体験を語る
- 避難所・避難生活
避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月5日 |
地震発生当初~避難所の開設
聞き手
1月1日の地震のときは、どちらにいらっしゃいましたか。
田中さん
そのときは家にいました。うちは幸い、そんなに大きな被害はなかったのですが、まず大津波警報が発令されたので、すぐに高台へ避難しました。
高台から港を見下ろすと、堤防の先端が渦を巻いて引き波が起きていて、「こりゃ、とんでもないのが来るな」と思いました。家の前から50メートル先が港なんです。いつ津波が来てもおかしくないような場所に住んでいましたが、幸い、潮位が上がっただけで津波は入りませんでした。
東日本大震災のあと、全国的に自主防災組織の設立や防災士の養成が進みました。うちの地区もその流れで、地震の4年前に自主防災組織を立ち上げたんです。町から補助金をもらって、町内1世帯あたり1万円、うちは95軒あるので、だいたい100万円近い補助を受けて、発電機などの防災資機材を購入していました。その備えが今回、本当に役に立ちました。停電している中でも発電機で携帯電話の充電ができたし、テレビも映して情報を得ながら生活できました。
宇出津のコンセールのとは私の勤務先でもありましたが、教育委員会から「避難者をサポートしてほしい」と言われて、私は1月23日からそこに入って支援を始めました。
それまでは、役場職員の方や保育所の先生たちがサポートしてくれていました。保育所も閉まっていたので、先生方が避難所運営を担ってくれたのです。
当時のコンセールは本当にすごい状況です。トイレがめちゃくちゃな状態で、廊下や部屋の中に130人ほどが雑魚寝していました。記録も残っていますが、あの時期はもうとにかく混乱していましたね。
私が入ってからも、7月31日まで避難所として運営が続きました。休みの日は、地元の避難所運営にも関わっていたので、地元とコンセールの両方を掛け持ちで活動していました。
聞き手
避難所の雰囲気や運営の違いは感じましたか。
田中さん
すごくありましたね。コンセールに入ってこられた方々は、いろんな地域からの集合体でした。いわば「他人同士の集まり」なんです。
一方で、私の地元の避難所は9割以上が顔見知り。ほとんどが「誰がどこの家の人か」分かる関係です。だから、「あれをしよう」「これをやろう」といった話も、自主防災組織が中心になってどんどん動けた。でも、コンセールのような避難所ではそういう連携が難しかった。そこが地域による避難所運営の差として大きく出たと思います。
聞き手
地元は姫地区ですか。
田中さん
はい。姫地区は、地元のつながりが強くて、日ごろの防災活動の成果がよく出ていたと思います。毎月自主防災組織のメンバーが役員会を開いています。
聞き手
姫地区の避難所にはどれくらいの方がいらっしゃったのですか。
田中さん
姫地区というのは、3つのエリアに分かれていて、私の担当していたところは95世帯あります。本来の人口は126人ほどなのですが、地震が起きたのが1月1日だったでしょう。帰省客が多くて、人口は単純に倍くらいになっていました。
その人たちがもう右往左往するわけです。停電しているし、水も出ない。すぐ近くの高台にはグループホームがあって、そこには自家発電設備がありました。そのおかげで、電気をつなげて避難していた人もいました。でも中には、潰れかけた家の中で過ごしていた人や、車中泊していた人もいました。
警報はずっと出たままで、「次の津波がいつ来るかわからない」状態です。みんな高台に避難していたので、高台の道は大渋滞。そのまま一夜を明かしました。
うちの自主防災組織では、百人前くらい、お湯を注げばおにぎりが作れるような非常食の備蓄があったので、それを活用しました。でも水がないのでどうするか。そこで、少し離れた、廃校になった小学校の近くにある小川へ水を汲みに行きました。その水を沈殿させて上澄みを取って、それでご飯を炊きました。
