体験を語る
- 県民
想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月29日 |
地震発生当初
聞き手
災害の被害状況をお伺いしたいです。
梧さん
町の8割ぐらい家が駄目になりました。輪島とか宝立町は火災と津波の被害のことで結構名前が出るけれども、蛸島の町は、そういう被害じゃなくて、建物被害、震災の揺れで壊れた家がほとんどなんです。だから、そんなに注目されていない状況です。
町を歩いてみると、今、更地になったところがたくさんあります。それはみんな、家が建っていたところです。今、公費解体でどんどん壊しているから、私の家から、今まで見えなかったものが見えるようになったりして、うちから海まで300メートルくらいですけれども、もうしばらくすると、そこが見えるようになるんじゃないかなと思っています。
発災当初、私は、最初の震度5強のとき、外にいたんです。それが静まって、家に入って、嫁さんにひどかったなと言うと同時にドンっときたんで、その時は、地震だというのは分かるけれども、どうしていいか分からない。災害が起きたら、すぐ外に出ようとか言うけれども、一歩が踏み出せない。柱にすがりついて、妻を支えていました。
揺れが収まって、外に出たら、土壁の家が倒壊して、土煙が上がっていました。普通だったら、あれだけの家が壊れたら、音で分かるけれども、地震の振動で、隣の家が壊れて倒れたことに、全く気づかない。息子夫婦と孫が奥の部屋にいて、ペットの犬もいたんだけれども、全然意識になくて、家の外から、孫を抱いて出てくる姿を見て、あぁ大丈夫だったという感じでした。
それで、大津波警報が出たから、家族揃って、近くのお宮さんの裏山に避難しました。津波が気になって海を見ていると、1本の線ができたんですね。それが多分、津波だったのかなと思います。うちの方は、波はつかなかったんだけれども、鉢ヶ崎地区のビーチホテルのほうは、津波が上がって、後で分かったことですが、宝立地区のような被害はないんだけど、いろんなものが打ち上げられたりはしている状況でした。近所の人が、埋もれている人がいるんじゃないかと言って、みんなで救助に行くんだけども、人力ではとても、どうにもならないので、諦めるしかなかった。
小学校が指定避難所だから、どういう状況か私が見に行って、それから引き返して、暗くなるから小学校に避難しようと言って、みんなを連れて避難しました。それからは、ずっとそこにいました。当初は七、八百人、体育館にいて、パイプ椅子に座っているか、体育座りでした。入れない人は外にテントを建てて、そこでたき火をして、そこで二、三日いたのかな。それから、食べ物も飲み物も当然ないし、明かりもない。みんな、家に行って、ストーブや灯油を持ってきたり、お米を持ってきたりして、おにぎり1つでも口に入れようというので、手分けして、食事も作ってもらったりしました。
正直に言って、その二、三日は、あまり記憶がないです。まず、何から手をつけていいか分からない。あとで分かったんだけども、どうやって学校に入ったのかというと、ガラスが割られていて、そこから入って、鍵を開けたということでした。
食料とか飲み物が来たのは、それから何日かしてからかな。最初は何もなかった。結構長い間、グラウンドの隅に穴を掘って、ブルーシートを張って、女性はそこに用を足してもらいました。男性はその辺にしていました。そういう状況で、汚い話なんだけど、当然、水が流れないから、トイレにうんちが積み重なっていくんですよ。それで、女性のスタッフが、それを手袋してどかしていました。それは小学校のトイレだけじゃなくて、昔の駅のところにある公衆トイレもそんな状況でした。本来だったら、人のうんちを見て用を足すなんて無理でしょうけども、どうしようもないから、そこでして、それがどんどん積み重なっていく。それが、小学校のほとんどのトイレでそうなっていくんですよ。それを女性の方がどかしてというのが何日か続いて、バリケードで入れないようにするんだけども、さっき言ったように、七、八百人いたから、それでも入って用を足すという状況でした。
正月だから、観光に来ている方、帰省している方もたくさんいて。泣きながら、どうしても帰らないといけないと訴えてきた観光客の方もいました。その人が連れていた子供もおびえていて、誰かの車に乗せてもらって、空港まで行ったはずです。それで、東京のほうに帰られたと聞いています。
今は車も走れるようになりましたが、当初は、マンホールというマンホールがほとんど浮き上がっているし、家は倒壊して道を塞いでるしで全然駄目でした。倒壊した屋根を通って避難したとか、そういう状況でしたね。
