体験を語る
- 行政
文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月12日 |
発災直後の状況と初動対応
聞き手
地震発災前の12月31日はどのように過ごされていたのでしょうか。
刀祢さん
年末でしたので、自宅で家族と家で紅白を見ていました。
聞き手
発災当日1月1日についての状況を教えてください。
刀祢さん
1月1日でしたので、午前中は東部地区の実家の方に顔を出して、午前中のうちに自宅に帰ってきました。午後は特に何もすることはなく、ただ家で家族と一緒にゆっくりとテレビを見て過ごしていました。そこで地震が起きました。今までに経験したことのない揺れで、自宅が本当に壊れるのではと思い、家族と一緒にすぐに外に出ました。その状況下で大津波警報が出されました。東日本大震災の津波のこともありましたので、家族とすぐに車に乗って高台の住宅街に避難しました。その後、市役所に参集しました。
聞き手
発災後の文化会館の対応はどのようでしたか。
刀祢さん
23時ごろに副市長と総務部長から文化会館長の私と同施設の図書館長に対し呼び出しがあり、明日から物資を文化会館に受け入れしてほしいとの指令を受けました。文化会館を物資の仮置き場にするということです。指示を受けて私と図書館長の2人で明日から物資を受け入れられるかどうかの現場確認を行いました。
聞き手
地震の直後ですが、文化会館はすぐに入れる状況でしたか。
刀祢さん
倒壊までは至っていなかったのですが、かなりの被害がありました。まずは自分が行った時に火災警報措置が鳴り響いていたので、それを止めないといけないと思いまして、事務所へ行きました。事務所に入ったときに分かったのですが、スプリンクラーが作動していたので、書類は水浸しの状態でした。
聞き手
現場確認の際に文化会館にある作品には被害はありましたか。
刀祢さん
文化会館はコンサート、イベントのような文化活動を行う施設ですので、作品といったものはなく、被害はほとんどなかったです。図書館は、棚が倒れて図書が出ていたり、本にスプリンクラーの水がかかったりといった被害はありました。文化会館はホール棟と事務棟の二つに分かれているのですが、図書館が入っている事務棟はスプリンクラーで水びたしでした。またホワイエも同じような状況でした。ホール棟はスプリンクラーが作動していなくて壁側の暗幕が1本落ちていただけでしたので、基本的にホールで物資の受け入れを行おうと決めました。
聞き手
文化会館の一部を使って物資を受け入れていたのですね。
刀祢さん
途中からは断水の影響でスプリンクラーも止まりましたので、ホワイエでの物資の受け入れも行いました。
聞き手
被災直後の物資受け入れ時の状況はどのようでしたか。
刀祢さん
受水槽が建物の上にあるのですが、水が断水したので、受水槽から水が無くなりスプリンクラーは止まりましたが、水びたしの状況は続きました。文化会館には高圧線があるのですが、それが断線していたということで、停電もしていました。当初は予備電源で小し照明がついていましたが、電源がない状態で物資の受け入れを行いました。
聞き手
送られてくる物資はどういったものがありましたか。
刀祢さん
国、県から、プッシュ型で送られてくる日用品や食料品といった物資です。
聞き手
1月1日の文化会館の確認の後で、お仕事やご自身の避難ではどのようなことをされましたか。
刀祢さん
少し記憶があいまいですが、地震発災当初は停電していたので、市役所に戻り仮眠をしました。自宅のほうも何日も停電していた状態です。一度自宅に帰ろうとした際に、市役所の前の橋に1メートルほどの段差ができていて車が通れない状態もありました。


物資受け入れ・支給の体制変遷
聞き手
2日以降の初期段階における業務はどのようなものでしたか。
刀祢さん
最初期の指示は物資受け入れだけでした。どこからどういった物資が入ってくるのかといった情報が全くなかったので、当時は文化課職員と図書館職員5、6名だけで届いた物資をとにかく受け入れる作業でした。現場まで来ることのできない、遠方に住む職員は、自宅のある地域の避難所といった施設で業務を行ってもらっていたので、課の職員の半分程度で受け入れをしていました。
聞き手
物資受け入れの際で大変だったこと困っていたことはありましたか。
刀祢さん
