体験を語る
- 県民
防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年9月20日 |
地震発生当初
聞き手
発災当時の、家屋の倒壊や火災の発生など被害状況はどうでしたか。
丸山さん
私は自宅でテレビを見ていたら、一発目の地震が来ました。NHKで震源地や揺れの大きさが報道されたのを確認して、家の中はもうぐちゃぐちゃで、キッチンの様子を見たときに本震が来ました。それから1分ぐらい、自分も死ぬかなと思ったぐらいの状態で、家具も結構倒れて、ぐちゃぐちゃでしたね。
NHKで震源地がすぐそこの内陸だったということで、津波はあまり心配しなくていいなと直感して、一安心したんですよ。本震が何とか終わって、家そのものは結果的には一部損壊というレベルでした。10年ちょっとしか経っていない建物で、建築基準法の改定以後の建物だったのと、ハウスメーカーでそれなりに耐震を考えていたので、一部損壊レベルで建物は大丈夫でした。なので、私のところはほとんど心配はなかったです。
次に、外へ出て周りを見ていると、隣保の方から人が生き埋めになっているので助けてくれという話が来たので、飛んで行くと、17、18歳の娘さんが挟まれていたんです。建物の1階にいたんだけど、2階が落ちてきて、挟まれて出ようにも出れられない状態でした。顔と胸のほうは大丈夫だったので会話はできたんだけど、引っ張り出そうとしても引っ張り出せなかったので、たまたま消防の方もいたし、隣保の方もいて、四、五人の方と一緒に、はりをチェーンソーで切って、ジャッキアップして、何とかその方は大きな骨折もせずに救出できて、そのときは私の家に泊まりました。私の家にはあと3家族がちょうど来られて一夜を明かしたので、その面倒を見るということで、私は自宅で一晩泊まりました。
あと、立場的に、避難されている方を見ようということで、車でそこの高台と、ここの避難所をとにかく回って、皆さん、何とか避難されているのを確認しました。それと、津波も、さっき言ったように、大丈夫だと思っていたし、実際に来なかったので、皆さん避難している状態だったら大丈夫だなというのを確認して、自宅に戻って一夜を明かしました。
被害状況は、本当に見るも無惨で、私が調査したわけじゃないし、見た目の話ですけども、建物は、ほとんど解体しなきゃいけないようなレベルのものが6割、7割近くはあったんじゃないかなと思います。行政で被害状況のデータを取っているので、調べてもらえれば分かると思うんですけど、私の見た目ではそのぐらいの状況で、ほとんどが被害を受けて、何とかまともに建っているのは数少ない新しい建物だけ。悲惨な状況でした。
その倒壊した家屋に挟まれる方もいましたし、一番問題だったのは土砂崩れですね。ここと、仁江、清水というところが、土砂に流されて、結果的に全員で19名かな、関連死も含めてということもあるんですけども、この大谷地区で亡くなられているんです。建物が倒壊したことによって、挟まれて亡くなられた方というのはごく数人で、あとは土砂に巻き込まれて、それで生き埋めになったという方がほとんどなんです。全員救出というか、亡くなった形で救出された方も含めて、2月の初旬ですかね、何とか体の一部でも見つかって、これで捜索を終わりますという状況でした。
この学校が指定避難所ですので、車中泊の方も含めて、大体400名の方が一時的にこの避難所に避難されたと捉えています。実際に一人一人数えたわけじゃないので何とも言えませんけども、配った食事数から大体でカウントしています。体育館や中2階、それから、教室にペット同伴者も含めて、ちょっと仕分けして、取りあえず初日から雑魚寝状態で何とかしのいできました。
もちろん水道、電気はもう全然駄目ですよね。道路事情は、市の中心部から大谷へ来るためには、国道がメインの道路なんですけど、一番峠の部分、トンネルのあるところが完璧に遮断されたんです。あと、海沿いの道路も山が崩れて、完璧に遮断。仁江の真裏のところが遮断されて、今もまだ復旧できていないです。メインの国道が遮断、県道も遮断ということで、本来だったら八方塞がりになるんだけど、唯一、県道が、途中、倒木があったものの、何とか車が通れました。