1月1日でしたから、みんなの家にお正月のごちそうがあったのですよ。ローストビーフ、松茸ご飯、塩辛、いろんなものが出てきて。町内の人たちが集まって、まるで避難所とは思えないような雰囲気でした。真っ暗に近い中で、みんなで食卓を囲んでいました。その場には最大で50人くらいいました。
一方で、宇出津の避難所は130人ほどいたので、規模は全然違いますね。
地域性による避難所運営の違い
聞き手
地域柄もあったのでしょうか。
田中さん
そうですね。姫地区は漁師町です。漁師というのは、丘から沖へ出たらすべて自分たちで完結しないといけない。そういう気質があるから、「なんとかなる」「できることはやる」という考え方が自然に出てくる。たとえ米に色がついていても、「煮沸して炊けば大丈夫だ」と、みんなそういう発想です。
実は一つラッキーなことがありました。12月29日ごろから、港に内航船(運搬船)が入っていました。500トンくらいの船で、当然、真水を積んでいます。
「水をもらえないか」と船長に交渉したら、なんと1トン分の水をもらえました。その水を使って、交流センターという場所で煮炊きをしたんです。たまたまその船長が姫の出身で、私の野球の教え子だったのですよ。本当にご縁に助けられました。1月1日、地元での避難所運営の話です。
避難所が始まった当初、電気も水もない状況の中で、いかにしてみんなが生活を維持できるかを考えました。まず、発電機とサーチライトを使って、食堂を照らし、少しでも明るく過ごせるようにしました。40人ほどが入れる広さの食堂に電気をつけて、少しでも安心できる環境を作りました。
でも、夜になるともっと重要なのはランタンでした。懐中電灯を使うと一方向しか光を照らせませんが、ランタンなら部屋全体を照らせます。特に、家族みんなが同じ部屋にいるとき、5人くらいの家族だと一つのランタンじゃ足りません。どんな状況でもそれぞれが動けるように一人一個のランタンが必要だと感じました。
お年寄りが避難所で過ごすには、特にトイレの近さが大事です。私たちは、高齢者が生活しやすいように、1階の部屋を準備しました。そして、トイレに行く際に困らないよう、部屋の中や廊下、トイレ自体にもランタンを配置して、暗い中でも安心して移動できるようにしました。トイレも使える状態ではありましたが、紙は流せない状況で、そこでどう過ごすかも重要な問題でした。
その時はまだコロナやノロウイルスなどの感染症が心配されていたので、手指消毒を徹底しました。避難所内には消毒液を設置し、張り紙で注意喚起をしました。「うるさいくらいに」というほど、周囲に感染症対策を意識させるようにしました。避難所というよりは、「お互いに助け合う家族のような場所」になっていたのだと思います。
避難所の運営の中で、教科書通りの方法では対処できない現実の問題がいくつもあります。ちょっとしたことが大きなストレスになることもあります。日常的な些細な困難が積み重なっていくのです。特に、避難所に来た高齢者の方々のケアには非常に大きな工夫が必要でした。
例えば、コンセールで80代の一人暮らしのおじいちゃんがいました。この方は、家が壊れ、避難所に来ることになったんですが、普段から身寄りも少なく、心の支えがほとんどない状態でした。食欲がなく、ずっと元気がなく、呼吸が苦しいという訴えがあり、救急車を2回呼びました。実際には、特別な病状があるわけではないのですが、精神的な不安や先の見えない状況が彼を苦しめていました。支援物資でお粥などの食事を出していましたが、食欲はない。元気を取り戻すのが難しく、病院に行くことに決めました。
実は私、消防士をしていたこともあり、血中酸素飽和度を測る機械なども支援物資で手に入れていました。そういった設備を使いながら、被災者一人ひとりの状態を見守り、少しでも適切な対処をしようと努力していました。
ある時、70代の女性が頭痛を訴えてきました。その時、私はまず彼女の過去の病歴を聞き、脳梗塞の経験があることを確認しました。こうした状況では、簡単に市販薬を渡すわけにはいきません。薬を渡す前に、しっかりと本人の体調や病歴を確認することが大切だと感じました。
