体験を語る
- 行政
避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月8日 |
地震発生当初
聞き手
最初に1月1日の前日の、12月31日の大晦日からどのように過ごしていたかお聞かせください。
浅野さん
何事もなく普通の年越しですね。普段から別にお酒も飲まないので、自宅で過ごしていました。
うちの習慣として、年を越すときに皆で集まってっていうのはあんまりないかもしれないですね。みんなそれぞれの家で過ごしていました。私の地区で、1月1日が明けたらすぐ、氏神様、地域の神社に初詣に行くっていう習慣があって、年が変わった瞬間に実家の方に帰って親と合流して、初詣に行って、終わったら帰って寝るという感じで年越ししました。
1月1日も普段通りのんびり過ごしていました。地震が起きる前の午後から夕方にかけては、私は釣りが趣味なので、2日に釣りに行くつもりで準備していました。その釣りの準備が終わって、ひと段落して、ちょっと車が汚れていたので、洗っていた時に、最初の震度5の地震がありました。市の職員というのもあるので、地震の規模によっては参集しないといけないというところで、自室に戻ってテレビをつけて震度を確認しようかなって思っていた時に、ちょうど本震が来ましたね。
聞き手
そこからはどういうふうに動かれていたのですか。
浅野さん
自宅の目の前が海ということもあって、地震の規模的に、これはもう津波が来るだろうと感じました。たまたま車をいじってたということもあって、外に出る格好で車の鍵も持っていたので、瞬間的にそのまま同居の母親を連れて、すぐ車に乗って、ちょっと高いところに避難したんですね。
聞き手
避難した場所の様子はいかがでしたか。
浅野さん
自宅の近辺に高いところ、津波を避けられそうなところってそこぐらいしかなかったので、皆さんそこに集まっていましたね。
ただそこも道路だったんですけども、途中で道路が潰れていて、それ以上先には進めない状況で、みんなもうそこで立ち往生していました。
聞き手
そこから日が暮れていく状況で、その日はどういうふうに過ごされましたか。
浅野さん
一旦その場所で、午後6時半ぐらいまで、ちょっと津波の様子を高いところから見ていたんですけど、どうももう津波は来なさそうだということで、移動しようとなりました。私も市役所の方に参集するためにそこから脱出して、親を連れたまま市役所に向かいました。
私は当時、企画課という部署で、一応災害時の割り当て的には、情報発信と、主に交通の担当だったので、市内の交通確保がありました。けれども、あまりに地震の規模が大きすぎたので、交通をどうのこうのという話がまだできる状態じゃなくて、若干当日は手持ち無沙汰になったところもありました。なので、初日は物資の搬出の手伝いとかをやっていましたね。
聞き手
その時はすごく混乱している状態だったのでしょうか。その時点で大変だったことなど何かありますか。
浅野さん
どの程度の被害規模なのかが分からないというのが一番大きくて、どう動かないといけないのか、その辺がはっきりしなかった部分がありました。行けるところも限られていたので、まずは行ける範囲で情報を集めていくという状況でしたね。
聞き手
災害が起きたときにこう動くといった、マニュアルがあってその通り進めたのでしょうか。また、うまくいかないことや不測の事態はありましたか。
浅野さん
市の防災計画上では、割り当てがあって、誰が何をするというのは決まっていました。ですが、お正月ということもあったし、ところどころで道路が寸断していたというのもあって、実際に市役所に出てこられた人間っていうのは想定より少なかったんですね。割り当ては決まっているけれども、実際それ通りいかないので、いる人間で何かをしなければいけないというような状態で、実質的にはその計画通りにはあまり出来ていないというような感じでしたね。
聞き手
その時点で、工夫したこととか、こうして良かったということってありますか。
浅野さん
本来の計画通りいけば、ある程度、役割分担して効率的にできたのでしょうけども、もうそれ通り動いてないので、本当に目の前にある、やらなきゃいけないことを順番に片付けていくような形でした。もう全然、何をどうやってって考えている暇もないような感じです。
聞き手
混乱している中で、どのように優先順位をつけてやっていかれたんですか。
避難所担当としての業務開始
浅野さん
