石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • ボランティア

ボランティアセンターの運営を通じて、行政と市民、ボランティアのかけ橋に

輪島市社会福祉協議会 殿田恵子さん
体験内容
被災直後は輪島市役所市民課で戸籍など市民の届出に関する業務を担当。 その後、災害ボランティアセンターの開設に携わり、ボランティアの調整や対応を行った。
場所 輪島市
聞き取り日 2025年10月29日

地震発生当初

ご自身の被災状況について教えていただけますか。

発災時、私は河井町の実家で父親と一緒に過ごしていました。場所は朝市通りの近くで、大津波警報が出たためすぐに避難しました。周辺では火災も発生して、実家は焼失してしまいました。自宅は半壊のため公費解体し、現在は市内の親族宅の空き家を仮住まいにしています。今は再建に向けて準備をしているところです。

避難はいつ頃されたのですか。

避難は津波警報が出てすぐに、まず最寄りの3階建ての指定避難所である「輪島市ふれあい健康センター」に向かいました。平成19年の地震や東日本大震災のことが頭に浮かびましたし、周りを見ても皆さん高台への避難はとても早かったですね。近所でも声を掛け合いながら、逃げ遅れている人はいないか、と確認し合う様子が見られました。
80代の父と、さらに近所の一人暮らしをされている高齢の女性も連れて向かいました。その方は足腰も弱っていたので、手を引きながら一緒に避難しました。休みながらの移動だったので少し時間はかかりましたが、午後4時45分頃、避難所に着きました。

高台に着いてからはどうされたのですか。

しばらくは備蓄の飲料水を配るなどの避難所対応をしました。父親はその避難先で一晩過ごし、私の当時の職場は市役所だったので、職場の様子を見に行きました。市役所は新庁舎が建って数年ですが、正面玄関や周辺の道路に亀裂が入り、30~40センチほどの段差ができていました。近くの橋との接続部も50センチほどずれていました。庁舎は、停電はしていませんでしたが、大津波警報が出ていたため、周辺の住民の方が次々に避難して来られました
事務室の中に入ると、机の上のパソコンが倒れ、事務用品が散乱し、重いはずのコピー機やプリンターも大きく動いていました。その後、可能な範囲で職員の安否確認を行い、一旦避難所に戻ったあと、夜の11時頃に徒歩で自宅まで戻りました。

2日目以降の行動について教えていただきますか。

本来であればすぐに職場に駆けつけるべきでしたが、自宅もかなり壁が崩れ、家財も倒れていて被害が大きかったので、2日は片付けを優先しました。
家族も全員無事でしたので、みんなで応急的な整頓をして、半日ほどかけて居室のスペースを確保しました。午後には避難所にいた父を自宅に連れてきました。
自宅は半壊でしたが、少し過ごせる場所は確保できましたし、避難所は人が多く、断水でトイレのことも心配でした。自宅も断水はしていましたが、やはり父が目の届くところにいた方が安心だと思い、私の自宅に避難してもらいました。その日の夕方4時ごろに職場へ出勤しました。

市民課での業務開始

市民課で、発災後の対応としてどういうことをされましたか。

職場では、今後必要になるであろう業務を想定した準備を始めました。まずはシステム関係の確認です。パソコンや機械類の作動状況を確認しましたが、インターネットや、各業務のシステムは使えない状態でした。そこで、手作業での対応へ切り替えを検討しました
当時私は市民課に所属しており、戸籍・住民票・マイナンバーカード・国民健康保険などを扱っていました。まず証明書の発行が可能かどうかを検討しましたが、発災直後にそれを求める方は少ないと考え、しばらく様子を見ることにしました。
ところが次第に、亡くなられた方の情報が入ってきました。そこで、死亡届や火葬許可証の発行が急増すると予測し、対応の準備を進めました。普段は戸籍システムで電算処理しますが、今回はシステムが使えず、休日用に備えてあった手書きの帳票で対応することにしました。
通常は火葬場の予約が入るとファックスで事前連絡がありますが、今回はそれも受け付けられず、直接届け出を受ける形になりました。いつ、どのくらい届出があるのか全く読めない状況で、実際に届け出が始まったのは1月5日からでした。1日の件数は5~10件で、ほぼ一日中その対応をしていました。普段は多くても1日2~3件で、かなりの増加でした。