その後は、ペットがいたから、車で寝ていました。
聞き手
1月1日から車で寝ていたのでしょうか。
梧さん
1日、2日は学校にいました。2日間はたしか寝てなかったと思う。まず、横になる場所がないから。それで、家に行って車中泊する人が結構いたんだけれども、みんな、ガソリンがないんです。私は除雪機があったんで、除雪機用の予備のガソリンを持っていたから、少しはしのげましたが、エンジンをかけて温まったら、エンジンを切って、毛布かぶって寝るというのが何日か続いて。
家に入って、毛布とか布団を出せる人はいいんです。出せない人もたくさんいました。
三、四日すると、帰省していた方は、仕事があるから帰っていくし、何とか自分の家も落ち着いたということで寝に帰る方もいました。それから、避難所でみんな協力し合って、スペースをつくって、学校のマットレスに横になったりしました。
寒さは本当にどうしようもない。たまたまうちの寺に、だるまストーブがたくさんあったので、それを持っていって、灯油も、うちのを使っていいといってみんなが持ってきてくれて、少しずつ寒さはしのげるようになったんだけれども。
これは、私が口で話すより、したくはないでしょうけども、こういう経験をやっぱりしていただきたい。明かりはない、電気はない、それから、寒さをしのぐこともできない。トイレは水がないからどうしようっていうのを、一晩でも二晩でも経験していただくと、何となく、どうだったのか分かってくるんじゃないかな。ソファーに座るとか、そういうのはなくて、体育館のフローリングの上にただ座っているだけです。私は以前、公民館にいたことがあったので、公民館に座布団が百何枚かあるから、館長に了解をもらって、みんな運びました。公民館から、ストーブも灯油も座布団もみんな持っていって、少しずつ改善されました。灰皿まで持っていきましたからね。
ただ、中に入れない人は、外でたき火で暖を取るしかなかったです。たまたま、薪を作って販売する人がいて、遠慮せずに、どんどん使ってくれと言って、薪が積んであるところから軽トラで運んでくれて、そういうのがあったから、まだ助かったかなと。
本当に、電気、水道のない生活を一度味わってほしいと思う。どれだけ口で言っても、やっぱり体験しないと、実際どうなのかっていうのは分からない。あの1月の寒い、雪が降って、吹雪いている時に外にいる、そのつらさは、やっぱり体験しないことには分からないかなと思います。どこかでテントを張って、食料もない、何もない、そういう生活を経験してみていただきたいなと思います。
避難所の運営について
聞き手
避難者対応はどうされていましたか。
梧さん
自然に若い人たちが、スタッフというか、手伝うようになってくれました。それから、病院が開かなくて避難していた看護師さんが、健康状態をチェックしたり、介護をやっていた人もいたり、いろいろな人が、20人近くスタッフになってくれました。学生さんもいたので、力仕事など、いろんなことを手伝ってくれて。本当に、ああいう時って、普段話すこともないような方が、みんな自然と集まってきて協力し合っていくんだなと。
たまたま、市会議員だった方がいて、その方を中心にして運営していきました。市会議員だから、市とのパイプもあるので、行政とのやり取りもしてもらって、そういう点は、非常にスムーズにいったかなと思う。
避難者からしたら、足りないことがいっぱいあったというか、お客さんになっていた。冷たいおにぎりは駄目とか、汁物が欲しい、副食、漬物とか、他のものが欲しい。私も一度、10日ぐらい経った時か、皆さんに「お客さんにならないでくれ。」と、「世話をしている方も、みんな避難している人で辛い思いをしてここにいるんだ。」と言ったけれども、そういう思いを持ってくれたのも数日かな。また日が経つと、わがままになる。
若い人のいい面も見たし、お年寄りのずうずうしさというか、普段は良い人だなと思っていた方が、とんでもなくわがままだったり、人間の二面性を見ました。
人間って、本当に変わるなと思って。私にも、そういう面があったかもしれないけど、そういうのをまざまざと見せつけられました。ひどい人は灯油をポリタンクのまま持っていった人もいますし。それからは、ポリタンクにチェーンをつけて、鍵を買ってきて、持っていけないようにしました。
聞き手
色んな対応が必要になったんですね。
梧さん
段々贅沢になるっていうのも、最初に仮設のトイレが来たときは、普通の、昔ながらの仮設のトイレでも嬉しかった。次は、少しいいのがくる。そのうち、どこかにウォシュレットのついたトイレがあるということで、それも要望して、最終的には7つか、8つできました。