私の場合は、結局本来するべき業務ができない状態だったので、他の部署から応援で呼ばれるという形で、優先順位はそちらでつけられていて、それに従って一緒に動く形でした。夜間ということもありますし、道路状況も分からないという状況で、ある程度、必要最低限の物資、備蓄していた分を出したら、一旦戻りました。
それで、次の日、2日から避難所に行ってくれという依頼を受けたので、一旦家で防寒具や必要最低限の準備をして、また市役所に戻ってきたっていう感じですね。
聞き手
避難所に行ってくれっていうのは、避難所で寝泊まりもするということですか。
浅野さん
そうです。避難所の運営の手伝いをしてくれということです。
聞き手
それはどこの避難所を担当されたんですか。
浅野さん
鵠巣(こうのす)小学校というところです。すでにそこには、その地区の市の職員の方も入っていて、一応運営をしていたんですけど、途中で土砂崩れがあって、道路が通れなくなっていて、孤立していたんです。行けるかどうかも含めて、連絡員的な役割ですね。
聞き手
それは輪島市としては1人が配属されていたんですか。
浅野さん
当日そっちに行ってくれって言われていたのは私だけですけども、他にその地区の住民だった職員がすでに3人入っていました。
聞き手
避難所に行かれてからの、運営の最初の段階のお話をお伺いしたいんですが、2日目から行かれて、その時点では、避難所の運営はどういう状態だったんですか。
浅野さん
そこの避難所は、たまたま避難されている方の中に、東日本大震災で避難所の運営を経験された方がいらっしゃって、ある程度運営のノウハウを持っておられました。そのおかげで、もう早い段階で区長さんとかそういった方々を集めて組織化して、役割分担を決めていく事ができました。それで皆さん協力して運営していこうという体制がほとんどできていました。
聞き手
1日目にして出来ていたんですね。その役割分担というのは、どういったことがあったか覚えていらっしゃいますか。
浅野さん
まず一番大事な食料の調達、調理する方と、物資を集めてくる方、水を汲みに行く方に分けました。それ以外の方は、高齢者もいらっしゃったので、そういった方の面倒見る方とか、必要なところはだいたい、ある程度分担してできていたのかなと思います。
聞き手
その小学校は指定避難所ではなくて自主避難所という扱いになるのでしょうか。
浅野さん
指定避難所としては鵠巣公民館になっているんですけども、ほぼ隣接した立地なので、収容人数の多い方に一般の方々が集まって、高齢者とかお子さんとか、ちょっと配慮が必要な方々は公民館の方に分かれて入っていましたね。
聞き手
指定避難所じゃなかったけども、当たり前に2つとも使っていたという事ですね。小学校の方にも元気な高齢者の方がいらっしゃったっていう棲み分けですか。
浅野さん
ある程度自立されている方は、小学校の方におられましたし、介助が必要な方々は、もう寝たきりの場合もあったんですけども。介助が必要な方は、公民館の方に入っていただきました。
聞き手
その最初の時期で、大変だったことは何かありますか。
浅野さん
やっぱり道路が寸断されていたので、物資が思うように入ってこないというところでしたね。最初の数日はお正月ということもあって、ある程度皆さん家に備蓄はあったんですけれども、数日経つにつれて、やはり、食料などが乏しくなってくるとかというところもありました。ただ道路が通ってないので、そこをどうするかっていうようなことを僕は考えていましたね。
聞き手
本部との連絡のやり取りは、どういったことをやり取りされていましたか。
浅野さん
必要な物資の要請もありますし、現状がどうなっているかという報告もあって、それは私が毎日大体1回、1日に1回か2回、市役所まで行って、こんな状況やと伝えていました。
聞き手
最初のインフラの状況を教えて頂きたいのですが、水、電気などはありましたか。
浅野さん
水と電気については、もう発災直後から使えない状態でした。水に関しては汲みに行っていました。山水とか、井戸のあるおうちとか、そういったところに汲みに行っていましたね。近くにそういう環境がありました。田舎って言ったらあれですけれども、郊外になるので、農家さんとかなどもいらっしゃって、普段から使ってらっしゃったんです。
聞き手
電気はどうされてましたか。
浅野さん
電気はですね、全然来てないので、発電機で燃料がある時は、発電していました。ただ燃料も限られているので、夜間、電気が必要な時だけに限って、使っていました。
聞き手
その発電機はもともと災害用に置いてあったのか、もしくは誰かから提供があったのでしょうか。
浅野さん
