体験を語る
- 消防
消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月20日 |
災害発生時の状況
聞き手
災害が発生し、避難するまでの状況をお聞かせください。
濱出さん
会社と自宅が並んでいて、会社の事務所で趣味の模型を作っていました。外では孫たちがバトミントンをしていたのです。16時も過ぎたので「そろそろ家の中に入ろう」と声掛けをしようとしたところで地震が来ました。
お正月ということで子どもや孫が帰省していました。総勢で家族9名です。その時に地震が来たので、自分以外の家族を高台の旧小学校に避難させて、自分は消防団の指揮をとるため消防署へ向かいました。
道路が寸断されていて、自分の知りうる道、輪島を経由したりして6つのルートをたどりましたが、消防署にたどり着けない。それで、地元に戻りました。
自分は甲というところに住んでいて、そこを軽四の車で出た時、道路は、障害物はありましたけど何とか通れる状況でした。2時間経ち、地元に戻ると津波が来た後でした。道路は真っ黒な土砂でおおわれて、漂流物が散乱しておりました。
消防団員に出会うことが出来ましたので、まず道路障害をどかそうということになりました。電柱も倒れて、倒壊の家屋もあり、電線がかなり低い位置まで下がっていたのをロープでひきあげるといった作業を消防団で行いました。倒壊家屋もありましたので、安否不明者がいないか声をかけたり、避難していない方の避難を促したりしました。
避難生活のこと
聞き手
避難所で生活されていたのですか。
濱出さん
私は、避難所では一泊もしていません。家族は避難所に3、4泊くらいして、1月5日には、金沢に帰っていきました。3日に金沢へ帰った人はだいたい6時間で着きました。5日に帰った人は11時間かかったのです。3日は道路が通行止めではなかったので、それくらいで帰れたのですけど、5日には通行止めがあって、迂回していたらそれくらいかかってしまった。
5日に金沢に帰るとき、3歳の子どものいる近所の母子も金沢に避難させました。日頃の足がないといけないので、その人の車と自分らの車と2台で11時間かけて金沢に行ったのです。その疎開した子たちは3月の途中まで、私の子どものところで生活していました。
自分が避難所に泊まっていないのは、発災当初、ダンプでガレキや物資を運ぼうとしていて、ダンプトラックの中で一夜を明かしたからです。
それで、会社の隣部屋があって、だいたい30畳くらいですけど、トイレもありますし、小さなキッチンもありますし、シャワールームもあるのです。電気はきていましたが、断水してシャワールームは使えないので、3、4日あたりには、夜な夜な工事をして、用水の水でシャワーが使えるようになりました。一番先に近所の皮膚炎のある3歳の女の子をシャワーに入れました。それまでは洗濯もできなかったのですね。洗濯できずに困っている人が近所にいたので、洗濯できるよって何人かに言いました。そんな状況でした。
聞き手
電気は止まらなかったのですか。
濱出さん
避難所では何回か停電しています。夜に停電するとキャーと声が出たりして大変でしたが、徐々に慣れていった感じですね。
避難所は寒くて、当初は暖房がありませんでした。地区の人がストーブを持ち寄って、暖をとっていました。発電機を持ってきた人もいました。
1月12日くらいには給水車による給水支援が開始されて、15日くらいには自衛隊のお風呂が来ました。
自衛隊の大型車が来たので、自分たちが最初に道路障害の撤去とか電線のぶら下がりを処理しておいてよかったなと思いました。
聞き手
食事はどうされていたのですか。
濱出さん
自衛隊の炊き出しが来るまでは、パンやカップラーメンを配給所まで取りに行かなければいけなかったのです。自分が仕事で使っていたハイエースの中のものを全部おろして、ハイエース2台で配給所へ取りに行きました。自分らは消防団の活動服を着ているので、配給所へ行ってもスムーズに品物を受け取ることが出来ました。他の地域の人を見ていると、本当にこの人は避難者かなという怪しい人がいて、渡せませんと言われている場面も見ましたね。
ハイエースの天井いっぱいの食料を引き取り、避難所につくと、女性の方が、大量の食料の賞味期限を全部チェックして、先に出すものと後に出すものを仕分けしてくれたのです。日持ちするものを後の方にするなどして、地区ごとに分けて配給してくれました。