そうすると、他からも、そのトイレを使いにくるんですよね。蛸島の仮設のトイレはウォシュレットで綺麗だからって言って、寄って、トイレ使って帰っていく人もいました。
蛸島の場合は、医療コンテナが2台届けられて、コロナを発症した方はその医療コンテナで隔離したので、あまり大きなことにはならなかった。あれは非常に助かりましたね。
いろんな人が、炊き出しにも来てくれて、私たちも、お礼を兼ねて、ある長野の団体の方がやっているジンギスカンの店に、5日、6日に行ってきたんです。長野では、千曲川が5年前に氾濫して、大きい堤防を越えて、ものすごい被害が出て、6日にはその復興応援イベントにも参加しました。そうしたら、地元の新聞社が翌日1面トップにその記事を載せてくれて、4、5日してから、長野から記者が来てまた取材していきました。この震災がきっかけで、そういう方たちと巡り会ったというか、親交ができた。今となれば、そういう、震災を通じて、人との出会いもあったなという思いがあります。
聞き手
自主防災組織や消防団はどうでしたか。
梧さん
自主防災組織は、正直なところ、あまり機能しなかったみたいですね。組織はつくってあって、防災士の方と婦人会とか区長で係も決まっているんですけれど、それをうまく機能させることはできなかった。結局、目についたことをするという感じです。それから、消防の車庫も壊れちゃって、消防団も活動できなかった。
机の上で考えても、いざっていうときには機能しないのかな。行政だったら、しっかりとできると思うんですけど、各町でそういうのをつくって、果たしてうまく機能したかは疑問です。ないよりはあったほうがいいと思いますが。
最初の頃は、携帯電話の電波も駄目で、電話かかってきて、受け答えするけど、それが向こうに伝わらないとか、全く機能しない電話もありました。
最初の大津波警報の後は、防災無線もほとんど機能しなかったと思うし、電柱がまだ傾いたままのところを見ても分かるとおり、無線自体が壊れたところもありました。電気が来たのは、早いところで十何日目。私の家に水道が来たのが、今から二月くらい前かな。それも床下までで、床下で水が漏れているから使えないんです。
今回は地下も駄目でしたからね。最初、何月には水道通るって言っていたけど、全く通らなかった。支援に入っていた名古屋の上下水道局の方から、蛸島の町は、家屋の倒壊があまりにもひどいから、これを除去しないと直せないと聞いたし、実際、今でもまだ水道が通ってない家もあります。メーターまでは来ているんですよ。水道業者がいない。4月くらいに800件お願いされているって水道業者もいました。一応、市外から水道業者を呼んだ場合は、交通費などは行政が持つってなったんですけども、それでもまだ、宅内配管がうまくいってない家があるんです。そういう方がいなかったら、もっと避難所は縮小できたと思います。
旧の蛸島保育所のほうで、今もスタッフをしている方たちが、自主的に食事を作って世話をしています。今も、4名の避難者のために毎日通っているんです。さっきも言ったように、みんな、お客さんになってくるんですよね。それが、一番腹立たしいというか。
聞き手
指定避難所の蛸島小学校の運営の状況について、もう少し詳しく教えてもらえますか。
梧さん
最初からスタッフの皆さんが自主的に動いてくれたから、動いた内容によって、その方たちを、食事、衛生とか、総務、物資の係に分けていきました。
小学校は指定の避難所なんだけども、さっき言ったように、七、八百名も入るところがないんです。なので、市役所に言って、保育所を開放してもらって、それでも足りないので、次に、ビーチホテルから行ったところに、元気の湯というのがあるので、そこも開放してもらって、蛸島で3か所の避難所で、何とかやってきました。少しずつ避難者が少なくなってきたので、まず元気の湯を閉鎖して、保育所と小学校だけになった。小学校はどうしても生徒さんがいるので開放しないといけない。教室も全部使っていたので、最初ミーティングするときは職員室でやっていました、どうやって職員室に入ったのか覚えてないんだけども。先生が来るようになったから、職員室は空けて、別な部屋を一室借りて、そこでミーティングしたりしました。
本当に、宿直室から、厨房の横にある給食を作る方の休憩所みたいな部屋まで占拠して寝泊りしていました。放送室まで入って寝ていましたから。少しずつ縮小してきて、9人くらいになったときに、小学校の避難所を閉鎖すると言って、保育所のほうに、小学校にいた人を集約してもらいました。
聞き手
保育所は自主避難所に当たるんですか。
梧さん
