体験を語る
- 行政
被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月12日 |
地震発生当初
聞き手
発災前日12月31日から発災当日1月1日までの状況を教えてください。
登岸さん
大みそかは妻の実家(新潟県上越市)に帰省し、親戚と集まっていました。正月を迎え、買い物中に地震が起きました。私はそのまま家族を新潟において、車で輪島の職場(上下水道局)に向かいました。
聞き手
輪島市までの状況と現地での状況はどのようでしたか。
登岸さん
高速道路では途中で降ろされて、いろいろなところに振り回されました。
金沢には1月2日の朝方に着きました。輪島には2日の16時半に到着しました。輪島までの道中に電話で職場の状況を確認しましたが、地震の影響による道路障害で、その時点で浄水場にたどり着いたのは家の近い上下水道局の職員1人(15人中)と本庁の職員1人しかいませんでした。
聞き手
職場(上下水道局)で災害が起きたときの対応は事前に決めていましたか。
登岸さん
震度5以上の地震があったときには職場参集と決めてはいましたが、今回の地震では集まることができませんでした。
聞き手
今後どのように動くのかといった計画がない中で、指示を出していたのですね。
登岸さん
そうですね。まず市内の浄水場が、門前、輪島、町野のエリアにあるので、その3地区を手分けして被害状況を確認してきてくれという指示を出しました。電気が来てないとか、電気が通電していても場内配管が破裂していて水が全然作れないという状況からのスタートでしたね。
聞き手
門前、輪島、町野で状況はそれぞれ違いましたか。
登岸さん
浄水場については町野・輪島がひどくて、門前の方は割と復旧は早かったですね。
聞き手
先ほどの話で1名が浄水場にたどり着けたのはどの地域ですか。
登岸さん
輪島の浄水場です。事務所が輪島にあるので、みんなそこから点検しに行くようなスタイルでしたので輪島にみんな向かっていました。
聞き手
最初の2日、3日はそういった被害の調査だったのですね。
登岸さん
そうですね。初日にたどり着いた職員は施設管理の者ではなく、料金担当の者だったので、詳しくは分からない状況でした。そのため、水が噴き出ているといった被害状況だけを報告してもらっていました。細かい被害状況は専門的な技師が到着してから、実際に運転してチェックしていきました。
聞き手
被災直後で一番大きな問題は何でしたか。
登岸さん
道路がダメだったことです。輪島と門前は何とかその日のうちに行けましたが、道路がダメになったことで、普段なら30分で行ける町野に行けたのは1月6日でした。
聞き手
現場に行けた2人の職員以外の方々はどういった作業をしていましたか。
登岸さん
1日は2人しか現場には行けませんでしたが、2日にはみんな現場に行けました。職員みんな生きているなと確認してから、被害状況を確認するために3名ごとの3チームに分かれて町野・輪島・門前に行ってもらいました。
聞き手
水道局で市民の方たちに対して水道が使えないことの周知はできていましたか。
登岸さん
周知といったことをできる状況ではなかったです。発災直後はみんなテンパっていたので周知できたのは後のことです。市民に対しての対応は、水が作れるようになった浄水場を拠点に金沢などから給水車を要請して応急給水を行うといったことでした。
水道復旧への挑戦
聞き手
水を作れるようになったのはいつごろですか。
登岸さん
1週間後ぐらいですね。輪島浄水場は基幹となる送水管により、高台にある配水池に水を送水し、そこから自然流下で配水する方式なのですが、基幹となる送水管及び配水管が土砂崩れで抜けていたので配水池まで水を上げられませんでした。浄水場で水を作れるようにはなったものの、浄水場から給水車で配るという方法しかなかったですね。浄水池から配水池までの配管は、1週間かけて仮設管で繋げましたが耐震化していた配水池も壊れていました。配水池に関しても1週間かけて溶接して直しました。
聞き手
仮設の管は輪島全域に這わせたわけではないのですね。
登岸さん