逼迫した状態がいつ頃まで続いたのですか。

時期によって業務が次々と移り変わっていきましたが、だいたい1ヶ月半ほど続きました。死亡届の対応と合わせて、火葬の調整も必要でした。
当時は輪島市内の火葬場が使えず、「広域火葬」という形で金沢以南の火葬場を利用することになりました。通常の利用に加えて被災地からの火葬が重なったため、死亡届を出してから実際に火葬が行われるまでかなり時間がかかりました。
石川県や火葬場のある自治体、葬儀会社の組合と調整をしながら対応していましたが、安置から火葬まで1週間ほどかかった方もいました。特に東部の町野地区などでは道路状況が悪く、ご遺体を搬送するのにも時間を要し、さらに日数がかかる場合もありました。こうした広域火葬の仕組みは、訓練は行われていましたが、実際に運用されたのは私にとっても初めての経験でした。
その後、少しずつ通常業務の再開にも取り組みました。窓口での証明書発行や、マイナンバーカードを使ったコンビニ交付が再開したのは、1月16日です。ただし、発行ができたのは市役所の本庁と、門前総合支所、それからコンビニ交付の3か所のみでした。
もともとは市内の支所や出張所でも証明書発行ができましたが、建物の被害や通信の途絶があり、しばらくの間は稼働できませんでした。輪島市内のコンビニエンスストアも店舗ごとに被害の差がありました。被害が少ない店舗では交付が可能でしたが、被害の大きいところは難しく、県外の店舗であれば取得できるという状況でした。

当時の道路状況(殿田さん提供)

届出の再開について、普段が違うところはありましたか。

2月に入ってからだったと思いますが、今度はいろいろな再建に向けた支援制度の開始が徐々に始まりました。それに伴って、申請に必要な住民票や印鑑証明などの証明書発行が一気に増えました。さらに、印鑑証明書を取るために必要な登録証カードや印鑑そのものが、被災して取り出せなかったり、焼失してしまったりというケースも多く、再発行の手続きも急増しました。
特に印鑑登録の手続きは、本人確認が非常に厳格な制度なので、貴重品や身分証を一度に失ってしまった方々にとっては、証明書の取得や再発行が本当に大変だったと思います。

手続きは通常と同じ手順だったのですか。

一部は現状に応じた柔軟な対応を取りましたが、印鑑登録については大きく制度を変えることはありませんでした。個別にお話を伺いながら判断したケースも一部ありました。

市民の方からの声で印象的だったことや、「こうすればいいのに」といった意見はありましたか。

やはり各種の手続きに関して、要件緩和を求める声が多かったですね。もともと高齢化率が高い地域でしたので、市外から遠方にいる親族の方やお子さんが手続きの際に付き添うことも多かったですし、市内に避難している方も多くいました。輪島市は交通事情が限られ、また、市内での滞在時間が限られる中、急いで手続きを進める必要がありました。要件が合わないことで手続きが進まないと、「なんとかならないか」という声をよく聞きましたね。

手続きがスムーズに進まないことで、住民の方の憤りを感じる場面もあったのでしょうか。

はい、住民の方々の気持ちは本当に痛いほど伝わってきました。なんとかしたいという思いはありましたが、一度特例を認めると、その後に多くの影響が出てくる可能性もあったので、心苦しい部分もありました。そのため、丁寧に説明し、理解をいただけるように努めました
一方で、「また来週来ます」と言って理解を示してくださる方も多かったと思います。少し個人的な話になりますが、以前は行政側への風当たりが強くなることもありました。それでも、これだけ大きな被害があった中で、市役所の職員の人も大変ですよね、と逆に励ましの言葉をいただくこともありました。

今回の手続きの中で、通常とは違う手続きが加わるようなことはありましたか?

大きな変化としては、窓口での手続きの効率化を図ることや、混雑の解消を目指すこと、手数料の減免などがありました。通常、支援制度の被災者の方が証明書を取り寄せて、担当窓口に提出する流れが多いですが、窓口の混雑を避けるために、できる範囲で担当部署同士で書類のやり取りをするようにしました。できるだけ被災者の負担を軽くしようという動きは、全庁的にあり、証明書類を全てご自身で揃えて提出することを減らす取り組みがありました。

被災した中での困難

今回のような大きな被害の中で、想定していなかった部分への対応や、直面した困難はありましたか?