81歳のおじいちゃんは最終的に、福井の老人福祉施設に移動しました。家に帰ることができない、身寄りが遠く、避難所にいても先が見えない。こうした状態が続くと、どんどんストレスが溜まり、体力的にも精神的にも追い詰められていきます。周囲の人たちも知らない者同士で、ずっと同じ空間にいるのは精神的にきつかったと思います。特に長期間の避難所生活で、環境の悪さが心身に与える影響は大きいです。
ある時、避難所内の女性同士が急に言動がおかしくなり、ストレスが原因で精神状態が乱れたこともありました。結局、その方は部屋を移すことになったのですが、そうした状態になって初めて、精神的なケアの重要性を痛感しました。
避難所では食事の問題も大きな課題でした。支援物資で送られてくるのは、レトルト食品や缶詰、パンといったものがほとんどでした。こうしたものばかりだと、栄養が偏ってしまうし、特に高齢者には適さないことが多かったです。生野菜が取れない状況が続くと、血栓のような健康問題も出てきます。特に、運動不足と栄養不足が重なった結果、健康状態が悪化していく人もいました。
それでも、少しでも希望を持ってもらおうと、避難所での生活が「いつまで続くのか」という不安を少しでも和らげるために、仮設住宅の話が出てきました。「仮設住宅ができれば、そこに移れる」という希望が、少しずつ避難所での過ごし方を変えていくきっかけになりました。
仮設住宅の完成を待ちながら頑張るという心の支えができると、みんな少しずつ前向きになっていったようです。そして、少しずつでも家に戻る人も増えていきました。もちろん、完全に家に戻れない場合もありましたが、避難所生活の終わりを感じることが、少しでもメンタルの支えになったのでしょう。避難所にいる人たちの年齢や状態は様々です。例えば、元気な20代や30代の人たちは比較的早く外に出て、金沢に避難したりして元気を取り戻しますが、80代の高齢者や一人暮らしの人たちにとっては、家族と離れていることが大きなストレスになり、帰りたい気持ちが強くなる。そうした感情の違いにもしっかり向き合って支援をしていくことが大切だと感じました。
食事の面では、ボランティア団体が炊き出しに来てくれることがとても助かりました。和歌山県や宮城県から支援の方々が来て、3日分や4日分のメニューを作ってくれるのですが、問題は避難所内で並ぶのが大変だということでした。特に寒い時期、列を作って並んで食事を取るのは、高齢者にとっては非常に厳しい状況です。30分、1時間待つこともあって、その間に体調を崩してしまうこともありました。結局、そんな状況に耐えられず、食事を我慢して、自分たちで用意した食事で済ませる人も出てきたほどでした。
トイレも非常に大きな課題でした。避難所に設置したトイレは、防災コンシェルジュの方が早いうちに設置してくれたもので、周囲の支援を受けて24時間使える状態でした。役場や自衛隊、警察、消防、近隣住民も使っていたので、トイレが常に使用されていて、かなりの量のトイレットペーパーが消費されました。あまりにも早く無くなってしまうので、トイレットペーパーの供給が追いつかない状況もありました。
水は、川から汲み取ったものを地下タンクに入れて供給し、その水でトイレを流していましたが、下水道はすでに使えなくなっていたため、紙は流せませんでした。そのため、紙はゴミ袋に捨てることになり、個室に黒い袋を置いて、そこに入れてもらうように指示しました。ゴミが溜まったら、職員が袋を撤収しに行きましたが、ゴミ収集車が毎日来るわけではなく、しばしば袋が溜まりすぎてしまうという状況でした。
その後、障害者用トイレを一つ潰して、そこに大量のゴミ袋を積み上げて処理することになりました。最終的にはゴミ収集が専用の回収車を派遣してくれるようになったものの、それでも毎日来るわけではなく、ゴミの管理が非常に大変でした。
このように、食事とトイレの問題が避難所生活の中で最も苦労した部分でした。どちらも日常的に必要なものであり、その供給や管理には本当に細かな配慮が求められることを実感しました。