そうですね。まずは浄水場から配水池までのルートを優先して繋げました。
聞き手
お仕事の中で、特に大変だったことや苦労された点はありましたか。
登岸さん
やっぱり耐震化していたものが壊れたことです。耐震化していて大丈夫だろうと思っていたところが、許容を越えて壊れてしまいました。配管であれば土砂崩壊で抜けてしまい、耐震化されていたはずの配水施設・配水池については許容を超える大きな揺れで壊れてしまいました。そういった想定外の被害の発生はきつかったですね。
聞き手
大変な状況の中で、つらいことも多かったかと思いますが、その中でも工夫されたことや、良かった・助かったと感じられたことがあれば教えてください。
登岸さん
人が足りないということで水道局のOBに声を掛けました。地震で山抜けしたことで浄水場の水源の川の水は大雨の後のように茶色く濁っていたので、適正な浄水処理のためにその道40年のOBの方に来てもらい、付きっきりで水を作ってもらいました。職員が3チームに分散して被害状況を確認していた状況で、応援してもらえたことは良かったと思います。
聞き手
そういった配水池までの配管をつなげる作業の次の段階としてはどのようなものでしたか。
登岸さん
次は配水池から水を降ろす段階です。水を降ろしてみましたが、これに関してもやっぱり漏水がありました。水を降ろす段階になってやっと漏水しているかの点検ができました。でも配水池が復旧するまで待つと2・3週間かかるということで配水池を通さずに水を通すバイパス運転を行いました。調査して1週間で仮の管を通して市街地に水を送ることができました。配水池を介さずに通すということで作業は早くできたのかなと思います。
聞き手
バイパス運転の整備が完了するまでどれくらいかかりましたか。
登岸さん
1週間ほどです。浄水場の回復が1週間、水を通すのに2週間でした。
聞き手
バイパス運転というと、ポンプで直圧するように、効率よりも早さを優先して対応したということですね。
登岸さん
そうですね。そこも工夫なのかなと思います。
聞き手
その次の作業の段階はどのようでしたか。
登岸さん
市街地で配管を四方八方に展開できるようにロの字の配管ルートを復活させようとしましたが、倒壊家屋でロの字の配管が通せず、Lの字の配管しかと通せませんでした。倒壊家屋は個人の財産で触れないので、ずらして仮の管の配管を這わせて何とかロの字の配管を通しました。ロの字の配管は倒壊家屋の影響もあり当初の計画よりも2週間ほど遅れました。
聞き手
ロの字の配管を通した後はどういった作業を行いましたか。
登岸さん
宿舎やホテル・学校といった避難施設に水を通すことになりましたが、配管を通しても結局は施設の中の配管がダメになっており、なかなか使えない状況でした。また、そういった施設のどこを優先して配管を通すかは考えながらの作業でした。
聞き手
どの施設の配管を優先的に通すのかといった計画はもともとなかったのですね。
登岸さん
そういったものはなかったですが、平成18年の能登半島地震の経験を踏まえ、輪島浄水場と市立輪島病院を耐震管で結んだ結果、病院までは水を送れましたが、そのほかの施設と同様に病院側の宅内配管が被災し水の使用ができない状態が続きました。そのほかの施設にもどんどん配管を通せと言って進めましたが結局中の被害でダメでした。


寒波漏水対策の経験を生かした復旧
聞き手
次の段階では施設の中を直しましたか、それとも他の作業をしましたか。
登岸さん
次の段階では山側の仮設浄水場の建設を行いました。震災前に輪島では、5年前と7年前の2回、水が凍結することで漏水する寒波漏水の被害があり、3回目の被害を抑えるためにどうしたらいいか日々考えていました。輪島は起伏のある地形で、水をポンプ場で高い配水池まで上げて下ろすことを繰り返すので、最後のところは必ず断水してしまいます。だから、断水になるところのポンプ場で水を作れば、その断水の起きやすい地域の水道が早く復活するのではということで、三井地区と南志見地区に浄水場を作る構想をもっていました。その構想を持っていたことで震災後の三井地区と南志見地区の仮設浄水場の建設ができ、早急な対応に繋がりました。そういった山側の地域でも水が作れるようになったおかげで、通常、海側から山側にかけて復旧していくところを海側と山側との両方からの同時進行で復旧することができました。
