体験を語る
- 避難所・避難生活
現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年10月29日 |
発災前と直後の状況
聞き手
まずはご自身の被災状況について教えていただけますか。
澤田さん
僕は窓の仕事をしていて、環境省の補助金事業で窓の断熱性を上げる業務に関わっていたんです。事業が始まった年の令和5年はとても忙しくて、「来年も頑張ろう」と話していたところでした。
正月は休んで、1月4日から仕事を始めるつもりでした。1日、午前中は寝て、午後2~3時ごろに妻の運転で初詣に出かけ、友人の家に行こうと向かっていたとき、地震が来ました。車に乗っていても分かるほどの揺れで、「一度家に戻ろう」と話していたんです。
場所はちょうど新橋あたり、高田酒店さんの近く。そこで前震のような揺れがあり、「心配だから戻ろう」とUターンして数百メートル戻ったところで、本震が来ました。車が1メートルぐらい横に揺れて、隣の2階建ての家がぐしゃっと1階になり、その先の3階建ても2階に潰れて……まるで映画を見ているようでした。とにかく僕の両親の様子を見に行こうと、亀裂だらけの道路を車で走りました。築60年の家でしたが、1年前にリフォームしていたおかげか倒壊は免れました。
ただ、大津波警報が出ていたので、両親を連れて坂の中腹にある自宅の方へ避難しました。すると村の人が30人ほど集まってきて、「津波が怖いね」と言いながら4時半ごろから1時間半ほどそこにいました。その後、「大屋小学校にみんな集まっている」と聞いて向かいました。
大屋小学校は指定避難所ではなかったので、鍵がかかっていたはずですが、誰かがガラスを割って入ったようで、すでに中に30人くらい避難していました。小学校は平たいところで海抜10mあるかないかで、東日本大震災のような規模の津波が来たら全部流されますから。津波警報が出ていたためか、みんな必死でした。そこから僕は仕事用のハイエースで、お年寄りや足の悪い人を5、6回に分けて小学校まで運びました。道路は1台がやっと通れるほどで、通れる道を探しながらなんとか往復しました。その夜は朝市の火が見える中、不安なまま過ごしました。ニュースも見られず、何が起きているのか分からなかった。
頭に浮かんだのは「誰かが全体を指揮してくれないとダメだ」ということでした。映画みたいに、国から権限を持った人がタクトを振って「全権お前がやれ」と指示してくれるような体制が必要だと感じました。
聞き手
復興への見通しについては、どんな思いを持たれていますか。
澤田さん
正直言うと、「復興」は夢のまた夢ですよ、嘘やと思いますよ。市町村単位で何十億の予算しかない中で、国や県が「市で対策を」と言っても無理ですよ。僕らのところでも予算は3000億ちょっと。とても復旧しきれません。だから「創造的復興」という言葉を聞くたびに思うんです。「創造的復旧もできないのに、復興なんて無理だろう」と。マスコミも綺麗な言葉を並べるけれど、実際の現場を見てみなさいと。輪島を走ればわかる、あれが現実です。
避難場所での活動
聞き手
大屋小学校でどのようなことをされたのですか。
澤田さん
そこには普通教室が十数室あって、音楽室なども含め、2~3日目までは5~600人がいたそうです。僕自身は「これは自分たちで何とかするしかない」と思い、顔見知りもいたので動き出しました。
「本部」が要ると思い職員室へ。扉は施錠されていましたが天窓が開いていて、上から侵入して中から解錠しました。職員室の中は紙が散乱していて、机も転倒していました。皆で片づけをし、電話のある机を2~3台据えて事務作業ができる体制をつくりました。
小学校にも、「何々村の誰々さんそこにおるけ?」といった電話もかかってきたため、安否確認の名簿づくりを始めました。しかし、個人情報だから名前を書きたくない、という人もいて半分ほどの人数しか名前が集まりませんでしたね。それから自然発生的に避難所となった小学校で組織をつくらないといけないと思い、校内アナウンスでボランティアの募集を呼びかけました。