あとは、県道側のほうに土砂崩れが来て、通行止めになったんですけど、たまたま農道が迂回路として使えたんです。川の横のほうに農道があって、何とか通れたので、完璧な孤立状態にはならなかった。ただ農道なので、舗装されていなくて、自衛隊車両とか救急車両が通ることによって、もう泥だらけの道を掘るわけです。通るたびにどんどん道が掘れて、車の腹つかえて動けなくなるような状況の迂回路を、あまりにも道が掘れたら直してもらうということをやっていただきながら何とか通れていました。
道の広さも、普通は軽自動車が通るぐらいの道幅しかないところを大型車両が通るから、当然すれ違いはできない。だから、信号で片側通行にして、ということをやったがために一般車両が通れない。だから、孤立状態という表現をされていたんです。
でも、実際には何とか車が通れたので、脱出することは可能だったんです。緊急車両が通ることもできて、本当の孤立状態にはならなかったので、いろいろ救出のための車両、物資を運ぶための車両にここまでは来ていただくことができたんです。
もう一つ、馬緤に、市の施設があって、そこで自主避難所を開設していて、最初はここからも物資を送り込もうとしていたんですけども、土砂崩れがあったがために手渡しで運んでもらいました。そのうちに馬緤も一部の山道が何とか通れたので、そこから物資を運んでもらったという形です。山の中の1集落は本当に孤立して、土砂崩れで全く車が通れなくて、物資も手渡しで運びました。
それから、一番東側の真裏というところも一時、完璧な孤立状態だったんです。ヘリでこの地区の方は輪島のほうに救出されたということです。
建物は、さっき言ったように、もうかなりの被害ということで、戸数が少ないから、絶対数は少ないかもしれないけども、ダメージは大きいと思います。震源地はこの辺ですからね。本当に直下型でドーンと来た感じで怖かったです。正院とかの辺りは液状化で建物が倒れる被害が多かった。
こちらの方は津波の被害はほとんどない。海岸がこの辺で2メートルぐらい、輪島のほうは4メートルぐらい隆起して、最初、見たときは潮が引いたのかと思って、一旦引いてから津波がドーンと来ることを皆さん想像したんですけども、いつまでたっても潮が引いたままでした。
内浦のほうは逆に地盤が下がったみたいですね。内浦が下がって、外浦が上がったという地形の変化が起きたんです。内浦と外浦の真ん中あたりを通る断層が動いたんだと思っていますが、揺れと並行に山崩れが起きて、外浦の海岸沿いがすごく崩れましたね。もし揺れの向きが違っていれば、この辺ではそんなに山崩れはなかったかなと思います。
避難所の運営について
聞き手
避難された方への対応について教えてください。ここが指定避難所として登録されていたということで、住民の皆さんも最初から集まってきたのですか。
丸山さん
そうです。よかったと思うのが、10年ほど前に、小学校の耐震対策が不十分ということで、中学校を改装して、小中一貫校にしていて、耐震構造になったんですね。なので、今回の、これだけの大きな地震の中でガラス一枚割れてなくて、ほとんど被害が出てないんですよ。もちろん外回りのコンクリートとかアスファルト、レンガはひび割れもあるし、外の配管はダメージを受けているんですけど、建物自体は、体育館や新しく建て替えた校舎、一部改装した教室棟も、ほとんど問題なく正常に使える状態でした。なので、ここの避難所が機能できたのは、建物にダメージがなかったからということで、そんなところへ何とか皆さん避難できたので非常に助かってよかったなと思っています。これがもしなかったら、公民館も何とか建っていましたけど、広さ的に無理だし、当然被害を受けているので、本当にどうすることもできない状態だったのかな。もちろん自分の家では当然住めない方が多いので、本当にこの建物が無事な状態だったことが一番よかったと思っています。
聞き手
1月1日ということで、避難された方の中に帰省している人も結構いたと思いますが、どうでしたか。
丸山さん
元日の16時頃というと一番帰省されている方が多くて、これから夕食の準備というので、自宅に帰っている方が多かった。そういう一番悪いタイミングで地震が起きたので、帰省されている一家が土砂に流されて、亡くなられた方もおられます。それから、避難された方もつらい思いをされたなと思っています。
