体験を語る
- 避難所・避難生活
孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年10月29日 |
地震発生前と直後の様子
聞き手
地震当日1月1日のお正月はどういう過ごし方をされていましたか?
住吉さん
1日、家内とかほくの方に行ってる娘が一人来ていまして、私たち家族3人、そして輪島の方から私の甥夫婦、そしてその子供が3人の5人ですね。一気に来ていまして、合計8人いました。8人のうち1人、輪島から来たその甥の子は、たまたま外に1人だけ出ていたんですけど、残り7人はうちのダイニングの方で休んでいたわけです。そしたら夕方、地震です。同じこの上山地区でも、後で話を聞くと、最初の揺れがあって、隣の家まで行く余裕があった、そんなところもあるようですね。「地震あったね」って隣から来ていたら、今度大きな地震が起きたっていう人もいましたけど、うちの場合、大きな地震が来るまでそんな時間差なんてなかったんですよ。ちょっと弱まったかなっていう時に、またすぐその後、大きな地震が結構長い間ありましたよね。
みんなテーブルの下に頭を入れて、ただ、どうしたっていうか、みんな驚いてね、もう全然立つこともできないんです。揺れが収まるまで、テーブルの下にうずくまっていましたね。
揺れが収まった後、すぐ外に出まして、バス停の近くが広いですから、あそこへみんな行きましたね。そこに集落の皆さん、家から出て広いところに集まってましたね。次から次へと集まってきました。
そしたらだんだん夕方なんで暗くなってきました。ちょうどバス停の向かい側に、田んぼの稲の苗を作っていた小さなハウスがあるんですね。そこにブルーシートを屋根にかけまして、そこで一晩過ごしたわけなんですけど、その当時この雑座(ぞうざ)という集落で10軒あったんですけど、この集落で住んでいる人と、正月で帰ってきた人と合わせて全部で44人そこに集まりましたね。
その日はそこで晩御飯の用意を皆さんでしました。正月ということもあって、この辺の方、正月になると、お餅を作ってあったり、そばも年越しのそばもあったり、結構食事に関してはいっぱいあったもんですから十分でした。
食事は一旦、家に取りに帰りました。うちの場合、うしろの方で地面が隆起しまして、あとで直す時にレベルで測ったら27cm、約30cm、うしろの方が隆起しましたら、建物が前の方に結構傾いてね。家の中へ入っても、歩くだけでもちょっとふらふらするような感じ。そんな感じだったんですけど、土足で必要なものだけ取りに入ったんですけど、ちょっと怖くて最初は入れなかったです。
聞き手
その時に取ってきた必要なものっていうのは何でしたか?
住吉さん
茶碗とか、そういう感じですね。食べ物とか、とりあえず、その場で必要なものだけ。近いですからね。何回も行ったり来たりで。


聞き手
もともと災害が起きたらどこに集まろうとか、どこに逃げようとかっていうのは何かあったんですか?
