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令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~

| 場所 | 七尾市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月18日 |
はじめに
私は医師で、専門は透析治療です。震災時には水が使えなくなるという問題があり、患者さんたちの透析治療ができなくなりました。
他地域の、専門医師が勤務する施設に協力をお願いしました。私自身や病院のスタッフが、こうした経験を各地で発表しています。
辛い記憶もありますが、前に進まなければなりません。経験を伝え続けることが、今後起こり得る災害時に役立ち、被害を減らすために大切だと感じています。
公立能登総合病院について
まず、当院のことや、地震が起きた時の能登の状況についてお話しします。
私の勤める公立能登総合病院は、能登地域の中核病院であり、災害拠点病院です。七尾駅からおよそ1.6キロ、海抜約37メートルの坂の上に位置し、三次救急を担い重症患者さんを受け入れています。石川県では県立中央病院と公立能登総合病院の二つが救命救急センターに指定されています。当院はドクターヘリを所有しませんが、県立中央病院を拠点とするヘリの受け入れ先となっており、外傷や脳出血、脳梗塞などの重症患者さんを受け入れています。

能登への交通状況
金沢市から奥能登の方へは通常、のと里山海道と国道249号線を利用します。
震災時には、国道249号線が通行止め、のと里山海道は緊急車両のみ通行可能となり、富山や金沢から七尾市までは来られても、そこから北へ進めず、物流が滞りました。
また、能登島へは七尾市内から大きな橋が2本架かっていますが、震災で両方の橋が使えなくなり、能登島在住の患者さんは帰宅困難となりました。その後、能登島大橋は比較的早期に復旧し、ツインブリッジも2025年6月に修復されました。
能登半島の高齢化と人口減少
全国平均の高齢化率は約30%で、重要な社会問題として指摘されていますが、能登地域では高齢化がさらに急速に進んでいます。石川県内では、金沢市や加賀地域は比較的若い人口が多い一方、能登半島ではすでに2010年頃に高齢化率が30%を超え、現在はさらに上昇しています。地震で大きな被害を受けた能登北部は、人口の半分以上が高齢者であり、さらに震災後は人口減少が加速し、能登北部では人口減少が震災前の約2~3倍に達しています。
水道事情
能登の水道は、手取川からの県水系統と、地域独自の系統があります。当院は県水に依存しており、断水の影響を受けました。井戸水など複数系統の準備が大切ですが、それで絶対安全とは限りません。例えば富山県の厚生連高岡病院は高岡駅の近く、市街地にあり、井戸水と上水道を併用していますが、今回の地震で井戸水が混濁し、上水道は使用可能でも周辺住宅の方々への影響を考慮し、一時的に水の使用を制限されたとのことです。
透析治療について
透析は腎臓機能が低下したときに行われる治療の一つです。腎臓は血液をろ過して、体内の不要な物質を尿として排出し、必要な物質を体に残す調整を行う臓器です。腎臓の機能が低下すると、体内の老廃物や余分な水分を十分に排出できなくなるため、透析治療が必要になります。
血液透析は、患者さんの血液を体外に取り出し、ダイアライザーという装置を通して不要な老廃物や余分な水分をろ過してきれいにし、再び体内に戻す治療方法です。腎臓の代わりに体内の老廃物や水分の調節を行う重要な治療です。
患者さんは、週に2~3回病院に通い、1回3時間から5時間の治療を受けます。当院には一度に39人の患者さんの透析治療ができる設備があり、震災前は平均105人の患者さんに対応していました。
1回の治療に、患者さん1人当たり何リットルもの水が必要です。そのため、1回の治療全体で何トンもの大量の水が必要となり、それが確保できないと治療ができません。治療ができなくなると、他の病院に協力をお願いして、透析患者さんを避難させなければなりません。
災害発生時
ここからは私自身の被災者としての経験も含めて話をします。