でも、本当に、地震はいつ何が起きるか分からないじゃないですか。ほかの天災だったら、雨でも台風でも大体予測できるけど、地震は、これだけ科学も進歩しているのに予測ができない。日本はこれだけ地震が多くて、いつ起きてもおかしくないというのに、南海トラフ地震とか予測はするんでしょうけども、確かなものではないと今回つくづく感じました。
私はこちらにUターンする前は静岡にいたんですけど、南海トラフの関係が心配で、珠洲のほうがいいなと思って帰ってきたのもあるんです。だけども、実際こんな地震があったし、去年は5月5日、おととしは6月19日に、やっぱり震度5、6の地震が起きているんです。それもまさかと思ったし、それから、今度の地震が起きるまで、もうほとんど毎日群発地震が起きていたんですよ、不気味なぐらいに。その群発地震が呼び水になって、今回これだけ大きな地震につながったと考えていて、実際のところは分からないですけど、これで落ち着いてくれればなと思います。
この辺は大体二、三千年ごとに大地震が起きているらしいです。そのタイミングが今回だったと考えると、逆にこの先二、三千年間は大きなものはないから、安心してこちらのほうに住めますよとか、私は勝手に言っているんですけど。余震もないとは言えないんだけども、群発地震とは全然違って、本当に忘れた頃にちょっと来るぐらいの余震なので、平常に戻ったのかなと私は思っています。
聞き手
避難された方が震災直後は400名いらっしゃって、そこがピークということでしたが、そこからの推移はどうでしたか。
丸山さん
ここから脱出することはできたので、自分たちで自宅に戻るとか、親戚の方のところに避難するとか、意外と早く出ていかれました。1か月ほどで100人くらいになったんじゃなかったかな。
聞き手
今は何名いらっしゃるのですか。
丸山さん
7月にはもう20名ぐらいになって、今は14名。ふだん、日中おられる方は3人か4人。結構、日中は出かけられていますね。ずっとここにいるのではなくて、いろいろ都合があって、定期的に2次避難先からこちらに来られている方もカウントしてるので、常に14名の方が避難されているということではないです。それと、勤めに出ている方もいて、ここに寝るだけに来る方もおられるので、そんな方を全部含めて14名ということです。
聞き手
感染症についてはどうでしたか。
丸山さん
こちらでは感染はちょっと聞いてなかったんですけど、別の集会所で濃厚接触者の方を20名だったかな、避難させなきゃいけないということで、こちらのほうに来られたんですよ。ちょうど看護学会の方が救護係として常駐されていたので、その方たちの協力を得て対応していただくと同時に、教室のほうに、完全に分離できる場所を確保して、拡大防止を図りました。それと、その看護学会の方が、感染防止の方法を教えてくれたり、実施してくれたりして、すごく助かったと思っています。
当初、看護学会の方が入る前に、1週間ほど、市の職員で病院に勤めている看護師さんとか、そういった方が五、六名いたので、その方たちにけが人の対応や健康管理をやってもらって何とかしのいでいました。残念ながら、持病のあった方で亡くなられた方もいたんですけど、通常の方で特に重症になることもなかったし、看病が必要な方も若干おられたんですけども、そういう方にも対応していただいたので、非常に助かりました。
聞き手
看護学会の方々はどういった支援をされていたのでしょうか。
丸山さん
もう本当に頭が下がるぐらいよくやっていただきました。身体の不自由な方も非常に面倒をよく見てもらったし、さっきの感染者の方のトイレも専用にして、そちらのお掃除もしていただいたし、車椅子の方に対してもよく見ていただいたし、本当にすごいなと思いました。私たちにそれをやれと言われてもできなかった。本当にありがたいなと思っています。
最初は常駐でした。看護学会の方が3人いて、だんだん日がたつにつれて、最終的に1名になり、ほとんどもう大丈夫だということで、常駐はやめて、別のところから不定期に、必要なときに来ていただく形でやってもらいました。
あとは、千葉県の職員さんに最初4名入っていただいて、いろいろやっていただいて助かりました。本部スタッフとして入っていただいて、何でもやっていただきました。本当に、トイレ掃除も入ってもらったし、ごみ集めとかもそうだし、人の出入りの管理とか、それからWOTAの循環式のシャワーとか手洗いのメンテナンスをやってもらいました。水がないときには、循環式は水の節約ができていい商品だなと思いますけども、やっぱりメンテナンスが結構大変でしたね。