私は2か所の避難所で詳細な記録を取っていました。具体的には、誰がいつ来たかをすべて記録し、名刺を天井に届くくらい高く掲示しました。そこに、避難所に来た人たちの名前を並べることで、訪問した人の記録を一目で見られるようにしました。この記録を取ることは、私の消防士時代の癖でした。
最初の3日間は、正直なところ記録もほとんど取れなかったし、記憶も曖昧だったのですが、その後は時間ごとに詳細な記録を取るようにしました。消防の職員は、無線で現場の報告をし、そこから何時にどこへ誰が行った、どんなホースを使った、という細かい部分まで記録を残すことが義務付けられていました。最終的にはその記録を元に報告書を作成する必要があります。人間の記憶ってすぐに曖昧になりますから、しっかりとした記録が重要なのです。だから私は自然にそういった記録を取ることが習慣になっていたのですね。記録を残すことは、後で見返したときにすごく大事だと感じます。
最近の豪雨の時でも、私のチームのメンバーには「記録を残しておいてくれ」とお願いしました。しっかりと記録を残すことで、後々、何があったのかを正確に追跡できます。これは避難所運営だけでなく、災害対応のあらゆる場面で非常に重要な作業ですね。
避難所に様々な団体が来る中で、記録を取ることが安否情報にも繋がり、大切な情報源になります。特に、ボランティア団体の対応が非常に大変で、これは教科書には載っていない事務的な苦労でした。多くのボランティア団体が来るのはありがたいことですが、全てを信用して受け入れることはできません。宮城県から来た職員からも教えられたことがありますが、ボランティア団体がすべて信頼できるわけではないということです。中には、売名行為で来る団体もいるので、そういう団体に対しては注意が必要です。確かに、受け入れることは大切ですが、事前にどのような団体かしっかり確認し、後でトラブルにならないように心掛けなければなりません。
ボランティア団体が自己完結できることが基本で、それができない団体は非常に困ります。例えば、炊き出しをするために来ても、電源の問題やその他の要望で、こちらのスタッフが手を取られてしまうことが多いです。最終的に、用意したIHコンロで問題を起こしてしまうこともありました。ボランティア団体には、自分たちで完結できる準備が求められます。
ある時、千葉から来た子ども食堂の団体がバス1台でやってきましたが、その時、施設内でコロナの影響があったため、隔離部屋が用意されていたにも関わらず、団体があまりにも乱雑に行動して、調理室にも入ってきてしまいました。さらに、調理用具や設備が使われて、食材が放置されるという問題も起きました。若いスタッフが仕切ってくれたことで、何とかその場は収まりましたが、後で問題が発覚しました。その中で、一番驚いたのは、栄養士の資格を持つはずのスタッフが適切な衛生管理をしていなかった点でした。手袋やマスクすら着用していない状態で、こんなことが許されるのかということで、私は怒りを感じました。
このようなトラブルが起きると、スタッフは本当に手を取られてしまい、避難所の運営が一時的に滞ることになりました。結果として、その団体に対しては「次回は来ないでほしい」と思うほどでした。
避難所での食事提供は非常に大変で、特にお年寄りへの配慮が重要です。支援物資をもらったものの、それらを全員が食べられるようにするためには、小分けして提供したり、メニューを工夫したりする必要がありました。例えば、缶詰の大きさや、お年寄りが食べきれない量をどうするかが課題でした。パンばかりでは飽きてしまうので、カップ麺やレトルトご飯などを工夫してメニューに取り入れました。食事のメニューも限られている中で、支援物資をうまくローテーションして食事を提供するのが大変でした。
ある時、地元の飲食店からお弁当を作ってもらったり、熊本からおでんが届いたり、茨城から干し芋が届いたりすると、皆さんに非常に喜ばれました。特にお年寄りにとって、干し芋は懐かしくて嬉しい差し入れでした。こういった物資は避難所の運営を支える重要な部分で、特に果物や野菜が届いた時は大変助かりました。
