体験を語る
- 企業・団体
災害を通じて、あらためて感じた「ガソリンスタンドの使命」と「仕事への誇り」

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月19日 |
災害発生時の状況
聞き手
災害が発生して、避難するまでの状況について教えてください。
舞谷さん
元日は毎年、スタッフは休ませて、夫婦二人で営業しています。元旦に来店するお客様は、年に1回、元日にしか会わない方ばかりなのですが、そうした皆さんと仲良くなり、「ただいま」とお土産を持ってきてくださる方もいます。そういった中で、午後4時10分に震災に遭ったのです。
道路はひどい状況になっていました。その時、一組だけお客様が来店していました。毎年、元旦恒例の「町野マラソン」を走った後に寄ってくださる方なのですが、給油中に震災に遭いまして、そのお客様のそばにいた私は立っていらずしゃがみこんだら、体が揺れてごろごろ転がってしまいました。転がっているうちに、お客さまが車とノズルを離した途端、車が下がってきて車の下に入ってしまい、そこをお客さまが引き出してくれたという状況でした。
もちろん店内もめちゃくちゃですし、レジのお金も全部散乱していました。片付けをしたかったのですが、そのあとすぐに大津波警報が発令されたということで、店はそのままにして、私も主人も隣の穴水警察署の屋上に逃げました。
屋上も町内の方であふれかえっていました。お正月なので帰省していた方などもいて、もうどこの誰だか分からない状況だったのですが、皆さんそこへ逃げるしかないという状況でした。幸いなことに、町中が停電している中、警察署と、その横にある私たちのガソリンスタンドだけが停電しなかったのです。そのあとスタンドに明かりがついているのを見て、数人スタンドに訪れ、携帯の充電をしていました。その後、それぞれ避難所に移られていました。

避難生活のこと
聞き手
避難生活はどうでしたか。
舞谷さん
私と主人はガソリンスタンドに10日間泊まり込みました。電話もひっきりなしに掛かってきましたし、まだ、スタンドの点検も済まないうちにどんどん車も入って来る。スタッフも被災しながらも出社してくれましたが、おじいちゃん、おばあちゃんだけ残して仕事に来ているスタッフもいるので、早く家に帰らせてあげたい。だから私と主人、あと、お正月というのもあって息子も帰省していまして、息子もスタンド業務は熟知していたので、私と主人と息子で夜の間は電話応対をしながら、10日間、ここに泊まリ込みました。
何より、停電がなかったので、自家発電機を使用することなく給油ができる。また、店内は暖房が着く、電子レンジも使えるということで、寒さを感じることがなかったのは不幸中の幸いでした。
私も避難所に灯油の配達に行く中で、避難所の皆さんの生活を見ました。 プルートという駅前の公民館で、そこには予想を遥に超えた、大勢の方々が避難されていました。
2020年の穴水町で行われた防災訓練の時に、私も、訓練会場となったプルートに行ったのですが、その時はコロナ時の避難訓練として、各部屋を仕切るなどの対応をしていました。しかし、実際、震災が起きたら、熱を測ったり、名前を記入している状況ではありませんでした。最初の頃は仕切りがあるわけでもなく、男は男、女は女で雑魚寝状態。そのうちコロナ患者も出てきて、2階にある図書室に隔離されているという状態を配達に行くたびに見て、これは大変なことになっていると思いました。避難訓練をしていた時のようには全くいかず、しばらくしてから、ダンボールベッドが組み立てられたり、仕切りもできたりしたようですが、プライバシーを守るまでには、まだまだいかなかったようです。
聞き手
水などはどうされていたのですか。
舞谷さん
トイレの水はもちろんなくて、洗濯もできません。そこで主人がバケツを外のあちらこちらに置いて、葉っぱやゴミなど浮いているのですが、雪や雨水を溜めて、それを2人で何度も運びながら、洗濯をしていました。飲み水は、たくさんいただきました。だからしばらく生活の中で飲み水に関して、困ることはなかったです。
食料も、近くのゲンキーが、1日の夜に、「お店にある欲しいものがあったら、全部、持って行ってください」と無料で提供してくださったのです。大勢の人が殺到していました。そのいただいた食品をスタンドの冷蔵庫に入れて、長い間、それを食べていました。
