体験を語る
- 教育・学校
日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年8月29日 |
発災直後の状況と避難行動
聞き手
地震発生直後、どのような行動をとられましたか?
坂口さん
白丸地区では日頃から避難訓練をしており、高台に上がるルートを確認していました。1月1日の午後4時過ぎに地震が発生して、1回目の揺れの後、2回目のただならぬ揺れがあって、津波が来ると感じ、家族や周りの人に声をかけて、高台へのルートを使って上がりました。
聞き手
避難する際、何か持ち出しましたか?
坂口さん
全く何も持たずに。家族の安否を確認し、高台に上がることを優先したんです。最低限の防災グッズは家に備蓄していましたが、それを持って出る余裕はありませんでした。
聞き手
津波警報などの情報は届きましたか?
坂口さん
放送が流れたのかどうかは不明ですが、聞こえていません。ただ、地震の揺れで津波が来るとは思いました。
聞き手
避難先はどこでしたか?
坂口さん
一時的に高台近くのハウスに入った後、白丸公民館に避難しました。公民館は海に近かったのですが、息子に確認させて安全だと分かったためです。
白丸公民館での避難生活
聞き手
公民館のライフラインの状況はどうでしたか?
坂口さん
電気は通っていましたが、トイレの水が流れませんでした。白丸地区では農業用の用水が使えたので、それを大きなタンクに入れ、バケツリレーでトイレなどに利用できたのはとてもありがたかったです。
聞き手
避難所のキャパシティと混雑状況はどうでしたか?
坂口さん
発災当初は親戚などもいて、公民館は体育館とロビーを合わせて、最大150人が避難し、キャパシティはギリギリでした。当初は雑魚寝状態です。
しばらくして残ったのは70~80人ぐらいで、その後も親戚などを頼って出ていく方がいて、30人ぐらいの期間が一番長かったです。
聞き手
食料や物資はいつ頃届き始めましたか?
坂口さん
農協さんが店を開けて食材を提供してくれたり、お互いに持ち寄ってご飯を炊いたりしていました。パンなどの物資は、2日か3日、遅くとも1月4日頃には入り始めました。
聞き手
避難所運営はどのように行われましたか?
坂口さん
当初は区長さんが、誰が来ているかを把握していました。避難所運営の訓練はしていなかったですが、地区が狭く、顔なじみが多かったため、避難所の運営には皆さん自発的に協力されていました。
朝のラジオ体操を始めると、自主的に参加していましたし、小学生が放送を使って整理整頓や掃除を呼びかけると、掃除もするようになりました。トイレ用の水の運搬や配膳なども、地域の方が交代で自主的に行いました。洗濯機やシャワーが導入された際は、運営の方が受付簿を作って整理していました。
聞き手
避難所での感染症対策はどうでしたか?
坂口さん
出入り口で手指消毒などを行っていました。幸い、白丸地区では感染症の広がりは少なく、皆さんが気を付けたおかげだと思っています。感染者が出た際は、食糧庫などに隔離部屋を設けました。
避難所運営の課題と教訓
聞き手
避難所の運営で大変だったことは何ですか?
坂口さん
安否確認の電話が学校(宇出津小学校)に集中したことです。避難所の受付と電話のある場所が離れていたため、安否確認の連絡や他の避難所の場所を聞かれることがあると対応に苦慮しました。避難所としての電話番号があれば、スムーズに対応ができたのかなと感じています。
聞き手
避難所でのコミュニティ形成で中心となったのはどのような人たちですか?
坂口さん
避難所運営の中心となったのは、主に40代~50代の役場職員や、地域のキーマンとなる方々です。役場職員は自らも被災者でありながら運営にあたってくれていました。
ラジオ体操を仕切る方や、食事の配膳を取りまとめる方など、そうした協力体制の土台にあったのは、地域のつながりが強いことだったと思います。
聞き手
宇出津小学校では、避難所と学校の再開はスムーズに進みましたか?
坂口さん
学校再開のために教室が必要になった際に、避難者の方々は「わかったよ」と言って教室を空けてくれました。避難者と学校側との間でトラブルはなく、関係は良好でした。
聞き手
お子さんたちの震災後の様子はいかがでしたか?
坂口さん
余震が続くときは怖がったり、一人になることを嫌がったりする低学年児童が増えるなど、物事に敏感になる様子が見られました。
一方で、放送委員会の仕事などで自分たちにできることを考え、活動を通して成長する姿も見られました。
また、宇出津小学校ではグラウンドに仮設住宅が建たなかったため、春以降はグラウンドで遊ぶことができたのは、子どもたちのストレス解消の面で大きなプラスでした。
聞き手
今後の防災・減災に向けての教訓や伝えたいことは何ですか?
坂口さん
最も重要なのは日頃からのコミュニティ形成です。それが避難所で助け合い、自発的に動く機運を生み出す土台となりました。
また、避難所運営の訓練を事前にやっておくべきでした。安否確認のやり方を明確に地域で決めておくことが必要だと感じています。
あとは、外部からの支援として、学生など若い世代の人が、イベントや交流でやって来て、元気な姿を見せてもらうことは、被災した方々が「自分たちもやろう」という機運を高める上で有効だと思います。
伝える
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