まず住民に必要だと思ったのは水分確保で、ペットボトル飲料と紙コップの提供を呼びかけ、職員室前で配布しました。2日目頃には食事が必要になり、米・炊飯器の提供を依頼しました。最初はゴルフボール大のおにぎりを配りました。当初は校舎の暖房が動いていましたが、2日21時頃に停電してしまいました。そこで、アナウンスで石油ストーブと灯油を募り、ストーブ30台超・灯油ポリ缶50本ほど集まりました。体育館に十数台と、各教室にも配備しました。僕の同級生に北陸電力送配電の社長がいて、その人に連絡し「なんとかしてくれ。このままじゃ凍えて死んでしまう」と切実に訴えましたね。5日か6日には高圧から低圧へ変換する「変圧車」を届けてくれて、小学校だけは電気が復旧しました。物資班を立ち上げていたので、2~3日目には文化会館の支援物資集積所から自分たちで搬入しました。橋が隆起していたため、通れる道を探しながら通っていましたね。水は当面500mlを一人1本配布。
聞き手
トイレに関してはどのように対応されていたんですか。
澤田さん
最初はプールの水で流し、その後は便器にビニール袋を敷いて使用する方式にしていて、回収は防護具・おたま・ビニール袋での人海戦術……正直、もう二度とやりたくない作業でした。やっぱり一番きつかったのはトイレです。
最初はプールの水をバケツで汲んで各トイレに置き、水を流していたんですが、すぐに詰まってしまって。夜になると「体育館のトイレが大変なことになってます!」って呼ばれるんですよ。担当の子たちに頼んで、防護服や手袋をつけてもらい、ビニール袋とおたまを持って作業にあたってもらい、毎日のように「詰まった」と言われては対応してました。
結局、水が流せないから、次に考えたのが便器にビニール袋を敷いて用を足す方法です。やり方を紙に書いて掲示して、使い終わった袋は外のバケツに入れてもらいました。それを僕らが回収して、学校前の旧うさぎ小屋に一時保管してたんです。
10年前までその小学校で野球の監督してたんですが、避難中に当時の保護者から「監督も1回行ってこないとダメ」と言われて。おたまとビニール袋持って行ったけど、あれは本当にきつかった。人の排泄物をおたまで掬うなんて、もう二度とやりたくないです。だから言いたいのは、トイレ問題は本当に軽視したらいかんということ。あれが一番、命に関わる問題やと思います。
避難所内での感染対策について
聞き手
小学校内での感染対策はどうされていましたか。
澤田さん
1月10日~1月末はノロ・コロナ・インフルが連日発生していました。土足で仮設トイレに行き、その後で段ボール床面で就寝、という動線で一気に拡大したのだと思います。
3階の普通教室に疾病別の隔離部屋を作り、その方用の簡易トイレも部屋の中に設置しました。
毎朝夕(7時/19時)に誰をどこに入れるか打ち合わせして、日赤の先生も来てくれましたが常駐ではないので、運用は自分たちで回しました。ノロ疑いが同日4人出た日、僕たちで看病できないため、病院に救急を依頼したら「こちらまで送って来られるなら治療する」と言われました。もう仕方がなかったので結局病院まで患者を連れて行きました。
その日の夜、誰々さんを治療しましたから迎えに来てください、と連絡があり、「マジか」と僕のハイエースにビニールをしいて隔離対策の準備をしましたが、こちらは一般人で感染リスクが高い。この状況はどうにかならんか、と市長にも相談しましたが「病院の運用に従って」と回答がありました。
それから、DMATの知り合いに相談して、この人にダメって言われたら、もう諦めて行くしかない、と思っていました。ですが、「澤田さん、それはあなたが行かなくていいです」と。「そんなもん、ほっときなさい、病院が面倒見るのは当たり前だから」と明確に言ってくれて、搬送は見直されました。よく考えたら、いくら病院がパンクしてるとは言え、なんで一般人がノロになるリスクを冒して連れて帰らなければいけないんだと。病院は、市民の命は守るべきだろうと思いますね。ここは検証が必要だと思います。
避難所運営を経て得た教訓
聞き手
教訓を一言で言うと?