避難所は小学校の体育館でした。大きなストーブが設置されると、コロナのこともありまして、換気をしなければならんということで、一時間ごとに体育館の上の窓を全部開けて換気をするという、換気の係ができました。ドアの取っ手などを消毒する係が出来たり、トイレの掃除をする係など、そういう係が自発的に出てきました。徐々に居心地がよくなって、下駄箱を作ったり、土足だった避難所がきれいになって土足厳禁になったりしました。そうすると、お年寄りの人も「私が食料持ってきてあげる」など積極的に声掛けをする人が出てくるようになりました。避難所の中では、快適な方だったのではないかなと思います。
聞き手
避難生活で困ったことはありませんでしたか。
濱出さん
携帯電話が使えなかったことです。多分2月の中頃まではダメだったと思います。携帯電話が使えないということは、消防団長としていろんな人に連絡を取りたいと思っていても取れない状況でありました。
配給場所へ行く途中とか、ところどころで携帯電話が使えるところもあったので、そういうところで連絡をして、1月6日に幹部の全員を集めることが出来ました。その中で安否確認とか、困ったことなどを確認しました。報告の中で倒壊家屋の中に人がいるのは分かっているのですが、それを出すのに夜8時ごろになったら、うちの子は大丈夫だから寒いし解散してくれと言われて、次の日にまた再開したということもありました。その子は、出られないだけでしたので怪我無く無事で助かりました。
聞き手
外部からの連絡はどうやって受け取っていたのですか。
濱出さん
移動した時々にラジオが聞こえていました。10日くらいには避難所にもテレビが設置されて、新聞も来ました。
最初は自分たちが被災の中にいるとは思っていなくて、もっとひどいところがある、ここは被災地ではないと思っていたのです。それが、新聞を見て、自分達たちは被災地にいるのだなって実感しました。
避難所の運営
濱出さん
避難所は、旧兜小学校という、今は廃校になった小学校なのですけども、そこに330人の方が避難されていました。
一番はトイレの問題でした。建物には、6000リットル入る受水槽があるのですが、トイレなどを使うとその水が一夜で空になります。水が使えないとなるとトイレが流せない。
そこで考えて、地区の区長の了解を得て、翌日には、飲料用でない、防火水槽の水を、消防団の小型ポンプで、その受水槽に送って満水にしました。そうするとトイレが使えるようになりましたが、また夕方近くなると水が少なくなりトイレが使えない。防火水槽も地震で被災していましたので、水が十分になくて、農業用の水槽を借りて、消防団がそれをトラックに積んで、河川の水を約4キロ離れたところから運びました。水を運ぶとまたトイレが使えるようになりました。
ただし蛇口から出る水は飲めないのです。でも、ベトナム人の実習生が、水を飲んでしまって腹痛を起こしたことが一回ありました。蛇口にはこの水は飲めませんって日本語で書いてあったので、読めなかったのだと思います。
それから、水は1日6回運ばなければなりませんでした。避難所のみなさんが起床するのは朝6時なのです。6時の時点でほとんど水が空になっているので、5時半に消防団を集めて水運びをしました。夜9時が避難所の就寝時間なので、9時半まで6回、水を運びました。
当時は冬場で路面も凍結して、水槽を積んだトラックも走るのがままならないこともありましたが、消防団は人数もいるため、押したりしながら運んだものです。それが1月2日から28日まで、毎朝5時半から夜9時半まで運びました。
それによって何がよかったかというと、水洗トイレが使えたことです。他の避難所を巡っている係の人が来ても、ここは特別きれいですねという評価をいただきました。他の避難所を見るとトイレの状況は極悪で、水洗トイレが使えたということは大きいと思います。
あと、その小学校にはシャワー施設があるのです。けれども、それを使うと一気に水が減ってしまうので、あまり使わないようにしていました。1月15日くらいから自衛隊が仮設のお風呂を設置してくれました。
消防団の活動
聞き手
消防団はどれくらいの方が所属されているのですか。
濱出さん
定員は166名ですが、現在140名です。消防団というのは人数が多くないとダメなのです。災害があったり、火事があったりするときに人数が必要です。人員確保が大切です。
以前は農業であったり、漁業であったり、自営業の人が主に消防団員になっていたのです。今はサラリーマンが多いです。
消防団の訓練大会というのが全国大会まであるのです。穴水町は3年前に全国大会まで行って、準優勝しています。その時点で、自分らの選手が6人いて、平均年齢が47歳。優勝チームは鹿児島県です。平均年齢は36歳で、平均年齢が11歳も違いました。
聞き手
消防団では、水を運ぶ以外にはどのような活動をしていたのですか。
濱出さん
消防団では、道路障害を除いたことと、水運びのほかに、配給の物を運ぶことや安否確認などもしました。