大量の物資が届く一方で、フォークリフトやハンドリフトといったものがない状況での整理となるので大変でした。文化会館の外構部分が地震の影響で段差を生じている点も作業を困難にした要因でした。段差は作業を行う上で非常に危険でしたので、途中からは段差に砂利・鉄板を引いてトラックを横付けできるようにしました。そういった対策も以前運送業に従事していた職員が偶然、違う課から応援に来ていたので、行うことができました。その職員のおかげで状況を改善していくことができました。
聞き手
輪島市の想定として、災害時の本来の物資の受け入れ予定地は計画されていましたか。
刀祢さん
市の防災計画を確認すると、文化会館も一時的な物資受け入れの場所にはなっていましたが、文化会館には保管場所の機能がないので、サンアリーナという大きな体育館がメインの物資受け入れ場所だと思っていました。でも、サンアリーナも大きな被害を受けていたことと、そこまでの道路が通行できないことで物資受け入れが難しく、文化会館が物資を受け入れる形になりました。
輪島市は広いので、物資の受け入れに関して、市街地は輪島市文化会館、東部地区は東陽中学校、西部地区は健民体育館で受け入れを行っていました。当時は自分の地区で精一杯だったので他地区の状況は把握できていませんでしたけど、後々確認出来ました。
その後、市から基本的に、物資の受け入れについては「個人のものは受け入れしない」「団体のもののみ受け入れる」という方針が示されました。その内容をホームページにも掲載して、問い合わせがあった際にはその方針で対応するようにしていました。実際、かなり多くの問い合わせがあったようです。ただ、現場で個人の方が物資を持って来られた際には、「受け入れできません」と職員が断ることになっていたのですが、せっかく持ってきたのにということで怒られてしまったり、あとで市役所に苦情の電話が入ることもありました。その結果、再度呼び出されて「持ってきたものは受け取ってほしい」という指示を受けたのを覚えています。
もう一つ、本来、物資の業務は管理課が担当することになっていたのですが、当時は電話対応などで非常に忙しかったようです。本来は現場での受け入れだけを担当すればよかったのですが、企業からの物資提供の申し出なども多く、私自身が本部に来て電話対応や企業とのやり取りもするようになりました。
最初の1週間ほどは電話だけでの対応だったのですが、常に電話が鳴りっぱなしの状態でした。そこで、市のほうで入力フォーム(Webフォーム)を作ってもらい、ホームページにリンクを貼って、まずはそこから申し込みをしてもらうようにしました。その後、こちらから改めて連絡するという形でやり取りを進めました。
聞き手
そういった体制が整ったのはいつ頃ですか。
刀祢さん
1週間後ぐらいですかね。
聞き手
そういったデジタルツールの使用は効率化に繋がりましたか。
刀祢さん
効率は良くなり、電話よりはスムーズに対応ができたと思いますが、連絡の積み残しの対応は大変でした。
聞き手
物資がたくさんは運ばれてくるという状況の中で、被災時にこの物資が必要で、この物資が不必要だったという意見はありますか。
刀祢さん
当初、特に必要との声が多かったものは食料品です。1・2週間すると感染症が流行ったということでアルコールジェルなど、寒い地域ですので、暖房器具・毛布・帽子が大量に送られてきました。新聞やテレビの報道で送られてくる物資は変わってきます。本来そういったことは防災計画でしっかりと想定していただきたいと思っています。
聞き手
メディアを通して、知ってから物資を送るということで必要としている時期と送られてくる時期のラグはありましたか。
刀祢さん
メディアを通して知ってから物資を送る方は多かったです。やっぱりラグは生じていて、届いたときにはもうニーズは無くなっているといったものもありました。アルコールジェルは大量に残っていたりします。
もう一つあったのが、企業からの物資提供の申し出についてです。石川県のほうで、そうした企業からの申し出を一括して受け付けていたようなのですが、なかなか県からの連絡が来なかったのですね。それで、しびれを切らした企業の方々が「もう直接輪島市に連絡します」ということで、こちらのフォームから直接申し込みをされた企業もありました。