澤田さん
1.初動は「トイレ最優先」。
2.臨時本部・名簿・物資班を即時立ち上げ。
3.電源は仮設でも早期確保(変圧車など)。
4.感染動線(靴→床)を断つ動線設計。
5.医療搬送の役割分担を明確化。
この5つです。「TKB48」(トイレ・キッチンカー・ベッドを48時間以内に)みたいな即応モデルです。理想は48時間と言わずもっと早く。現場は“待ったなし”です。
聞き手
学校はお正月が明けたら再開したのですか。
澤田さん
もうそれどころじゃない。学校は始まりませんでした。3月頃から学校が再開したら避難所はどうするかっていう話を市役所の方としましたが、結局学校は再開できませんでした。
1~2月は非常事態で、道路も街並みも壊れたまま。乳幼児や家族連れへの対応は、粉ミルクや小部屋の確保など、毎朝夕の“朝礼・終礼”でニーズを整理し、日々部屋割りを調整。保健室は病人用、他の特別教室や小部屋に小さなお子さんのいる家族を優先しました。
そもそも僕は区長でも何でもなかったけど、本当に応援も来ない状況で、誰も当てにならんから、自分たちで自分の命を守るために、できることはしていました。小学校に避難してきた全員が知り合いでもなかったんですが、誰かがやらなきゃいけないだろうということで、組織を作って、これまであんまり話したことない人もいましたが、やっぱりこれが縁で仲良くなってっていうのはありましたね。
聞き手
大屋小学校に集まったのは地区の人だったんですか。
澤田さん
基本は大屋小学校校区やね。最初は結局1月1日やから、帰省している人たちは、5日ぐらいになったら帰っていきました。10日ぐらいには200人ぐらいに減りましたかね。
それと、避難生活の中で、一つショックなことがあって、1月5日に市役所の人が来て、各避難所ではマスコミ対応はいたしませんので、マスコミの方は本庁に来てください、といった貼り紙を持ってきたんですね。僕はそれを見て何を思ったかというと、なぜ被災地の状況について情報統制をするんだって思ったんですよ。ちょっとカッとなってその場で破ってしまいました。こんな紙は貼らなくていい、と。避難所で困っている現場の様子をマスコミに流さないでどうするのかな、と疑問でした。
聞き手
シャワーや入浴に対してはどうされていたんですか。
澤田さん
シャワーはね、1月15日~20日頃に循環式のシャワーが来てくれて、最初は2台で、最終的に3台に増えました。シャワーの運営も担当者を決めて、その人が例えば毎日朝8時から受付する、そうすると、周りの村の人も来ていたので、最初の頃は長い列ができていましたね。校内に給水所と500Lタンクが複数あり、小学校は地域の“ハブ”的に機能していました。
当初は小学校も体育館も指定外で、のちに「体育館のみ」指定避難所になりました。
近くの公民館は元から指定でしたが、250人も来たので飽和してしまったんですね。規模的に小学校の活用は不可避だったと思います。体育館は収容力はあるが寒い。教室は仕切れて運営しやすいが、原則は開けにくい。ですが、校内に放送設備があるのは大きな利点で、避難所の秩序を維持するのにも役立ちました。
2週間ほどで教室内の人の中でも軋轢が出始めたので、アナウンスで「皆さんいいですか、あなたの世界におる人は敵じゃありません。仲間なんです」と呼びかけて沈静しました。
聞き手
物資や寝具の確保はどうされていたんですか。
澤田さん
段ボールベッドは1月24~25日には、小学校のほうでは受け入れが準備できていたのに、市役所の方で配給にストップかかっていたみたいです。そんなこと言わんと、はよ持ってきてよ、と言いましたが、結局届いたのが2月の4日か5日でしたね。
僕が思うのは、公平性の名目で遅れるより、用意できた所から即時に配備することを徹底すべきだということ。でなければ、助かる命も助からないと。
聞き手
支援部隊との連携で課題になったことはありますか。
澤田さん
ある日のお昼は誰かが豚汁だけ作ってくれるって言ってくれたので、応援にきていた自衛隊の方にご飯だけ炊いてくれないかお願いしたら、上に指示を仰いでいたのですが、なかなか返事が来ない。こちらがしびれを切らして尋ねると「ごめんなさい。ご飯と豚汁のセットならいいけど、ご飯だけ作るのはダメや」って言われました。非常時は、所管の垣根より柔軟な即応が必要だと痛感しました。
僕も東日本大震災の時に何回かボランティア行ったけど、でも結局外からの人間で、本当に彼らの気持ちが分かったかって言ったら分からない。こうやって本当に震災を経験しないと、分からない。僕この街に住んでいても、希望が全く見えない。地震前後で出ていく人も多いですし。せめて国のお金ぐらい入れないと住民は救われないなと思いますね。こんな時ぐらい税金使って国民を助けてあげないと、とは思います。
聞き手
食料などはどう確保していましたか。
澤田さん
結構ね、食べるものとかは、いろんなとこから運んで来てくれて、十分だったと思います。僕らは備蓄倉庫に毎朝取りに行き、終礼の時に翌日の必要量を確認しました。