そうですね。だから、出ていかないんですよね。生活費が要らないから。電気、ガス、水道、一切要らないんですよ。月1万円あったら楽に生活できますから。失礼な言い方だけども、そういう感覚になっていくのが何となく見える。今は、夕食しかお弁当が出ないんだけれども、当初は2食、小学校は昼と夜、保育所は朝と夜かな、そうやって、皆さん、食事も作ってくれる。時間になったら食べられる。それから、支援物資が来る。パンからカップ麺とかいろんなものがある。水はある、お茶はある。そうすると、居心地がよくなってくる。これは私の変な見方ですけども。
行政が、家を見て、住めるか、住めないかってやっているんですけど、半壊でも中規模半壊でも住んでいる方もいるんです。それが一部損壊とか準半壊だと避難所にいるんです。仕事で、どうしても蛸島にいなきゃいけないけども、家族の1人が金沢のみなし仮設に入ってるから、こっちの仮設は借りられないというのも何人か聞きます。そういう地元の産業というか、仕事を盛り上げる人たちに、ちゃんと寝るところを確保してあげないと、だんだん人がいなくなっちゃう。
今日も、津幡のほうで古い家を買って、もうこっちに帰ってこないという話も聞いたし、発災後、二、三日で出て行ってしまった人や、住所をもう移したという人もいる。みなし仮設で、今は費用がかからないから、もう家を向こうで建てるって言ってる人もいるし、どんどん、出ていく。
7月現在で、二百何軒の世帯が蛸島からいないんです。在宅の方が七十数軒、みなし仮設が170ぐらいだったかな。以前に聞いた話では、大きい災害があると、3分の1しか残らないと。蛸島であれば500世帯ぐらいなんだけれども、いないのが200いってるんだから。みんなが帰ってくればいいけど、帰ってこないと思うし。新築して、二、三年しかたってない家を売り払っていった人もいる。それはもう、小さい子供が、どうしても怖いから嫌だと言うんです。私が知っているので2軒、新しい家からもう人が変わってます。
聞き手
そこはまだ住めるような状態ですか。
梧さん
ええ。古い家でも、自分の家で頑張っている人もいて、さっき言った七十世帯の方は、そうやって家で頑張っている。でも、変な味を覚えた人は、避難所にまだしつこくとどまっている。そういう矛盾というか、嫌なところが見えてきて。多分、ほかの避難所にもあると思うんです。
はっきり言ってもう弁当はなくしたらいいんですよ。弁当があるからいる。今、土日はなくなってきたんですけど、それでもいるから。だから、弁当とかそういうものをやめて、避難所にいないような環境をつくっていってもいいんじゃないかなと、もうこの状況なら。全く住めないことはないんだから。
聞き手
半壊とか準半壊でも、その家に住まれている人もいらっしゃるということですが、2次災害の可能性もあるじゃないですか。それでも、こちらで働いていて、そこに住まざるを得ないということなんですか。
梧さん
1人は、親戚の仮設住宅に世話になっています。行くところがないから。どうしても、仕事上、こっちにいなきゃいけない。その人は、何人か人を雇っている、社長さんだから、自分がいなくなったら、みんな路頭に迷うわけでしょう。だから、いなきゃいけない。仮設住宅に入れたらいいんだけども、入れない。みなし仮設と本当の仮設住宅との兼ね合いですね。
行政の方にも何回か言ったことあるんですけど、何か言うと、仮設住宅は県の事業だからって言われて。街灯をつけてくれと言っても逃げられて。仮設住宅の入り口のところに、ソーラーの小さい電気がついたけど、それでも夜は暗くて、ネットにぶつかって、常に懐中電灯を持って歩かないといけない。夜は怖いなって。これから、夕方5時くらいに真っ暗になるでしょう。浜のところにあるコンテナの仮設は、入り口にソーラーの街灯がついているんですよ。こっちは、洗濯物を干すところには屋根があるけれども、そのコンテナのところには屋根がなかったり、いい悪いはあるんだけれども。もともと球場だから、街灯がないんですよ。あっても壊れている。それを何とかしてもらえたらってお願いするんだけれども、そこは県ですと。
行政の立場じゃないから、こうやっていろんなことも言えるんだけど、行政の者にしたら、やっぱり上から言われていることに従っていかなきゃいけない。何したって不満は出てくるんです。
聞き手
蛸島保育所の避難所はどう経緯で開設したのでしょうか。
田中さん
