体験を語る
- 避難所・避難生活
普段の防災活動が災害時の避難に生きた

| 場所 | 珠洲市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 令和6年12月5日 |
地震発生当初
聞き手
町の被災状況を教えてください。
辻さん
当時、私は、神社の役をしていて、初詣の受付をしていました。初詣が終わる頃、まだ神楽にお客さんがいっぱいいましたが、そのときに地震が来て、階段からずっと下りて、浜に行ったときに津波が来て、あちこちから大きい声で「逃げろ」という声が聞こえました。
日頃から、もし何かあったら集会所や高台に行くとか、各地区の小さなコミュニティの中で啓発運動はしてきたので、今回うちの地区では1人も亡くなった方は出ませんでした。3、4人、けがをした人はいるけど、今まで啓発活動してきたのが生きたなと各地区で話をしています。
被害については口にできないです。高台に上がってきたときも、ちょうど港のほうが見える高台だったんですが、どうなるのか怖くて津波が来るのは見られませんでした。
船着き場というか、そこの船がみんなロープを切られて、沖へ流されていくのは見ていました。最初に見たとき、漁師の者たちが、沖へ出た方が安全ということで船を出したのかと思ったら違って、津波にロープを切られて、ダーッと流れていきました。本当に列について流れていったような感じでした。後から、新潟のほうに流れ着いたという話も聞きました。
今、大きい船は電波で、どこにあるかすぐ分かるんですね。震災当時から、どこに船があるというのは分かって、海上保安庁が把握しているので、一番遠いのは上越のほうに流れているということでした。
聞き手
ふだんから呼びかけをしていたというお話でしたが、自主防災組織みたいなものがあったのでしょうか。
辻さん
そうですね。三崎自主防災組織というのがあるんですけど、各地区でもっと細かい防災組織もあるので、それぞれ自分の地区を中心に活動していました。隣の地区は避難訓練もしています。そういうこともあって、年配の方も逃げられました。
聞き手
避難訓練が役に立ったんですか。
辻さん
やっぱり逃げるルートがみんなすぐ分かりましたね。非常事態のときには、一方通行で回るとか、この道はこっちにしか行けないということも決めてあったので、車も渋滞なく避難できました。
聞き手
自主防災組織の活動状況はどうでしたか。
辻さん
今回は、自主防災組織とか、消防団とか、そういう団体の動く場所がなかった。一気に来たし、一気にみんなが被災した。団員たちも当然被災しているわけですしね。それがあったがために、活動はすごく制限されたと思います。表に出て、活動したかというと、私は今回ほかの地区も見ていて、あんまりなかったなというふうに思っています。自分も家族もみんな被災しているんだから、それは責められないと、私は判断しています。
避難所の運営について
聞き手
辻さんが行った川上本町の集会所は、避難所になっていたと思うんですが、いろんなものをみんなで持ち寄っていたんですか。
辻さん
たまたまうちの集会所が高台にあって、築年数もそんなに古くなかったので、5月の地震に耐えて、屋根も、瓦も直したところだったので、そんなにひどい被害はなく、避難所として開設したんです。当初、住民の方は、みんな駐車場に避難していて、だんだん日が暮れて、寒いので集会所に入った途端に、余震が来て、みんなもう怖くて入っていられないということで、出ていって、地震当日の1月1日の夜だけは、近くの農業ハウスで一晩過ごしました。
そのときにいた人数は、正確には数えていませんけど、100人は超えていましたね。さっき言った初詣に来た人、津波で帰れない人も含めて、自分の地区以外の人たちが高台に避難してきて、一晩だけそこに生活しました。
ところが、農業ハウスも寒い。地元の祭り用のキリコを養生するために家から持ち寄った古い毛布があったので、それを持っていって、みんなに暖を取ってもらったんですけど、それでも寒いということで、何とか一晩そこで過ごしました。ちょうど正月だったので、うちにあった餅を焼いて食べさせたりもしました。
2日目の朝、寒くなかったか聞いたら、みんな寒いと言うので、ここの集会所のほうがもっと暖かいということで、集会所のほうへみんなに入ってもらいました。地震が来れば、出ていく人もいましたけどね。
珠洲神社へ初詣に来る人たちは、三崎の人とか、近場の人も多いんですよ。2日の日ぐらいから、車は使えないけども、歩いて家へ帰る人がだんだん増えてきて、2日目の晩になると大体50人、半分ぐらいになりましたかね。
2日目の晩は、集会所のプロパンガスガスが使えたので、寺家ダムで水をくんで来て、お湯を沸かして、煮炊きをして、いろんなものを食べてもらったという感じでした。
そういう生活をしながら、3日目、4日目になってくると、トイレは、うちは合併浄化槽で、水さえあれば流れていくという状況があったので、女性は寺家ダムからくんできた水を使って、普通のトイレを使っていました。男性は浜に行って用を足してもらいました。