おそらく石川県としては、地域からの具体的なニーズが上がってこないうちに物資を送ってしまうと、受け入れ側が混乱してしまうため、必要なものだけを連絡してもらうようにしていたのだろうと思います。
聞き手
そういった直接輪島市に連絡された企業から送られてきた物資は受け入れましたか。
刀祢さん
当初は受け入れしていましたが、途中から物資の倉庫がたくさんになってしまったので、アルコールジェルといった、どうしても過剰と思われるものはお断りしていました。ダンボールベッドやプライベートのポップアップテントみたいなものについても、かなり大量に送られてきました。輪島市の場合は避難者が多すぎて、一つの体育館に並べられないということで、一時的に在庫として積み上がりました。2・3日すると市外・県外の親戚がいる人はそちらに避難する方が多く、避難者は減少しました。そういった点で、需要の把握は難しいのですが、計画的なシミュレーションがあってもいいと感じました。
聞き手
今後の災害で物資受け入れをする際にリアルタイムで必要なものが分かるシステムが必要だと思いますが、そういったシステムの使用にあたってご意見はありますか。
刀祢さん
1・2週間で必要物資のニーズが変わってくるので、避難者数に応じたセットをプッシュ型で送っていただくのがいいのかと思います。例えば、歯ブラシといった家から持ってきていないようなもので、1・2日したらすぐに必要になるものはニーズが出てからだとラグが生じてしまうので、最初の食料品と同時に、2・3日目に必要となってくるものを、ある程度ニーズを予測して計画を立てて、セットを作るといった形です。
聞き手
電話対応がデジタル化された後、次にとりかかった業務はどのようでしたか。
刀祢さん
こちらは物資拠点という位置づけでしたので、次の段階としては避難所へ物資を届けることになります。ただ、当初は避難所でどんな物資が必要なのか、具体的なニーズが分からなかったです。そのため、最初のころは電話などでやり取りをしたり、こちらの判断でプッシュ型で物資を送ったりしていました。
ところが途中から「もう足りている」「これはいらない」といった形で返品されるケースも出てきたので、やり方を見直すことになりました。そこで、避難所のニーズをきちんと把握するために、市の「ロゴチャット」というチャットツールを使うことにしました。
「翌日に配送してほしい物資は、前日の何時までにオーダーしてください」というようなルールを決めて、ある程度システム化、マニュアル化して運用を始めたというところです。途中からは、この仕組みを対口支援の方々にも開放して、支援に入っている方々もチャットに参加できるようにしました。
さらに、避難所のニーズを拾い上げるために、避難所ごとにパソコンを置いて、Googleスプレッドシートで共有・確認するという方法も取り入れました。ただ、私たちがいた文化会館については、震災後に解体が決まっていて、電源もない状態でした。そのため、実際にはパソコンを使うというよりも、スマホのアプリでデータを確認する形で運用していました。それに関してはとてもよかったと感じます。
聞き手
物資受け入れで苦労されたことはありましたか。
刀祢さん
当時の苦労で言いますと、私は物資拠点の担当だったのですが、警察の捜索隊の方々も宿泊場所がなくて、文化会館に泊まっておられました。ただ、その文化会館は電気も水道もトイレも使えない状態で、そんな環境の中で機動隊の方々が寝泊まりしながら捜索活動をしていました。そういう状況でしたので、警察の方たちは24時間出入りしていました。私たちは物資拠点の担当ということもあって、夜に何かあったら対応できるようにと、当初はみんなで交代しながら寝泊まりをしていました。でも、やっぱりだんだん疲れがたまってきて、ある職員から「こんなことを続けていたら死ぬぞ」と言われまして、これはもう当番制にして休まないといけないなとなりました。
それで、夜間の対応は当番制に切り替えました。ただ、24時間警察の出入りがあるので、扉が開くたびに冷たい風が入ってきて、とにかく寒かったのを覚えています。トイレも使えなかったので、吹雪いていても外にある仮設トイレを使うしかありませんでした。特に、女性の図書館職員の方なども同じように外のトイレを使わなければならず、本当に労働環境としては過酷な状況だったと思います。
聞き手
物資の受け入れ業務はいつ頃まで続きましたか。
刀祢さん