大谷のほうに珠洲市消防署の分署があって、そこに常に3名の方が常駐されていて、3交代で、24時間体制でやっているんですけども、被災してそこにいられないということで、こちらのほうにずっと入っていただいて、いろんなスタッフ的な仕事もお手伝いしていただいて助かっています。千葉県の方、看護スタッフ、それから消防の方の協力があって、結構助かったなと思っています。
当初は、身の回りの世話とか食事とか、当然やらなきゃいけないので、地元の方で、誰かボランティア的に入っていただけませんかとお願いしたら、48名の方が手を挙げて、1班当たり10名ずつの4班に分けて、トイレ掃除、それから物資の受入れ、配達、仕分け、ごみ集め、それから掃除、給油、給水、いろんな身の回りのことを4班で仕事割りをして、トイレ掃除ばかりだとかわいそうだから、日替わりで順番にやるということでやっていましたね。
食事はキッチンというか、料理をするところがあって、喫食できるランチルームがあるんですけど、当時は本当に人が多数いたし、移動も大変なので、ここで皆さん喫食しました。調理をして、行列を組んでトレーをここまで運んで、皆さんに配食をして食べていただくということもボランティアの方にやっていただいて、地元の方の協力がものすごくあったと思っています。
あと、地元の自衛消防団の方が、ここでも10名ほどおられて、いろんな手伝い、特に町ごとの自主避難所に物資を届けることをやってもらいました。軽トラでチームを組んで運んでもらって、それこそ通れないところは本当に担いでというか、手で持って手渡しでやることもありました。それも1月だから、冬場の一番寒いときだったんで、大変だと思いますけども、よくやっていただきましたね。助かりました。
聞き手
ボランティアに参加していたのは、避難所に来ていない地元の方ですか。
丸山さん
そういう方も中にはいたんですけど、ほとんど避難所の方でした。ほとんどの方が、自宅にいられない状況で、自宅にいた方は本当に少ないんじゃないかと思います。
聞き手
地震が起こってからすぐそういう体制になったのですか。
丸山さん
その当日、私はいなかったのですが、2日目に来たときには朝からそういう話が出ていて、私も立場的には自主防災の関係をやらなきゃいけなかったんだけども、確かにそっちも大変だなと思ったので、自分からもうボランティアとして中に入りますということで、皆さんにも手を挙げてもらって自主的に参加してもらったので、あなたやりなさいなんていうことはほとんど言っていません。協力はお願いしたけども、やれる方がやっていただくということで、48名の方で編成できたということです。
聞き手
看護学会の方が来てくださったのはいつ頃ですか。
丸山さん
たしか2週間か3週間目です。とにかく早かったです。
聞き手
学校が再開されたのはいつ頃ですか。
丸山さん
1月15日に始業式をやったので、そこから始まっていますね。
聞き手
学校をするときに大変だったことはありますか。
丸山さん
そのときから生徒が5名なんです。震災前は小中一貫で23名、卒業するのが2名いて、残りが21名だけども、2次避難という形で出られた方もいて、残ったのが5名です。なので、場所がどうのということで悩むことはなかった。確かに、教室を空けたのは間違いないんですけども、15日時点で避難人数も結構減っていたので、場所を空けることはできたし、授業の再開は特に問題なくできたと思っています。
ただ、体育館が雑魚寝状態だったので、しばらくはここで遊べない状態でしたね。体育館の半分で落ち着いていたのが、卒業式をやるから空けてくださいという話があって、そのときにこの半分を空けて、その後は、私たちが借りているのはそこだけとなっています。
だから、子供たちに対してはそんなに不自由はなかったのかなと勝手に思っています。逆に、みんなよく遊んでくれたので、子供たちもよかったのかな。5人の生徒のうちの3人がここで寝泊まりしていたんですね。2人が在宅で通学されていました。放課後なんかは、一緒に遊んでくれたというか、面倒を見てくれたので、子供たちにとっては、あまり不自由はなかったのかなと勝手に思ってます。本人のコメントはないんだけど、結構元気よく遊んでいましたので、よかったなと思っています。