物資に関しても、姫地区の避難所はすべて記録を取って管理しました。自衛隊から届いたものや、柳田の拠点から取りに行った物資など、そのすべてのやり取りを記録として残しました。これが後々役立ち、どこからどんな支援物資が届いたのかを明確に把握できました。
支援物資が届いた際には、どう分けて配るか、どのように管理するか、という部分でも手間がかかりましたが、しっかり記録を取ることでトラブルを防ぐことができました。
震災後、最初は物資の受け取りがどうなるか、本当に大変でした。役場で物資を受け取ってから、避難所に届けるという形になっていたが、最初のうちは本当に少なかった。金沢から姫の出身者がトラックで物資を送ってくれることや、企業からも支援がありましたが、物資がしっかり届くようになったのは、震災から1ヶ月後くらいだったかな。それまで、ほんとに少ない状態でした。
あと、防波堤のテトラポットが設置されたけど、それが波を防ぐどころか、逆に波が崖を登って道路に来ることになるから、危ないのではないかと。それに、消防の立場からすると、消火用の水源が減るって問題もありました。消火栓や防火水槽が使えないとき頼りになる自然水利が減るということは、ちゃんと考えないと危険だと思います。
行政の対応にもいろいろありました。非常時だからこそ、柔軟に対応すべきなのに、ルール通りにやろうとすることが多くて。例えば、主要道路が通行止めでう回路の道路にスリップ防止で塩を撒いてほしいってお願いしたら、「冬期間利用しない道路なので、できません」って言われました。そんな時こそ、臨機応変に対応してほしかったですね。
それと、震災後は火事場泥棒みたいな問題もあって、解体業者が来たり、外部からの反社会的勢力が来たりして。町内でもパトロールを強化して、警察に通報したりもしたのですが、町の人たちだけでは限界があって…。でも、町の人々はみんな必死で守ろうとしてくれて、そんな中で本当に支え合っていました。地元では自警団を組織して夜中パトロールもしました。
コンセールでは、障害を持っている人や高齢者のケアが足りてなくて、福祉の担当者に頼んで、専用の避難所に移してもらうことになったりしました。そういうことも、早く手を打たないといけない問題です。
地元の人たちが本当に頑張ってくれましたよ。灯油やガソリンが不足していた時には、漁師さんたちが船を出して物資を運んでくれたりして。ああいう時、助け合いが本当に大切だなと思いました。
でも一番困ったのは、情報が全然来なかったことですね。役場の職員もパニックになっていて、なかなか情報が回らなかったから、町内会で回覧板を回したり、少しでも情報を届けられるようにみんなで頑張ったのです。
聞き手
普段から津波が来たらどこに逃げるかという訓練は行われていたのですか。
田中さん
訓練は特にしていなかったのですが、避難路の管理はちゃんとやっていました。町内で、木が生い茂ったり草がいっぱい生えたりしたら、避難路の掃除を一年に一回は必ずやっていました。そういう点では、みんな認識はしていたと思います。
何年前になるかな、山形沖で地震があった時、津波注意報が出たのですが、とにかく津波が来るということで、教訓として「車を両方に止めたら緊急車両が通れなくなる」って回覧板で流したのです。うちは毎月回覧板を出していて、スタッフも毎月集まっているのでフットワークはいいのです。だから、町内で工事があるとか、事業者が来るとか、そういう情報はスタッフを通して入ってきました。ただ、役場との連絡が取れなくて、孤立状態でした。
幸い、うちの地域は津波が入ってこなくて、死者や負傷者も出なかった。もしペシャンコの家があったり、死人が出ていたりしたら、そんな活動はできなかったかもしれません。本当に、皆さんが頑張ってくれて、助けてくれたのですよ。やっぱり地域の力ってすごいなって思います。
