体験を語る
- 企業・団体
人手が足りない中、ガソリンスタンドの営業再開に尽力

| 場所 | 珠洲市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 令和6年11月21日 |
消防団の活動状況
聞き手
発災時はどちらにいらしたんですか。
須磨さん
自宅にいました。
聞き手
消防団としてどういうことをされたんですか。
須磨さん
震度5以上で出動する決まりで、避難所の役割も当たっているので、まず家族には避難所の飯田高校のほうに避難してもらって、その後で、自分は周りを見回って、一人で歩けないお年寄りの方を車に乗せて避難所に誘導したりして、避難所へ向かいました。
聞き手
消防団には、何人ぐらいおられるんですか。
須磨さん
直分団は、当時15人かな。
聞き手
その15人が皆さん集まって、手分けして活動されたのですか。
須磨さん
直地区に避難所が4,5か所あるので、それぞれ家に近いところの避難所の手助けをしています。
聞き手
1日目は、避難者の誘導のほかには何をされたのですか。
須磨さん
自分は飯田高校の避難所にいたんですけど、そこから1キロぐらい離れた若山町の倉庫に救援物資がたくさんあったので、それを、4、5人の団員と一緒に、軽トラックで何往復もして運ぶという仕事を夜までしました。
聞き手
その物資は何日ぐらいもつのでしょうか。
須磨さん
缶詰などの食料と水を取りあえず持ってこられるだけ持ってきましたけど、結構人数もいたので、多分2日もつかどうかぐらいの量だったと思います。
聞き手
避難所の設備に関しては、何かされていましたか。
須磨さん
2日には、どの部屋に誰がいるのかという名簿を作ったり、トイレが詰まって大変だったので、市役所の人に仕切ってもらって、トイレの使用の仕方を説明しに各部屋へ回ったりしました。
聞き手
それ以降も、いろんな消防団の活動があったんですか。
須磨さん
私は、3日からガソリンスタンドの仕事がありました。ほかの団員は、倒壊した家屋からの救出などをされていた方もいます。
ガソリンスタンドの営業再開
聞き手
もともと、3日から営業する予定だったのでしょうか。
須磨さん
そうですね。3日の朝、電気が来ていなかったのですが、北陸電力さんがすぐ対応してくれました。設備の安全は2日に確認はしていましたし、やっぱりお客さんからの要望もたくさんありましたので、スタッフはほとんど出てこられなかったんですけど、僕ともう一人のスタッフで、3日は営業しました。
2、3キロのすごい行列になって、1台につき15リットルまでという制限も設けて3日は営業したんですけど、結局、在庫も尽きてしまったので、2時か3時ぐらいに閉店しました。その後は、次のタンクローリーがすぐに来られなかったので、また店を開けたのは6日だったかな。
聞き手
3日にガソリンを入れに来ていたのは、どういった方ですか。
須磨さん
帰省されていて、取りあえず金沢に帰りたいという方が多くいましたし、あとは車中泊の方ですね。
聞き手
6日に燃料が来るまでの間は、どういう状況だったんでしょうか。
須磨さん
閉店だったんですけど、緊急車両の方でどうしても入れたいというのがあったんで、夕方から少しだけ開けて、緊急車両限定で給油していました。
聞き手
そういうのって、別にマニュアルみたいなものがあるわけではないですよね。
須磨さん
設備の点検はマニュアルがありますけど、どのタイミングで開店するかとか、そういうのは臨機応変に対応しました。各店舗で設備の被災状況も違いますし。
聞き手
コスモ石油として、上からこうしたほうがいいという指示などは別になかったんですか。
須磨さん
営業できますかという確認はありましたけど、指示は特にないですね。
聞き手
ガソリンスタンドの設備は、地震で何か壊れたということはなかったんですか。
須磨さん
段差ができたり、建物のドアももう傾いて開かなかったりしましたが、給油に関しては大丈夫だったので助かりました。
聞き手
6日以降の営業状況はどうでしたか。
須磨さん