住吉さん
この地区では、集会所っていうのはないもんですから、それはなかったですね。集会所はないので集まりごとっていうのは、区長宅で集まることになります。そういうこともあって、家が大きかったりします。昔から冠婚葬祭は自分の家で皆さんやってましたから、今はほとんどそういうことで使うこともないですけどね。今となればこんな大きな必要ないんですけど。
今回の地震の時は、まずその広いところに行って、そのハウスにブルーシートをかけて、他の先のことを考える余裕なんてなかったんですから、まずその場しのぎの形でシート張って、うちはたまたま薪ストーブがあったものですから、薪ストーブをそっちに持って行って暖房を取りました。年老いた人は寒い中、ちょっと横になる程度だけでしたけど。寒かったですね。私らちょっと元気な人たちは、その晩は一睡もしないで、暖を取るのに薪ストーブ焚いて、あと車中泊で一晩過ごしました。ほとんどの人は車中泊ですね。
2日目はブルーシートを張ったそこでは高齢者はちょっと寝泊まりが難しいもんですから、そこからすぐ、4、5百メーター下がったところに池田っていう集落があるんですけども、そこに、何年前ですかね、10年以上経ってますかね、新築した住宅と鉄筋コンクリート造りのガレージを3つ持っている方がいまして、そこへ主にこの雑座の集落の44名の方が避難させてもらうことになりました。
そのお宅で高齢の方が7~8人、家で泊めていただいて、元気な方はそのガレージで寝泊まりしました。食事の支度をするのに一つのガレージ、寝泊まりするのに二つのガレージを使わせていただいたということですね。そこで結構皆さん助かりました。
その池田という集落は、割と地震の被害が少なかったんです。この上山地区は6つの集落に分かれているんですけど、この周辺の4つ、近い集落で新保の人たちは皆さん、地震の当日から自分の家で寝泊まりできたような状態でした。上の集落は何日間か一軒だけ、そんなに被害のない家で泊めてもらったらしいです。池田も自分の家で、皆さん、家泊まりはできていたんですね。
だいたい3日目ぐらいから金沢の方から迎えに来た人もいまして、この亀山から脱出する人が少しずついました。私はその時1週間ぐらい、ガレージも結構いっぱいだったので、車で寝泊まりしていました。
孤立した集落での避難生活
聞き手
集落が孤立化した状況について教えてください。
住吉さん
ちょっと一歩出ると山が崩れていまして、門前の方にも行ける道があるんですけど、そこも池田の集落からちょっと降りたところで、もう行き止まりになっていました。輪島の方も行き止まりになっていまして、もうどこにも行けないっていう感じです。
それが分かったのは1日目、地震の起きた夕方、ちょっと近くまで歩いてその時にその状態は分かりました。
うちの息子が3日に、白山市から、一緒に働いていた同僚と支援物資を持って、私ら2人を連れて行くために来ましたが、私は区長という立場上、「俺は行けんから、お母さんだけ頼む」と言って、3日目に家内は一緒に出ました。その時は、ここから4、5キロ行った浦上で車を停めて、そこからは歩いてこっちの方に入ってきたんですね。車では行けないので、みなさん歩きです。3日目ぐらいから、金沢の方から嫁さんたちが迎えに来た人が、元気な方をそうやって迎えにきましたね。

聞き手
その時、電話は通じましたか?
住吉さん
全然ダメです。地震があって、最初の揺れがあった時に金沢の方から、うちの家内の妹さんからメールがあったらしいんですが、ちょっと開いた途端に電源が切れて、それっきり通じなくなりました。
白山の息子は連絡取れないまま自主的に物資を持ってきてくれました。
聞き手
最初の孤立して避難している時期で一番大変だったことっていうのは何ですか?
住吉さん
一番大変だったのは外部との連絡が取れないっていうことですね。それが一番。一切取れない。助けを呼ぼうにも呼べないですし。ただ待ってるだけ。食べ物は十分あったので、その辺は心配なかった。水は山の水。この辺は自己管理で山の水、湧き水を引いて使っているんですけど、当時、2本あったうちの1本が生きていました。家の中では使えなかったんですが、途中まで来ていたんで、そのガレージで生活して、パイプを切って、使えるようにしていました。水と食料は十分ありました。
集落の自己管理の山の中から出てくる湧き水です。それは傾斜になっていますので、ポンプも何もいらない自然流です。それを途中から切って、ホースで。

聞き手
電気はどうでしたか。
住吉さん
発電機をこの集落で持っている人はいなかったんですけど、近くの新保の集落では1台あったので、そこは発電機を使っていたみたいです。電気は基本的に全然なかったんですね。携帯も充電できない。充電できても携帯は使えないから。電気なしの期間が続いたわけですね。ラジオは電池がありましたので、ラジオである程度の様子は聞いていました。
聞き手
この時期で一番助かったことは?