もともと備えてあったものもありますし、誰かが持ってきたものもあります。避難所が2か所に分かれた時点で、1か所分の備蓄じゃ足りなかったです。
聞き手
トイレは使えたのでしょうか。
浅野さん
トイレは、使えたと言えば使えましたね。水を汲んできて、自分で流せばなんとか流れるという状態でした。学校のトイレなので、いわゆる和式の古いものもあるし、洋式のものもあるんですけど、なんとか使えました。
聞き手
使えたんですね。いろんなところでトイレがすごく大変だったと聞くんですけど、鵠巣小学校の場合はそこまででもなかったということでしょうか。
浅野さん
下水だと滞留して止まってしまうんですけれども、そこは浄化槽で、浄化槽に余裕がある間は、そのまま使えるんです。ただ、電気が来てないので、本来、浄化槽って、ばっ気(浄化槽内の微生物が活動できるよう、空気を送り込むこと)して分解していくんですが、それができなくて、浄化槽からは常に異臭が上がっていました。
聞き手
なるほどですね。その避難所生活の最初の方で、大変だったことや困ったことはありましたか。
浅野さん
私だけ、市役所から派遣されて行っているので、一人アウェイな感じではありました。逆にそれ以外には、皆さんはもともとその地区の方っていうことで、コミュニティがある程度しっかりされている上に、運営体制もすでに出来上がっているところで、普段の避難生活については、特に支障がなかったかなと思いますね。
聞き手
避難所としては、小学校のどのあたりに寝泊まりされたんですか。
浅野さん
時期的に1月ということもあって、体育館は、一番広くていいんですけれども、そこを温めるだけの暖房がないということで、教室などある程度区切られたスペースで暖房が効くようなところで過ごしていました。人数は、最初の段階で集まったのが、マックスで300何十人ぐらい確かいたかなと思います。その中にはご自宅が無事で、寝泊まりは自宅で、食事だけ公民館、もしくは小学校の方にという方もいらっしゃったんで、避難所としては300人後半ぐらいでしたね。
聞き手
教室を利用したということは、グループに分かれると思うんですけど、どういうふうに人を分けていったのでしょうか。
浅野さん
基本は家族単位になるんですけれども、そこはもう自然とそのように分かれていった形に思います。
聞き手
最初の避難所運営の段階で、良かったこと、助かったこと、ありがたかったことや、スムーズにいったことは何かありましたか。
浅野さん
それぞれ役割分担していたんですけれども、避難スペースについても、校舎の2階だとか3階、あるいはその部屋ごとで責任者を決めて、毎晩決まった時間にその人たちで集まって会議をするんです。運営委員のような形です。今現在の問題とか、今後どうなるとか、そういったところを毎晩話し合っていたので、その辺では何か問題があっても対処できたところはあったのかなと思います。
聞き手
人の管理は住民リストのようなものを作って、安否確認ってされていたんですか。
浅野さん
一応名簿のような形では作ってはいたんですけれども、常に校舎の中におられる方はそうやって把握できても、ご自宅から出たり入ったりされる方っていうのは、なかなか把握しづらい部分はありました。そこは本当に地元の方の、顔を見てあの人やっていうレベルでしか把握できませんでしたね。
聞き手
でも逆に言うと、顔が分かっているから把握できるという事ですね。
浅野さん
そうですね。それこそ、火事場泥棒みたいな方とかおったらすぐ分かるような。
聞き手
そのようなリストは、食事の準備をする際に、たとえば「今日は何人分を作ろうか」といった人数の把握に活用されていたのでしょうか。
浅野さん
ええ、そういうのもありましたね。大体何人いるってある程度あたりつけて、それをもとに食事の作る量を決めていたことはあります。
聞き手
食事の調理は学校の施設を使っていたのですか。
浅野さん
燃料はなかったんですけれども、学校施設なので、給食で使う大鍋や大きいコンロはありました。それで、この辺は都市ガスじゃなくて、プロパンガスのところが多いので、倒壊した家のところからプロパンボンベだけ借りてきて、つないで調理していたと思います。
聞き手
そのように、個人のお宅からお借りして使用されたものは、ほかにもありましたか。たとえば、洗濯機などはいかがでしょうか。
浅野さん
最初の方は洗濯機があっても着替えがない状態なので、洗濯はもう二の次、三の次でした。あとはもう本当に使えそうなものなんでもというか。ただ、あくまでも皆さん個人の財産になりますので、出せる範囲で、懐中電灯とか、そういったものをいろいろご提供いただきました。