給食室のプロパンガスを使ってお湯を沸かしたり、15日頃過ぎたら大人は仕事に行ったりしていたので、カップヌードルだけ配ったりとかしていました。あとはもう一つ、土日だったかの日に、お昼作りますって、ボランティアの方が作ってくれて、人数は150ぐらいだと伝えて「今日はお昼の手当てを自分たちでしなくていいな」と安心していましたが、見回りに行くと、おばあちゃんがご飯しかもらっていなくて、「ちょっと待ってばあちゃん、ご飯だけってどういうこと?」と聞くと、「ご飯しかないんや」て言われて。そのときにはおかずだけ先に配り終わってたんですね。それで、今までご飯作っとった人を集めて、もう急いで100人前くらい作ってと指示したんですけど、本当にびっくりしました。基本、日中はみんな仕事行くから、僕らの方で作って出したのは、10日間~2週間ぐらいやったかな。
要配慮者への対応
聞き手
避難者の中には、障害のある方や足腰の悪い方もいらっしゃいましたか。
澤田さん
そんなに重い障害の方はほとんどいなかったと思います。ただ、足腰の弱い方は1階に配置するといった配慮はしました。ただ、衛生環境はどの階もひどかったですね。トイレに行くと土足のまま教室に戻って、その床で寝てる人も多かったから、どうしても不衛生になるんです。
途中で上履きに変えたりするのは難しかったので、結局「教室の入口を玄関にする」形にしました。扉の外で靴を脱いでスリッパを履くようにルール化したんです。体育館も同じ。赤十字の人が来て「このままでは感染が広がる」と言って、一度全部荷物を出して消毒してくれた。床を区切ってテープで「ここが玄関」と決めた後は、感染も少し落ち着きました。
聞き手
教室では、紙やダンボールなどで間仕切りをされていましたか。
澤田さん
ええ、ボランティアの方が持ってきてくれたんです。1月12日の時点ではまだみんな地べたで寝てましたが、13日頃からダンボールやパイプを使った間仕切りを設けました。いろんなタイプがあって、パイプを組み立ててダンボールをはめ込むものもありましたね。体育館だけでなく、教室にいる人も希望する人には間仕切りしていました。
学校にホワイトボードがたくさんあったのは助かりました。毎日ほしいものリストを書き出し、物資の管理や食事の数――「朝と夜で何人分」「必要数はいくつ」といった情報を全部そこに書き出して共有していました。
聞き手
教室と体育館の使い分けはどう決められたのですか。
澤田さん
最初に避難してきた人たちがそのまま体育館に入った形ですね。初日に荷物を置いた場所が、いわば“居場所”になってしまった。子ども連れや小さな子どもがいる家族は教室を優先してもらいました。コロナやインフルの関係で入れ替えもあったので、知らない人と同室になることも多かったです。
聞き手
1区画の広さはどれくらいでしたか。
澤田さん
だいたい2メートル四方でした。2人で1区画、1人でも1区画でした。壁があれば見えないものも、壁がなければ全部見える。それが小さな揉め事の原因になることもありましたね。でも、気の合う人もできるし、希望があればできる限り部屋替えも調整しました。
聞き手
澤田さんは避難所運営をお仕事としてされていたんですか。
澤田さん
いや、仕事ではなく完全にボランティアです。自宅は半壊だったので、夜は家で寝て、日中は避難所に行って運営にあたっていました。実際、3月ごろまでは避難所の運営が“本業”のような状態でした。当時の街の様子は、建物がもう道路にぐしゃってなってて、結局本格的に片付けだしたのが夏頃でしたから。もちろん、仕事に対するニーズはありましたが、その辺は従業員にある程度任せていました。
避難所の変化
聞き手
避難所はいつまで続いたんですか。
澤田さん
正式には8月31日までですね。最後まで残っていたのは大屋小学校の体育館で、閉鎖のときに3、4人だけが公民館に移りました。仮設住宅がまだ完成していなかったんです。
聞き手
避難者の人数の変化はどうでしたか。
澤田さん
最大は1月2日で500~600人。その後10日ごろに落ち着き、二次避難が始まると少しずつ減りました。ただ、二次避難も一斉ではなく、各自が県に申請して個別に動く形。僕たちも名簿を作って人数を把握しようとしましたが、突然、明日出ていくと言われたり、何も言わずに出て行った人もいたのでなかなか難しくて。そこで、市に誰が二次避難していくのか教えてほしい、と要請しましたが個人情報の扱いで情報共有はされませんでした。
聞き手
市役所職員の支援はありましたか。
澤田さん
毎日日替わりで来ていましたが、1日だけでは何もできません。夜泊まって朝帰るだけ。現場を動かす権限もなくてね。途中からは保育所関係の職員さんが派遣という形で来るようになりました。
聞き手
市との情報共有はどのように行われていたんですか。
澤田さん
市からの連絡は主に保育士のところに届いていました。そこから「こういう炊き出しがあります」「明日は何人分必要です」といった情報をもらって、必要人数を伝えたり、持ってきてもらったりしていました。近くの大屋公民館とも連携しながら、食事や物資の受け渡しをしていました。
聞き手