通常は可動しているシステムやネットワークがストップしたり、あえて止めたという事情もありました。一例を挙げると、戸籍や住民基本台帳ネットワークのシステムでは、被災地に情報が集中し、対応が急増しないよう、国の方針としてネットワークのやり取りを止めることが決まったんです。それによって、一度は業務が遅れました。
その後、通常に戻った際には、一気に業務が増加し、亡くなられた方の死亡後の各種手続きも進みました。ですが、今度は窓口対応できる職員数の減少が課題となります。避難所対応や孤立地域にいた為、なかなか出勤できないこともありましたし、退職などで職員数が減少したことも影響しました。そのため、限られた人数で対応する時期が長く続きました。

職員の数はどのぐらい減少したのですか。

職員数は2割から3割ほど減ったと思います。しばらくは残業が続きました。
また、市民課は、社会福祉協議会(社協)が開設した災害ボランティアセンターの行政側の担当部署でもあったため、ボランティアセンターの設置場所や運営を相談しながら進めていく必要がありました。職員不足と新たな業務の急増により、災害ボランティアセンターへの関わりが思うようにできず、その点にはジレンマも感じていました。

ボランティアセンターの開設

ボランティアセンターは発災後、どのように立ち上げられましたか。

まず、輪島市と社会福祉協議会で設置までのマニュアルが作られていました。災害対策本部が立ち上がると、本部の指示のもとで災害ボランティアセンターが開設される仕組みになっています。石川県の災害対策本部や災害ボランティア本部と連携し、現地本部が設置の役割を担っていました。
ところが、被害が大きすぎて、当初想定していたボランティアセンターの開設場所である輪島市文化会館自体が被災し、使えなくなってしまいました。
通常であれば発災から1週間程度でボランティアセンターを開設するのが望ましいのですが、今回は結果的に設置運営までに1ヶ月かかり、2月10日からようやく開始されました。その背景には、社会福祉協議会においても職員の確保が難しい状況がありました。怪我をして入院した職員もいれば、孤立地域からヘリコプターで救出された職員もいました。発災翌日には、出勤できた職員はわずか3名だったと聞いています。建物自体の被害はそこまで大きくなかったのですが、停電や断水、通信途絶といった状況でした。ボランティアセンターの設置場所を探すこと自体は輪島市の担当役割でしたが、被害の大きさで適切な場所を見つけるのが本当に大変でした。最終的には、ワイプラザ輪島店の駐車場を借り、コンテナやテントを設置する形で開設しました。この際、ライオンズクラブやロータリークラブなど、過去の災害で経験を積んだ支援団体の協力を得て、拠点の設置ができました。

ボランティアセンターの場所は、通常は建物の中で開設されるものなのですか。

一般的には、屋内が多いです。しかし、今回は建物被害の大きさや別の機関が既に使っていたという理由で、当初想定していた公共施設が使えませんでした。

やはり救助が優先され、別の機関にボランティアセンターの想定場所が使われることになったのでしょうか?

そうだと思います。第二候補地として、日本航空学園での開設を試みました。しかし、発災後は道路状況も悪く、大きな岩が道路を塞いでいるような状況でした。迂回路を使わなければ現地に行けない状態で、社協内部でも、そんな危険な状況で職員を出すべきかどうかについて葛藤があったと聞いています。
発災直後に「早くボランティアセンターを開設しよう」という意見もあれば、「安全面が最優先だから、まだ様子を見よう」という意見もあり、内部でいろいろな検討がなされたようです。

当初、知事が「ボランティアはあまり来ないように」と言われていたことや、ボランティアの当初の動きについて、想定と違った点はありましたか?

ライフラインの被害が非常も甚大でしたし、道路状況も悪く、一般のボランティアが現地に到着するまでには渋滞で非常に時間がかかりました。特にトイレが一番大きな課題でした。ボランティアさん自身で飲料水の確保はできるかもしれませんが、トイレや水の問題、そして余震も続いていたため、安全に活動してもらえる状況ではなかったと思います。
「ボランティアは来ないでほしい」と強調された部分があり、ボランティアセンターの開設が遅れたことについては、そのせいではないかという意見もありました。
しかし、当時を考えると、まだ安全にボランティアを市内に派遣できる状況ではなかったのではないかと私は考えています。準備を進めた結果、ボランティアの最初の受け入れが始まったのは2月10日からでした。

ボランティアの受け入れが始まるまでの場所の確保と、一般のボランティアの受け入れについて教えてください。

ボランティアセンターはショッピングセンターの駐車場に設置しました。事務所となるコンテナや、資機材を入れるコンテナ、飲料水を入れるタンク、仮設トイレなどを設置した上で、ようやく一般のボランティアの受け入れが可能になりました。
最初は混乱を避けるため、ボランティアの方々は、まず石川県民ボランティアセンターの公式サイトより登録していただき、県が運行するバスで現地に来てもらうという流れが基本となりました。ボランティアの方々の中には、個人で来られる方もいれば、グループで申し込まれる方も多く、さらに大学や企業のグループもありました。経験のある方々は、事前に連絡をいただき、直接来られることもありました。
また、ボランティアセンターを運営するためには、必要な資機材や飲料水、物資が必要でしたが、社協の備蓄だけでは完全に不足していました。そのため、経験のある方々が必要なものをすぐに送り届けてくれる支援がありました。社協だけでは、ボランティアセンター運営は難しかったと思います。

協力する際に、一番支えになったのはどの団体や組織でしたか?

