生もいました。先生から言ってもらって、気が変わらないうちに、準備して、日も決めて動いてもらいました。
聞き手
コロナはどうでしたか。
田中さん
ありました。
聞き手
そういうときの対応は、隔離部屋を用意したりはされましたか。
田中さん
一部屋、中にいる人に移動してもらって用意しました。中からは出入りできないようにして、御飯など必要なものは外から運び入れていました。
聞き手
外に出入口がある部屋があったんですか。
田中さん
保育所だから、どの部屋も外に出入口はあるんです。台を置いて、そこに御飯を置いておけば分かるし、ほかに必要なものは電話で言ってもらって、簡易トイレを横につけて、そこでしてもらって、中にいる人たちで処分もしてもらいました。
聞き手
中にいる人は、みんな感染している人ですか。
田中さん
濃厚接触者も一緒です。だから、大体は家族で入ってもらいました。
聞き手
避難所の中でコロナみたいな人が出始めてから、そうされたんですか。
田中さん
最初は、ほかの避難所でコロナの人が出たとき、コロナの方専用の部屋が、元気の湯という銭湯の奥に一部屋あって、うちの保育所からも4人くらい行っていました。でも、よそに任せっぱなしもよくないと思って、自分達でも、コロナとかインフルの部屋を用意しました。その分、収容できる人数も減るんですけど、これはしょうがないということで。
聞き手
何人ぐらいコロナの感染者が出たんですか。
田中さん
その部屋に、一番人が入ったときで8人かな。その後も出ましたけど、そのときは一人でも入ってもらうし、コロナがなくなるまでは、その部屋をずっと置いていました。
聞き手
それと銭湯の2か所でコロナの対応をされたんですか。
田中さん
部屋を用意してからは、保育所のコロナの人は保育所で管理するようにしていました。その時には、小学校も元気の湯も、それぞれの持ち場で対応しました。
聞き手
元気の湯も自主避難所になっていたんですか。
田中さん
そうです、20、30人はいたと思います。
聞き手
避難所の間での移動はあったんですか。
田中さん
保育所に数人来たくらいで、ほとんどないです。やっぱり、最初に入ったメンバーがどうしても皆さん懐かしいのか、離れたくないというか、そういうのがあるみたいですよ。一日や二日じゃなくて、何か月も一緒にいると、どうしても顔見知りというか、付き合いが長くなってきますし。
聞き手
避難所生活や運営で、一番大変だったことはなんですか。
田中さん
1月半ばぐらいまで無我夢中で覚えてないというか。何にもないところで、どうするにも、みんなと相談しながらしか動きようがなかった。物資も、欲しいものを頼んでもまず来ない。例えば、保健師さんが来て、もっとバランスよく食事してと言うけど、バランスのいい材料がない。自衛隊に野菜を頼んでも来るわけでもない。そういうときは、民間の横のつながりの人たちの物資は非常に助かりました。その人たちと連絡を取っていると、いろんな情報も教えてくれるし。
一番困るのは、ライフラインがないということですね。まず、携帯電話がないと連絡の取りようがないし、あと充電をどうするのか。みんな車でガソリン使ってやっていたけど、1月の初めぐらいは、ここから飯田のガソリンスタンドまで3時間かかったからね。3時間かかって着いても15リットルしか入れられない。
たまたま祭りに使うキリコがあって、そこに発電機を使うから、それを倉庫から持ってきて、保育所で明かりに使ったんですよ。そうしないと、1月ならもう夕方4、5時になると真っ暗になりますし。だから、その時は、4時に夕飯の時間を決めて、食べたらもう寝ようということになりました。
ただ、夕方の4、5時に寝ると、皆さん、夜中にうろうろし始めるんですね。それと、保育所では、朝、晩2食だけにして、どうしても運動しないから、携帯電話で音を鳴らして、朝はラジオ体操をしました。みんなでやると、お年寄りの人も皆さんしてくれるんですよ。みんなで廊下に出てもらって、出られない人は部屋でしてもらうようにして、結構みんな部屋の中でもしてくれていました。
それが終わったら朝御飯で、女性の方が朝4時頃から準備して、みそ汁や御飯、おかずを出してくれました。75歳以上の人には、看護師さんに血圧と体温を測ってもらって、37度以上の人は、コロナであろうがなかろうが、病院へ行ってもらいました。その看護師さんには、全員の持病とどんな薬を飲んでいるか、部屋ごとに出してもらって、赤十字のお医者さんが来たときにも、その紙を見せていました。
