体験を語る
- ボランティア
地域住民とボランティアとをつなぐ架け橋として

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月19日 |
地震発生当初
聞き手
まず、どのような状況で被災されたのかをお聞きしたいです。
小川さん
私は穴水町に住んでいるのですが、お正月ということもあって、輪島市の実家にいて、そこで被災したんです。そのため穴水の自宅や会社、職場の仲間も心配だったのですが、穴水に行く道路が寸断されていて、携帯電話も全くつながらない状態だったので、確認しようがなくて、不安でした。実家も高齢の両親や叔母がいて混乱のなか大変だったのですが、穴水町も心配で、中々穴水町に入れないという歯がゆさがありました。
1月2日の夕方ぐらいに、なんとか連絡が取れた職場の同僚から、自宅はとりあえずは立っていて大丈夫そうという情報と、穴水町までの道路がいくつか通れるようになったというのを聞いて、すぐに穴水に帰ってきました。
私が住んでいる町は、能登町寄りの海抜99メートルくらいの高い山の上にあって、もともと上水道も下水道もない小さなところです。それが功を奏して、井戸水が出たので大丈夫でしたし、電気も大丈夫でした。家の中はだいぶ物が散乱していたのですぐに片づけをしてから、町の情報をつかもうと思い、プルート内の社会福祉協議会に行きました。
聞き手
社会福祉協議会には、被災されてから所属されたのですか。
小川さん
そうです。それまでは農業関係の仕事をしていて、会社は見たところ大丈夫ではあったのですが、まず職員も集まらず、野菜の収穫できない。収穫しても運送業者も来られないため出荷もできない状況で稼働できませんでした。会社の片づけなどはありましたが、空き時間に何か穴水町でできることはないかと思い、社協に行きました。
私たちの地域は1,2日だけ自主避難所はあったんですが、区長さんや民生委員さんにお聞きしたら「電気も来たし、水道もでるから皆帰ったし、解散したよ。」ということだったので、自分も避難所には行かずに、そのままプルートに行ったんですね。プルートに入った時は3日だったかな、300人以上避難されている方が床に毛布などを敷き詰めて寝ている状態でした。
聞き手
社会福祉協議会には、もともと何か繋がりあったのですか。
小川さん
主任児童委員をずっとさせていただいていて、つながりはありました。
避難所の運営
聞き手
避難所ではどのようなことをされていたのでしょうか。
小川さん
18年前の震災の時にも穴水町に入ってくださり、それからのつながりのあった、レスキューストックヤードというNPO法人の団体さんが入って、避難所の運営をしてくださっていました。
私たちは、そのサポートみたいな感じで、炊き出しの準備のお手伝いをしたり、トイレ掃除の補助をしたりしていました。
同時に、災害ボランティアセンターも立ち上がったので、そちらの運営もお手伝いしていました。
聞き手
プルートには、電気や水は通っていたんですか。
小川さん
電気は来ていたけど、水は無かったですね。一番大変だったのはトイレ。流すことが出来ないので、汚物が溜まり、すごいことになっていました。
レスキューストックヤードさんにトイレのことに詳しい方がいらっしゃって、すぐゴミ袋をかけて、新聞紙を引いて、こういうやり方をしようという風に決めてくれてからは、皆ルールを守って、トイレを使用してくれるようになりました。
避難所にいる方々たちで何かできることをやろうという形で、お掃除係や、仮設トイレに水を補給する係、炊き出しを配膳する係などのお手伝いをする方が、毎日ボードにお名前を書いて、避難所の住民みんなでお掃除したりしていた記憶があります。
聞き手
そのボードは皆さんが自主的に役割分担しようということで始まったのですか。
小川さん
レスキューストックヤードさんの案ではじまったのですが、何かできることをしたい、身体も動かしたいという方が自主的に手を挙げてくれました。あと、避難所生活ではない地域住民のボランティアの方で、配膳の手伝いなどで朝昼晩来てくださった方々もいらっしゃったので、社協としてはそういう方々の調整もさせてもらいました。
聞き手
手伝ってくれる方は何人くらいいらしたんですか。
小川さん
結構いましたね。30人以上はいたのではないでしょうか。
聞き手
避難所を運営していく上で、人数がだんだん減っていくなどの推移もあったと思うんですけど、役割分担はどうなっていきましたか。例えば、ご飯を作る担当ですとか。
小川さん