トイレは、最初の頃は新聞を使ってしのいでいたのですが、しばらくしたら簡易トイレが回ってきたので、それを使っていました。お客さまにも簡易トイレを渡して、スタンドで用をたした後は、それを預かりこちらで捨てていました。物資は、役場からの指定場所に取りに行ったりしていました。
震災からの10日間が本当に忙しく、食事も取れず、主人も、12月31日に74キロあった体重がみるみる痩せていき、自衛隊のお風呂が始まってからそこに設置されている体重計に乗ったら、たった2週間で12キロも痩せて62キロになっていました。私ももともとそんなに体重があるほうではないのですが、36キロくらいまで落ちていました。1、2週間でこんなに痩せたのですから、主人は社長ということもあり、当時は相当なプレッシャーとストレスがかかっていたのだと思います。
ガソリンスタンドの運営
舞谷さん
ガソリンスタンドは幸い停電がなかったことで、地下タンクの簡易検査を終え、2日の朝から営業を再開できました。普段は地下タンクに入っている油面計で在庫数量を量るのですが、地震でそれがみんな突出してしまって、在庫量も全く分からない。けれど、私たちは防災訓練を毎年必ずしていたので、こうした場合の簡易検査の仕方も分かっていました。
実際、レギュラーガソリンの地下タンクには水が入ってしまい、そのタンクは一切使えなくなっていましたが、ハイオクのタンクは使える。給油も大丈夫。灯油も軽油の地下タンクも全く損傷ない。そこで2日の朝からは、1人2000円までですが、ハイオクをレギュラーガソリンの金額で販売しました。ハイオクは、昼2時には完全になくなってしまったのですが、灯油と軽油はまだ在庫がある。軽油が大丈夫ということは、トラックへの給油も可能ということです。その後、燃料を積んだ大きいタンクローリーが金沢から到着したのは、 その日の夜9時頃で、翌日3日も一人2000円ずつ。少しずつ販売するという形を取りました。
また、その日から役場も再開し始めたので、暖を取る為の灯油や、自家発電機のガソリンを配達しました。

舞谷さん
舞谷商店は、国の指定を受け、災害時は中核SS(サービスステーション)として活動していて、緊急車両への給油を優先します。(注:住民拠点SSと中核SSがあり、中核SSは大容量の自家発電機を備えているスタンド)
私たちは、2020年と2021年、2023年と、防災訓練を重ねてきたので、震災が起きた場合に、どのような動きをするのかを把握していたことが功を奏しました。
まず2020年9月に、町で防災訓練がありました。私たちも救急や消防の方と連携して、その日は訓練とはいえ、実際に救急車や消防車が給油にやってきました。そして、その車を見送るまでの訓練でした。
訓練は、災害が発災した事を想定し、まずはスタッフが集まって、社長の指示のもと、各所異常はないか点検します。
一般のお客様にわかるように、あらかじめ、緊急車両が優先だという看板を作ってあり、それを、給油レーンの真ん中に、まず置きます。
一番大事なのは自家発電機を作動することです。その時は、言葉の掛け合いの練習もしました。動作を間違えて自家発電ができなかったら、ガソリンも給油できないので、みんなで声を大にして確認し合いながら訓練しました。
そして、給油は、在庫量が15パーセントになったら、残りは緊急車両用にとっておかなくてはいけない。だから、一般車両が来ても、救急車、消防車、自衛隊、警察車両をまず優先します。
災害時、緊急車両が動かなければ、救助活動が回っていかないことがたくさんあります。私たちがどんなに自家用車を走らせても、救急車の機能はできない。また、消防車が動かなかったら、火も消せない。そのために、この燃料を取っておくということもあり、私たちは、こういった災害があった時、1人2000円までの給油という事を徹底しようと、2020年の訓練の時には決めていました。2021年9月にも同じ訓練をしました。2020年の訓練の時には、その間、一時的にスタンドを閉めるということをお客様に伝えていなかったので、スタンドに入ってきてしまう車がたくさんありました。そこで2021年の避難訓練では、訓練中はその間は給油できないということを前もって告知し、他のお客さんが入らないようにしたのです。毎年、行う訓練の内容は同じなのですが、やはり、訓練は繰り返しが大事だと思いました。
2023年の10月に行った訓練では、その年の4月に輪島高校を卒業したばかりの男性が入社していたので、彼を含めて、誰が何をするのかという役割を決めました。みんなでお互いに、それぞれが何をするのかということを確認し合いました。
