体験を語る
- 避難所・避難生活
これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた

| 場所 | 七尾市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月19日 |
現在の活動
私は12年程前から防災の活動を続けてきました。
現在は七尾市の観光ガイドの会長をしています。七尾市にはさまざまな観光スポットがありますが、和倉温泉の観光協会では、地震の復興応援ツアーを開催して、全国から依頼がたくさん来ています。
ツアーでは、傾いたり、壊れたりしているホテルや街中の修復作業の様子などを見ていただきながら、今後どのように復興を進めていくかについてお話ししています。
地震の発生から避難まで
まず、地震が起きたときのことをお話しします。皆さんご存じの通り、令和6年1月1日、正月の午後4時10分にマグニチュード7.6、震度7という未曽有の大被害が発生しました。
私は現在75歳ですが、あのような大きな地震を経験したのは生まれて初めてです。立っていることもできないほどの揺れでした。家の中にいましたが、上から多くの物が落ちてきました。
個人的なことになりますが、1月1日の午前2時に父が亡くなりました。お通夜や葬儀の準備をしなければならなかったこともあって、葬儀社との打ち合わせに追われ、午後3時過ぎ頃、ようやく終わったところでした。
元日はさまざまな出来事が重なったため、本当に大変な一日で、いろいろな思いが頭をめぐりました。
家から、準備していた防災リュックやおせちの残りを持って避難しました。1日目は炊き出しや支援物資が全くありませんでしたから、それが本当に助かりました。2日目になって、ようやく少しずつ支援物資が届くようになったかと思います。
当時は真冬で、とても寒かった。そこでまず重宝したのが、家から持ってきた毛布です。
もう1つは備品庫にあった座布団で、200枚ほどしかなかったと思いますが、それをみんなに配り、敷いたり休んだりして役立てていました。
2日目を過ごし、3日目や4日目になると、ほかの地域から、少しずつ支援が届き出して、炊き出しも始まりました。
例えば、地元で食堂やお店を営んでいる方々が炊き出しをしてくださって、本当に助かりました。
避難所の状況
1月1日、矢田地区コミュニティーセンターに約1000人、車の中に約800人が避難していました。
家が崩れた人もいて、電気は通じていましたが、水が来なかったので、水を使うことが一切できない状況で、炊き出しや支援物資の配布が行われたときには、近くの人を含め、約2000人がそこに集まりました。
避難所での生活は非常に大変でした。プライバシーが守られず、夜はよく眠れません。食事を受け取るときには、時間をずらして炊き出しの列に50人から100人ほど並ばなければならず、それがとてもつらかったです。
水道が復旧したのは1カ月半が経った2月10日過ぎのことです。水が使えないのは本当に困りました。まずトイレが使えません。顔を洗うこともできず、風呂にも入れません。そんな状況がしばらく続いていました。水道というものの大切さを感じました。
私が提案して、朝はラジオ体操をしていました。NHKのラジオ体操が6時半から始まるので、最初はその時間にやろうと思いましたが、あまりにも早かったため、録音して、7時半ごろから行うようにしました。体を全く動かさないのは良くないということで、みんなが賛同してくれました。
避難所の運営
施設内には被害のなかった部屋がいくつかあり、その部屋をすべて利用して、800名ほどが避難しました。
1月2日からは、施設の職員と協力し、避難者の支援体制を整えるために、各避難部屋からボランティアのスタッフを募り、配食の手伝いやゴミの分別、残飯処理などの段取りをしました。
2階の大会議室にはまだ誰もいなかったので、運営にはそこを使用しました。避難して、ただテレビの情報を見ているだけではなく、規律やルールに基づいた避難所運営が大切だと思い、まず、4つの班を作り、避難者の中からリーダー1名とサブリーダー2名を選びました。
さらに、情報を収集・提供する情報係を2人置いて、本部からの情報の繋ぎ役としました。
加えて、衛生管理や掃除、看護が必要な人の対応を行う係も置きました。この係は女性が中心となり、3人が担当していました。コロナのこともあったため、1日に2回ほど換気を行いました。
約10人が、それぞれの役割を持ちながら生活し、単に1日中寝ているのではなく、協力しながら、避難所の運営管理を行うようになったのです。避難所のルールに則って生活しなければ、避難所として成り立たないため、そのようにしました。
震災を経験して感じたこと
防災についての知識があるかないかで大きな違いがあります。究極的には、やはりリーダーが必要だという話になります。
例えば、避難所内のゾーニングを考える必要があります。障害のある方や女性をどこに配置するかを考えました。
足音がカタカタと響くことがあり、その音でなかなか眠れないことがあります。その点が問題になり、本部の指導の元、靴箱を作りました。そうすると、みんながスリッパでそっと歩くようになって、音もあまり出なくなりました。また埃が拡散されるのを防ぐこともできました。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

