石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 行政

技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走

輪島市土木課長(当時) 延命公丈さん
体験内容
地震対応を通じ備蓄・自助・技術職の使命感を実感、災害前提の街づくりの重要性を痛感
場所 輪島市
聞き取り日 2025年9月8日

地震発生当初

地震の発災前日の大晦日からどのように過ごされていたかについて教えてください。

私は輪島市街地に住んでいますが、正月は毎年、生まれ故郷である輪島市町野町の寺山で家族と過ごしており、今年も実家で年末年始を迎えていました。実家には亡くなった母親が住んでいて、年末は母親と私の家内と娘2人、あと私の妹と年末年始を寺山で過ごしていましたね。被災したときはちょうど実家から戻る途中でした。
輪島の市街地から7kmほど離れた場所にいたので、一晩中車の中で過ごすことになりました。翌日は輪島市道を通って迂回して鵠巣小学校まで車両を進めることができました。しかし、そこから市街地側の城兼団地の下あたりで電柱や建物を巻き込んだ大きな崩壊があったので、車で行くのを断念しました。そこから山越えで3、4km近くを歩いていきました。
18年前にも同じ白金の旅館付近の国道が寸断されて、そこが通行止めになると市街地からの迂回路がないため、実は上の団地から抜けられる市道の改良をその年から進めてきました。春日用水という用水沿いに道路を500mほど新設して、複数路線化を図ろうとしていたことを事前に知っていたので、そこから団地に入り、久手川から杉平という形で市街地の方へ入ってきました。
2日の朝7時頃に出て、9時過ぎぐらいにはもう自宅に着いたと思います。食料を買うためにコンビニに寄りましたが、そこはレジも何も使えていない状況で、店員さんも大体で計算して、お釣りなしの状態での受け渡しをしていました。
家は一部損壊で住めないわけではなかったので、私たちは避難はせずにそこで寝泊まりしましたが、家内の実家は半壊だったため、義理の母と弟の家は震災後2ヶ月ほど私の家に過ごしていました。
家に入って倒れた下駄箱や食器棚を起こして、冷蔵庫は立っていましたが、皿は全部出てしまっていました。これらを起こし、他に倒れているものはないか確認をした後に、私はそのまま役所へ車で来ました。

そのときの周りの状況や交通について教えてください。

そのとき、まだ日は暮れていなかったんですけど、近くに公民館と消防団の小屋とが併設したところがあり、そこに地元の方が集まってきている状況でした。地元の方が車で国道を行ったり来たりする中で、道路が損壊した場所や通ることができない場所を把握していたので、私たちは車の中で一晩、家内と私と上の娘と過ごすことにしました。下の娘は朝一番に実家を出て県外に行ってしまっていたので、そこは大丈夫だと思っていましたが、妹と母親がいる私の実家の寺山とは連絡が1週間以上つかない状態が続いていました。
道路が寸断されてしまった状況の中、最終的に林道で作業されている人と地元の方との電話がつながって、私の母親も町内の人らも助かったということが情報として入ってきました。その情報は防災対策課にも届き、寺山の住民は数日後にヘリで助け出されることになりました。寺山はその後、長期避難世帯として認定され、寺山地内の離れたところにある大久保というところで一人の行方不明の方の捜索が先日再開しました。そこは、各方面からのルートが寸断されていましたが、現在は珠洲の方から入る道路の作業が完了したと聞いています。

市役所に戻られた時の市内の道路状況はどうでしたか。

街中の状況はだいたい見ながら市役所に来ていましたが、まず携帯がつながらなくて大変でした。本来であれば、アンテナ基地局は72時間は蓄電で持つはずですが、結局は停電と同時に損傷してしまって、他の地域との連絡が全く取れませんでした。町野地区は特にひどかったです。地域の建設業者と連絡を取るにあたって、なんとかつながる事務所を見つけて、1日朝1回、夕方1回、事業者の担当者からこちらに近況が入ってきて、作業状況を共有し次の作業指示をしていましたが、細かいところの指示まではできませんでした。
例えば集落間をつながる主要道路について、開けられるところは開けてほしいと伝えましたが、開けられないところは無理しないでくれ、という感じでした。
市街地も町野地区もそうですが、砕石が不足したのです。この地震で橋の橋台というものが全部40cmから50cmくらいの段差ができてしまい、橋が落ちていなくても段差があるために通行できないところも多々発生しました。また、道路に亀裂が入ってタイヤが落ちてしまうところもあり、それらを埋める詰め物として砕石が必要でした。砕石は、この輪島の能登地区については、山からの切石を砕石にして使っています。そして、そのときに使う分しか近隣の部分に置いていないのです。それ以外の分は山の中に置いてありますが、山への林道も寸断していたため、山から出すことはできませんでした。そのため、近隣にストックしてある砕石については、もう2日目には不足しました
発災2日目から国交省の相談員の方がサポートに回ってくれるようになって、砕石をリクエストしました。その方に手配していただき、最終的には6000立方メートルの砕石を確保しました。しかし、それら全てを一気に持ってくるには時間かかってしまいます。そこで、のと里山海道の徳田大津インターに砕石置場があるので、新潟、富山の砕石、加賀の砕石、福井の砕石等をそこに集めて、事業者のダンプを向かわせていました。最初は1日に1往復、道が良くなっても2往復といったペースで砕石をもってきました。この砕石をマリンタウンに置いて、市道や水道の修復に使うようにしました。