その後は、消火器を全員使えるようにしようということで練習しました。また、自家発電機を完璧に作動できる人が少なかったので、その人が不在の時があるかもしれないということで、これも全員が作動できるように、何度も訓練しました。その2か月後に、能登半島地震が起きたということです。その訓練が今回の震災で生きました。
スタンドは、普段、2方向から入店できるのですが、災害時は1か所から入店してもらい、もう1か所から退店してもらうという車の流れの訓練もしました。「入口」「出口」という看板も作ってあったのが、実際にとても役立ちました。あらためて、訓練の大切さを思いました。
なぜ私たちが訓練を徹底していたのかというと、このスタンドでは社員全員が、防災士の資格を持っているからです。実際この資格を持っていてよかったと思うことが常にあります。防災士の資格は絶対取ったほうが良いと思います。
スタッフが防災士の資格を持っており、なおかつ、訓練を重ねていたことが、今回の震災でうまく回った理由ではないかと思っています。
聞き手
訓練されていた動きと当日で、ちょっと違ったなということはありましたか。
舞谷さん
今回、想定外の非常に大きな震災だったのでそれはあります。訓練の時には機械が損傷しなかったという想定でしたが、震災当時は機械が作動せず、伝票一枚一枚手書きして、紙を渡していくしかありませんでした。特に役場や警察はその場でお金をもらうわけではないので、リッター数と、どこに配達したかというのをお互いに整理できるように書かないと請求もできません。それが2日、3日と続いたのです。全国からの緊急車両が、何県のどこからという台数がもう膨大すぎて、機械が直ってからも、それを間違えずに入力していくのが本当に大変でした。
また、一斉にたくさんの警察車両や消防車が来ましたので、どちらの車の給油が先か…などのトラブルはないのですが、その流れを整えるのがとても大変でした。また、皆さんこぞってトイレにも行かれるのですが、トイレが使えない。男性の小のほうは何とか大丈夫でした。どうしても大をしたい方は、新聞を敷いて用をたしてもらいました。皆さんは現場に行かなくてはいけないので、片付けは私たちでしていました。長い間トイレを我慢してお腹が痛いという方もいましたし、私たちのために全国から来てくださっている方たちなので、トイレをお断りすることはしなかったです。
二日には、スタンドの前の道路が360度全部、全国から来た消防車、救急車、警察車両で埋まっていました。緊急車両は、輪島が拠点だったと思うのですが、道も悪いし、陥没しているところばかりで、車も動けず、なかなか救助には行けない状態。全国からボランティアの支援車も来て、ありがたい反面、ほかの一般の車もまったく動けなくなり、恐ろしい状況でした。

舞谷さん
他のスタンドもなかなか再開できず、私たちのスタンドが営業できたということで、大変な数の車が並んでいました。輪島のスタンドも被災し営業しておらず、輪島から普段は30分で来ることができるところを6時間かけて穴水まで来るわけです。スタンドはセルフですが、流れを少しでもよくするため、私達スタッフが総出で給油しました。1人2000円までで、それも最初の頃は機械のレシートも出なくて、カードも使えず現金のみ。また、車も2キロ以上の長い列となり、ものすごく時間がかかってしまうのですが、誰1人、スタッフに「早くして」など文句を言う方もおらず、口々に、「スタンドを開けてくれてありがとう」って言ってくださるのです。本当に1人として文句を言う方はいなかったです。
4,5日が経って、ほかのスタンドも営業再開し始めてからは、緊急車両の給油もスムーズに優先できるようになり、だんだん落ち着いてきました。
一番うれしかった事は、こんな道路状況の中でも、燃料を積んだタンクローリーが金沢から来てくれた時です。2日の朝6時に金沢を出発し、里山海道も通れなかったことから穴水まで15時間かかり、到着したのが夜の9時。不眠不休で15時間かけてこちらに燃料を届け、15時間かけて帰るわけです。次の日も15時間もかけて来るわけです。タンクローリーが金沢や富山から来てくれなければ、私たちは皆さんに届けたい油がない。25㎘入るレギュラーガソリンの地下タンクは損傷して使用できなかったので、10㎘しか入らないハイオクの地下タンクにレギュラーガソリンを入れていました。そのため、1日でガソリンがなくなってしまう。
毎日毎日、タンクローリーをENEOSが手配してくれ、届けてくれました。本当に感謝しています。