聞き手
高齢の方がいらっしゃったということですけど、そういった要配慮者への対応でされたことはありましたか。
浅野さん
先ほどの、もともとの避難場所も分けたという部分もあるんですけれども、たまたま看護師さんがいらっしゃったので、そういった方にも付きっきりで見ていただいていたっていうところはありました。でも、容体が悪くなれば、救急にお願いするような形でした。
聞き手
要配慮者の場所の振り分けはどのようにされたのでしょうか。
浅野さん
公民館にひとまず集まっていただいたのですけれども、その中でも特に配慮が必要な方、自力で動けない方はまた別室で、本当に一番あたたかい状態にして入っていただきました。ベッドはなかったんですけれども、布団はご自宅等から持ってきていただいて、布団で寝ていました。
聞き手
1階に要配慮者の方々に集まっていただく形を取られていたのでしょうか。
浅野さん
公民館自体は平屋なので、大丈夫でしたね。
聞き手
要配慮者はどのぐらいの人数がいらっしゃいましたか。
浅野さん
どこまでを要配慮者とするかというところはあるんですけども、本当に手助けが必要な方っていうことで言うと、10人ぐらいでしたかね。
聞き手
それは高齢者の方でしょうか。小さいお子さんはいらっしゃいましたか。
浅野さん
小さいお子さんは親がついていたらなんとかなる形でしたが、公民館にずっとおられる方も、ご家族と一緒に小学校に入っておられる方も、どちらのパターンもありました。
聞き手
コロナ感染はありましたか。
浅野さん
最初の頃は特になかったんですけれども、私がその避難所の担当を外れてから、多少感染症はあったようです。コロナではなくて、ノロウイルスだと聞きました。コロナもあったとは聞いてはいるんですけど、私がその時いなかったので。そういった方々も公民館の別室で隔離という対応でしたね。
聞き手
ご自身はいつまで避難所におられたんですか。
浅野さん
私は2日から入ってちょうど1週間、8日に市役所へ戻ってきました。
聞き手
では2次避難などはまだその先ですね。
広域避難の担当として
浅野さん
そうです。ただ私は市役所に戻ってきてすぐ、2次避難というか、一般的に言うと広域避難の担当になりました。当時孤立していた南志見地区や、西保地区とかってあるんですけれども、そこから自衛隊がヘリで住民を運んできて、他の市町に移送するというような段取りになったので、こっちでその中継をする業務にあたってました。
聞き手
そのため、8日にこちらへ戻られたということですね。
「中継」とは、具体的にどのような業務を指していたのでしょうか。
浅野さん
西保地区とか南志見地区からヘリで、市街地のマリンタウンという当時陸上競技場があったところが臨時のヘリポートになっていて、住民がそこに降りてくるという話でした。そこからさらにヘリを乗り換えて、小松や加賀方面に行くということで、その中継地点ですね。
聞き手
広域というのは小松のことですか。
浅野さん
当時は自衛隊のヘリなので、小松基地によく降りていたことはあったようです。一旦小松基地、小松空港で降りて、そこから金沢へ向かったりと移動していました。
聞き手
何度もヘリコプターを乗り継いで移動されたとのことですね。
ヘリコプターは、搭乗できる人数が限られているかと思いますが、おおよそ何名ほどで搭乗されていたのでしょうか。
浅野さん
一気に乗れるのが、5、6人ぐらいだったんですよ。隊員の方は除いてです。救助の集落の方に行くと、降りられるところもほとんどないので、ちょっと広いスペースに小さいヘリコプターで行って、双発の大きいヘリに乗せ換えるっていうような形でした。そっちの方はまあ40、50人ぐらい乗れました。
聞き手
かなり大きな機体だったのですね。
つまり、5人ずつを順に集めて、40、50人ほどになった段階で、まとめて搭乗される形だったということでしょうか。
その場合、1日にどの程度の回数、運航が可能だったのでしょうか。
浅野さん
そうですね。その地区の住民が多くても300人ぐらいで、その中に自力で脱出された方もいらっしゃるし、半日ほどでだいたい行けるくらいなんですかね。半日ぐらいで、一部の方をこちらに移送してきて、あっちに送るっていう形です。ただその1日だけで終わらないので、何日も何日も続きました。
聞き手
浅野さんは、その業務にどのような形で関わられていたのでしょうか。
浅野さん