6日以降もお客さんは多かったです。スタッフもみんな被災しているんですけど、徐々に出てきてくれるスタッフも増えてきて、あとは系列の会社から手伝いのスタッフに来てもらったりして、何とか営業はしていました。タンクローリーも定期的に来てくれるようになりましたので、その後は通常と同じでした。
聞き手
6日以降はもうスムーズに営業ができていたんですね。
須磨さん
そうです。6日以降は、比較的スムーズに営業していました。
聞き手
ほかのガソリンスタンドは、閉じているところもいっぱいあったんですか。
須磨さん
そうですね。その分ここに皆さんがやって来たということになります。
聞き手
系列のところも閉じていて、そこからスタッフが来たんですか。
須磨さん
応援にも来てもらったり、能登空港の前にも店があるんですけど、そこも被災して営業できなかったので、そこのスタッフに来てもらったりしました。
聞き手
須磨さんの御自宅は無事だったんですか。
須磨さん
自宅は、倒壊はしなくて、ひび割れとか、物が倒れたのはありましたけど、一応今も住んでいます。判定で言えば準半壊です。うちは海が目の前で、津波が来るって、みんな心配していましたけど、家の前で波が止まったので、それは幸いでした。
聞き手
最初は電気もないし、避難所で生活されていたということですか。
須磨さん
そうです。最初は、飯田高校に家族全員で行って、自分は仕事もあるので車中泊をしていました。3、4日後ぐらいに、仕事があったので、自分だけ残って、奥さんと子供は両親と一緒に金沢の親戚のところに避難しました。
私は、日中はうちへ戻ってきて、片づけをしたりして、夜はどうしても電気が来ていなくて、泊まることが難しかったので、寝るのだけ飯田高校へ行っていました。
聞き手
ご自宅は、水はどうでしたか。
須磨さん
水も、3月終わりぐらいまで来てなかったですね。
聞き手
トイレやお風呂はどうされていたんですか。
須磨さん
お風呂は自衛隊のお風呂にお世話になって、トイレは簡易トイレとか近所の仮設トイレを使ってしのぎました。
聞き手
食事はどうされていたんですか。
須磨さん
自衛隊の炊き出しをもらったりとか、いろいろ皆さん支援していただいたので、あんまり苦労はなかったと思います。
聞き手
支援というのは、避難所にですか。
須磨さん
避難所もそうですし、会社にもいろんな支援が来ました。
聞き手
会社にはどういった支援があったんでしょうか。
須磨さん
取引先の会社が全面的に支援してくれました。水やレトルトの日持ちする食品とか、洋服、防寒具とか、本当に手厚くしていただいて、すごく助かりました。
聞き手
仕事で大変だったのは何でしたか。
須磨さん
やっぱりスタッフが足りない。忙しくなるんですけども、やっぱりスタッフ数が追いつかなくて。スタッフも全員が被災して、家庭環境とか生活環境が悪い中での仕事だったんで、体調崩す方も出ましたし、大変でした。
聞き手
何人ぐらいでやられていたんですか。
須磨さん
フルメンバーで6人いて、通常は、一日4、5人のスタッフが出ていれば営業できるんですけど、そのときは、もう忙し過ぎて、そのスタッフ数では追いつかないので、応援スタッフに入ってもらったりして、一日7、8人でやっていました。さっき言った取引先の系列で、関東から泊まり込みで応援に来てくれたスタッフもいて、助かりました。
聞き手
応援スタッフの泊まる場所というのは。
須磨さん
店の中です。
聞き手
裏のお部屋とかそういうのではなくて。
須磨さん
もう本当にこの店の中にダンボールを敷いて、布団を敷いて。トイレも使えませんので、お客さんの出入りは禁止にして、1月いっぱいはスタッフだけの部屋にしていました。
聞き手
今は通常営業に戻っているんですね。
須磨さん
そうですね。ひび割れとか段差とか、直すところはまだありますけど、営業自体は、地震前と同じようなことは全部できています。
聞き手
通常営業に戻ったのは何月頃ですか。
須磨さん
水が来るのが、たしか4月だったので、洗車が最後までできなかったんです。
聞き手
御自宅に帰られたのはいつですか。
須磨さん
電気が来たのが1月後半だったので、そのときは自分一人でしたけど、戻ってうちで生活していました。