赤十字に、血圧計や体温計、血圧を書くノートがほしいとお願いしました。途中、自立してもらうために、一人一人自分で測ってもらうようにしたんです。それで、血圧のノートに自分の名前を書いてもらって、血圧とか体温、自分で書いたのを、看護師さんがたまに見て、これ測ってないよとか言えるようにしました。看護師さんとか先生に言われると、皆さん素直に聞いてくれるから。
聞き手
避難所にいる方の年代はどうだったんですか。
田中さん
70前後の方々が一番多くて、30代以下は一人だったかな。80代以上も多いし、どうしてもお年寄りが多いところで、あまりお年寄りに、あれこれ言うのも嫌なので、例えば水を運ぶとき、体の元気そうな人には声を掛けて手伝ってもらうなどして、みんなでするようにしました。ほうきぐらいは持てるという人にも、ゆっくりでもいいからということで掃除を頼むと、自分も一緒にやっているという気持ちになりますから。
聞き手
避難所全体の名簿みたいなものは作ったんですか。
田中さん
食事を作る人数と、どこにどういう人がいるか把握するために、保育所へ入って4日目ぐらいに作りました。たまに、家族がどこにいるかと聞かれることがあって、名簿があれば答えられるから。ただ、最初の頃は、漢字だと、どの漢字か聞くのが大変なので、全て片仮名で、名前を全部、部屋ごとに出してもらいました。後は年齢と男女の割合。大体、男女半々ぐらいでしたかね。
聞き手
田中さんが中心となって運営されたのは、もともと何か経験があったとか、地域で顔が広いとか、そういったこともあったのでしょうか。
田中さん
そういうのはないです。たまたま最初に入ったからでしょう。
聞き手
元保育所を避難所として使われたということで、よかったところや、悪かったところがあったら教えてください。
田中さん
園児用に建ててあるから、割とバリアフリーで、トイレが使えるようになっても、お年寄りにも段差が少なかった。ただ、小さいトイレが多くて不便でした。大人が使えるトイレは2個しかなかったので、お年寄り専用にして、元気な人は仮設トイレを使ってもらいました。
聞き手
仮設トイレは何台来ましたか。
田中さん
3台です。来たのは2月の終わりぐらいかな。仮設トイレが入ってきてからも、テントの簡易トイレも3つ使う状況でした。
聞き手
保育所内のトイレは、最初からずっと使えたのですか。
田中さん
そうです。便器を利用して、中にナイロンを1枚敷いて、もう一枚敷いて、そこにしたものを、上の1枚だけ取って、下の1枚は置きっぱなしにしていました。汚れたのを見計らって、女性がきれいにしてくれていたみたいです。
聞き手
水が使えるようになったのはいつでしたか。
田中さん
3月ですかね。
聞き手
水が通ってないとき、洗濯はどうしていましたか。
田中さん
車にいっぱい積んで、金沢まで行っていました。みんなで場所を占領していたから、金沢の人がふらっと来て使おうと思ったら、大変だったと思います。金沢まで洗濯に行ってくると言って、家族単位にして、部屋ごとに出してもらいました。
蛸島のコインランドリーが動き出したら、みんなそこを使ったり、二層式の洗濯機をボランティアの方が持ってきてくれたから、水をくみに行って、それで洗濯して、乾燥だけ持っていったりしました。
聞き手
生活用水は、どうやって用意していたんですか。
田中さん
ボランティアの人が川の水をろ過する機械を持ってきてくれました。飲み水にはしないよう言われていましたが、洗濯するのには十分だから、保育所からバケツをトラックに積んで、水をくんで来て、みんな交代で洗濯機を使いました。
聞き手
最初、布団はどうしていましたか。
田中さん
みんな家から持ってきました。潰れている家の人の分は、ほかの人があげたり、避難所を出る人にお願いして置いていってもらったりしました。その後、自衛隊とか赤十字から毛布の配布があったんですけど、薄い毛布だったので、家から持ってきたもののほうが暖かかったと思います。
聞き手
段ボールベッドは。
田中さん
ないです。来たのは3月ですかね。
聞き手
それまではどうしていたんですか。
田中さん
トライアスロンのマットがあったので、みんなにそれを使うように言いました。このマットの上に布団を1枚敷くだけで全然違うから。どうしてもマットが足りない人は段ボールを重ねて敷いてもらったりもしました。その後、段ボールベッドも回ってきて、間仕切りもあったんだけど、誰もしませんでした。
聞き手
間仕切りする必要がなかったんですか。
田中さん