小学校は人がいっぱいなので、どこか開けてほしいと頼んで、閉館している保育所を開けてもらいました。自主避難所だから、皆さん、そこが避難所になっているのも分かっていないんだけど、口コミで、どんどん人が来て、1日、2日の間に120人ほど入ってこられて。あと車中泊に40人くらいかな。ただ、急に120人も入っても、下駄箱とか入り口がどうにもならないから、そのまま土足で入って、部屋に入るときは脱いで、各々部屋に入る。そうしないと、もう誰の靴をどこに置くかというところから始まるから。そういう形で、ある程度は、皆さんの情報を聞きながら、親しい人、近所、身内を大体部屋割りできると。そうすると、例えば10人しか入られない部屋でも、身内とか、知り合いなら、14人、15人で入ってもらいました。
聞き手
120人だと、1人あたりどのくらいのスペースがあったのですか。
田中さん
保育所は結構余裕ありますよ。教室一部屋に、12、13人くらいは入る。でも雑魚寝だから入れるんで、それが、段ボールベッドとかを入れたら、絶対無理です。それと、親しい人たちはくっついて寝られる。全然知らない人同士だと、そうもいかない。
聞き手
食料の調達はどうしていましたか。
田中さん
先ほど、梧さんも言ったとおり、家にまず帰って持ってきてもらえるものは持ってきてもらう。正月で、食べ物は、各々、出せる家もありましたから。潰れた家はどうにもならないけど。梧さんに御飯を炊く釜を貸してもらって、それで、当初はずっとおにぎり。家に米があるので、それを炊いて、女の人が七、八人でおにぎりを作ってもらったかな。それで、最初は1人、小さいのを1個ずつ。最初おにぎりだけで、お年寄りが多いとどうしても、汁物が欲しいとなってきたので、女性の人に頼んで、材料はみそも水も家から、野菜は畑から白菜や大根を取ってきてもらって、汁物も作っていました。そうしているうちに、ぼちぼち物資が入ってきました。田舎だからよかった。都会では無理ですね。
聞き手
保育所の給食室を使って炊き出しをされていたのですか。
田中さん
そうです。でも、ガスは、閉館して切ってあるから、プロパンとカセットコンロを持ってきました。
梧さん
うちは寺だから、何升炊きの釜があるんですよ。
田中さん
それをこっちがもらって、カセットコンロで鍋なんかもしました。汁物も炊いたし。
梧さん
みんな、家はもう住めないからと言って、プロパンガスを持ってきてくれる。灯油を持ってきてくれる。それから、動けない人というか、年配の方は、うち行って、どこそこに置いてあるから、持ってきてって。お米もそうです。都会でこういう地震があったら、まず無理でしょうね。だって、畑はないでしょう。それから、ほとんどコンクリートでしょう。穴掘ってトイレもできない。
聞き手
大きい鍋はないと思います。集まって何かすることもないですね。
梧さん
多分、みんな、電気の炊飯器でしょう。停電になったら、まず使えない。だから、カセットコンロとボンベは持っていたらいいなと思いました。
田中さん
あとはファンヒーターじゃないストーブ。電気がないと動かないから。
梧さん
都会の人はまず停電ということが頭にないでしょう。都市ガスでしょうし。
聞き手
保育所が、指定避難所じゃないので、避難する前提でつくられていないと思うんですけど、実際に避難されていて、困ったことはありますか。
田中さん
逆に、保育所だから、段差がなくてよかった。ただ、指定避難所じゃない分、周知されないから、物資が来ない。ここが避難所って、多分、携帯電話で調べても出てないから。
梧さん
小学校にしたって、指定避難所だけども、何かあったとき、人が集まれるというだけであって、避難所としてつくったものじゃなくて、学校としてつくってるから、もし避難の人が来たからどうするっていうものは一切ないです。
聞き手
物資は何かしら備蓄があったんですか。
梧さん
倉庫にもほとんどなかったね。今は、余った物資を小学校の倉庫に用意したけども、最初、そんなものはなかったと思う。
田中さん
ここの公民館の備蓄で、段ボールベッド8つと、水が何ケースかとアルファ米という程度だから。私が思ったのは、何人収容できるって考えるけども、それって、どの範囲の人数を言っているのかなと思って。
例えば、いっぱい入ってくるとぎゅうぎゅう詰めになる。10人の部屋でも、いざ入ると、15人、20人入る可能性もあるわけで、例えば、10人の量で備蓄していても、その倍入ったら、2日分置いといたのが1日でなくなる。備蓄の仕方も考えないと、例えば、ここ何人収容となっていても、それ以上の人が入ったときは、その分減るわけで、足りなくなってくると思う。
高知県のある人と話したときは、例えば、100人なら150とか200の準備をしておいたほうがいいって。何でかと言ったら、それだけ人が来たときに配給しないといけないようになるから、ここだけの頭数の備蓄じゃ足りなくなる。そういうことも大事じゃないかなって。今、南海トラフとか考えられるので、向こうの人が結構来ますが、備蓄の量も従来より多めにしとかないと、すぐ足りなくなるんじゃないかな。