聞き手
2次避難はどのぐらい時期からされていたのでしょうか。
丸山さん
行政の手配した2次避難先については、富山の立山ホテルへ2回に分けてまとまって行っています。
1月20日に41名、2月2日に16名だから、57名か。1.5次避難所にも五、六名行っています。あとは、みなし仮設に入ったりしているので、そこは捉えてないですね。そこは県のほうが分かっていると思います。
聞き手
避難された方が一番多いときは、体育館や教室は全部使っていたのでしょうか。
丸山さん
ほとんど使っていました。車中泊の方もいましたね。職員室と校長室は使っていなくて、多目的室などは使っていましたね。倉庫にしている部屋もありました。
向こう側の3階建ての棟は、ピークのときには全部の教室を使っていました。理科室などは、感染者が出たときの隔離場所にして、空いている部屋は、書庫などを除いて、全部使いました。
そのとき私は物資担当で、詳しいことは分からないのですが、津波がまたあったらいけないということで、体の不自由な方は山のほうへ避難するのも大変なので、3階に避難させることをスタッフで決めたと聞いています。
聞き手
要配慮者の方はまとまって入ってもらったということですか。
丸山さん
大体そうです。ペットと同伴者の部屋もありました。
聞き手
ガイドラインには、障害がある方には、落ち着ける個室があったほうがいいということもあるんですが、そういう配慮はできましたでしょうか。
丸山さん
体育館の隅にプライベートルームを用意しました。親子でどうしても仕切りが欲しいという方がいて、1部屋設けましたね。
あと、教室のほうでも、ちょっと精神的な面で配慮の必要な方もいて、一時的に他の方と分かれていてもらったことはあります。

被災経験を振り返って
聞き手
もしほかの地域でこういうことが起きたときに、どうすればいいかということがあれば教えてください。
丸山さん
まず、自主防災組織を整備していきましょうということで、珠洲市でもずっと前から話があって、組織編成もして、防災訓練なんかもやっていたんですね。3年ほど前に自主防災計画をそれぞれの地区で整備してくださいという話があって、事例がインターネットに載っているので、そういうのを参考に、それから行政にもサンプルを頂いたので、それを基にして、一応この地区としての自主防災計画、それから防災組織も見直しながら整備してきたんです。ただ、作ったはいいけども、本当に身になる、活用できる形になってなかったし、それから訓練も、あまり真面目にやってなかったのは大反省で、自主防災計画、組織が今回あまり機能してなかったなと反省しています。
私自身の問題としては、立場上、自主防災組織の本部長だったんですね。区長会長なので、必然的に本部長になっていたんですけども、その立場をうまく発揮できなかった。
本部長として機能していただいた方は別におられて、その方は一番地元の方に対する顔が利くというか、よく知っておられるんですよ。皆さんから責任者になってほしいというリクエストもあったし、本人もそのつもりでおられたかは分からないんだけど、うまくはまって、本部長として動いていただいたのですごく助かって、私の出る幕はなかったといえばそれまでなんですけども、逆に私が任されてもできたかなというと疑問があります。
やっぱり地元のことが分かっていて、なおかつ人ともすごく交流があって、地元の人もその人のことをよく知っているというのがあったので、すごく皆さんが安心して付き合いできたのかなと思っていて、それが一番よかったなと思っています。
そういう方がこういったときには非常に重要な役割を果たすんだなということをつくづく感じていて、どこでもそんな方はおられると思うんですよね。ですから、こういったときには、そういう方にうまく前に出ていただいてやってもらったほうがいいなと、名前ばかりの何とか対策本部長とかじゃなくて、自主的にそういう方の力を借りるということをやったほうがいいかなと思っています。