皆さん、一旦こちらにヘリで入ってくるんですけれども、次のヘリの乗り換えまでに、時間があるんですよね。皆さん集まるまで、待っていらっしゃる方は、ずっと冬の寒い中、競技場のスタンドで待たないといけないので、皆さんに毛布をお配りしたりとか、降りてきた時にそういった方々を誘導したりしていました。
聞き手
待ち時間の対応の際に、大変だったことやご苦労された点、また困ったことなどはありましたでしょうか。
浅野さん
寒かったっていうことが一番ですね。真冬にずっと外ですから。ヘリが降りてくると風もめちゃくちゃ強いですから。特に大きなトラブルみたいなのはなかったです。ただその仕組み自体にはトラブルというか問題はあったのですけども、結局その地域の住民を脱出させるっていうのは、県と自衛隊の方で話が決まってしまって、誰を連れて行くかっていうのは市側で把握できていないっていうことがありました。その方たちがどこに行ったかっていうのは、もう後々まで追えなかったところがありました。
聞き手
では、今後同様のことを行う際には、事前に把握しておいたほうがよい、というお話だったのでしょうか。
浅野さん
そうですね。最初に名簿を作ってしまわないといけないと思います。あの人は無事か、といった問い合わせは市の方によくかかってきて、そういった時の対応もありますし、まず今後のフォローをするにあたっても、誰がどこへ行ったか分からないっていうのは非常に問題があるということになりました。
聞き手
今回は、その点について修正が行われたということなのでしょうか。
浅野さん
だいぶ時間はかかりましたけどね。もちろん自衛隊とか県の担当部署も、乗せる時に名前を聞いてないので、全然分からないと。
聞き手
その中継作業は、期間としてはどのくらいの間続いたのでしょうか。
浅野さん
そうですね。10日間ぐらいです。その全部に私も出ていたわけじゃないんですけど、その後、また別の業務を割り当てられましたので。今度は広域避難ではなくて、2次避難の担当でした。これは希望者を募って、加賀方面に送るっていうことになるので、まずその段取りを組むところから始まりました。
聞き手
では浅野さんは、その時々の状況に応じて、各段階でさまざまな業務に携わられていたということですね。
浅野さん
そうですね。最初に申し上げたとおり、私どもは最初の計画にある割り当て業務ができないという状況だったので、ある意味便利屋というか、使い勝手が良かったと言ったら語弊があるかもしれませんが。
聞き手
流れとしては、最初に避難所対応に入り、その後は広域避難の担当、続いて2次避難の対応をされたとのことですが、そのほかに、全体としてどのような業務に携わられていたのでしょうか。
浅野さん
2次避難が落ち着いたら、今度は2次避難された方のフォローをしていました。
実際にその避難先に出向いて、支援制度の説明とか、今後の再建方法の相談、そういったものが、半年ぐらいは続きました。落ち着いて、秋頃から、徐々に通常業務に戻っていくというような形でした。
本務である復興推進業務について
聞き手
その後は、さらに別の業務へと移られたのでしょうか。
浅野さん
そこからは本務に戻って、ある程度、道路状況も変わってきたところで、今度は市内の公共交通をどうする、どうやって再開させるっていうところに注力するようになりました。
聞き手
浅野さんの部署で、将来を見据えて、特に優先順位を高くして取り組まれていたことは、どのような点だったのでしょうか。
浅野さん
地震があった後、3月から4月にかけて、4月1日で組織改編になりまして、企画課という部署が復興推進課という名前に変わって、復興関係の最前線ということで、いろいろな業務をやることになりました。その課では、復興計画の策定や、実際に住民から意見を聞く機会を設けたり、それぞれ担当が分かれていたんですけど、その中でも私は特に交通分野プラス2次避難者のフォローという担当になりました。
聞き手
では、交通のことと二次避難のことについて、それぞれお伺いします。
まず、大変だったこと、そして「こうしてよかった」「この点が助かった」と感じられたことについて、お聞かせいただけますでしょうか。
浅野さん
まずは交通の事で、道路状況に問題がたくさんありました。これまで走っていたところが走れないっていうことで、じゃあどうやってこれを再開するかという話と、あともう一つは、皆さんも市外に避難されている方ばかりで、運転手がいない。ここが大きな問題でしたね。
聞き手
その運転手というのは、公共交通の運転手の方を指しているのでしょうか。
浅野さん