聞き手
三井地区の公民館長さんに、前から浄水場の整備をしていたから早く水道が復旧したとお話をお聞きしたことがあります。
登岸さん
地震前の12月ぐらいから、3度目の寒波漏水の被害を抑えなければと言われていまして、構想をもっていました。1度目の寒波漏水が起きた際に、空き家が原因であるということで対策したのですが、2度目の寒波漏水が起きてしまいました。その後、検証してみると実際の空き家における被害は1割だけで9割は住んでいる方いる家が原因でした。例えば、おじいちゃん、おばあちゃんが壁から水が抜けているのにじっとテレビを見ているといった感じです。そのため、居住されている方の寒波漏水のケアもしなくてはということになり、メーターを閉じてくださいといった周知を行いました。それでも輪島は5割が高齢者ということもあり、説明しても難しいところがありました。それなら、足りない水を作ればいいという発想になり、浄水場をその2か所に設置しようという構想を持ちました。
聞き手
寒波漏水対策が結果的に地震の際に役立ったということですね。 寒波漏水は全国的に起きているのですか。それともまれな事例ですか。
登岸さん
宅内配管が埋まっている深さによって起こるので、北海道のように宅内配管が1メートル埋まっているところは起きにくいですが、石川になると深さは30センチとなるので、氷点下マイナス4度が2日ほど続くと寒波漏水が起きてしまいます。だから、石川県・北陸でよく起きる事例です。

宅内配管と下水復旧における課題
聞き手
その後の課題はどういったものがありましたか。
登岸さん
順番に漏水を確認しながら水道の復旧をしていく作業です。その作業の中でもポンプ場や配水池が壊れているという状況でしたので、応援に東京都の職員さんが来てくれました。ここに配水池・ポンプ場を作ろうという変更のルート構想をあげると、次の日にはその絵を仕上げ、提案してくれて早く作業を進めることができました。
聞き手
そういった作業の状況が落ち着いてきたのはいつ頃でしたか。
登岸さん
道がないところを除けば、5月末で応急的に水は通せました。その次の課題としては宅内配管が壊れていて水が使えなかったことです。個人の施設なので、個人から水道設備業者さんに頼んで直してもらう形なのですが、輪島には水道設備業者さんが5つぐらいしかなく、順番待ちが生じて、水が出ないとのクレームが多くありました。石川県も輪島以外の事業者さんを住民の方たちに周知してくれてはいましたが、なかなか順番待ちはなくなりませんでした。そのため、石川県が輪島市外の業者に委託した方への補助金を出す施策をしてくれました。それで順番待ちが解消されて、水が使えるようになっていきました。
聞き手
宅内配管は個人個人での対応とのことでしたが、公共施設内の配管は市で行ったのですか。
登岸さん
そうです。東京都からの職員さんにお願いしてやってもらいました。
聞き手
水道の復旧が難しい地域はありましたか。
登岸さん
やっぱり鵠巣地区が難しかったです。一度管内が空になったことで、水道管内の低いところに空気がたまり、エアロックにより水がとおらない課題がありました。寒波漏水の際もそのような課題があり、その時は消防車を使って逆押しをするといったことをしましたが、なかなかうまく水はとおりませんでした。それで、今回は配水池側から水を逆送りしました。すると、以前の時よりも早く、2日間で空気だまりが解消されました。18年前は11日間、5年前は1週間かかりましたので、教訓を生かして次第に改善することができました。
聞き手
今も水が通っていない地域はありますか。
登岸さん
土砂崩れといった被害にあって人が住めない長期避難世帯は今も水が通っていませんが、それ以外のところは基本的に2024年5月末までに通すことができました。しかしながら、9月に起きた水害で、残りの水を通す件数が、約11000戸のうち約300戸となったところから、約3000戸に戻されました。道路上にあった仮設の配管が土砂崩れで軒並み流されたことが原因でした。その時は、心が折れました。