それから自主防災計画も、仮に今ある計画に沿って訓練していても、これだけ大きな震災の場合にはほとんど役に立たないことがあると感じました。計画の中身をうまく当てはめられたかというと、違うなと。防災訓練にしても、チーム編成を組んで、情報係、それから消防係とかやって、うまくいったねと言うんですけども、今回のような地震は、広域にわたっているから、組織を集めようと思ってもできないですよね。だから、その場その場で、ここの避難所だったらここの避難所として、それなりの、それぞれの機能を果たさなきゃいけないとなると、被災したときの対応で何をやらなきゃいけないのかという知識を持っている人がいることが一番必要なんですよ。私はこの部分だけ知っているということでは駄目で、そこに関わる人はできるだけ多くのことを知っておくという訓練をしなきゃいけないと思っています。
もちろん責任者の方は分かってないといけないんだけども、その方が指示するうえでも、こういう場合はこういうふうにやってください、このツールを使ってやってくださいということができる人がいればうまく回るし、今回、私があまり口を出すまでもなく、皆さんうまくやってくれたんですよ。知っていることもあったかもしれないし、こういったときにどうしたらいいか、みんなで考えて、それぞれやるので、何とかうまく回れたなと思います。
防災訓練は確かにきっちりやらなきゃいけない。その人が役目として任されたことをやらなきゃいけないけども、もっと広い視野を持って、できるだけ、どういうときにどういうふうにやるということを知識として持っていたほうが、すごく役立つと思っています。
私も区長会長の立場になって防災士という資格を取りました。さっき言ったように、自主防災計画を整備しなさいと言われたときに、どうやってつくるのか、資料を見ても本当のところが分からないから、勉強しようと思って資格を取りました。ただ、こんな地震が起きると全く思っていないので、あまり身に入ってないなと思いながらも、多少は勉強したので、今回も資料を引っ張り出して、こういうことが書いてあったということで、ある程度役に立てた部分もありました。資格を取るのが目的ではなくて、防災に対する知識を深めると同時に、どう対応したらいいかということを勉強してほしいなと思うので、皆さんにできるだけ防災士の資格を取ってほしいと思いますね。
自主防災計画の中で今回を教訓にして、やらなきゃいけないことのマニュアルを整備する必要があると思います。例えば人の管理をするときに、今皆さんがどこにおられるかをはっきり把握してないんですよね。
少なくともこの避難所に入った方、入所、退所するときの名簿はきちっと記録しておくべきだなと思います。本来、仕組みとしてあるはずなんだけども、残念ながら皆さん手書きで書いてもらったので、きちんとしたフォーマットのものを使って、少なくとも誰がどこへ向かって2次避難されたかを把握しておくべきだなというのが反省点です。
少なくとも名前と電話番号を聞いておけば、どうしても必要だったら電話すればどこへ行ったかは確認できるんですよ。どこかに出た後も、また移るかもしれないので、行き先が書いてあっても、当時はここへ行ったことになっているとしか言えなくて、名前と電話番号は最低限把握しておくべきだなと思っていますし、決まったフォーマットを活用して記載していただければ、人の管理がうまくできたと思いました。
それ以外にも、使う機会がないことが一番なんですけれども、避難所を管理するうえで、決められたフォーマットの帳票が一式整備されていれば、いざといったときにかなり役に立つので、マニュアルの中に入れ込みたいなと思っています。
それから、大谷地区は珠洲市の中でも復旧が遅れたんですよ。物資が来るにも、ボランティアが来るにも遅れました。なぜかというと、さっき言ったように、ここに来る道路が、がたがた道の県道しかなくて、ここへ来る皆さんにとっては難所で、こんなところには行けないとなったからです。怒られるかもしれませんけども、市の中心部は結構支援が行き渡ったんですよね。仮設住宅が建つのも意外と早かったです。大谷は72戸の仮設住宅が9月中にやっと完成するということで、ほとんど最後のほうなんです。
昔からよく言われているんですけども、要は陸の孤島なんです。陸の孤島というと、内陸部の山の中のことを言いがちなんですけど、ここは半島で、3方が海で囲まれているんですよね。だから、残る1方につながる道路が意外とあるようで、ここが駄目、ここが駄目となって、1本だけが何とか通れたということで、復旧が遅くて、取り残された地域だと周りの方からも言われました。