2024年1月1日の地震発生時、年末年始ですから、病院では通常の診療は行っていませんでした。午後4時10分頃に大きな地震が発生したとき、私は救急外来の担当日直をしていました。
地震の直後に災害対策本部の会議が開かれ、連日、朝夕の会議で現在の被害状況や病院の被害状況について、報告や議論を行いました。朝晩の会議にずっと参加していたので、朝に出勤して夜遅くに帰宅する日々が続きました。
透析治療患者への対応
地震が発生時には31人の患者さんが透析中でした。患者さんは高齢者が多く(70代の方が14人、80代の方が4人)、9人は車椅子での移動が必要でした。
速やかに対応し約5分で患者さんの避難を完了しました。その後避難場所に行くか、帰宅していただきました。能登島にお住まいの方やご家庭の事情がある方など、5名が帰宅できず、院内で待機していただき、一部の方は入院していただきました。
その後、スタッフ総力で患者さんの受け入れ調整を行いました。震災当日は夜10時頃まで、翌日以降も金沢や小松など各地の病院と連携し、調整を続けました。本来なら翌日の朝から病院で透析を行う予定だった患者さんもいましたが、その調整が完了したのは2日の正午頃です。患者さんの割り振りを行い、受け入れ先の施設に連絡し、患者さんに移動していただきました。
金沢の病院や、遠いところでは、小松市や加賀市などの施設で患者さんを受け入れてもらいました。
自分で移動が可能な方はご家族やご自身の車で、入院中の方は当院の救急車で、その他の輸送が必要な方は当院の公用車で、移動していただきました。道路がひび割れており、渋滞もしていたので、搬送には想定の2、3倍の時間がかかって大変でした。
情報の伝達にもさまざまな問題がありました。メールでやり取りすると情報量が膨大となり、大変でした。
能登北部の病院からの場合はさらに困難であったようです。到着時刻の見通しが立たず、電話もファックスも通じず連絡が取りづらいこともあったようです。
ほかにも、受け入れの施設が決まるまでに時間がかかるなど、さまざまな問題がありましたが、この短時間で完璧に対応するのは難しかったと思います。致し方ない部分もあり、最低限の情報で対応せざるを得ないと判断しました。この経験は、普段の準備を見直す良い機会になりました。
透析患者さんの受け入れに関しては、石川県の透析を担当している施設の連絡協議会があり、その中心となっている津幡の「みずほ病院」の先生方が、窓口を担当してくださいました。そこでマネジメントを一本化し、受け入れ態勢や連絡の調整をお願いしました。私たちが各施設と個別に調整を行ったりすると、かえって混乱する恐れがあると感じました。
受け入れ先の病院にも、入院が必要な患者さんもいますし、もちろん金沢の病院も地震の影響を受けていました。受け入れられるベッドの数や受け入れ能力に限りがあります。そのため、最初から入院の受け入れ可能な人数をお尋ねし、受け入れてもらうようにしました。
私自身、2011年の東日本大震災の時には富山県立中央病院で仕事をしており、福島県からの患者さんを受け入れた経験があります。今回はその時の経験がとても役に立ちました。情報が混乱するということも経験しており、今回も混乱が起こることを想定して対応しました。
様々な情報の連絡は、どのような仕事においても大切なことですし、ご家族との間でも重要だと思います。私たちは震災後にスタッフとのグループLINEを立ち上げ、安全確認や現在の状況を共有する体制を構築しました。透析連絡協議会では、今後スターリンクなどのアンテナ基地局を臨時に設置することも検討されています。
地震による病院の被害
地震で病院の建物に亀裂が入ったり、天井が崩落したりしました。
特に水道設備が大きな被害を受けました。救急外来の近くにある受水槽(230トン)が壊れてしまいました。屋上の受水槽も破損し、1か月間、給水車に頼る生活となりました。

また、エレベーターは4日間停止するなどありましたが、幸いにも停電や医療ガスの問題はなく、亡くなられたり、大きな怪我をされたりした方はいませんでした。
自分たちの医局(仕事部屋)はスプリンクラーが働いて水浸しになり、本がバタバタと倒れていました。