避難所を解消するまで、3・4月ぐらいだと思います。私が今年の3月に異動するまでは行っていました。
聞き手
業務が落ち着いてからは、文化課での業務というのはありましたか。
刀祢さん
私たちの事務所はもともと文化会館にあったのですが、そこは使えなくなってしまったので、市役所の3階にある教育委員会の一角を間借りして、そこで業務を始めていました。ただ、文化会館のほうにも当番制をつくって、職員を何人か派遣していました。それから、漆芸美術館という文化課の外郭団体がありまして、そこもまだ開館していなかったので、その財団の職員の方にも協力してもらい、当番をお願いしていました。それから、物資の業務についても、単に避難所に物資を届けるだけでなく、せっかくいただいた物資ですので、市民の方にも行き渡るようにしたいと考えていました。特に自宅避難をしている方にはなかなか物資が届かないという話もありました。ただ、自宅避難の方が避難所に取りに行くと、「あなたは家があるのに、なんで取りに来るの」といったトラブルもあったと聞いています。そのため、たしか1月16日ごろから、市民向けの食料配布なども行うようになりました。自宅避難者の方も対象にして配布を始めたということですね。その後、少しずつ落ち着いてきたのが夏ごろで、「ようやく避難所も解消されれば、自分たちの元の業務に戻れるね」と話していたところに、9月の豪雨が起きまして、再び業務が増えることになりました。ですので、私たちは物資の受け入れや調整、避難所への物資の供給、市民向けの配布など、いろいろな業務を続けていました。配送業務については、私たちの課ではなく観光課が中心で担当していましたが、途中からはトナミ運輸などの民間業者に委託するようにもなりました。
聞き手
教育委員会の一角を間借りしたりして、文化課としての業務を始められた時期はいつ頃でしたか。
刀祢さん
職員はその年度の決算やいろいろ事業精算などをする時期で、文化課として業務を始めたのは3月、4月ぐらいでした。そんな中で、部下の方がいろいろ事務処理をしないといけないので、私がメインで物資の方の段取りをしていました。
聞き手
物資の支給が安定してきた時期で、大変だったこと、あるいは時間の経過でよくなったことはありましたか。
刀祢さん
1月から2月ごろだったと思いますが、少しずつ物資の受け入れ環境が整ってきました。最初のころは人力で運んでいたのが、ハンドリフトやフォークリフトといった機材が届いて、だいぶ作業が楽になりました。
また、対口支援として長野県や北海道など、全国各地から応援に来てくださった方々にも手伝ってもらって、うちの職員も少しずつ通常業務に戻れるようになりました。
大変だった点としては少し話が前後しますが、当初、文化会館で物資を受け入れていたときは、ホールの上だけでは収まりきらないほど物資が届いていました。観客席のところまで、カレーやカップラーメンなどの食料がぎっしり詰まっていた時期もありました。
もう入りきらなくなってしまったので、屋外にある「マリンタウン」に大きなテントを張って、そこにも横幕をつけて物資を保管しました。運用としては、食料は文化会館をメインに、外でも保管できる水や生活物資などはマリンタウンに置く、という分担にしていました。その後、マリンタウンが仮設住宅の建設予定地になったため、そこを空けなければならなくなり、保管していた物資をサンアリーナ(体育館)のほうに移すなど、拠点の移動も行いました。また、途中からは対口支援の方々との情報共有を強化するようになって、主に避難所運営や物資調整に関わる方々と、自衛隊の方も含めて連携するようになりました。当初は毎晩のように情報共有会議があって、会議中に本当につかれがたまり眠かったことを覚えています。それでも、時間が経つにつれて会議の頻度も少しずつ減って、毎日だったものが2日に1回、3日に1回というペースになっていったと思います。
聞き手
いつ頃が忙しさのピークでしたか。
刀祢さん
1月、2月がピークだったと思います。
聞き手
被災後の文化課では、通常業務以外にどのような業務がありましたか。
刀祢さん
通常業務以外では文化会館について「復旧させるべきかどうか」で悩みました。文化施設全体についても同様で、ただ文化会館を優先的に直してしまうと、業者の手配が難しくなり、仮設住宅の建設や自宅の修繕が遅れるおそれがありました。そのため、文化施設の復旧については、少し様子を見ながら判断するという形をとりました。