私は、ガソリンスタンドの仕事がとても好きです。震災が起こり、私が嫁いだ先のガソリンスタンドの仕事というのが、こんなにも自分にとって誇りある、そして、皆さんにとってなくてはならない生活を支える「最後の砦」であるということがあらためて分かりました。
聞き手
地震があってから10日まではガソリンスタンドにずっとおられて、その後、避難所まで配達に行っていたのですか。
舞谷さん
震災発災時から、役場や病院、避難所で自家発電機を使われていたので、ガソリンや灯油を配達していました。私は、駅前の公民館など近いところで、遠いところや道の悪いところは男性にお願いしていました。
それぞれの立場での活動
舞谷さん
1月11日から穴水町の社会福祉協議会がボランティアセンターを開設するということで、すぐ申し込みました。そうしたら、夕方、NHKの生放送の取材がありまして、全国ニュースの生中継で、私がインタビューされている映像が流れ、それを視ていた実家埼玉の親戚、友達、また、いろいろ方から「映っていたよ、生きていてよかった」という連絡がありました。心配をかけていたのですね。本当にありがたく思いました。
次の日からは、炊き出しのボランティアを昼休みの1時間を利用して、お手伝いしていました。夜はまだ、仕事が何時に終わるか分からなかったので、この昼時間にしました。公民館には、全国から炊き出しに来てくださる方が大勢いました。避難所にいる方だけでなくて、誰でも食べに来ていいよ、ということで300食、400食と作っていました。本当にいろいろな方がご飯を食べに来られました。
特に、台湾のボランティア団体の皆さんが、毎日毎日、本当においしいご飯を作ってくださったのです。その方々は、中能登町を拠点として、朝7時には穴水に来て昼食を用意してくださるのですが、中能登町に戻った後、夜2、3時までかけて翌日の昼食の材料の下ごしらえをすべてしてきて、こちらでは調理するだけでした。
公民館にはもともと調理場がなく、雪も降っていてものすごく寒かったのですが、外に衝立を建てて、小屋のようにし、ブルーシートを敷いて、そこでプロパンガスを使って調理していました。
私は配膳だけを手伝っていたのですが、ボランティアをすることで、ガソリンスタンドだけの生活から、台湾の方や避難所に来られる方と触れ合う時間が心のゆとりになりました。
この関わりのおかげで、震災の時、塞ぎこみそうだった気持ちを保っていたというのがあります。この1時間は、私にとっての元気の素でした。ボランティアの方々は、純粋に穴水町を助けようと動いてくださっている方々だったので、そのお気持ちに接していることが支えになりました。
休日も、しばらくボランティアとして、被災したお宅の片付けに行っていました。少しでもなにかできることがあればと思っていたのです。
我が家は準半壊でしたし、自宅に住むことができた。普通に暮らしていることが、それだけでもなんだか、申し訳ない気持ちだったのです。もちろん水はないし、トイレも使えないけど、家で普通に家族だけで寝られるという空間にいるだけでも、もったいないような、皆さんに申し訳ないようなありがたさを感じていました。だから、仕事をしていない時間は、出来る限り手伝いをしたいなという気持ちでした。誰かに褒めてもらいたいとかではなくて、それが私にとっての自然な行動だったのかなと思います。
穴水町に埼玉県から嫁いできて、平成19年に起きた能登半島地震から、いろいろな人と町おこしの活動もしてきて、毎日平和に楽しく暮らしていました。そういう活動があり、共に助け合う仲間がいるこの町が、私は本当に好きです。そうした中で、前の震災から17年が経ち、ようやく落ち着いたと思われていた矢先に再び震災があり、居ても立ってもいられなかったのです。空いた時間は、誰かのためになりたいという気持ちばかりだったように思います。
震災後のガソリンスタンドの状況
舞谷さん
私たちのガソリンスタンドは、営業しながらも、すべての地下タンクを換えなくてはならなくなりました。使用はできたけれど、損傷が激しく、かなり大規模な修繕工事にとりかかりました。
7月から工事に入って、4つの給油箇所があるのですが、2箇所ずつ、半分工事が終わったらもう半分をしようとしていたのです。半分はスムーズに工事が終わりました。もう半分の工事が始まり、本来なら2か月で終わるはずが、土を掘ったら、油が漏れているところがあったのです。もし、油が川や他のところまで汚染していたら、大変なことになったのですが、そこまではいっていない。けれど、地盤調査や地盤改良をし、汚染されたその土を全部掘り、その汚染土を、国の指定された処理場に捨てなければならない。