ペットと一緒に避難している方もいましたか。
澤田さん
いましたね。犬用の部屋も作りました。しばらくは車中泊していた人もいましたが、少し余裕が出てから犬猫用のスペースを設けたんです。ボランティアの方がよく来て、「困っていることはないですか」と聞いてくれました。
聞き手
感染症対策として、コロナやインフルエンザの部屋はどう運用されていましたか。
澤田さん
固定ではなく、状況に応じて入れ替えていました。昨日までコロナの部屋だった場所にインフルの人は入れないですからね。部屋数を増やしたりしながら対応しました。食事は教室の入口まで配達して、感染者自身が中に持ち込むようにしていました。
聞き手
トイレに関して、今後に向けてどんな備えが必要だと思いますか。
澤田さん
「ラップポン」のような、自動で袋を密閉してくれるタイプは便利だと思います。あと、うちの小学校にもトイレトレーラーが何台か来てくれましたが、階段を上がらないと行けない場所が多く、また和式トイレだったので高齢者には負担でしたね。結局、簡易トイレのほうが身体への負担が少ないんですよ。
聞き手
輪島市では避難所を集約していきましたが、その対応についてどう思われますか。
澤田さん
僕は、仮設住宅に何千万も使うなら、避難所の生活環境を充実させたほうがいいと思います。仮設は結局2年で出なきゃならない。どうせ壊すものにそんなにお金を使うより、避難所を長期的に運営できる体制にした方が、住民も落ち着いて生活できる。輪島の経済は今かなり厳しい。地元にあったお金も外へ流れて、家を建てるにも東京や金沢の資本が持っていってしまう。だからこそ、避難所を地域の生活再建の拠点として活かすべきだったと思います。
聞き手
復興住宅についてはどうお考えですか。
澤田さん
復興住宅そのものは必要だと思います。ただ、今までのように地域単位で、2、3軒ずつ昔の隣人同士で住めるように建てるべきです。高層の集合住宅に押し込めたら、人間関係が切れてしまう。お年寄りは話し相手がいなくなると、すぐに元気がなくなるんです。
避難所では地域の人同士のつながりもあったりして、歯を磨きに行くだけでも誰かと会って話す。だから、人と話すことができる環境を維持することが大切なんです。避難所を「ただの一時しのぎ」ではなく、暮らしの場として整えていく。そういう行政になってほしいと思いました。
とにかく、避難所というのは「何かあったらすぐ開ける場所」でなきゃいけない。僕らが使っていた場所のように、間仕切りを立てれば十分プライバシーも保てるんだから、長期的に運営できる避難所として整備すべきやと思うんです。仮設住宅1棟に1500万円もかけて、結局壊してしまう。それならそのお金を避難所の整備や住民支援に回すべきです。本来250万円で済むものが、途中で500万、750万と膨れ上がっていく。作業員の日当だって最初は8万円、それが段々と1万円に下がる。この国の税金の使い方はおかしい。税金は財務省のものじゃなく、国民のために使うべきものやと思います。
災害避難において重要なこと
聞き手
最後に、これだけは伝えておきたいということはありますか。
澤田さん
やっぱりトイレを最優先で整えることです。せめて発災から72時間以内に、ベッドとトイレをきちんと整えられるような国であってほしい。今回の地震で強く感じたのは――日本はもう「先進国」じゃないということです。2年経ってもこの状態のままなんて、こんな国は他にありません。中国や韓国、台湾の方がはるかに国力は上。政治が30年も停滞して、みんな自分のことしか考えない。本来、政治家は“国家百年の計”を考える存在のはずです。僕のような小さな会社でも、100年先を見てやっているのに、国が未来を描けていない。今のうちに気づいてほしい。このままじゃ国が沈む。お金の問題だけじゃなくて、人の希望まで失われていく。でも、希望はやっぱり若い人たちです。君らが危機感を持って、どうかこの国を変えてほしい。「こんなことしてちゃダメだ」って、本気で思える人間が増えること。 それが一番の希望やと思います。

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警察
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
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「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
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出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
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「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