途中から文化会館の駐車場に仮設住宅を建設することが決まり、その際、敷地内にあった大型の仮設電源を移動させる必要がありました。業者に「すぐに動かしてほしい」と連絡したりもしましたが、図面だけでは現場の状況が把握できず、建設側も実際に現場を見て初めて「こんな設備があったのか」と分かるような状況でした。そのため、図面ができてから「これを移動してほしい」といった対応が後追いで発生していました。
物資に関しても苦労がありました。当初は、どこからどんな物資が届くのかを把握しなければなりませんでしたが、私自身もともと物資担当ではなかったため、そうした準備ができていませんでした。そこで急遽市役所に戻り、受け入れ体制を整えるようにしました。
ただ、搬入してくるドライバーの多くは企業などからの委託で来ており、依頼主が誰なのか分からない場合も多く、結局ドライバーが自社名だけ書いて帰るようなこともありました。そのため、物資の出所を把握できないケースが少なくありませんでした。また、善意で持ってきてくださった方の中には、トラックにシートをかけずに布団を積んで来られる方もいました。冬場で雨や雪が降っており、布団がびしょ濡れになってしまうこともありました。せっかく持ってきてくださっても、濡れてしまった布団は避難者の方には提供できず、後に処分せざるを得ませんでした。善意での行動とはいえ、受け入れ側としては非常に難しい対応でした。
最後の方には、市民への食料や生活用品の配布も行いました。できるだけ公平に配るため、市の公式LINEを活用して案内していましたが、最大で800人ほどが文化会館などに集まることもあり、路上駐車が相次ぎました。その結果、近隣住民とのトラブルも発生し、警察からも「駐車場を確保して実施してください」と指導を受けました。しかし、すでに駐車場の余地もなく、それをきっかけに配布は中止しました。ある程度状況が落ち着いた時期ではありましたが、対応には苦労しました。
聞き手
物資を公平に渡すというお話がありましたが、配布の際は世帯人数などに応じて分けていたのでしょうか。
刀祢さん
まず、物資の受け入れについては、当初文化会館がいっぱいになってしまったので、一度「もう受け入れをやめよう」という話も出ました。ただ、西部地区のほうではまだ物資が足りないという状況だったのです。ですので、市街地での受け入れ量を少し減らして、その分を西部地区や東部地区へ回すような対応を取りました。
配布の際は、公平に行き渡るように、一人分のセットをあらかじめ用意してお渡ししていました。例えば、食料であれば「お茶1本・カップラーメン1つ・アルファ米1つ」といった形のセットを作り、それを並んで受け取ってもらうようにしていました。そうすることで、混乱や不公平が生じないように工夫していました。
聞き手
物資は、住民のもとへ届けるというよりも、取りに来てもらう形だったのでしょうか。
刀祢さん
そうですね。持って行くのは非常に難しかったです。というのも、自宅避難をしている方がどこにいるのか把握できなかったからです。そのため、避難所については、それぞれの避難所へ物資を送れば、避難者の人数を確認したうえで配布してもらえるようにしていました。また、特に輪島ではトイレが使えないという問題が大きく、上下水道が止まっていたこともあって、簡易トイレを受け取りに来る方がかなり多かったです。
聞き手
簡易トイレを取りに来られる方はいつごろまでいらっしゃいましたか。
刀祢さん
一年経っても取りに来られる方はいらっしゃいました。
水害のほうの被害もありましたので、一年以上需要がありました。
聞き手
実際に物資の受け入れを行ってみて、もともと備蓄品として想定していなかったけれど、あって役立ったものや需要が高かったものはありましたか。
刀祢さん
一番はやはり簡易トイレですね。それ以外では、火災で失われた衣類の需要もかなりありました。ただ、時間が経つにつれて、避難者の方々のニーズが少しずつ変わってきます。もちろん「贅沢をしたい」という意味ではありませんが、生活が落ち着いてくると、より細やかな希望が出てくるようになります。例えば、こちらからプッシュ型で物資を送っていたときに、「この銘柄のお茶が欲しい」とか、「カップラーメンはわかめラーメン以外にしてほしい」「どん兵衛がいい」といった要望が届くようになりました。避難生活の中でも、少しでも自分の好みに合ったものを求めるようになる。そうした要望を見ていると、人々が少しでも心穏やかに、豊かに過ごそうとしている様子が感じられました。