でも、宇出津の人たちは全員知り合いってわけじゃないので、全部が自然に動くわけではないです。だから私は、1月23日に最初に行った時に、ボランティアを募集しました。施設の中で掃除をしたり、お湯を沸かしたり、準備を手伝ってくれる人を募集するために張り紙をしたのです。そうしたら、小学校一年生の女の子が手を挙げて、廊下をコロコロかけてくれると。弟の4歳の子も「僕もやる」って言って、廊下を行ったり来たりしていました。大人たちがそれを見守る感じです。保育所から帰ってきても、自分の仕事みたいにやってくれて、本当に可愛らしかったですね。
地域の一体型じゃない場所でも、そういう仕掛けがあると助かると思いました。地域の人は、やろうと思ったらパッと動けます。毎日、朝と夕方にスタッフでミーティングをして、昨日のこと、今日のこと、来る人ややることを共有しました。一人暮らしの人のところには食事を持って行ったり、水を持って行ったり、支援物資も小分けして届けたりしました。
避難所が落ち着いたら、災害ゴミの問題も出てきました。瓦やブロック、家の中の片付けをどうするかっていうのを町内で考えて、置き場を分けて「ここにタンス、ここに家電、ここに瓦」とスタッフが対応することを考えていました。
役場には「やめてください」って言われました。でも、自分たちでやるつもりでした。ブロック塀が倒れて危ないところを片付けたり、落ちた瓦を直したり。
鳥居もそうです。元々石でできていた鳥居が壊れたので、木を使って自分たちで作りました。素人集団で作ったのですよ、専門家なんていません。でも、今じゃ震災のシンボルになっています。
6月には町内の関係団体を集めて、祭りの話をして、8月11日にはちゃんと完成させました。本来は7月の第4土日ですが、一ヶ月ずらして8月に祭りをやりました。鳥居には反りも入れて、神額もしめ縄も自分たちで作りました。新聞にも取り上げてもらいました。縮小の模型を作りすべて手作りです。
今回の災害を経験して
聞き手
最後になりますが、将来に残しておきたい教訓はありますか。
田中さん
アナログが大切ということです。あの寒い時に灯油がなかったらストーブも焚けないでしょ。だから、ファンヒーターじゃだめです。天気なんか関係なく、灯油ストーブじゃないと使えないから、やっぱりアナログが強いのですよね。デジタルをやるのも大事ですけど、両方を見ながらやらないといけない。ちゃんとアナログのことも用意しておかないとだめなのです。
昔の黒電話ってあるじゃないですか。あれはセンサーが生きてれば、電気が止まっていても使えるのです。停電していても、弱い電流が流れているから生きているのです。ソーラーも用意しておくと安心です。モバイルバッテリーでも、車にちっちゃいソーラー付きの充電器があれば使えますし、あとは車ですね。ハイブリッドや電気自動車は電気を使えるので便利ですけど、やっぱりアナログの方が強いです。
一番被害がひどかった輪島集落の区長さん、実は黒電話を持っていて、そこで午後に連絡が取れたのです。状況も全部分かって、あれは本当に助かりました。あれがなかったら全然行けなかった。孤立していると状況が分からないでしょう。電話線も切れてなくて、本当に助かりました。アナログって大事なのです。すごいなって思います。
サバイバルの訓練は絶対にやった方がいいですよ。避難訓練も大事ですけど、「はい、今電気がなくなりました」「はい、水が止まりました。さあどうする?」っていうクイズ形式でもいいです。そういう知識があるかないかで、生きていけるかどうかが決まる。これは本当に大事です。
子どもたちも、好き嫌いなんて贅沢は言っていられません。毎回、サバの缶詰が出てきたらどうするか。ずっとサバ缶とか焼き鳥缶しかないときもあるのです。最初の頃は、缶詰すら出せなかったです。好き嫌いを言っていたら絶対に生きていけません。

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避難所・避難生活
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「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