あと、特殊なこととして、土砂崩れがあり、十数名が生き埋めになったので、重機を使ったのです。重機はリースにあったのですけど、道路復旧などに人がとられて、操作できる人がいないということで、消防団でもある、自分の会社の従業員に最初に声がかかりました。そのあとに、もう1両使いたいから、もう1人いないかということで、自分が行ったのです。
緊急援助隊もいて、マンパワーは大勢いるのですけど、土砂をどかすのは重機じゃないとできないということで、私は重機で土砂をどかして、従業員は別の重機でそこから出てきた木をつまんでどかします。そして、人間がいる気配がしたら、援助隊がスコップで掘り出す。そんな風に10名ばかり掘り起こしたと思います。
消防団にも、避難所で生活している人が7人いたのですけど、朝5時半から水を汲みに行って、仕事のある人は、日中は仕事に行っていました。それで仕事から帰ってきたら、また水を汲みに行ってと、そんな感じでした。
聞き手
緊急時にみなさんがスムーズに動けるための取り決めなどはあったのですか。
濱出さん
何かあったら消防団の詰め所に集合して、情報を収集して動くということになっています。私は消防団長として消防署に向かいました。東日本大震災のこともあって、訓練の中では、津波という言葉がよく出るのですけど、日頃から、津波を想定することは難しかったです。
聞き手
水が足りていないとか、食材が足りていないというのは、どこかから指示があって行っていたのですか。
濱出さん
水のことも、物資を取りに行くことも、消防団で判断して「我々がやります」ということでやりました。軽のトラックでも雨水がかかると濡れてしまいますし、量もすごく多いので、今回はたまたま自分のところのハイエースを空にして行ったのですけど、なかなかそんな車を出せる地区もないと思います。避難所の人数も多い中、私らはそういう大きめの車で取りに行けたのがよかったかな。
今後への教訓
聞き手
災害への備えとして大切だと感じたことはありましたか。
濱出さん
大切なことは水です。水を誰かからもらったり、どこかから汲んできたりするときには、容器を用意しておかないといけない。地震があってから、水を汲むものを探してもなかなかないものですから、水を入れる容器を準備しておくとよいと思いますね。
自分のところでは、売っている4リットルのタンクを十数本おいてあります。といいますのも、20リットルの水を運ぶのは大変で、例えば、流し台の上において使おうとしても、重たくて載せられないことが起こり得ますよね。それで4リットルのタンクがいいなと思って設置してありました。
あと、消防団の中で持っておいてよかったなというものがPPロープ(ポリプロピレン、合成繊維のロープ)です。使い捨てのロープです。これがあることで、電線を引き上げたり、道路に倒れた樹木を障害とならないように引っ張ったりできましたし、倒壊家屋の立ち入り規制にも使えました。使いやすいもので、PPロープはあったらよいと思います。
聞き手
今回の地震を経験して、教訓と感じたことなどはありますか。
濱出さん
避難所ではいろいろ不満が出てくるのですが、仲良く過ごすことですね。はじめは腹を立てる人もいました。自衛隊のご飯が硬かったのです。でもみんな「黙って食べよう」「自衛隊の方には感謝を伝えよう」と言っていました。不満はあると思うけど、我慢できることは我慢するようにしたらいいと思います。
一番大変なのはトイレ事情だと思います。他の避難所では仮設トイレを使っていて、そこは和式のトイレでした。和式のトイレを使えない人が多かったのです。
あとは消防団が組織的に動いたことで、避難している方もみなさんも影響を受け自発的に動いて、係が出来ていったのがよかったですね。消防団が朝から晩まで動いているのを見ていたことも、大きな影響を与えたのではないか、誰かが動き出すと、自分も何かしらしようと思う気持ちが芽生えるのではないかと思います。それが今回は消防団だったのではないでしょうか。
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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「ビニールハウスでの避難生活、
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米沢美紀さん
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坂口浩二さん
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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