サンプルとして何個か用意して、要る人は使ってくださいと言ったんですが、皆さん要らないということでした。
聞き手
部屋ごとに知り合い同士でいたというので、それほどプライバシーは気にしていなかったんですかね。
田中さん
ここを見に来た方で、間仕切りがないと言う方もいたんですけど、みんなが要らないというものをする方が余計ストレスがたまるから、うちはしていませんって言うと、それで納得されます。
小学校とか、他の地域を見ると、全部きっちり間仕切りしていますけど、うちでは間仕切りは一切してないです。
聞き手
一人も間仕切りを使う人はいなかったんですね。
田中さん
布団が落ちるからといって、角だけする人は数人いたけど、ほとんどそのままでしたね。一人、二人はもめる人もいましたけど、皆さん、ある程度、仲よくやってくれました。少しトラブルがあった人は、小さい部屋にその人だけ移動してもらって。
聞き手
そういうのはあったんですね。
田中さん
おばあちゃん、悪いけども、あっちに移動してくれるかってお願いして、女性陣から説明してもらいました。トイレも近くなるしと言って、なんとか動いてもらいましたね。でも、人数の割には、トラブルもなかったし、よかったんじゃないかな。行政の人たちが来ても、ここはのんびりしていますねって言われますし。まず笑い声が多いというか。
聞き手
やっぱり知り合い同士で部屋分けしたのがよかったんですかね。
田中さん
そうじゃないかと思います。最初は本当にどうしようと思いましたけどね。次から次に人が入ってくるし、駄目というわけにもいかないし、人をどこへ入れるか、8人、9人の大家族が来てどこに入れるか、弱ったなって言いながらやっていました。いろんな人に、この人はどこへ入れようかって相談しながらやったことで、後々楽になりました。
私たちから言いにくいことでも、顔見知りの人から、代わりに言ってもらうこともできました。例えば、暖房がなくて、みんな灯油のストーブで暖を取っていたから、芋を焼く人が出てきたり、危ないところもあって、相談すれば、こっちから出ていかなくても、その部屋の中で片づけてくれました。
聞き手
細々としたストレスが最小化されたという感じですね。
田中さん
その点はよかったなと思います。
聞き手
田中さんは、御自宅の状況はどうだったんですか。
田中さん
全壊です。
聞き手
じゃあ、ずっと避難所にいらしたんですね。今はどうされているんですか。
田中さん
6月に仮設住宅に入りました。4月に入居が決まっていたんだけど、皆さんにいてほしいと言われて、避難所の人数が半分ぐらいになるまではということで、6月ぐらいまで避難所にいたかな。
聞き手
寝泊まりも避難所でされていたんですか。
田中さん
そうです。昼間は仮設住宅にいて、夜は寝に来たこともあったけど、昼も保育所ですることがあったのと、4月から公民館長になって、この辺にも来ていたので。避難所から出た人たちも、通いで泊まりだけ来てくれたり、留守番してくれたりする人もいてくれて、私が抜けるときも頼むことができました。
ずっといると、物資を運んでくれる人たちともみんな顔見知りになって、それはどこに置いてとか、話が早いんですね。それが、知らない人ばかりだと、せっかく持ってきてくれた人も困るし。なじみの人がいれば、会話もできます。先月も物資を持ってきてくれた能美市の人を招待して、避難所から出た人の家に集まって1杯飲んだりしました。月1回ペースで、仮設住宅に入った人たちが6家族ぐらい集まって、みんなで料理を持ち寄って、慰労会みたいなこともしました。
6月いっぱいで、結構、ほとんどの人が保育所を出たんですよ。そのときに、卒園式をしようという話になって、家が無事だった人に部屋を借りて集まってやったんですけど、それから、ずっとそこでするようになりました。祭りはしなかったので、その代わりですね。
聞き手
キリコを出すお祭りはしなかったんですか。
田中さん
私は、今年は祭りしないほうがいいんじゃないかと思っていました。なぜかと言うと、死んだ家の人の前を通るときは、キリコは、太鼓も鐘も鳴らさずに静かに通るという風習があるんですが、蛸島地区で、8人も震災で亡くなっているんだから、今年ぐらいはお宮さんだけにしようという気持ちがあったので、私たちは、祭りには参加しないことにして、その代わり、みんなもつまらないだろうから、集まって飲もうよということにしました。それで、飲んでさっさと家へ帰って寝ると。
祭りも、伝統的なものだから、今後もやっていければいいんだけど、どうなるか。