聞き手
食事は。
須磨さん
レトルトとか、頂いたものを中心に食べていました。
聞き手
その時点で、避難所からは離れていたんですね。
須磨さん
そうですね。
聞き手
避難生活で一番大変だったことはなんでしょうか。
須磨さん
やっぱりトイレですね。
聞き手
ここには仮設トイレがあったんですか。
須磨さん
はい。ここは仮設トイレを置いたので、まだよかったです。
聞き手
仮設トイレはどこからの支援だったんですか。
須磨さん
それも市内の建設会社が1基、手配してくれました。
聞き手
いつまで置いてあったんですか。
須磨さん
4月の終わりぐらいまで。水が通っても、漏水していたので、その修理までに2、3週間かかりました。
被災経験を振り返って
聞き手
振り返られて、今後の災害に備えて、もっとこうしたらよかったとか、こういうのがあったらよかったというものはありますか。
須磨さん
珠洲市に関しては、3年ぐらい前から何回も地震が来ていたので、ある程度、物資などの準備は、個人的にもしていましたし、会社にも、結構大きめの防災リュックがあったりしたので、いざというときはそういうのが大事ですね。
聞き手
実際に、今回それが役に立ったんですね。
須磨さん
水であったり防寒具であったり、防災リュックの中に入ってたものは助かりました。あとは、防ぎようがないですから、対応策といっても難しいですね。みんなそうでしょうけど、こんな大きい地震が本当に起きると思ってなくて、やっぱり油断していたというか、その前の震度6ぐらいのやつで終わりかなと思っていました。
聞き手
消防団で避難訓練はしていたんですか。
須磨さん
1年に1回ありましたね。地区の方全員が対象で、地震が起きたと想定して、避難場所まで歩いて避難するというものでした。
聞き手
今回は、避難訓練どおりにできたんですか。
須磨さん
皆さん結構来られていたので、訓練は大事だなと思います。
聞き手
避難の仕方とか、もっとこうしたほうがいいということはありましたか。
須磨さん
訓練のときから、車じゃなくて歩いて避難するというのは言っていたんですけど、実際に災害があると、車を出す方が多かった。車で行ったら何で駄目かということが今まで分かっていなかったと思うんですけど、これだけひどい地震だと、道が隆起して、全然車で行けない箇所もすごくあったので、車に乗っていったら駄目というのが実感として分かりましたし、歩ける範囲の避難場所をしっかり把握しておく必要は絶対にあるなと思います。そして、そのときに持っていける荷物も、やっぱり準備しておかないといけないです。
聞き手
災害用の車両の燃料のほかに、ガソリンスタンドとして、災害に対応されたことがありましたら教えてください。
須磨さん
給油のほかは、物資をお客さんにも少し提供したり、あとは、道が悪いので、車がパンクするお客さんがすごく多いので、出張サービスまではいかないんですけど、行ける範囲で、修理とかスペアタイアに交換する作業はしていました。
聞き手
次の災害に備えてメッセージがあればお願いします。
須磨さん
やっぱり、本当に起こると思って準備しておくことだと思います。

伝える
- 体験を語る
-
避難所・避難生活
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
-
行政
-
輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
-
輪島市復興推進課(当時)
-
消防
-
七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
-
七尾消防署 署長補佐
-
警察
-
医療機関
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
-
教育・学校
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
-
企業・団体
-
ボランティア
-
関係機関が作成した体験記録