有料でお金を取って人を運べる、いわゆる2種免許を持っている方ですね。もともと、だいぶドライバーさんも高齢化していた部分はあったんですけども、それまでずっとお仕事できない状態ですね。輪島にいても、仕方ない部分もあって、皆さん市外に行っておられたので、そこをどう探し出して再開するかという問題がありました。
聞き手
その点については、何か糸口が見つかったり、具体的な対策が講じられたりしたのでしょうか。
浅野さん
本人さんに意思確認して、戻られないっていうことであればそれまでの話ですし、あとは、発災前までスクールバスの運転をされていた方などで地元に残っておられる方を探して、学校も再開できていない状況ですから、そういった方々に運転をお願いしていきました。
聞き手
依頼をされる際には、さまざまな工夫をされたかと思いますが、ご自身なりに意識されたポイントや工夫のコツなどはありましたでしょうか。
浅野さん
説得する上で、やはり皆さんもう生活の足がなくて困っていて、頼れる人はあなたしかいないんです。お願いできませんかっていうような感じです。最初は本当にコースも単純に、仮設住宅から病院まで繋いでくれればいいっていう形になりまして、そこから徐々に範囲拡大させていきました。
聞き手
現在は、地震前の状態におおむね戻ったという状況なのでしょうか。
浅野さん
戻りません。
聞き手
どの程度、まだ回復していない状況なのでしょうか。
たとえば、震災前を10とすると、現在はどのくらいの水準まで戻っていると感じられますか。
浅野さん
4ぐらいですかね。ただ、その4がもうマックスなのかなって思ってしまいます。発災後、地元のタクシー事業者さんも半分以上廃業されて、まずタクシーというものがほぼなくなった。それまで市で走らせていたコミュニティバスも、家屋の倒壊や道路寸断で、コース通り進めないというところもあって、それも今後継続するのは難しいです。今も実際もう廃止なんですけれども、その代わりに、タクシーとコミュニティバスを合わせたデマンド方式のコミュニティバスを走らせるというところで、今それを走らせているような形ですね。ただ、これで皆さんの需要を全部カバーできるかって言ったら、できてないのが現実ですが、これ以上はちょっと難しいのかなっていう話です。
聞き手
タクシーとコミュニティバスを組み合わせたというのは、タクシーが定期運行のバスのように運行している、という意味なのでしょうか。
浅野さん
タクシーみたいな形で呼べるバスで、タクシーと違って乗り合わせです。
聞き手
なるほど。高齢化が進む地域において、車を運転できない高齢者の方が多くいらっしゃる中で、そのような交通手段が現在採用されているということですね。
2次避難に関しては、特にご苦労された点や大変だったことはありましたでしょうか。
浅野さん
まずどこに誰がいるのかの把握からです。こちらの方は名簿を作って送り出していたので、ある程度分かってはいるんですけれども、結局数日ほどで違うところに移動されるので、結構当初は動いていたんですね。そうした中で、追いかけながら、そういった方々が今後どうされるお考えなのかということを聞いていかないといけない。そこは当時、県の担当も、熱意がある皆さんだったので、積極的に関わっていただきました。そこはもう大変助かったなと思います。一方で、現場で相談する方々じゃなくて、その2次避難の全体を担当されている部署ではあまり、何が問題なのかも把握してくれていない、こっちが説明しても理解してくれないというような状況が続いていたので、その辺はちょっと苦労したことではあります。
聞き手
2次避難において、工夫された点や、「このようなことで助かった」と感じられたことなどはありましたでしょうか。
浅野さん
総当たりになるので、各避難所に2次避難を希望される方いらっしゃいますかっていうことを聞いていかないといけない。希望を集めた後に、また県の出してくるバスの配車計画に応じて、人を振り分けないといけない。「あなた申し込みされてますけど、この日出発できますか」ってマッチングしていかないといけない。私たちが当時そこまで手を回す余裕がなかった中、応援で、愛媛県チームに長期にわたって、かわるがわるに入っていただいたんですけども、その方々が本当に個別に全部アプローチしてくださって、そこは非常に助かりましたね。
聞き手
2次避難をされるのは、主に高齢者の方や、女性、子どもなどの方々が中心なのでしょうか。
浅野さん
区別なしで希望される方全員です。ただ、当時、1.5次避難と2次避難というのがあったんですけども、希望される中でも介助を必要とされる方々は1.5次に振り分けて、それは福祉課が別で対応していました。