例えば、うちの町内でも、22軒でキリコを1本出しているんだけど、今、残っているのが10軒ちょっと。そのうち、お年寄りの家が8軒ほどだから、キリコに参加できる人間の家が3軒あるかないかになってきています。あとは皆さん金沢のほうに行ってしまったとかね。やれればいいなと思いますけど、なかなかこれから厳しくなってくるかな。道にしても、きれいに直さないと通れないところも結構あるから。
早船狂言といって、成人が3人で、お宮の前の舞台で披露するんです。普通なら3人でやるんだけども、今年は2人しかいないし、お宮の舞台が使えないから、漁協に仮のステージを作ったとか、今までしたことないようなやり方しかしようがなかった。少しでも、直せるところは直して、従来どおりの形でできればいいなと思います。
被災経験を振り返って
聞き手
最後に、今回、大変な経験をされて、振り返ってみて、今後、いつどこで地震が起こり得るか分からない中で、もっとこうしたらいいとか、こうしとけばよかったとか、こういう備えが必要だとかいうメッセージがあればお願いします。
田中さん
やはり机の上の計算だけじゃ無理ですね。地震があった場所を見て、勉強するのが一番いいと思います。結局、計算できない部分、想像以上のことがたくさん出てくるから。備蓄にしても、計算どおりでは足りなかったし、置く場所も考えないと、まとめて置いてあっても誰が運ぶのか、道が壊れていたらどうするのか、避難所として使える場所にはやっぱり置いておいた方がいいです。今、保育所には備蓄が1つもないんですよ。そういうところにも少しは置いておいたほうがいいんじゃないかというのは市役所の人にも言いました。上の方針もあるのかもしれないけど、実際に経験した人たちの話も大事なんじゃないかなと思います。固めて置いておく必要が何であるのか、分散して、ある程度、対処できる量を置いてもいいんじゃないのかって。
例えば、段ボールベットや凝固剤、トイレットペーパーにしても腐るわけでもないですし、ある程度置いてあったほうが、いざというとき、物資が来るまでのつなぎとして非常に助かると思うんで、実際ここにも、物資を用意しました。
この物資がなかったら、ここに避難してきたときに、誰がここへ物資を持ってきてくれるのか。だって、こういう地震があった地域は、どこの場所もみんな目いっぱいですよ。周りまで見ている余裕がない。だから、少しずつ置いといて、時間稼ぎをしている間に物資を運び込めるような、そういう体制があってもいいんじゃないかなと思います。ほんとはあってほしくないけど、これだけ、日本中どこでも揺れるわけですから。地震じゃなくても、線状降水帯が来ると川が氾濫することもありますし、そういうことも考えると、どこで何があるか分からない。
聞き手
豪雨のときはどうでしたか。
田中さん
すぐ近くまでずっと池みたいになっていました。だから、公民館で働いている方にも逃げるよう言いました。一応、誰かが避難してくるかもしれないから、飲み物と食べ物、毛布や布団を置いて、戸を開けて、とにかくうちへ帰るように。ここにいて何かあったら目も当てられないので。公民館の前の道も、橋の上に水があふれて車が通れなかったので、一晩、二晩でああいうふうになるんだから、異常気象みたいな感じで、いつどこでどうなるか分からない。金沢でも、どの川が氾濫しても不思議じゃないし、そういうことも踏まえて、災害に対する準備が要るんじゃないかと思います。

伝える
- 体験を語る
-
県民
-
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」
-
珠洲市宝立町区長会長
-
学校
-
企業・団体
-
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 - 珠洲市消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市飯田分団長 大丸耕司さん
「被災したスーパーの営業再開で地域の皆さんの生活の助けに」 -
珠洲市直消防団員 須磨一彦さん
「人手が足りない中、ガソリンスタンドの営業再開に尽力」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
「全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応」
-
珠洲市総合病院
-
関係機関が作成した体験記録