その土を北海道の方まで運ばなければならず、まったく予想外の工事が入ってしまい、その工事や輸送費だけで、最初の予定よりも3000万円以上、工事費が増えてしまいました。
先の見通しが立たなくなり、本当に辛くて、家に帰れば泣いてばかりというのは、こんな状態なのかと思いました。もうスタンドは直らないのではないかとまでと思ってしまい、会社では笑っていても、家に帰ったら、主人相手に泣いてばかりという生活をしていました。主人も大変な中、よくぞこんな状態の私を受け止めてくれたなと思います。


舞谷さん
それからようやく工事が終わり、やっと直ったのは 暮れも近い12月27日でした。
修繕費用も、全部で1億5千万円もかかり、補助金をもらいながらも、5千万円ほどは借金をしている状態です。
ただ、私も主人も、そして息子も、おこがましい話しかもしれませんが、「この穴水町には、何があったとしても、私たちのガソリンスタンド、舞谷商店は絶対に必要だ」という信念があります。借金しようが、私たちのスタンドがなかったら、この町の生活は守られないといった気持ちが全てなのです。今そういう状態ですが、皆で力をあわせて、頑張っていきます!
2023年の12月23日に、来年のご挨拶用に、みんなで写真を撮りました。まさか、その一週間後に震災がおきるなど、誰が予想できたでしょうか。
その年に入社した彼は、輪島の自宅が全壊し、ご家族で金沢に移られ、退社しました。
本当に辛い別れでした。

今後への教訓(伝えたいこと)
舞谷さん
みなさんにお伝えしたいことは、人は、人の力でしか、復興できないと思うのです。
町や建物の復旧は、人の力がなければできません。そして、人の心もやはり、人でしか助けられない。支えられないということです。穴水町を支えてくださった方々の力が、私にとって、とても大きいものでした。
穴水町民や役場職員だけでは、ここまでの復興は絶対にできませんでした。自衛隊や建設関連の方々はもちろんのこと、何よりも、全国の県庁、市役所、役場から、支援に来てくださった方がいらしたからこそであり、心から感謝しています。私の生活でも、支援にいらした方との関わりで、ものすごく元気をもらっています。支援の皆さんは、もはやもう、穴水町民です。
今年3月、1年の任期を終えて各地に戻られた方とのお別れのときは、辛いものがありました。今でもつながりがあり、一生の仲間です。また、来年3月になれば、穴水を離れる支援職員さんがいる…今も想像しただけで泣きそうになります。不安な生活のなか、彼らは私達の笑顔を引き出してくれました。生活を支えてくれました。そのような方々がいたからこそ、今の穴水町があると思っています。主人とも、この恩は、一生忘れてはいけないと話しています。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
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珠洲市上戸区長
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「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
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「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
兜公民館長(防災士)
濱中勲さん
「防災士の知識も活かして、避難所を運営」 -
比良地区区長(防災士)
坂尻忠秀さん
「地域のつながりを生かして避難所を運営」 -
上出地区区長
宮森正人さん
「皆で知恵を出し合って自主避難所を運営」 -
諸橋公民館館長
油谷清治さん
「避難所運営を通じて、最悪の事態を考えて備えることの重要性を認識」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
穴水消防団長
濱出泰治さん
「消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに」 -
穴水消防署員
吉岡邦範さん
「避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長
中橋毅さん
「被災地の医療を支えた穴水総合病院」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