梧さん
避難所というのは名ばかりであって、ただ、何かあったら、そこに避難してくださいというだけのことです。前、ここに防災用の倉庫があったんですけど、そこには、ナホトカ号から油が流れたときの残りひしゃくとか、毛布が10枚ぐらいかな、そんな程度なんです。だから、市で、ある程度のアルファ米とかは持っていて、多分、正院の体育館に備蓄してると思いますけど、各学校に、100人分とか、そういうのはないです。多分、毛布も人口の半分もないと思う。
聞き手
備蓄を食べるような状況じゃなくて、食料がそもそもない状況だったと。
梧さん
あとは、どこの自治体だったか、アルファ米が三食、1日分の食料が入ったセットがあるんです。みそ汁もついていたかな。それが何百箱か来ました。消費期限か賞味期限か忘れたけども、避難所で切れました。だから、その自治体は、備蓄を出して、新しく買うんですよ。ただ処分するのはもったいない、税金の無駄遣いって言うから、これを支援物資としてあげようっていうことで。期限切れの物を選別して私たちが捨てていました。
途中で切れちゃうんです。そしたら、人にあげられないでしょう。
ひどいのが、コンビニのおにぎりだと思うんだけども、私の手元に来た時点で、期限が昨日でした。
田中さん
でも、それを食べていましたね。最初の頃は食料がないから。
梧さん
賞味期限の間近なのはいっぱい来ました。でも、それしか食べられない。
北海道から、支援物資として寝袋が来たんですね。シルバーの圧縮してあるのが、段ボールで結構来ました。そういうものを備蓄している自治体もある。圧縮してあるから、スペースも取らないし、衛生的にもいいしね。小学校を閉鎖するときに、小学校の備蓄する分として、段ボール幾つか毛布も置いたり、アルファ米やユニクロのダウンも置いたりしました。
田中さん
それも、小学校には来たけど、保育所は1枚も来てないです。そういうことが多いんです。
聞き手
それは途中から解消されることはなかったんですか。
梧さん
指定避難所だからたくさん来るんです。だから、私たちは、行ってないってことは分かんない。行っているものだと思っているから。
聞き手
避難所の横のつながりというのはなかったんですか。
田中さん
その時は、正直なところ、自分のところの避難所の面倒を見るので精いっぱいでした。
保育所から、飯田のほうに出たのが、2か月過ぎてからやっとです。それまで、自分たちのいるところをどうするかでもう手いっぱいの状態だから。だから、後になってから、一緒に話をしていたら、そんなの来ていたのとなるんだけども。
梧さん
ほかの避難所のことは分からないですね。
田中さん
自分たちでできることをしていかないといけませんでした。最初は携帯電話も通じないから、小学校とも連絡を取れないんですよ。誰かに行ってもらうわけにもいかないですし。
災害への備えについて
梧さん
自治体によって、考え方とか、予算もあるでしょうけど、トレーラー型のトイレを持っている自治体もあれば、WOTAっていう循環式のシャワーを持っている自治体もあれば、出した自治体も、どこに行ってるか分からないんだよね。
前、千葉の方が来て、ここにあったんだって言っていました。千葉市って書いてあったから。だから、県に渡しているのか、どこでどう振り分けしてるか分からないよね。トレーラーのトイレは北海道の沼田町から持ってきているんですよ。今も市内にトレーラー式のトイレが何基かありますけども。そういうのを持っている自治体もあれば、非常用のものさえも用意できてない自治体もある。今回を機に、そういうものを用意できるか、できないかですね。
田中さん
もっと危機管理に対しての準備をしっかりと行政の方々がやってくれれば、石川県でも、どこでまたこういうことが起きるか分からないんだから。1回あったということは、まだどこかである可能性も大ですし。そのためにもやっぱり、ある程度の準備はしてもらったほうが住民も安心だと思う。
聞き手
自主防災組織があまり機能しなかったというお話もありましたが。
田中さん
自主防災に関わっている人たちも全員被災して、生きるか死ぬかで動いているわけで、自分に当てはめてもそうだけど、まず、自分の身を守ることからやらないといけないのだから、そこまで動けないと思う。
聞き手
次に、もし災害が起きたときに向けて、今回の教訓はありますか。
田中さん
私が知っている区長さん方も、誘導したり、避難するときに人を引っ張っていったり、色々されたとは思うんです。ただ、連絡が取れないことが第一ですね。