被災したインフラへの対応

地震発災後、水道の復旧は砕石を用いてどのように進めていかれたのでしょうか。

水道は甚大な被害を受けました。河原田川沿いに、下流から右岸側の約500~600mぐらいのところに浄水施設があります。そこで作った水の大半を、輪島中学校の方にある第一配水池の4000tのステンレスタンクに一時的に保管し、そこから市内にすべて配水しています。群部にも中継ポンプや配水池を使って、市街地外の方にも伸ばしているのですが、今回、送水管・配水管が損傷してしまいました。輪島の水道機能が停止していた中で、東京の方から送水管、排水管400mmくらい露出された配管が支給され、それで復旧しました。それからは市内では幾分か水が使えるようになりました。もちろん市役所も最初水は使えませんでした。トイレも大便が便器に山盛りになるなど、もう大変な状態でした。
最初、大津波警報が出たので、この市役所の庁舎の中にも一般の方が避難してきました。一時期は執務室まで入ってきそうになりましたが、輪島高等学校の体育館の避難所が開設してからは、そこへ移動していただきました。1月の中頃までは、執務室以外のロビーや会議室には一般住民の方がおられましたね。
隣は高架水槽で、上にタンクがあるんですが、水道下から直接ここの高架水槽へ直入して、水が来るまでの応急措置としてなんとかトイレを使えるような状況をつくっていました。最初の頃は全然、掃除分担の体制もないので、市の職員がしていたのかなと思います。使えるようになるまでの間、使ってはいけない設備はテープで貼って示していました。

市内の道路状況はどのように情報収集されたのですか。

例えば町野や南志見地区は、海沿いの方の国道が寸断されていたため、ぐるりと回って三井町洲衛まで行って、他の市町村もまたがないといけない状況で、その日に帰ってこられるかどうかも分からなかったため、主要な建設会社さんからの情報が、指示系統でありましたね。

水道管の方の配管の対応についても、優先順位があるのでしょうか。

もちろんあります。
例えば400mmの送水管・排水管は根本の部分なので、第一配水池に水を入れない限り、町の一部にしか水が行き届かないんです。第一配水池に位置エネルギーを蓄えて配水、送水を整備し、配水管を連結して、初めて圧力がかかって使えるようになっています。水圧を安定的に確保しながら水が使えるエリアを広げるのは非常に難しいと思うので、大きな管から順番につなげていきました。
市立輪島病院に関しては、水道局から第一排水池を経由せず直接送り出すルートで配水しました。病院には透析の患者さんがいたため、病院施設には水道を確保しなければいけませんでした。緊急のバイパスルートとして存在するこのルートは普段は使われていませんが、平時使用しているルートで供給できなくなった場合には、直接配水するルートに変更しています。
最初は管の中に汚れが溜まっているので、泥吐きをした上で使う形になると思います。避難所と主要な水道管についての取り扱いは一致しておらず、これまで水道管は地形をもとにして配置されてきました。災害に強いまちづくりには、災害時の避難所や病院を想定した配管が理想だと思います。しかし実際には、全ての水道管を入れ替えることは不可能で、壊れている部分のみを補強している、という状況です。今後、本復旧していく中で、水道設備を使ったまま工事をして、あるときに切り替えなければならないので、理想を成し遂げるのは大変だと思います。もし新たにまちを作るのであれば、そういう考え方が必要なのかなと思いました。

建設会社さんからの情報を整理して、優先順位を決めていったのですか。

優先順位はやはり、主要な道路の連絡道路を開けることです。ただし、無理やり開けるということは、災害を助長する、例えば地滑りにあった道路を無理に開けても、斜面からの土砂がドッと押し寄せるかもしれない、という危険性が伴います
これは実際、被害の最初の頃に経験しました。道路を開けたけど、次の日は土砂で埋まってしまったのです。そのとき偶然そこに居合わせた人はいなかったのですが。土砂を取り除いた後に、乗り越して砕石を敷く、といった工夫も必要でした。それが可能かどうかも含めて、住民が居るところで、開けられるところは開けていくよう努めましたが、どうしても開けられないところ、長期避難世帯になってしまった地域があったのも事実でした。