聞き手
「1.5次避難」というのは、もともと計画段階から想定されていたものなのでしょうか。それとも、今回の事例を機に新たに設けられたものなのでしょうか。
浅野さん
私も今回の災害があるまで、1.5時避難というのは聞いたことなくて実際説明を受けて理解しました。
聞き手
担当者の方々の中で、1.5次避難に行くか、2次避難に行くかを振り分ける形を取られたということでしょうか。
浅野さん
基本的には、介護認定を受けているような方々とか、福祉課の方で情報を持っているので、そちら側からアプローチして、そこはすり合わせしていきました。
聞き手
その際、避難先の選択をめぐって意見が分かれるなど、調整が難しかった場面はありましたでしょうか。
たとえば、「2次避難所に行きたい」「1.5次のほうがよい」「行きたくない」「家族が行かせたい」といった意見の違いなどです。
浅野さん
その辺は多少ありましたね。まあちょうどいい機会だから親はそっちに行って、私らは別の場所に、っていう方も一部いたり、そういうことはありましたね。
聞き手
今後に向けて、制度や仕組みの面で、ここを改善すべき、あるいは改善するとより良いと感じられる点はありますでしょうか。
浅野さん
当時、2次避難のために2万人、3万人分のキャパがあるというような話だけが独り歩きしてしまって、実際にその宿分の調整が全然できてなくて、1日に提供できるのが数十室だけというような状況で、「なんで知事がそう言っているのに行けないんだ」っていうような苦情をいただきましたね。
その辺が現場としては困ったなっていうことはありましたね。段階的に調整しているんですよっていうところを、まず市民の皆さんに理解していただく対応が必要だったかなと思います。
聞き手
2次避難に関する業務は、いつ頃からいつ頃までの期間、担当されていたのでしょうか。
浅野さん
始まったのが、1月9日です。そこからは毎日送り出しつつ、途中、水害もあって、そこでさらにまた2次避難の方が増えたりして、そこまで含めると、本当に半年以上どころか、8ヶ月ぐらいですね。送り出しでそれだけですので、その後のフォローを含めるともうちょっと長くなります。
聞き手
避難所に関してお伺いします。
石川県全体の取り組みとして、今回、広域避難所やみなし避難所といった形態も運用されていたと伺っています。
これらについては、今回特に関わりはお持ちでなかったでしょうか。
1.5次避難所とは異なるこうした仕組みについて、もしご存じであればお聞かせください。
浅野さん
そういうことはおそらく福祉メインにはなってきますね。集落の集団避難、先ほど誰がどこに行ったか分からんって言ってた部分、私どもが2次避難として扱っていなかった広域避難の部分が広域避難所というところになります。また、当時いしかわ総合スポーツセンターが1.5次の避難所だったんですけども、そこはすぐ把握したので、それ以外の市外の福祉施設を福祉避難所としてみなしてっていうところで、みなし福祉避難所と書いてあるんだろうと思います。
聞き手
基本的には、まず1.5次避難所を経て、その後にみなし避難所へ移るという流れで捉えてよろしいでしょうか。
浅野さん
直接みなし避難所に入られたケースもあるっていうのは聞いています。もう1.5次に行っても空いてないのでそうだろうと。
聞き手
その対応は、名簿を確認しながら福祉課の方が行われていたということでしょうか。
浅野さん
そうですね。県と所在の市町と調整して。
聞き手
広域避難所は、どのような経緯や手順で開設されたのか、ご存じでしょうか。
浅野さん
私どもで把握してない孤立集落の方々を、一旦加賀方面に送ったと。それで、その方々が滞在されたところが、その広域避難所というところに当たるんだろうと思うんです。そこは、徐々に2次避難と統合されているような流れです。
聞き手
たとえば「福祉避難所でありながら自主避難所として運用されていた場合」や、「福祉避難所でありながら指定避難所として開設されていた場合」も、その当時の状況下で、他の避難所と同様にやむを得ず開設されたものと考えてよろしいでしょうか。
浅野さん
そうですね。福祉避難所の運用っていうのは、もともと、防災で想定してなかった部分があって、福祉の方でどういったところと協定を結んでいるかというのもはっきりしない部分があって、そういう施設があるから人が集まってるんやっていう理解していた部分もあるんですよね。
聞き手