お風呂がとにかくなかったので、この近くの大工さんの納屋にあったユニットバスを持ってきて、組立てして、地元の川上本町出身の設備屋さんが金沢にいたので、その人たちに来てもらって、配管をして、そのときに加圧式でポンプアップできるようにしました。水を寺家ダムからくんできたりして、水道メーターから外して、そこへポンプの水を入れると、普通の水道と一緒のように使えるんですね。トイレも流しもお風呂も、ポンプアップすることによって、できるようになって、それが15日ぐらいで、そこからは、もう快適でした。
快適に生活できるようになったら、皆うちの片づけに行ったりして、インフルエンザやコロナが蔓延して、1月の終わりぐらいから来るようになった赤十字の方に、隔離してくださいって言われたんですが、隔離する場所がありませんでした。それが一番弱りましたね。最初の1人だけ、コロナにかかった人は車中泊してもらいました。ところが、2人、3人って出てくると、それもできなくて、みんなに、避難所にいる人は、コロナやインフルエンザにかかるつもりでいてくれ、嫌な人は、自分の車へ行ったりしてくれと言いました。そういうふうに対応しながら、みんなで生活をしていました。
聞き手
震災から11か月ぐらいたって、いろんなボランティアの人が寺家で活動することがあると思うんですけど、そういう人たちとの関わりについてはどうですか。
辻さん
ボランティアの方とか、いろんな物資を持ってきてくれた方とか、たくさんいたんですけど、本当に助かりました。自分が仮に反対の立場ならできるかな、というところまでしてもらったと思っています。
ただ、この地区は津波に遭っている家が多ので、片づけようもなくて、ボランティアさんに来てもらっても、フルに活動させてあげられたのかなっていうのはちょっと心残りですね。でも、本当にいろんなことで助かって、感謝しかありません。
祭りの再開に向けて
聞き手
9月にキリコを出したときには、結構いろんなところから人が来ていましたね。
辻さん
本当は若い人からも、普通にキリコ祭りをやりたいという意見が多かった。けど、自分の立場からは、今回、平時のときみたいに祭りをやったらいかんと思いましたね。それもあって、道路事情も悪いし、それなら点検だけ出して、いろんな方の御支援をいただきながら、祭りという言葉ではないけど、一応キリコを出させてもらったというのが事実です。
ただ、ここで1つ言いたいのは、お祭りって神社があって初めてできる。お神輿が出て、初めてキリコとかお祭りができる。今そういう対応ができるお宮さんがなくて、神輿が壊れているしというので。行政にも言っているんだけど、お祭り、お祭りって言うけども、お祭りは神社があって初めてお祭りで、神輿も神社も関係なく、神輿も出てこないなら、パレードで、お祭りではないって私は思っています。
今、市長さんの出している復興計画の中にも、項目が出ているけど、私は神社が先だと思う。あまり援助はできないのかもしれないけど、とにかく神社を何とかして初めてお祭りができるというのが、私は根底にあります。
でも、今年は、点検という名目で出したけど、みんな喜んで来てくれたから、よかったなと思っています。
聞き手
キリコを出すというだけでも、結構地域は盛り上がるんですか。
辻さん
お祭りのために地元に、この珠洲市に残ったという人が少なからずいるわけです。金沢とかに出て行けば、働くところもあり、食べるものもあり、生活環境もいいんだけど、やっぱりそういうお祭りがあるということで、地元の文化伝承を守りたいなという子供たちがいます。
被災経験を振り返って
聞き手
今後こういう震災がいろんな地域で起こる可能性があると思うんですけど、そういうときの対応で何が一番大事だと思いますか。
辻さん
とにかく地震とか津波という天災は、過信したり自分で判断したら駄目だと思いますよ。みんな素直に人の言うことを聞いて、安全なところへ逃げてほしいなと思います。言うことを聞かずに家にいた人がけがをしています。
もう地震から、今度は9月の豪雨、もう要らないですね。二度あることは三度あるというので、今年の冬は大雪じゃないかという予想もされているけども、ここにいる人は本当にもう大分あっぷあっぷしています。
最初、震災があって一月ぐらい、みんな顔を下に向けていました。あれはやっぱりさみしかったのか、心の葛藤があったから、みんな下を向く。2か月目ぐらいから、インフラが整ってきたり、生活環境が変わってきたのもあるかもしれないけど、少しずつ前を向いた話ができるようになりました。その後、仮設住宅ができたり、公費解体が進んだりすると、みんな顔が上を向きました。みんな、家をどうするとか、前を向いた話をするようになってきたのかなと思いました。
ただ、みんなはどう思っているか知らないけど、私はちょっと復興のスピードが遅いかなという感じはしています。福島の議員さんとか先生とか、いろんな話をする機会もあったけど、珠洲市さんはもうちょっと頑張らんと駄目だって言われましたね。ちょっとスローだなみたいなことは言われたので。

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避難所・避難生活
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消防
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