聞き手
今回の震災は1月1日ということで、帰省などで実家に戻られている方も多かったと思います。そうなると、普段より人が多かったのではないかと思うのですが、そうした状況で物資が足りなくなるといった問題はありましたか。
刀祢さん
市の備蓄計画としては、もともと1,800人分の3食、つまり5,400食の非常食を用意していました。ただ、実際には水の需要が非常に大きかったと感じます。冬ではありましたが、やはり断水の影響で不安が強かったのだと思います。発災当日のことですが、高齢の男性がふらふらになりながら「水をくれ」と来られたことがありまして、そのときに「やはり水が一番必要なんだな」と実感しました。手持ちの水を少し分けて差し上げたのを覚えています。
一方で、孤立地域の中には、正月という時期だったこともあり、家に食材があったという話も聞きました。「家にすき焼き用の肉があったから、みんなで持ち寄って食べた」といった具合に、田舎ならではのつながりで何とか食を確保していたようです。お店も閉まっている時期ですし、家庭内にある程度の食材が備蓄されていたことが功を奏した面もあったと思います。ただその一方で、避難所によっては食料が極端に不足していたところもありました。食料をある程度自力で確保できた人と、完全に物資に頼らざるを得なかった人との間で差があったのではないかと思います。
文化財の保存
聞き手
文化会館はイベントホールのような施設で、常設の作品などがあるわけではないと思うのですが、業務としては、美術館といった施設にも関わっていらっしゃるのでしょうか。
刀祢さん
美術館については、財団法人のほうに学芸員や市の職員もいましたので、彼らが中心となって作品の点検などを行っていました。文化財関係については、本来であれば文化財班として被害調査に出向かなければならなかったのですが、発災直後はほとんど動けませんでした。そもそも文化財の所有者がどこに保管しているかも分からない状況でしたし、今はそれどころではないという雰囲気も強かったと思います。そのため、文化財の被害状況の把握が本格的に進んだのは、発災から半年ほど経ってからだったと思います。ただ、重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)、たとえば黒島地区など、住まいと文化財が一体になっているような地域については、比較的早い段階で調査が行われました。文化庁とも連絡を取りながら、5月のゴールデンウィーク頃には現地で説明会を開き、住まいの再建や被害状況の確認、今後の方針などについて情報共有を行いました。
聞き手
重伝建ということで災害の被害を受けたときに文化庁といった機関から特別な支援は受けられましたか。
刀祢さん
通常、文化財の修理については補助率が80%で、さらに上限額も定められています。ですが、今回のように市が災害復旧事業として実施する場合には、その補助率に10%を上乗せして、90%まで引き上げる形にしました。上限額についても、市が設定した範囲で対応してもらえるようにしています。こうした制度をどうするかについては、文化庁の職員や調査官の方と相談しながら、新たに仕組みを作りました。これまでそのような設定はなかったため、制度を新設して予算要求を行いました。
聞き手
その取り組みで大変だったことはありましたか。
刀祢さん
私どもからすると、補助率90%として上限額を上げたんですけども、その補助金だけでは再建ができないという意見をたくさんいただきました。この際、解体したいという方も多くいらっしゃいました。こちらとしてはもう文化財ということなので、できるだけ残していただきたいということで、そういったところで、いろいろと苦労がありましたね。
聞き手
反対意見を持った方に対してはどのように説得されましたか。
刀祢さん
皆さんそれぞれ、家屋の公費解体の期限が決まっていますので、早く解体したいと思う方は解体申請を出されます。ただ、市としては、文化財建造物が多い地域でもありますので、すぐに許可が下りるわけではありません。申請が出ると、市の審議会で有識者の方々を交えて「本当に解体してよいか」「修理できる方法はないか」といった点を慎重に議論します。そのため許可までに時間がかかることも多いです。