聞き手
その残りの3000戸はどれくらいで復旧することができましたか。
登岸さん
外に見えている管の被害だったので復旧自体は10月中には終わりました。
聞き手
今も仮設の管は使われていますか。
登岸さん
今も使われています。例えば、国道249号の鵠巣地区に行く道にある青い管は仮設のものです。仮設の管は建設にスピード感があり良かった一方で、今回のように雨で流されるという弱点もあることが分かりました。
聞き手
今後はその管を道路の下に埋めていくのですか。
登岸さん
そうですね。道路の復旧に合わせて上下水道管も一緒に埋めていきます。
聞き手
復旧が落ち着いた10月以降の課題を教えてください。
登岸さん
災害査定ですね。被害を受けたものに対して、こんな被害がありましたという報告を国にして認めてもらう作業が2024年の12月まであり、復旧作業と同時並行で行っていました。12月以降は実施設計と言って、復旧するものの設計書を作る作業です。私は今年の4月で部署が変わったので詳しくは分かりませんが、今年の10月までは実施設計の作業をやるとのことだったので、これからは復旧に向けた工事ですね。
聞き手
下水の復旧も行っていたのですか。
登岸さん
上下水道局なのですが、上水・下水どちらを優先するかとなるとどうしても上水となり、15人の職員の内管理職1人、5人は事務、上水は8人で、下水を担当した職員は1人の体制しかとれませんでした。下水はその職員と普段メンテナンスしてもらっている業者さんとをマッチアップして作業を行ってもらいました。上水の復旧に下水の復旧が追い付いていかなければならない状況はつらいところがありました。下水の場合、勾配を取らないといけないので流れないといった問題がありました。流れない箇所で直せるところは直しましたが、そうでないところは下水についても仮設の管での復旧を行いました。例えば、マンホールでいうと復旧できない箇所があれば一個飛ばしで直しました。また、下水に関しても東京都職員の方が応援に来てくれていましたので、連絡を取り合いながら上水と下水の復旧を同時に進めました。上下水道同時に復旧できた点も重要だったと思います。
聞き手
先ほどの上水の整備ができたというのは、同時に下水の整備もできていたということなのですね。下水の復旧を行う中で課題はありましたか。
登岸さん
飛び出したマンホールの高さ調整ですね。マンホールが飛び出して道路が使えないので大事なものの輸送ができないという課題があり、そういった作業を行いました。
聞き手
高さ調整の作業はどのくらいの期間で落ち着きましたか。
登岸さん
ひと月はかかっていないと思います。車の通る道を優先してということで大事な道路から順に調整していきました。そのため、歩道の部分に関しては後回しに作業を行いました。
聞き手
道路にも国道・県道・市道とありますが、そういった点で国・県・市で連携を図りながら作業を進めましたか。
登岸さん
そういった連携は取れていませんでした。本来なら紙で作業内容を報告しますが、電話だけしか連絡できない緊急事態でしたので声掛けだけでした。
教訓と今後への展望
聞き手
上下水道は住民の生活と密接に関わりがありますが、住人からのお言葉はありましたか。
登岸さん
住民からいつになったら水が通るのかといった言葉があり、きつかったです。配管は耐震化していたら復旧は急速に進みますが、そうでないところはなかなか進みません。小さい集落の配管の耐震化は予算的に後回しにされていたので、なかなか復旧作業は進みませんでした。そういった点では耐震化は重要です。おそらく、この震災で全体に耐震化が図られると思います。
聞き手
そういった能登の小さい集落への対策のお考えはありますか。
登岸さん
浄水場を複数分散させることです。経営的には一つの浄水場で集約的に管を伸ばしていく方が効率はいいのですが、今回のような不測の事態で一つの浄水場が壊れてしまったら、水道が機能しなくなってしまいます。経営としては良くないけれど、いざというときに対応できる浄水場の複数分散が対策になると思います。
聞き手