皆さん、だんだんと自宅に戻られたり他の避難所に移られたりして、人数は減ってきましたが、サイクルができていたので掃除等はスムーズでしたし、食事の面はセントラルキッチンの存在が大きかったと思います。
聞き手
まとめて食事を作って、在宅の方にも配っていたのですか。
小川さん
プルートではセントラルサブキッチンで食事を作って、穴水町の各避難所や在宅で食事に困っている方々に配達もしていました。配達の経緯としては、私の職場の野菜が出荷できずにあまっていたので、それを各避難所などに配達していたことから、それにセントラルサブキッチンのお惣菜を乗せて運びました。
聞き手
団体は、どのようにしてできたのですか。
小川さん
常駐してくださっていた外部支援の方々の中に、たまたま料理人さんがいたんです。発災当初から食事は大事だということで、お野菜がたくさん入った暖かいご飯をいろいろ作ってくださっていました。そこに震災で仕事がなくなった住民の方も雇う形で、何人もお手伝いしたり、お仕事したりして毎日食事を作ってくれていました。そんな中、町が飲食店組合に声掛けをして、セントラルキッチンが立ち上がりました。
聞き手
避難所では感染症もあったと思うのですが、そういうときの対応はどうされていましたか。
小川さん
本来、福祉避難所になる施設が地震で被害にあって、どこも壊滅的な状況で、福祉避難所がない状態でした。そこで、まずプルートの1室を福祉避難所として設置しました。
どうしても感染症が出ちゃったときは2階のお部屋を隔離室にして、感染した方々もゆっくり休んでもらえるようにしていましたね。
ノロもあったし、インフルも出たし、コロナもありました。でも、レスキューストックヤードさんの繋がりで支援に入ってくださっていた愛知県の藤田医科大学の方々のサポートもあったので、感染症がすごく広がったというわけではなかったですね。
聞き手
感染症にかかっていない方に、注意や対策の声掛けはあったのですか。
小川さん
消毒液を置いたり張り紙をしたりしました。トイレは感染するリスクが高いので、そういうところには特に気をつけていました。
聞き手
藤田医科大学のおかげで、特に困ったことはなく、感染症は収まったという感じですかね。
小川さん
そうですね。福祉避難所も設置して、段ボールベッド、パーテーションができるようになってからはだいぶよくなりました。それがなくて、そのまま床の状態だったら、もっと広がっていたと思うんですけど、そういうところのスピード感はレスキューストックヤードさんや、藤田医科大学さんが入ってくれていたおかげだと思います。
聞き手
避難所運営で、女性の視点がクローズアップされてきていると思います。女性特有の問題や生活スタイルについてはどうされましたか。
小川さん
小さい子どもさんがいらっしゃるご家庭は別部屋に入っていただいたこともありました。また、女性が着替えるスペースが欲しい。との声があがり設置したこともあったのですが、パーテーションや女性用の更衣室といったところを前もって、すぐに設置してあげることがすごくいいのかなと思います。
聞き手
避難所での生活で、物資はあったんですか。
小川さん
段ボールベッドは割と早くからあったと思います。食事面でも、炊き出しもありましたし。 でも、割と避難所によって格差があるというか、地域の奥の方で、自分たちで頑張られていた避難所では、朝昼晩、献立を考えて、自分たちで作って、食材を持ち寄ってとか、若い人に買い物へ行って来てもらってといったことも聞きました。物資が届くか、届かないかでも色々と差があったのかなというのは感じますね。
聞き手
避難所はとても人数が多かったと思うのですが、その時の安否確認はどうやってしていたのですか。
町職員
いろいろな避難所から管理名簿をもらっていて、安否確認の電話で名簿の中で探しては答えてを繰り返していました。「親戚です」ということで電話がきても、本当に親戚かどうか分からないので、安否確認したい人のお名前や住所まで全部伝えていただいてから、答えていました。電話はほとんどが安否確認でした。
それぞれの立場での活動について
聞き手
防災士という立場を意識して行動されたことは。
小川さん
防災士もそうなのですけど、女性消防団にも入っています。ただ、その立場で何か活動をしたかっていうとできていなかったです。
でも時間が経って、防災に関して、防災士として、今後何ができるのかなとか、やっぱり学んでいかないくちゃいけないこと、いろいろ広めていかなきゃいけないことはすごく意識するようになりました。