こうした経過の中で、市では何度も住民説明会を開き、修理によって残す方向でお願いしてきました。最初は解体の意向だった方でも、補助制度の説明などを受けて、修理することに決められた方が多くいらっしゃいました。
聞き手
全体的には、修理で残すという方向が多かったのでしょうか。それとも、解体の方が多かったのですか。
刀祢さん
解体も多かったですね。ふるさとを残したいという意識の高い方は、「何とか補助金を活用してでも残したい」とおっしゃっていましたが、一方で、すでに市外や県外に移られていて維持が難しいという方は、「この機会に解体したい」という意見も多くありました。
また、東部地区には重要文化財である時国家と上時国家という建造物があります。これらは地震の被害に加えて水害の被害も受け、二重の被害となりました。修理には20億円以上かかる見込みで、国や県、市も支援していますが、それでも自己負担が非常に大きく、当初は修理に踏み切れない状況でした。それでも現在は、両家とも修理の方向で進めていると聞いています。
聞き手
文化財レスキューの活動もありましたか。
刀祢さん
文化財レスキューについては、当時、文化財担当の係長が1名おりまして、その職員がすべての文化財レスキューとの連絡調整を担っていました。私の記憶では、70~80件ほどの文化財レスキューが実施されたと思います。その職員はほぼすべての現場に立ち会っており、本当に大変だったと思います。
聞き手
文化財レスキューの中で、何か良かったことや成果として耳にされたことはありますか。
刀祢さん
文化財レスキューを通して、これまであまり認知されていなかった貴重な文化財を確認・保全することができたと聞いています。特に神社など、地域に根付いていた場所に古い時代の貴重な文化財が多く残されていたことが分かり、そうした点は大きな成果だったと思います。


聞き手
文化財レスキューの活動は現在も続いているのですか。
刀祢さん
今も続いていると思います。ただ、まだ課題も多いです。
現在は、文化財レスキューで一時的に運び出した文化財を、県内の保管場所や県外の博物館などに避難させています。今後の重要な課題は、そうした運び出した文化財をどのように地域へ戻していくかという点だと考えています。
聞き手
今回の地震で失われた文化財とか、先ほどの街並みとかもあると思うんですけど、そういったものを何か記録したりアーカイブしたりするような取り組みはあるんですか。
刀祢さん
私どもは本当に職員が少なかったので、文化財の保全については、ほとんど文化財レスキューに頼っていました。もしそうした制度や仕組みがなければ、もっと多くの文化財が失われていたと思います。文化財レスキューには、全国からエキスパートの先生方をはじめ、多くの専門家にご協力いただきましたので、本当に感謝しかありません。
聞き手
今後、文化財を地域に戻していくうえで、どのような課題がありますか。
刀祢さん
奥能登の家というのは意外と大きな建物が多く、そこに多くの文化財を保管していたと思います。今後、住まいを再建していく中で、そうした文化財を再び安全に保管・保存できるのかどうかが課題です。とりあえず、現時点では一旦救出はできましたが、これからは地域の中でどう保存していくかが重要になると思います。地域の歴史に詳しい先生方からも、「文化財は地域で保管してこそ意味がある」とのご意見をいただいており、そうした点も大きな課題だと感じています。
聞き手
今回や過去の地震も含めて、文化財を震災から守るための議論や対策は出てきているのでしょうか。
刀祢さん
今後の対策については、文化財をどう守るかという議論はありますが、現時点では、具体的な策を講じるところまではなかなか難しいのが現状です。
聞き手
異動される直前の時期で物資対応と文化財対応、それぞれの面で、最後のほうに感じていた課題はありましたか。
刀祢さん
まず物資については、事前の防災計画や避難訓練などはよく行われていますが、実際に物資をどう取り扱うか、どう管理・配布するかといったノウハウが十分ではなかったと感じます。ですので、今後はそうした物資の運用に関する知識や訓練を積み重ねておくことが必要だと思います。