まず、輪島市と石川県、それから全国の社会福祉協議会です。市社協の上部組織である石川県社会福祉協議会、通称「県社協」や、石川県のボランティア本部とも密に連携しました。現場では、ライオンズクラブさんやロータリークラブさん、そして青年会議所(JC)の皆さんが大きな力になってくださいました。災害ボランティアセンターの運営については、設置・運営マニュアルにおいて、もともと輪島市とJCとで連携することになっていました。これらの団体は全国組織ですので、地元のメンバーが被災していても、全国ネットワークを通じて支援がすぐに届いたのが大きかったです。
また、「支援P(支援プロジェクト)」という、これまで大規模災害の支援経験を持つ団体もすぐに現地に入ってくださり、「今後どんな業務が増えてくるか」「今のうちに何を準備しておくべきか」といった具体的なアドバイスをいただきました。その助言をもとに運営を進めていきました。さらに、社協は全国組織でもありますので、早い段階で県外の社協職員が順番に応援に入ってくださり、本当に心強かったです。

具体的にはどのようなアドバイスを受けたのでしょうか。

まずはボランティアの「ニーズの聞き取り」の方法ですね。どのように情報を集めるか、どのくらいの電話や道具が必要か、どれだけのスタッフを配置するか、外部支援の職員に何を任せられるかなど、細かく指導を受けました。また、「1か月後・2か月後・半年後にはこうした課題が出てくる」という見通しをもとに、早めに準備しておくべきことを教えてもらいました。
当初は本当に余裕がなく、落ち着いて判断したり話し合うことも難しい状態でしたが、現地に入った方々は、輪島市の社協職員と一緒に現場で作業し、事務所で寝泊まりや車中泊をしながら支えてくださった方もいました。

ボランティアの方々の宿泊や移動については、どのように対応されたのですか?

宿泊施設はほとんど使えない状況でしたので、基本的には日帰り対応です。県が運行するバスで来て、作業を終えるとそのまま帰るという形でした。到着は午前10時ごろで、説明やオリエンテーションを行った後、ニーズとのマッチングをして現場に向かいます。休憩を挟みながらの作業で、午後3時頃には終了という流れです。実際に作業できる時間は短く、「もう少しやりたい」と言われるボランティアさんも多かったのですが、安全面を考えて時間を区切っていました。当初は毎日作業が続くような状態で、限られた時間の中でも、皆さんが繰り返し現場に入ってくださいました。

ボランティアの活動内容

ボランティアさんのニーズというのは、どのようなものがあったのでしょうか。

地震直後の一般ボランティアさんの活動内容としては、やはり家財道具の移動や災害ごみの撤去や豪雨水害後の土砂撤去が多かったです。ただ今回の特徴としては、一般のボランティアさんだけでなく、技術系ボランティアの方々の役割が非常に大きかったということがあります。
これまで全国各地の大規模災害を経験されてきたNPOや任意団体などがすぐに輪島に入ってくださり、重機を使った撤去作業など、一般の方では難しい作業を担当してくださいました。例えば、屋根に登ってのブルーシート貼りや修繕、ブロック塀の取り壊しや倒壊家屋からの車両の引き出し、貴重品の取り出し作業などですね。専門的な技術を持つ団体が複数入ってくださり、今でも活動を続けている方々もいらっしゃいます。こうした技術系団体の支援が本当に大きな力になりました。

ボランティアが集結するボランティアセンター(殿田さん提供)

ボランティアのニーズも時間とともに変化していったと思いますが、どのように変わっていったのでしょうか。

当初は家屋の清掃やがれき撤去、ブロック塀の解体などが中心でした。
しかしその後、令和6年9月の豪雨災害が発生しました。ようやく地震対応が落ち着いてきた時期で、全国から来てくださっていた支援団体も撤退し始めている時期でした。水害後は泥のかき出しが中心になりました。浸水した地域は一目で分かる状況でしたので、依頼者からの申し出を待たずに、県の災害ボランティア本部や輪島市、漁協などと連携して被災エリアごとの対応を進めました。
技術系ボランティアの方々が重機を使って泥の撤去、床板剥がしや床下の泥出し、一般のボランティアさんは側溝の清掃などをしていただきました。使用する資機材も一気に変わり、土嚢袋・バケツ・スコップ・除練などが大量に送り込まれ、急ピッチでの対応となりました。
活動の波で言うと、地震後はゴールデンウィーク(令和6年5月頃)に最初の大きな山がありました。連休で動きやすく、市外に避難していた方々も戻ってこられて活動されました。夏には一度減りましたが、9月の豪雨災害で再び急増しました。泥出しは時間との勝負でしたので、依頼を待たずに現場を順番に回る形で対応しました。冬になると寒さや雪の影響で、天候によってはセンターの活動を中止せざるを得ないこともあり、一度対応件数は減少します。
そして、令和7年3月ごろから再び活動が増え、今度は再び地震対応のニーズが増加しました。これは公費解体の期限(5月末締切・10月末完了目標)が近づいたためで、「大事なものを取り出したい」という依頼が増え、家財道具の運び出しやごみの処分が中心になっていきました。今年の春以降は7対3で地震関連が主になっています。