私たちからすると、道路事情が悪いからなかなか給水車も行けない、仮設住宅も大型車が通れないから遅くなりますというのは言い訳に聞こえちゃうんですね。だって、消防とか自衛隊の車もがんがん通るし、ダンプなんかも結構早くから来ていたので、大型車は通れたんですよ。だけど、道路事情が悪いよということでストップがかけられました。
だから、私たちにすれば、この1本の道でも、もう少しうまく使えばもっと早くこちらの復旧も手がけれたし、給水車も来れたし、仮設住宅ももっと早く建てられたんじゃないか、やり方が悪かったんじゃないかと国に対して言いたいです。もっと国として、もう少し被災地の状況を把握して、平等に対応してほしかったということは強く思っています。
それから、情報、連絡について、衛星電話とか、いろいろ方法もありますが、こういう震災の場合に一番有効なのはスターリンク。衛星アンテナをWi-Fiの装置とセットにして置けば、電話はできないけどインターネットが使えるんです。LINEで情報をやり取りできますし、LINE電話もできる。インターネットから情報も取れます。
Wi-Fiを使えば、電波が届くエリアだったら、安否確認もできるんですよ。それぞれの避難所にそういうものがあれば、安否確認もできない、情報も取れないということには対応できるんじゃないかなと強く感じました。私は、スターリンクを各拠点に常備するのが一番いいんだけども、コスト的な問題もあるので、災害があったときにヘリから落としてもらって、セットすればすぐ使えるので、そういう方法が一番いいと言っています。
衛星電話は、この建物の中ではまず使えないです。電波の取れるところに持っていけば、電話をかけることはできるんだけども、ここにいても電話がかかってこないんですよ。こういう山とか、町でも建物の中とか、陰になるようなところは多分、衛星電話は、あまり意味はないです。スターリンクが一番だと言っています。
それと、すごくありがたかったものは、支援団体からの支援です。行政からの物資とか、先ほど言ったように、職員の方が来ていただいて、すごく助かっているんですけども、いろんな団体から、個人から、人や物資、炊き出し、それから、気持ちを癒やすためのコンサートなどのイベントを結構やっていただいて、すごくありがたいなと思っています。これから万が一、災害に遭ったところに、私たちもそうした支援をしたいなと思ってはいますけど、そんな簡単にできるものではないですし、支援をしている方に対して、すごく頭が下がる思いです。
私たちは何もお返しができないんですよね。この避難所が閉鎖するときに、本当はお礼の手紙を書いたらいいのかもしれない。せめてLINEとか、あるいは電話一本でもいいので、ありがとうございましたという言葉を返すには、どなたからいつどんな支援をいただいたのか、記録がないといけないなと思っているんですね。
当初は、物資をどなたから頂いたのか記録しようという動きをしたんだけど、やっていられないという声もあって、やめちゃったんです。でも後々考えてみて、今は決まったフォーマットの用紙を作って記録を残しています。私がいなくても、ほかの方が受け付けて、誰が何を持ってこられたということを聞けば、お礼の電話をかけられるし、最後に避難所を閉めるとき、何らかのタイミングでお礼をしたいので、記録を取りたいなと思っています。
それから、耐震対策の必要性、さっき言ったように、建物が結構被害を受けました。地震が大きかったことはもちろんあるんですけども、建物自体の耐震対策がやっぱり大事だと思います。物を固定して散乱を防止するのも当然必要ですけども、建物が倒れちゃったら物の固定も何もないので、まず建物を耐震基準に合った形で新築するのが一番いいです。
そんなお金がないということであれば、耐震対策は助成金が出るので、なかなか皆さん自分の負担もあるからできないんでしょうけども、本当に地震から守るということであれば、そういう対策をやっていかないといけないと強く感じています。
備品をつっかえ棒で多少固定しても、今回のような、天井が突き抜けて建物が倒れちゃうぐらいの大地震だったら意味はないんだけども、小さい地震だったら、大丈夫なので、いずれにしても耐震対策はやっておくべきだなと感じます。
あとは、さっきも言ったように、避難所への入所、退所をきちんと把握して、皆さんの安否確認と同時に、何か連絡しようと思ったときにきちんと活用できるように記録しておくことですね。