梧さん
まず、市の職員が、被災しているんだから、そういう状況で、行政が機能するかといえば、しません。
田中さん
何をするにも無理です。例えば、珠洲がそういうときに、代わりに能登町の行政が動くとか、行政同士の連携も大事だと思います。結局、珠洲市にこんな地震があって、珠洲市役所が機能できない状態に実際なってみて、こういう状況になったらもう無理だなと。その誰も動けないときに、その中でも災害の少ないところの行政が動けるようにするとか、市や町を通り越して県の主導でもいいから、こっちのほうがひどいから、ある程度人を流してくれというのがあってもいいんじゃないかと思います。
梧さん
応援部隊がみんな、役所の廊下に寝ていたり、どこかから来たお巡りさんも寝袋を持って入ってきたりしていたからね。自分の寝る分を確保しないと応援にもいけない。能登へ行けって言われて、嫌だなと思って来たんじゃないかなと思います。
人間が頭で考えられるような災害ではないから、どれだけしっかり組織図を作ってみたって、いざとなったらほとんど機能しないと思う。さっきも言ったように、防災組織に関わっている人が、みんな被災者で、市から出ていった人もいるから、それに頼っても機能しない。
田中さん
避難袋を用意しても、ある程度の地震なら持ち出し可能だけども、今回みたいなひどい地震は、もう持ち出しどころじゃありませんよね。自分の体1つとか、周りの子供たちを出すのが精いっぱい。
うちも玄関に避難袋を置いてあったけども、結局、体1つで、はだしで出て、収まったときに靴だけでも取りに入って、すぐ指定の避難場所へ子供を連れて行こうとなって、近所の人も連れていくような状態でした。
地震もそうですけど、土砂崩れなんて、それこそ余裕がないと思いますし、強いて言えば、避難所に備蓄してもらったほうが一番無難かなと思います。保育所にいた人は誰一人、持ち出し袋を持ってきてなかった。
梧さん
避難訓練のときには、避難袋を持って避難しているんですが、現実に災害があるとそんなものです。
田中さん
避難訓練だぞ、行くよって感じですしね。実際に地震に遭ってみると、そんなもんじゃないなと思いました。
梧さん
玄関に置いてあっても、玄関から出られなかったりしますから。うちは玄関の戸がみんな飛んでいってガラスの上を歩いて出てきました。ああいう生きるか死ぬかというときに、避難袋を持ってなんて絶対無理です。
田中さん
自分達でも準備はしておいたほうがいいけれども、どんな災害が来るか分からないから、避難所として機能させる場合は、最悪のことも考えておく必要があるんじゃないかということを、これから勉強していかないといけないですね。

伝える
- 体験を語る
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県民
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珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」
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珠洲市宝立町区長会長
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学校
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企業・団体
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珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 - 珠洲市消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市飯田分団長 大丸耕司さん
「被災したスーパーの営業再開で地域の皆さんの生活の助けに」 -
珠洲市直消防団員 須磨一彦さん
「人手が足りない中、ガソリンスタンドの営業再開に尽力」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲警察署長(当時) 吉村修さん(※「吉」は正しくは土の下に口)
「全ての災害事象が広範囲に同時発生する中、関係機関と連携して対応」
-
珠洲市総合病院
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関係機関が作成した体験記録