9月豪雨被害の様子(1)(殿田さん提供)
9月豪雨被害の様子(2)(殿田さん提供)

ボランティアの活動体制について、拠点や移動の面での工夫はありましたか。

最初の拠点はワイプラザ輪島の駐車場でしたが、そこから現地に行くまでに時間がかかるため、2月下旬に町野地区と門前地区にそれぞれ拠点を追加しました。門前拠点が令和6年2月23日、町野拠点が2月29日の開設です。
その後、水害対応のために令和6年11月4日に新たにマリンタウン(ボートパーク)拠点を追加し、12月末まで集中的に運営しました。冬の海沿いは非常に厳しい環境で、強風と荒天の中でもボランティアさんが作業を続けてくださいました。翌年(令和7年)1月中旬からは、活動拠点を再びワイプラザ輪島1か所に集約しました。同時に、活動を週末型(金曜・土曜)に変更しています。
ゴールデンウィークなど連休中はニーズが増えるため、毎日開設しましたが、その後は依頼件数が減少し、また依頼者の都合でマッチングが難しいケースも出てきました。そのため、今年の9月からはニーズの減少に合わせて隔週開催と効率的に対応する体制に切り替えました。
10月24・25日の活動をもって、一旦区切りとしていますが、11月以降も完全に閉鎖というわけではありません。道路事情や土砂崩れの影響で、ようやく最近になって自宅に戻れた方や、申し込み済みでもまだ現地に行けない方もいます。そうした方々の状況を確認しながら、今後も随時開設して対応していく予定です。これまでどおり「輪島市災害たすけあいセンター」として、ボランティアセンターのみならず、困りごとの相談対応や支援の受付はこれからも継続し、住民の皆様の生活再建に向けたサポートを続けていきたいと考えております。

輪島市災害たすけあいセンター(2025年10月29日撮影)

ボランティアとの連携と課題

作業のマッチングや、技術系ボランティア・県との連携の中で、良かった点や課題はありましたか?

良かった点としては、全国から本当に多くの支援者が交代で継続的に入ってくださって、現場が回ったことです。助言もたくさんいただきましたし、人的にも物的にも支えられました。
一方で課題は、助言が多岐にわたりすぎて、どれを今の輪島・今の社協の体制で「具体的にどう運用するか」まで落とし込むのが難しかったことです。
「その助言を実現するには、誰をどこに何人配置するのか」「今ある機材・通信環境で本当に回せるのか」といった実装面の具体的なノウハウが、もう少しほしかったという声はありました。
また、ボランティアセンターの運営だけでなく、社協そのものの運営(給与支払い・予算執行など)も止められません。法人運営について体制整備が課題でした。

今回の立ち上げから運営までで、最大の教訓は何でしょうか。

災害はいつ起きるか分からず、想定外は必ず起きる、ということです。小規模な社協だけでは、ボランティアセンター運営も、その後の被災者支援も限界があります。
だからこそ、平時から関係団体・支援団体・行政と顔の見える関係を作っておくことが何より大切です。今回、輪島市社協だけでは運営は成り立ちませんでした。

輪島だから対応できたこととかはありますか。

社協は日頃から住民の皆さんや民生委員・老人クラブ・地域ボランティア団体と接点がありました。そのネットワークがあったおかげで、安否確認や地域ごとの課題整理が比較的スムーズにできました。地域によって事情は違いますが、情報収集や意見の集約がしやすかったのは強みです。今後は、生活再建や新しいコミュニティづくりが課題になってきています。これまで以上に地元の方々と話し合い、地域に合った支援につなげたいと思います。
最後に、全国から継続して支援をいただいています。本当に感謝しています。私たちも体制を整え、社協ならではの仕組みを活かして、被災者お一人おひとりの状況に寄り添う活動を続けていきます。

当時の経験を語る殿田さん

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