救急患者の受け入れ
当院は救急患者さんの受け入れがありますので、被災直後には外来のスペースを使って救急診療の受け入れを行いました。水道が使用できなかったため、トイレも使えませんでした。
最初の頃は、けがをされた方が多く見られましたが、その後に対応が必要となったのは、感染症の方やご高齢の肺炎の患者さんです。冬の寒い時期であり、当時は新型コロナウイルスの流行もありました。インフルエンザの患者さんも、軽症であれば、本来は入院の対象にならず、自宅で療養していただくのですが、避難所が生活の場になっている場合は帰る場所がなく、軽症の新型コロナやインフルエンザの方でも入院せざるを得ませんでした。
重い肺炎になっている方もおられましたし、動けないご高齢の方の中には、心臓や肺などの血管が詰まり、心筋梗塞や脳梗塞を起こす方も増えました。特に脳梗塞の患者さんが多かった印象です。
こうした方々を受け入れるための体制を整える必要があり、当院で入院していた患者さんについては、金沢への転院をお願いすることもありました。そうして、入院用のベッド枠を確保するなどの対応を行い、入院患者を受け入れるための準備を進めました。
結局、1か月ほどは水の問題がありましたので、外来診療や病棟で可能な治療に全力を注ぎました。限られた人手を生かして、できる業務に力を注ぐようにしていました。
ご自身の被災生活の状況
自宅では、食器棚が倒れて、室内は物が散乱し、出入りも困難な状況でした。1月1日は駐車場に停めた車の中で車中泊しました。
地震の翌日に自宅の近くを見ると、道路のあちこちに亀裂が入っていました。タイヤがパンクした車がそのまま乗り捨てられていて、そうした光景がいたるところに見られました。
また、近くの住宅の電気温水器が道路に倒れて落ちていましたし、七尾駅前では、歩道の歩行者用支柱が折れて、ひっくり返っていました。
私生活でも水がなく、食事はレトルト食品やカップ麺で済ませ、簡易トイレで排泄していました。体はドライシャンプーを使ったり、タオルで拭いたりしていました。
ただ、幸いなことに、電気が通っていましたし、少し水の備蓄があったため、体を拭くことができ、電気ポットも使えて、温かいお湯を用意することができたのは助かりました。
金沢に親類がおり、週末などに行くことがありましたが、皆さんが普通の生活をされていることに驚きました。ファミリーレストランも普通に営業しており、温かいご飯を食べられること、親類宅でお風呂に入らせてもらえることが本当にありがたいと感じました。大変な思いをされている方々のことを思うと、自分の境遇はまだ恵まれていると感謝しました。
その後の病院運営
病院に関しては、三が日明けから平日業務が始まりましたが、1月9日までは、水が使えず、検査や通常の診療を行うことが難しい状況でした。
そのため、外来の患者さんには検査を行うことができず、お薬だけをお渡ししました。血液検査の結果を出すためにも、かなり多くの水が必要なのです。
土日を除いて、1月4日から4日間のことでしたが、とても長く感じました。
1月10日水曜日からは、給水いただいたおかげで検査も再開することができました。外来の診療や手術、内視鏡検査を優先することにし、透析治療は他の施設にお願いして、復旧を待ちました。
2月3日には石川県知事がお越しになり、私が状況を説明しました。2月7日から透析を再開できるようになり、そのことが全国ニュースのトップになって、少し驚きました。
その後、輪島市や珠洲市の透析患者さんも受け入れ始めました。能登北部の病院での透析再開は、輪島市や珠洲市では3月25日、穴水町では4月3日でした。
令和6年9月の豪雨災害への対応
その後、令和6年9月に豪雨災害が発生しました。一時、能登北部の病院で透析ができなくなる可能性が起こり、当院での受け入れが可能か打診を受けました。その際には事前に準備ができていました。打診が来る前に能登北部のスタッフと当院のスタッフで情報交換がされ、当院内でも情報共有が速やかに行われていました。地震の経験から、病院の内外で連絡体制を強化し、情報を共有できるようになりました。また、受水槽も地震に強い構造に建て替えています。被災した経験を生かすことができたと思っています。
南海トラフ地震などの災害が想定されています。経験を伝え続け、残して行くことが、被災を経験した者の務めであり、今後の発災時(起こってほしくないのですが)の減災につながると思っています。

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