今までも資格は持っていたのだけど、持っているだけになっちゃっていたのだと思います。他の県の方からは、南海トラフがあるからということで、前から皆さん集まって防災士の活動をされているとお聞きしていました。もう二度と震災が起こらないとは限らないので、これから穴水町でも事前の備えが大事になってくるのではないかなと思っています。
聞き手
災害ボランティアについてはどういうことをされていたのでしょうか。
小川さん
災害ボランティアセンターは社協が運営していて、家の中の物を出したり、片づけたりといったことの全般を受け付けていました。家の中の家材道具を出してほしいとか、そういったニーズがどんどん上がってきて、多いときは160件ぐらいでしたかね。
外部のボランティアさんと地元のボランティアさんに来ていただいて、ニーズとマッチングをして、ニーズの自宅にいって作業してもらうことは今でも続いています。
聞き手
災害ボランティアをしたいという問い合わせが来たり、電話がかかってきたりするのですか。
小川さん
まず県のボランティアセンターに登録した人が、穴水町にマイクロバスでやってくるという募集の仕方です。テレビとかで見たことがあるかもしれませんが、1台で何十人とやってきます。
あとは地元の方から、ボランティアをやりたいというお電話も直接かかってきました。企業さん、学生さんとか団体の方々もいらっしゃっていましたね。そういう方々を受け入れて、マッチングをして活動してもらうという流れです。
炊き出しをしたいですとか、皆さんに元気になるような催し物をしたいっていうソフト面のボランティアも災害ボランティアセンターの方でマッチングさせてもらって、続けています。今でも皆さん来てくださってサロンをしてくださっています。
片付けとか力のいる活動は、今も月1回来ていただいてもらっています。たくさん来てくださったボランティアさんの中でも、すごく穴水町のことを気に入ってくださって、穴水町ラブなボランティアさんが結構いらしたんですよ。その方々をピックアップしまして、何回も入ってきてくれているので、ぜひ穴水のチームを作ってくれないかと声をかけて「穴水レンジャーズ」というチームができました。20~30人ぐらいいるかな。それは県内から県外の方まで様々いるのですが、今はその方々が中心となって、月 1回のボランティア活動をしています。
今だったら、家を新築したから引っ越しをお手伝いしてほしいとか、仮設住宅からの引っ越しやごみを片付けて欲しいといったニーズがあるのですけど、それを月 1回まとめて、レンジャーズがやってくれています。
聞き手
レンジャーズの20~30人が一気に活動するのですか。
小川さん
グループLINEがあって、この日活動します。と連絡すると、行けますという人が大体12 、3人ぐらい手を挙げてくれます。本当に穴水町の道を詳しく網羅しているくらいなので、お任せしています。
最初の頃は、マッチングしていたのですが、今はもうその方々が勝手にマッチングもしてくれるので、とても頼りにしていますし、すごくいい形だなと思います。
聞き手
ボランティアの方が穴水を大好きになった理由は何だったのでしょうか。
小川さん
私はこの震災後に社協に入ったのですが、社協職員がとにかく明るい方ばかりなのです。ずっと休みもなくて、本当にすごく大変なんですけど、いつも笑っている。ボランティアさんからすると、気持ちよく迎えてくれて、帰りはすごく気持ちよく送ってくれる。だからすごく来やすい。ということを言ってくださっています。
聞き手
長期的に活動をしていく中で、心が疲れることも、あったと思うのですけど、その時のモチベーションというか、こういう気持ちで頑張っていたということはありますか。
小川さん
私はやっぱり社協職員とボランティアさんですかね。特にボランティアさんにはすごいパワーをもらっていますし、感謝しかないですね。
聞き手
社協職員とボランティアのメンバー、お互い良い刺激だったということですかね。
小川さん
そうですね。よくここまでやってくれたなって素直にボランティアさんに感謝しかなくて。
仕事もされていて、土日は休みたいだろうに、自分たちの時間を割いて来てくれる。しかも、ガソリン代を使って。交通費の無料化はあるだろうけど、時間だってお金の内じゃないですか。それをすべて使って、穴水町に来てくれていることに、すごく感謝です。
聞き手
印象的だったボランティアの方やエピソードはありますか。
小川さん
みなさん個性派です。例えば2トン車の中にテトリスみたいな状態で、きっちり物を入れる方がいるのですよ。本当は軽トラで何台分となるのをその1台で、きっちり詰める。ゴミ捨て場のお兄さんたちが、またこんなに詰めて、っていうぐらいきっちり詰める人は、レンジャーズの中でも、レジェンドと言われています。