石川県の復興プランにも地域ごとにオフグリッドのような自律分散型のライフラインを考えるとありました。その点で上下水道の今後の展開はありますか。
登岸さん
鵠巣地区で自立分散型の上下水道について実証実験が行われています。リスク分散ができそうですね。一方で水道局の経営は難しくなりそうです。震災前の5年間は連続赤字でした。震災前の12月に経営審議会で水道料金の値上げの答申があったのですが、地震の影響で値上げの話はなくなってしまいました。やっぱり料金を上げること自体にも難しさはありますし、そこに連動して復旧がなかなか進まないということもあります。
聞き手
地震の影響でなくなってしまった話もあるのですね。
登岸さん
水道料金値上げの話も経営審議会の委員である漁協・豆腐屋・区長等の水需要者をあつめて経営状態を伝え、審議を重ねた結果、値上げに踏み切ったのですが、地震の影響で話がなくなりました。半世紀に一度の大規模更新の設計から管理まで行う、デザインビルドオペレーションでの輪島浄水場の更新の計画に関しては、一度地震でなくなりましたが、地震による補助金で再度更新できることになりました。
聞き手
能登の集落で簡易水道を使う地域もありますが、水道局から簡易水道に対するケアはありますか。
登岸さん
今は簡易水道に対して9割の補助金を出していますが、集落の方からは補助金よりも輪島市の水を通してほしいという要望もあります。そういった集落に水を通すことは経営的に難しい課題があります。
聞き手
簡易水道は山水や井戸水を使いますが、地震後に水質調査を行ったりはしましたか。
登岸さん
そこは集落管理なので、集落の自己責任ですね。私たちは管理が大丈夫かの確認と補助金、水道の改善提案を行っています。集落の方からは、管理が一番大変だから、提案とお金じゃなくて水を通してとよく言われます。
聞き手
話は変わりますが、ご自身の避難生活の中で水道に関わらず、困ったことや逆に救われたといったことはありましたか。
登岸さん
発災直後は職場の局長室に泊まって水道のことばかりしていたので、最初の避難状況はよくわからないのですが、18年前と今回の地震、いずれも職場に泊まりっぱなしだったものですから、嫁さんに「あんたは地震の時はいつもおらん」と小言を言われてしまいました。
聞き手
ご家族が避難所にいらっしゃったということで、心配もありながらの作業でしたか。
登岸さん
そうですね。私と家族は新潟にいたので大丈夫ということは分かっていましたが、町野にいる母親と弟夫婦、妹夫婦には1月6日まで連絡がつかなくて、心配しながら仕事をしていました。やっぱり連絡が取れないというのが一番つらかったかもしれません。
聞き手
ご自宅の被害はどうでしたか。
登岸さん
地震の時は大丈夫でしたが、9月の水害の山抜け被害でダメになりました。今は仮設住宅に住んでいます。
聞き手
自宅を再建する予定はありますか。
登岸さん
あります。しかし再建するにしても、水害があった場所での再建はできないので、違う所で再建する場所を探しましたが、町野での建設予定地の確保が難しい状況です。
聞き手
家を再建する際に優先したことはありますか。
登岸さん
山崩れ・がけ崩れの起きない、安全で道路がしっかりしている場所ということを優先しています。
聞き手
今回大地震を経験されて、日本の今後の震災に向けた対策や教訓などはありますか。
登岸さん
今まで話してきたことですね。配水池を介さずに水を通せるバイパスの設置、起伏のある土地での浄水場の二元化、仮設の管を使ったスピード感のある作業が主な対策になると思います。また、これは国に対する話になりますが、倒壊家屋の処理について、もっと制度を明確化したほうがスピード感のある復旧にできるかと思いました。
聞き手
最後の質問になりますが、輪島市の上下水道局だから今回できたこと良かったことはありますか。
登岸さん
やっぱり寒波漏水対策を上下水道の復旧に役立てられたことです。通常時にいろいろなことを考えておくことの重要性を感じました。
伝える
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