重機不足だということでしたが、重機自体も被害に遭ったりしましたか。

現場に置いてあった重機が埋まってしまったという事例もありました。土砂が崩れると、バックホウやダンプだけでは足りないんですね。木を伐採しないと除去できない場面もあり、一般の建設業者だけでなく森林組合の協力を得る必要があったので、お願いしました。
また、主要な道路でどうしても開けられないところは、国交省の方に相談して、権限代行という形で大手の事業者を派遣して入れていました。国を通じて推薦して、事業者を入れましょうと県の方にもかけあってお願いして、紹介や許可をいただいて、大手の建設会社の重機部隊が入ってきた事例もあります。1月上旬から中旬にかけての間には、もう最初の重機が入ってきてくれたと思います。それまでは地元の業者でできるところを行っていましたね。

道路や橋梁、上下水道の復旧計画については、どのように立案されましたか。

道路については、主要な道路を優先的に見ていきました。例えば、市街地に入れた主要道路はなかったのですが、ルートは確保しなきゃいけない。「できる・できない」ではなく、「やらなければならない」。道路の末端の部分まで整備するためには、計画的に復旧作業の順番を決めなければなりません。
しかし実際には、災害を想定して細かい工程については事前に決めることはできないので、臨機応変な対応が求められます。県道や国道、市街地の人口密集地域といった条件、加味した上で選択しています。これらを踏まえて上下水道の整備も二本立てで行っていく必要があると思います。
私が最も長期的課題として危惧しているのは、住民がいなくなるということです。令和5年の12月1日付けで輪島は11,405世帯、23,192人いました。それが、令和7年の8月1日には、10,129世帯、20,084人になりました。多分1ヶ月に100人ほどずつ今減っています。元の姿に戻すときには本当に人がいるのか、という点は、不安要素ですね。地域の中でも、お年寄りの方がほとんどで若手が少ない中で、若い人がそこを離れるとなると、街の機能を維持するのが非常に困難になるだろうと感じています。
長期避難世帯といった、以前住んでいた場所に戻れない状況にある寺山は、インフラ整備の見通しが立たず、向こう4年間は帰宅困難とされています。県道の部分も甚大な被害を受けていて、現在は市の道路に県道を入れていくといった計画も練っています。今後はそれに従って調整していく予定ですが、そのときにどれだけの人が戻るのかな。また、水道や電気の復旧時には、災害前と同じだけのキャパや規模が必要なのかについても吟味すべきだと思います。

避難所の様子

避難所での生活の様子は、どのような状況だったのでしょうか。

私は土木課にいたので、皆さんが市役所に避難されていたときは劣悪な状態だと認識していましたが、避難所に行ってしまってからというものは避難所に関わることはありませんでした。しかし、1月の終わり頃から輪島中学校にある自衛隊のお風呂に入れるようになったのですが、その状況を見ると、なかなかプライバシーの確保はされてないと感じることはありました。

発災後、職員の方はどのくらい集まって来られたんでしょうか。

市の防災対策課の職員については、各々の家族も無事だったこともあり3日目には全員集まりました。一番遠くは当時入社2年目の子が白山市の美川から向かってきてくれました。他の課では職員不足が顕著な中、うちの職員を総務課に電話オペレーターでお貸ししたり、水道の技術者を2名派遣したりしました。我々の課では、大雪や豪雨災害、地震も含めて災害時には召集があり待機するため、災害時への対応意識が日頃から身についていたのかなと思います。そして今回の地震の実績を見て、技術職員の意識の高さを改めて感じたというのが、当時の私の率直な気持ちです。

発災後の混乱や厳しい生活の中でも、これは良かった、助かったと感じられた点があれば教えていただけますか。

我々の課題は、建設業者さんをどう確保するか、についてから始まりました。資材も不足し、正月も相まって人も集まらない。新しく結成された建設会社には、地元の若い会社員の方も多くいて、正直なところ昔の老舗の建設業者さんより、新しい建設業者さんの方が機動力があったように感じました。彼らは、我々から要請があっても「できない」とは言いませんでした。この作業が終わったら業務を遂行する、と言ってくれて頼もしかったですね。職員が足りないからすぐには作業に取りかかれないけれど、今一生懸命やっているので、これが終わったら次取りかかりますね、と言って終了確認が入ってきたり、逆に彼らから次どこを担当すればいいのか、といった申し出も受けたりもしましたね。

避難されている住民の方々の中で、要配慮者の方々の避難の状況はどのようでしたか。

直接私は携わっていないのですが、寺山地区では、60代ぐらいの元消防署員の方が、他の方と一緒に軽トラックで、お年寄りの安否確認に見回りに来て、避難所へ送迎していたと聞きました。私の母親も連れて行ってもらったそうですが、一般の方だけだと手が回らない部分で、危機管理関係の仕事経験がある方が、積極的に手分けして分担し、住民の安否確認をしていましたね。