その1台が行けば、その家1軒が終わるから、すごくスピードが速い。軽トラも1台で終わるので、他に軽トラを回せて、早くニーズが消化できるので、その分、住民の方を待たせなくて済みますし、本当に早かったと思います。
聞き手
皆さん、職業もバラバラで、穴水に来てくれたっていうところでしか接点がなかったりしますよね。
小川さん
ないですよね。不思議ですね。そこで皆お互いに力を合わせて1軒きれいにしますとか、そういったところが、本当にすごいなと思います。
聞き手
1軒きれいにするのに、大体どれぐらいかかるのですか。
小川さん
何日もかかるパターンもあるのですが、そこはもう皆さんから冗談で、穴水町のボランティアセンターが世界一、人使い荒い、って言われるくらいに、皆さんにやっていただいたので、すごく時間がかかったお宅っていうのは無かったかな。
いろいろなボランティアさんから、帰ってきたよって言って報告書が出てくるのですが、その報告書を車からドライブスルー形式で受け取って、次行ってねという風に、本当にもう人使い荒いです。いっぱいこき使ってくれるっていうのがまた魅力だったらしくて。
やっぱり片付かないと次に進めないですよ。片付いたら、次のことを1つ考えられるのだと思うんですね。だからそこを早くしてあげたいっていう思いが、私たちはもちろん、ボランティアさんにもあったと思います。
聞き手
ボランティアさんをマッチングするときに工夫をされたことはありますか。
小川さん
例えば一人暮らしの女性のお宅に入るのだったら、できるだけ女性にいってもらおうとか。高齢の方で、自分では判断が難しい方の場合は、ゆっくり声をかけながらやってくれるような方をマッチングするようにはしていましたね。
聞き手
手に負えない案件というのはなかったですか。
小川さん
そういうのはないですね。
聞き手
多いときは160件というお話でしたが、優先順位は、社協さんが決められていたのですか。
小川さん
そうですね。本当は電話をかけてきてくれた順に行けばいいんだろうけど、どうしても1日何件こなせるかって考えた時に、いろいろ組み合わせる必要があります。同じ地域でまとめたり、穴水町内でも、片道 30分かかるような離れている場所もあって、そういうところは、午前中にするとか。
あと、環境省からパッカー車(ゴミ収集車)がお手伝いに来てくれる時があったんですね。その時は、事前に行く地域を決めて、そこである程度ゴミを出してもらって、パッカー車が来てまとめて持っていってもらうという事も、エリアごとにやりました。それもすごく効果的だと思います。区長さんから、パッカー車がこの日に来るから、ゴミを出しておいたら持って行ってくれるよって、皆に声を掛けてもらいました。そうやって、いろいろな事をして、今に至ります。
聞き手
優先順位をつけたときに、先に言ったのにという不満は出なかったのですか。
小川さん
そういうのはあまりなかったですね。ボランティアさんは、こんな優しい地域住民の方はいないって言っていました。社協に応援に来てくれた他の社協のスタッフたちも、こんなにボランティアさんたちから苦情がないボランティアセンターはないっていうくらい、ボランティアさんもすごく紳士的だったし、地域住民の方からの苦情もなくて。逆に本当に感謝していただきました。
今後への教訓
聞き手
あの時こうしておけばよかったなと思う点はありますか。
小川さん
災害への備えってよく言われますが、どこまで備えていたら良かったのか。実際なってみて、これがあったら良かったというものがなかなか思い浮かばない。
ただ、トイレが本当に最初はひどかったので、皆それぞれに簡易トイレの作り方や使用方法の知識があれば、溢れるようなこともなかったのかな。物というより、そういった知識があればよかったかなって思いますね。住民一人一人が、皆そういう知識を頭の隅っこに少しでも持っていれば、また違ったのかなというころもありますね。
あとは防災の心構えというか、いつか来るぞっていっても、きっと自分のところは来ないだろうという思いが、私もそうですけど、どこかにあって。ずっと珠洲で頻発している地震だけど、まさか穴水町に、こんな大きな地震が起こるとは皆きっと思っていなかったと思うんですね。その意識が一番、備えていかなくちゃいけないところかなと思います。
聞き手
震災を経験して、知ってもらいたいことや教訓はありますか。
小川さん
一番大事なことは人と人との関わりかなって思いました。避難所の中でも、手伝ってあげたり、困っている人に何かしてあげたり、お願いって言える人がいたり、それはやっぱり日頃の関わり、顔も知っていて、おしゃべりしていれば、声もかけやすかったりするじゃないですか。