住吉さん
3日目に自衛隊の方が入ってきてから、いろんな水とか食料とか、パンなんかも食べきれないほどいただいて。自衛隊の人たちは、ここが孤立しているというのを把握して助けに来たんですかね。結構ヘリコプターも飛んでましたし、こっちから「孤立している」という情報は全然出せない状態でしたから。
聞き手
そこからこの集落はどうなっていったんですか。
住吉さん
それから、食べるものとかそういうものは十分あったんですけど、5日の日、寒いものですから体調を崩す人が出てきました。自衛隊の方が衛星電話を4日に持ってきてくれて、連絡ができるようになっていましたので、防災対策課の方に「体調を崩した人がいるのでヘリコプターをお願いします」という連絡はできるようになったんです。1月5日はそうですね。5日、6日はぼちぼちと金沢の方へ避難する人がいて、その人たちを送るのに道路がないもんですから、若い元気な人たちが、ここから1キロもあるかな、ちょっと切れるほどのところまで、みんなで送ってあげて、下の道から上の崖まで20、30メートルありますかね。山の中をロープを伝って下から上へ人を運びました。年いった方は自衛隊の方におんぶされて。それはヘリコプターを使わずに、金沢から子供さんたちが迎えに浦上から入っていたんですけど、途中まで車で来て、歩いて迎えに来た人たちを車のところまで送る、そんな感じです。
上山で看護師を定年になった人もいました。皆さんほとんど薬を常用しているんですけど、薬が切れるということで、7日の日、上山の各集落を全部回って、どんな薬を飲んでいるか控えてもらって、それを自衛隊の方に渡して、薬を持ってきてもらった。それは大変助かりましたね。

ヘリコプターによる集団広域避難へ
聞き手
ヘリコプターで避難しようってなったのはいつ頃ですか。
住吉さん
ヘリコプターで行ったのは8日の日からですね。最初、新保集落の方が、正月に地震の揺れでお母さんを抱えて外に出たらしいんですけど、つまずいて、お母さんがあばらかどこかを痛めたらしいんですね。それが1週間ほど経ったところで出血しだして、なんとかならんかということで、それが自衛隊を最初に呼んだ方ですね。8日にお願いしたんですけど、天候が悪いからということで、8日は飛べず、9日の夕方にヘリで1人運ばれています。
10日の日に、またこの雑座集落で、2人ヘリで搬送されまして、その30分後にまた2人、これまた高齢の方です。10日は4人、ヘリコプターで運ばれていますね。11日には、その時、今の浦上の方から道を開けて、土砂をどけて、すぐその近くまで通ったんですけど、その土砂をどけてきた機械が、今度は上から土砂が落ちてきて、それに巻き込まれて、ちょっと下の方まで一緒に落ちてしまった。運転していた人は、運良く全然怪我一つもなかったみたいで。そういうことがあったんですけども。
ヘリで避難したのは、最初は高齢の方とか、危険な状態の方数名だけでした。最終的に、10日と12日も2人、13日も2人出ました。ヘリで全部で10人ぐらいですかね。それは「ヘリを使いたい」という話し合いがあって、というより、風邪とか熱が出たとか、歩けなくなったとか、そういうのを把握して、自衛隊さんの方に要請しました。要請は、まず役所の防災対策課の方へ、こっちから衛星電話で連絡を取って、対応していただいた、そういう状況ですね。
ただ、「ヘリお願いします」と言っても、天候の塩梅で今すぐ飛べない、何時になるかわからない。携帯が使えないものですから、衛星電話でやり取りします。すると防災対策課からこっちへ連絡するにも、時間を決めていない場合は、寒い中でもその場所で待っていないといけない。いつ電話が入ってくるかわからない。寒い風が吹く中でなかなか大変でした。衛星電話は屋外でないと使えない。あれが一番きつかった。でも、ないよりは、やっぱり助かりました。
聞き手
ヘリコプターを使って避難された方と、残った方がいたんですか。
住吉さん
そうですね。ちょっと若い方というか。11日に副市長さんから「上山地区は全員一人残らず避難してほしい」という連絡が入っています。
聞き手
その時、集落での反応はどんな感じでしたか。
住吉さん
その時、もうすぐそこまで道路を国交省の方が開けて来ていたもんですから、もうすぐ村まで車が入れるようになるなと思っていたんです。車さえ入ってくれば大丈夫かなと思っていたんですけど、その工事車両が下までちょっと落ちそうになって、そこで工事が中断したわけなんですね。みんなそれを期待していたんですけど、これはちょっと長引くなということで、避難もやむなしというか、結果的には避難してよかったんですけど、こっちとしては道路がつけばなんとかなる、なんとか避難せずに残れたら、と思っておりました。
当時はこの上山の地内のことだけしか分からなかったもんですから。輪島市内のことは後で分かったんですけど、あんなひどいことになっているなんて、全然想像もしていなかった。ラジオは聞けたとしても、そういう状況というのはなかなか分からないですね。朝市通りが火事になって大変なことになってるっていうのはニュースで聞いてましたけど、建物なんか、輪島の町があんなにひどいとは本当に予想もつかなかったですね。まだ上山地区は、他と比べて地震の被害は割と小さい方なんですよ。
聞き手
この時期は、家が崩れている状況を見て、先のことを考える余裕はなかったですか?