文化財については、一年や二年で修復や復旧が終わるようなものではありません。長い時間をかけて取り組む必要がありますし、被災された皆さんにとっては、まず自分たちの生活の再建が最優先になります。その中で、地域の宝である文化財をどのように守り、次の世代に残していくか。文化財の大切さを理解してもらいながら、息の長い取り組みをしていくことが大事だと感じています。
聞き手
地域の文化財の重要性を地域の人に知ってもらう、ということですが、そうした意識を高めていくためには、どのような方法が考えられるでしょうか。例えばイベントなどを通して、地域の方に文化の大切さを感じてもらうような取り組みは可能なのでしょうか。
刀祢さん
やはり「身近に感じてもらうこと」が一番大事だと思います。文化財というと、どうしてもガラス越しに見るような特別なものという印象が強いですが、その背景にある歴史や地域の暮らしのつながりを理解してもらうことが重要だと感じています。特に能登地域ではお祭りなどを通して、小さい頃から自然と文化に触れてきたという面があります。そうした機会を生かして、文化財の意義を伝えていくことが必要だと思います。
私たちとしても、どのようにすれば地域の方に文化財を身近に感じてもらえるか、なかなか明確な答えは出ていません。むしろ、よい方法があればぜひ教えていただきたいくらいです。最近では「保存だけでなく活用を考える」という方向に変わってきています。たとえば文化財建造物を舞台にイベントを開いたり、新しい文化と掛け合わせたりする取り組みですね。実際に時国家や上時国家ではプロジェクションマッピングの実施もありましたし、伝統的な太鼓演奏なども組み合わせて、訪れるきっかけづくりをしています。
今後の文化会館の展望と本経験に基づく教訓
聞き手
文化会館で開催されていたコンサートなどのイベントは、地震で会館が使えなくなったことで実施できなかったと思いますが、その後、別の場所でそうした文化活動を再開されるような動きはあったのでしょうか。
刀祢さん
文化振興の分野になりますが、当時は職員が少なく、私自身も物資対応や文化財業務を兼務していたため、すぐにイベントを開くことはできませんでした。ただ、避難所になっていた公民館が再開されてからは、少しずつ文化活動を再開しています。大きな文化会館や体育館は使えませんでしたが、学校の体育館を使ってコンサートを開くなど、形を変えて活動が続きました。
また、私たちだけで全てを担うのは難しいため、現在は「支援調整窓口」を通じて全国からの支援申し出を調整してもらっています。災害復興支援コンサートのような形で、仮設住宅の集会所などでもイベントを開いていただいており、私たちとしても非常に助かっています。
聞き手
日本は地震大国で、いつどこでまた大きな地震が起こるか分かりません。全国には多くの文化施設がありますし、文化財の所有者も含めて、なかなか完全な対策は難しいと思いますが、今回の経験から「こういう備えをしておいた方がいい」と感じたことや、教訓のようなものがあれば教えてください。
刀祢さん
今回はたまたま正月だったこともあり、来館者がいない状況でしたが、もしイベントを開催していた場合には、避難誘導など非常に大変だったと思います。ですから、まずは備蓄の確保と、建物内に危険なものがないかの点検が大切だと感じています。管理者として、そういった日常的な安全確認は欠かせません。また、文化会館が防災計画の中で何らかの役割を担うことになっている場合は、指定されているから安心するのではなく、実際にどう動くかを自分たちで具体的に考えておくことが重要だと思います。
計画を形だけで終わらせず、いざというときに本当に機能するようにしておくことが、何より大事だと感じました。
聞き手
最後の質問です。物資の受け入れや配給において、特に大切にされた点や、配布の際に気をつけられたことがあれば教えてください。
刀祢さん
物資を提供してくださる方々への感謝の気持ちを持ち、できるだけ受け入れるように努めました。避難生活では多くの方がストレスを抱えており、物資が少しでもその助けになればと思い、避難所の方々だけでなく、自宅で避難している方にも受け取っていただけるよう積極的に取り組みました。
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珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