その点については、福祉課と防災担当の方が、より密に連携して取り組むべき部分と考えてよろしいでしょうか。
浅野さん
そうですね。これはもう本当に教訓だと思います。
人口減少への課題
聞き手
なるほど、ありがとうございます。
では、現時点での課題として、どのような点が挙げられるでしょうか。
浅野さん
大きな視点で言うと、人口減少ですよね。避難で出ていかれた方が戻ってこないと、何するにしても、やっぱり人がいないとどうしようもない。インフラを整えたところで、それを使う人がいないと、街に活気は戻らないです。そこをどう呼び戻していくか。
聞き手
それに関連して、輪島市内では何か具体的なアイデアや取り組みが検討されているのでしょうか。たとえば、移住の促進やボランティアの活用、人口対策などです。
浅野さん
そうですね、移住に関しては今このような状況なので積極的にPRはしにくいところではあります。
もともと移住希望される方が少ないところではありました。でも逆にある程度整ってきた段階で、売り出していけるのかなっていうような思いもあるんです。関係人口については、ボランティアの方々などに、今これだけ復興進みましたよっていうようなPRの仕方で、また訪れていただくというような方法はあるかと思います。それぞれの分野で、朝市なら朝市、輪島塗りなら輪島塗りと、今後のあり方についていろいろ話されていると打ち出していけると思います。こういうのはやはり行政から頭ごなしにいってもなかなか活気づかないので、やっぱり皆さんの意見をもらいながら、魅力のあるまちづくりにできれば、皆さん戻ってきていただけるなと思っています。実際のところはだいぶ厳しい道のりになるかと感じていますが。
聞き手
現在のご担当業務について、どのような内容かお聞かせいただけますか。
浅野さん
今は防災対策課で、防災全般ですね。
聞き手
この大地震を経て、新たに変化した動きや取り組みなどは見られますでしょうか。
浅野さん
そもそもの被害想定自体を見直さないといけない。平成19年に能登半島地震というのが一度あったんですけども、あの時は主に門前地区に集中的に被害があったので、実際想定していたのも、そのレベルの災害でした。そこに輪島どころじゃない、能登全域が機能不全になるような災害が起きてしまった。そういったものを想定しなかったので、ある程度そういったものに対処できるような防災体制を整えていかないといけないと考えています。
聞き手
まだ復旧・復興の途中かと思いますが、大地震を振り返ってみて、日本は地震大国であり、どこでいつ起こるかわからない状況にあります。
今回のご経験を踏まえ、対策の難しさを感じられる中で、住民や関係者に向けて「こうした点に気をつけたほうがよい」「こういう備えをしておくとよい」といったお考えがあれば、お聞かせください。
浅野さん
まず大前提として、どこにいても地震に遭う可能性があるということです。それも私らみたいに1回だけじゃなくて2回、3回あるかもしれません。太平洋側地域については、もう来るのはほとんど分かっているような状況でもあるので、そうしたときにも自分が何をできるかというのを今のうちに考えておくべきだろうなと思います。
実際にそれが起きたときに、動けるかどうか。
また、その時になってみないとわからない話ではありますけれども、場合によっては2次避難といった形でいったん地元を離れるという選択も重要になってくるのかなと思います。これは実際にそういった方々に当たってみて本当に感じましたね。本当に、このまま被災地に残っていても気持ちも下がっていくばっかりで、なかなか前向きになれないっていう、そういったお話も結構聞きましたし、一旦リフレッシュして冷静に考えてみるというのは、大事なことなのかなと思いました。
聞き手
では最後にお伺いします。今回の地震対応において、「輪島市だからこそできたこと」や、「ご自身のチームだからこそ実現できたこと・良かったこと」などがあれば、お聞かせください。
浅野さん
そうですね、先ほど申し上げた避難所の話になるんですけれども、やはり経験している方がいるというのは非常に大きいなと感じました。あとはその地域のコミュニティの大切さ、同じ輪島市内でも、中心部の小学校とか大きな避難所というのは、いろんな方が集まっている。無法地帯というと大袈裟ですけれども、秩序がなかったという話は聞いていますので、そういったところで普段からの訓練とそういう顔つなぎとかは非常に重要だろうなと思いますね。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