住吉さん
ここで建て直して住み続けるのか、ここでは難しそうだから外へ、いろんな考えがありました。自分の家のことで言いますと、30センチばかり後ろの地面が隆起して傾いて、床が全然歩けないような状態だったもんですから、「これはひどいことになったな」とは思って。最初は諦められたというか。この家の中に入る時も、畳の上を土足で入ったり寝たりしてたんですけど、時間が経つにつれて、自分が大工をやってるもんですから、「なんとかなるかな」と思うようになりました。
聞き手
11日に副市長さんから全員でヘリに避難を呼びかけられたんですよね。その後どうなりましたか?
住吉さん
17日に集落全員でヘリコプターで避難したわけですね。どこにも車で出られない状態ですから、避難するとなれば、もう皆さんどうしようもないというかね。避難するときは、どこそこに行くってことは聞いていなかったんですけど、後で聞いた話では、白山市の体育館に避難したんです。わざと行き先は言わないんだろうなとは思いました。体育館っていうとイメージがね、みなさんそう思うと思うんですよ。後で温泉の方へ行った人もいますから、そういうこともあって、最初は言わなかったんだろうと思います。
上山から最初は7人ずつ、3、4回に分けてマリンタウンへ小さいヘリコプターで行きました。マリンタウンから、近くの西二又、下山町、小池の人が合流して一緒に30人ほどで大きなヘリに乗って、金沢まで飛びました。金沢からバスで、松任総合運動公園の体育館に行ったわけですね。
聞き手
ヘリコプターでの避難はなかなか経験できることではないと思いますが、どうでしたか。
住吉さん
ヘリコプターに乗ったことはなかったもんですから、1回ヘリコプターには乗ってみたいなと思っていたんですけどね。座席はなく、みんな床に尻をつけて、背中を壁に持たれて乗っていました。小さいヘリでマリンタウンまで行った時は、そうでもなかったんですが、マリンタウンから金沢へ行った時の大きなヘリコプターは、音がうるさいのと、上下に揺れる。あれは乗り慣れていないと結構大変ですね。みんな写真を撮って、緊張した顔をしていました。
聞き手
荷物の制限はありましたか。
住吉さん
荷物は本当に一つというか、着るもの、本当に必要なものだけです。極力荷物を少なくしていました。本当にカバン一つぐらい。ちょっとしたバッグに、体育館で暮らしていくもの、洗面具と下着を入れて、着の身着のままですよね。避難先では、下着から豊富でした。いっぱいありました。やっぱりそっちの体育館の方に移って、避難生活自体の質は改善されました。良かったです。
皆さん、最初は体育館っていう広いところで、一人ずつカーテンで仕切ったところがあると思って入ったんですけど、食事なんかも良かったですし。徳光のパーキングに温泉ありますよね。午前中と午後とバスを出していただいて、好きなところにお風呂にも行きましたし、すごく良くしていただきました。


聞き手
17日にヘリコプターで避難するまでの期間は、お風呂やシャワーはどうしましたか?
住吉さん
全然なかったので、我慢して体を拭いたりしていました。洗濯もその間は、シャツだけ。下着は替えたんだろうけど、洗濯までする余裕はなかったかなと思いますね。寒いですし、冷たいから。17日に久しぶりにお風呂に入れたというかたちです。
避難所生活を終え、家を修繕しながらの暮らし
聞き手
そこからどのぐらいまで、体育館で生活されましたか?