聞き手
2次避難されている方のうち、名前と電話番号が分かっている方はどのくらいいますか。
丸山さん
震災前に824名の住民の方がおられて、今、残っているのは286名、大体35%の方が大谷地区に残っておられます。だから、残りの6割5分の方の行き先を把握しておかないといけないのに、分かっているのは半分です。
聞き手
それは避難所を出られるときにお聞きしたということですか。
丸山さん
記録を残してとお願いして、残している方もいるんだけども、名前を書かなかったり、電話番号が書いてなかったりして、徹底していなかったので分からないということです。お年寄りで独り暮らしとか、御夫婦でも携帯電話を持っていない方もおられて、そういう方は固定電話の番号を書かれてもつながらないということもあります。
それと、地元の情報が、避難されている方に伝わらないという話もあって、気にはしていたんです。
災害広報はそれまでにも出ていたんだけども、本来の珠洲市の広報誌が7月から正式に配布されました。在宅の方に従来どおり配布したんだけど、2次避難されている方に対してはどうしようかと考えていました。大谷地区では公民館だよりというのがあって、いろんな地区の情報をまとめて出していただいたんだけども、今、公民館機能がストップしちゃって何もないということで、若者から、大谷地区も含めた、外浦地区の地区だよりという形で、近況をまとめて出そうという話があって、7月から第1号で、第3号まで出しました。
ネタは私も結構出したんですけど、いろんなところから提供して、編集を若い責任者の方にまとめていただいて発行して、さっきの珠洲広報と一緒に、2次避難される方に対して郵送しようとしたけども、切手代かかるということがあって、いろいろ話をしたら、結果的に1万円のコミュニティー支援金を頂くことが議会で決まって、そこから切手代を捻出して、手間はかかるけども、封筒に詰めて郵送してくださいということになりました。2次避難した方の宛先を知らなかったんですけど、郵便局では、転居届が出ていれば、元の住所に出せば転送してくれるので、現在の宛先が分からない方は元の住所に出すようにして、一部のところでやっていました。それで、区長の皆さんに、珠洲広報と地区だよりをセットにして出してあげてください、手間はかかるけども、切手代はコミュニティー支援金を活用してくださいということで、できるだけ地元の情報を紙で出すようにしました。もちろん、LINEのグループチャットなどで流す方法もあるんだけども、お年寄りに対しては、それは無理だろうということで、紙で一応全戸に配布しましょうという形にしました。
それで、さっきも言ったんだけど、最低限2次避難されている方の名前と電話番号はもう極力把握しましょうということで今も動いています。名前と電話番号が分かれば、電話をかければ、どこにいるか確認できるので、携帯電話を持っている方に関しては、その情報を集めないといかんと考えています。避難所にいる方、一旦いた方に対しては、名前と電話番号を必ず記録してもらうべきかなと思っています。
1世帯として誰がどこにいるかをちゃんと記録するフォーマットもあるんです。そういうものをうまく活用して記録を残していくことが大事だと思っています。今言ったような内容が、私が気にしている内容です。

伝える
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県民
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珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」
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珠洲市宝立町区長会長
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学校
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企業・団体
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関係機関が作成した体験記録