現時点でのインフラについて

現時点での復旧状況について教えてください。

土木の側面で見ると、輪島の市道は、1372路線674kmあって、そのうち市道の橋が437橋。二級河川は石川県が管理していますが、153河川の274kmの普通河川は輪島市が管理しています。
昨年の発災以来、災害査定(編注:現地を調査して、国の補助を受けて行う災害復旧事業にかかる費用を決定すること)を進めていますが、実は査定の段階では見えない部分での被害まで評価することは不可能なんです。まず、目視で確認できる部分の復旧にかかる費用は予算を立てます。次に、協議設計(編注:事業の実施にあたり工法等に更に検討を要する場合に、十分な調査をした上で申請者が国と復旧内容を協議すること)による測量で潜在的な被害を確認した後、もう一度予算の試算を行います。
今回の地震後に行った不可視協議設計で、災害査定の件数は1,294件、査定の決定金額は1,663億円。見えている範囲でこれだけですから、見えない被害についても今後査定を行っていくと、倍以上の労力と費用はかかるだろうと容易に想像できますね。
現在は、去年12月から行っていた災害査定が終わり現地の測量調査の詳細設計の段階に入りました。県内のコンサルタントだけでは手に負えないため、長野県のコンサルタント協会に協力を依頼し設計しています。完了したところから、徐々に工期を出していっています。地元の業者がキャパオーバーの中で、どうやって外部の業者を確保していくかについても今後の課題の1つですね。あと資材関係の確保についても、市や県の土木部と国交省、農林関係の部局が調和して動いていく必要があると思います。今回は、水道も下水も被災してしまったので、道路の下の構造物を直してからでないと舗装が貼れない。道路にカッターを入れて、仮舗装を幅50cmほどかけて先行して側溝等の本復旧をするなど、上下水の工事完了と同時に、舗装をかけられるような段取りや、多事業とのマネジメントが重要になってきますね。最近、道路と上下水の両設備の調整を行いながら復旧の準備を始めたと聞いており、そこが滞ってしまうと、効率的な作業は難しいのかなと思っています。

土木構造物の損傷によって、対応が難しかったことはありますか。

輪島市の土木構造物も耐震構造で設計されていたはずですが、これだけの大きい地震が来ると、損壊は免れないということは感じました。どれだけ地震に対して構造物を強くしても、どんな地震にも耐えられるわけではないということも今回分かったので、費用対効果も含めて、設計に反映していかないといけないと思います。限られた予算と時間の中で、何が必要かを選別していかないといけないと思いました。

一方で、耐震補強の効果によってインフラの損傷を免れた、あるいは被害を軽減できた事例はありましたか。

実は、耐震補強してある橋梁の中で被害がなかった橋もありました。長寿命化もあり耐震補強もして、事前に対策していたからですね。しかし、437橋あるうちの308強は、災害査定の対象になりました。
例えば河原田川のトラス橋は通行止めになっていますが、架け替えの必要性があります。市役所前通りの橋も車を通していますが、これも架け替えしなければいけない。橋梁によって被害の規模も異なっていました。この経験から、耐震補強で全ての土木構造物を補完できるわけではないということも分かりました。また、地盤条件、その場所の条件にも左右されると思います。

いろは橋(トラス橋)(延命さん提供)
いろは橋の破損箇所(延命さん提供)

最後に、今回の震災を通して感じられた反省点や改善点、また他の自治体や住民の方々に伝えたい土木インフラ管理上の教訓があればお聞かせください。

まず備蓄は、最小限のものは必要だと思いました。一方で、十分すぎると、備蓄をどこに置くかという問題が生じますね。通常の自然災害においても、避難勧告が出たら避難する、というのは当然ですが、避難勧告の有無にかかわらず、危険を感じたら早めに避難することが大切ですね。行政が守るわけでもなく気象庁が守るわけでもない、自分の命は自分で守っていくしかないのかなというふうに思っています。
中には家を建て替える人もいて、この地で建てるか、それとも別の場所で建てるのか、今一度冷静に考えて慎重に判断することも大事だと思いますね。実際、18年前の地震を上回るような大きな地震が来ることなど、全く想像もつかなかったですね。地震が起こった後の対処法について事前に取り決めておくことが重要だと思っています。技術職員は、日頃から最初から最後まで自らで段取りをする、といったことをしないと、いざというときの判断に自信をもてないのかなと思います。ここ防災対策課では、絶対に逃げたらいかんという姿勢でいますし、職務を通して身についたものというのは強いのかなと思います。それと、震災後どこの職員もそうですが、かなりの人数が離職した中、まだ土木職員は誰も一人辞めてないんですね。そこには、彼らの仕事上での意識の高さや責任感を感じられ、尊敬の念を感じました

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