住吉さん
私が退所したのは4月11日です。自宅は電気もなく、しばらく家に帰れそうにないので早めにアパートを借りなきゃダメだと子どもたちに言われました。とりあえずアパートを早く借りたいということで金沢の粟崎の方でアパートを借りたんです。なるべくこっちに来るのに、市内よりも帰りに近い方がいいかなと思ってそこでアパートを借りて、家内は先にそのアパートに一人だけ入っていたんですけど、私は区長の立場上、皆さんと一緒に体育館の方で最後まで過ごしました。
1月の下旬にアパートに入ったんですね。自分は17日に避難して、何日かはアパートにも泊まったんですけど、ほとんど体育館の方で過ごしました。
聞き手
体育館での生活で大変だったことっていうのはどういうことがありますか。
住吉さん
特別大変ってことはないけど、気になったのが、夜中に皆さんトイレに行ったりしますよね。スリッパを履いて足を擦りながら行くんで、その音でちょっと目が覚めてしまう。そんな程度ですかね。あとは良かったですからね。
聞き手
4月に体育館を出て戻ろうってなったのは何か理由が?
住吉さん
もうその時は道路もうちの方まで通れるようになったもんですから。早く帰ってうちの方も直さんといかんと思いました。それで他の集落の他の方もだいたい同じぐらいの時期に戻りました。この上山地区で帰るのが一番遅かったのは私ですかね。皆さんの様子を見ながら戻りました。
アパートは完全に正式に出たのは8月の終わりなんですけども、私はうちを直さないといかんと思い、4月11日に避難所を退所して、粟崎のアパートに立ち寄ってこっちに帰ってきていますね。
ここでベッドに寝て、炊事洗濯は納屋の方で。水も電気もその時はもう来ていました。電気は3月中旬頃に来ていました。11日に退所して、家内もそれからしばらく一緒にこっち戻ってたんですよ。完全にアパートを出たのは8月だけど、家の修繕があるので、妻と一緒に2拠点みたいな形で暮らしていました。どっちかというと、この自宅での生活がメインでした。8月頃にはだいたいこっちが落ち着いてきたんでアパートを解約して荷物を引っ越しました。
聞き手
家の再建と言っても、「大規模半壊」だったということで、その判定を受けたのはいつ頃ですか?
住吉さん
罹災証明書をもらったのは3月18日。早く罹災証明をもらって、ものがないと進められないということで、最初の大規模半壊なら、それでいいかなと。あとで修理しにかかったら、地面が割れたりしてて、結構ひどかったんです。地面が割れていれば全壊になると聞いたんですけど、仕方ないわと思って。
聞き手
その罹災の判定を受けた時点では、どういう住宅の再建の選択肢が考えられたんですか。
住吉さん
迷わず自分で直すわっていう感じで解体なんか全然考えませんでした。皆さん簡単に解体って言ってますけど、解体した後に小さくても住宅を建てれるかと言ったら、ちょっと大変。一から新築っていうのは、いろんな面で大変なんで、あるものを残そうと思いました。
私は大工ですが、この建物自身は全部自分が建てたわけではなく、一部は古いんです。向こうが自分で増築して作った部分ですが、水回りなんて、全然ダメだったんです。
聞き手
何か大切なものを残したいという思いもあったんですか?
住吉さん
小さい頃から、元は葛屋(茅葺屋根の家)だったんですよ。茅葺きだったのを瓦にしたんですけど、自分でやったもんですから、壊すのは忍びないっていうかね。
聞き手
大規模半壊ということで相当の被害があって、工事もかなり大変だったと思います。
住吉さん
床下、床を直すのに、水切りにするのに2ヶ月ほど床下に入ってましたから。基本作業は一人でしました。応援を頼みたかったんですけど誰もいないですからね。特別大変とは思わなかったですけどね。大工仕事は本職ですから、やるしかない。

聞き手
その頃はもう道路は通れるような状況になっているんですか。
住吉さん
道路事情は悪いですけど、門前に行ける状態でしたから、資材なんかは門前で買って持ってきました。この部屋もだいぶ綺麗に見えるんですけど、壁とか。向こうの方は結構痛んだんですけど、古い方は中はほとんど痛まなかったんです。壁はところどころ割れたり落ちたりして、普通地震になるとこういうところ開いたりするんですけど、うちの場合、そういうことはならなかった、自分がやったから。うちの息子も大工をしてるんですけど、よく潰れなんだな(=潰れなかったな)って最初見て感心してました。
聞き手
大工さんということで、他の人から頼まれたりとかってこともあるんですか。
住吉さん
ありました。2軒だけ応急的な仕事に行きましたけどね。結構かかりそうなところは、請け負うわけにいかんから断って、応急的なところだけ行きました。他の集落ですが、同じ上山地区です。
聞き手
在宅の方への支援が手薄だという話を伺います。当時、支援等で助かったことっていうのは何かありましたか?