あとは、いろいろなところからお話を聴いて思うのは、聴いた内容を繋げていくというか、皆に広めていくことがいいと思います。リアルな話を実際に聴いてどうするかだと思うのですね。
今回できなかったことに対して学んでおこうとか、一人一人の気持ちが大事だと思います。
ボランティアについても、穴水レンジャーズすごいねって言ってくださるのですが、穴水町住民の方がそこに入っていないのですよね。
やっぱりこれからずっと穴水レンジャーズがあるってわけでもないと思うんです。今後、そうなっていった時に、地元の方々が動けるような組織というか、そういうメンバーがいたらもっといいな、若い力が本当に大事だなと思います。
聞き手
小川さんが社協に行ったことも、繋がりの1つだと思いますが、人と人との関わりやコミュニケーションが活きた場面はありましたか。
小川さん
自分も実際にそうでしたし、そういう人が多かったんですね。皆さん「なんか手伝うことない?」って来てくれて、それは日頃の社協職員との繋がりがあったからだと思います。そういうことで活きてくるのかなと思うので、私も社協の人間として、そのような関わり方をしていきたいなと常に思っています。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
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「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
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「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
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「街の人だけの避難所」 -
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「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
兜公民館長(防災士)
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「防災士の知識も活かして、避難所を運営」 -
比良地区区長(防災士)
坂尻忠秀さん
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上出地区区長
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「皆で知恵を出し合って自主避難所を運営」 -
諸橋公民館館長
油谷清治さん
「避難所運営を通じて、最悪の事態を考えて備えることの重要性を認識」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
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「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
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「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
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黒田浩二さん
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輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
穴水消防団長
濱出泰治さん
「消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに」 -
穴水消防署員
吉岡邦範さん
「避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長
中橋毅さん
「被災地の医療を支えた穴水総合病院」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