住吉さん
必要とはしなかった。ボランティアの方にもたまに、支援物資、水とかそういうものは持ってきていただいたけどね。生活自体に困ることは特にありませんでした。
2024年9月豪雨で再び被災、2度目のヘリコプター避難、集落活動
住吉さん
ここはまだ完璧に改修しているわけじゃないんで、継続的に直しながら今まで来たという感じですね。もっと早くできる予定だったんですけど、9月の豪雨でまた集落が孤立して、今度は輪島中の体育館に避難しました。まただいぶ遅れたんですよ。集落の皆さん、長い人は9月21日にまたヘリで避難して、今年の3月いっぱいお世話になってましたからね。私はゆっくり避難している余裕がないから、とにかく家を直さなきゃいけない。道路が通れるようになってから、すぐこっちに戻ってきましたけどね。区長として避難所の方にもたまに行ったりしてましたけど。1年に2度もヘリコプターに乗るとは思いませんでした。地震と豪雨とまた違う災害で。
聞き手
こっちに帰られてから、その集落の人同士での集まりとか話し合いとか、今までやってた活動をどうするとか、そういう話し合いはあったんですか。
住吉さん
そこまで余裕ないですね。特にそういう話はなくて、皆さん自分の生活のところでいっぱいでした。近々そういう区費の話とかをやり始めようかという話があります。4月頃、ぼちぼちと皆さん帰ってきて、県道の草刈りはやりました。だいたい20人ほど参加してくれました。
聞き手
ちなみに集落で祭りなど祭事はありましたか?
住吉さん
祭りの行事は、去年なかったんです。もともとは、境内を掃除して、お宮さんに上がって、お参りする神事だけのお祭りですね。神輿もないですし。
現在の課題、地震の教訓を活かした対策・整備に期待
聞き手
現在の課題は何かありますか。
住吉さん
村としての課題というよりも、やっぱり道路を県なり市なり、もっと早く整備していただきたいということですね。まず道路さえ良くなればと思っています。今、片側通行で、なかなか行き来することないですね。
最近、線状降水帯って言いますけど、雨が降ると今までと違って激しい雨が降るもんですからね。この上山地区はそうでもないんですけど、ちょっと下の方へ行くと、この秋だけでも2、3回ほど通行止めになってます。このすぐ近くでね。
そして、通信状態ですね。携帯電話が今あんまり良くないんで。
聞き手
住吉さん個人としての課題は何かありますか。
住吉さん
個人的には、義援金も結構いただけていますし、支援金の方もそこそこありましたけど、大工として自分でこうやっているからまだそんなに気にはならないですね。自分でできない人にすると、結構なお金がかかりますからね。大変だと思いますけど、自分としてはそんなに苦になるようなことはないかなと思います。
聞き手
地震の前と今で、1日の生活の仕方って結構変わりましたか。
住吉さん
地震の前は外に稼ぎに出たっていう生活だったんですけど、その後はずっと今まで、自分の家にかかりきり。仕事という意味では変わりはないんですね。家族も変わりなく。こうやって仕事が集中して自分の家を直せていられるのも、家内がいて、食事の支度、洗濯を全部やってくれますから、これができる。家内には感謝しています。一人で仕事もし、昼や晩の飯も作らなきゃならない。そんなことを思っていると、仕事もなかなかできませんし、コンビニも遠いですし。家内がいてくれるから、こうやってできると、つくづく思います。
聞き手
息子さんも大工さんということですが、忙しくされていますか?
住吉さん
息子は向こうで世帯を持っていて、小さい子供が今、小学校 2年と年長組か。小さい子供を持ってますから、なかなか、本人は本当はこっちに来て応援したいんだろうけど、やっぱり小さい子供を置いていくことになると大変です。去年、仮設住宅の建設で7月頃かな、輪島まで来てやってたんですけど、ここで泊まって、仕事で輪島の町まで通って、仮設の仕事をしてたんです。それでもやっぱりみんな同じらしくて、家族を置いていくのを嫌がってるって、そんな話をします。
聞き手
日本は地震大国で、いつどこで地震が起こるかわからないです。こういう過疎の集落も日本各地にありますので、未来の災害被害を受ける方々に向けて、なかなか対策できることではないかもしれないんですけど、こういうことがいいよとか、こういう準備をしたらいいよとか、もしあれば伺ってもいいですか。
住吉さん
対策というと、外部との通信ですね。外部との連絡が取れるような整備です。外部との連絡が取れれば、孤立した集落も安心できますし、外に出た子供さんたちも安心して入っていい状態かどうかが分かりますから、危険な目に遭わずにできます。それが一番大事かなと思いますね。
聞き手
今日いろんな上山のお話を聞かせていただいて、もともと山水を自分たちで管理していたから水が使えたとか、そういう集落ならではの強みみたいな話も伺いました。この地域だからこそ今回の災害を乗り越えられた、良かったこと、助かったこと、ここ自分たちだったからできた、みたいなことがあれば改めて聞かせてもらってもいいですか。
住吉さん
この災害を乗り越えられたっていうのは、比較的この地区は災害が他の地区と比べて小さかったのが一番なんですけど、やはり人から命令・指図されなくても、自主的に皆さんがお互いにできることを自分でやってくれた。それが一番良かったんじゃないですかね。日頃の村のお付き合いで、いろいろ言わなくても、お互いにできることを進んでやるという習慣が身についています。
聞き手
最後に、これだけは伝えておきたい、あるいはぜひお話ししておきたいという点がございましたら、お聞かせください。
住吉さん
さっきも言いましたけど、やっぱり道路ですね。これからの道路の状態。この辺は雪も結構降りますんで、雪が降ると倒木。雪の重みで倒木が電線を切る箇所があるんです。それもお願いはしてるんですけど、なかなか地権者がずっと昔から登記がなされてないということで、その地権者にたどり着けない。そういうことがあって、木を伐採できないという状況があります。道路を拡張するにしても、そういうことがネックになって何十年経っても進まないところがあるんです。そういうところは政治の力、行政がもっとやってほしい。電力会社に個人で言いに行ってもダメですし、土木のほうに行ってもダメですし、県に行ってもダメですから。行政等関係者がみんな協力し合って進めていかないとなかなかできないことなんですね。いつも毎年、懇談会等で要望しているんですけど、言うことは同じなんです。地権者が最終的に枝分かれしてね、明治時代から登記がなされてない。枝分かれしてたのがいっぱいあると、そこで止まるんですね。
この西保は、輪島の海岸から入ってくるところ、もう崩落して通れないんですよ。電気もあそこから来てたんですけど、今は浦上から上山を通って、下の海岸線から向こうの方へ行ってるんで、その浦上から上山への入り口のところが、倒木で電気が切れてもおかしくない場所があるんです。そこを要望してるんですけど、なかなか。あそこが電気切れたら西保が全部真っ暗になるんですよ。
もし電線が切れたら動くんでしょうけれど、本当は切れる前に対策したいですよね。
だから地震の後に、あそこで電気が切れるのが分かってますから、新しい発電機を1台買って用意してあります。そんな余分な金を出して、そういう状態ですから。
人口が少ないとなかなか難しいです。費用対効果っていう言葉がちらっと出てきたり。日本全国、日本は災害の王国って言われますけど、この日本列島、こういう田舎町、地方で暮らす人もいっぱいいるでしょうから、道を築くだけでなく、日本全体のことを考えて、もう少し道路状態とか通信状態を整えていただきたいなと思います。

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「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

