石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • ボランティア

地域住民とボランティアとをつなぐ架け橋として

穴水町社会福祉協議会職員(防災士) 小川奈美さん
体験内容
社会福祉協議会でボランティアセンターの運営などに携わった
場所 穴水町
聞き取り日 2025年9月19日

地震発生当初

まず、どのような状況で被災されたのかをお聞きしたいです。

私は穴水町に住んでいるのですが、お正月ということもあって、輪島市の実家にいて、そこで被災したんです。そのため穴水の自宅や会社、職場の仲間も心配だったのですが、穴水に行く道路が寸断されていて、携帯電話も全くつながらない状態だったので、確認しようがなくて、不安でした。実家も高齢の両親や叔母がいて混乱のなか大変だったのですが、穴水町も心配で、中々穴水町に入れないという歯がゆさがありました。

1月2日の夕方ぐらいに、なんとか連絡が取れた職場の同僚から、自宅はとりあえずは立っていて大丈夫そうという情報と、穴水町までの道路がいくつか通れるようになったというのを聞いて、すぐに穴水に帰ってきました。

私が住んでいる町は、能登町寄りの海抜99メートルくらいの高い山の上にあって、もともと上水道も下水道もない小さなところです。それが功を奏して、井戸水が出たので大丈夫でしたし、電気も大丈夫でした。家の中はだいぶ物が散乱していたのですぐに片づけをしてから、町の情報をつかもうと思い、プルート内の社会福祉協議会に行きました。

社会福祉協議会には、被災されてから所属されたのですか。

そうです。それまでは農業関係の仕事をしていて、会社は見たところ大丈夫ではあったのですが、まず職員も集まらず、野菜の収穫できない。収穫しても運送業者も来られないため出荷もできない状況で稼働できませんでした。会社の片づけなどはありましたが、空き時間に何か穴水町でできることはないかと思い、社協に行きました

私たちの地域は1,2日だけ自主避難所はあったんですが、区長さんや民生委員さんにお聞きしたら「電気も来たし、水道もでるから皆帰ったし、解散したよ。」ということだったので、自分も避難所には行かずに、そのままプルートに行ったんですね。プルートに入った時は3日だったかな、300人以上避難されている方が床に毛布などを敷き詰めて寝ている状態でした。

社会福祉協議会には、もともと何か繋がりあったのですか。

主任児童委員をずっとさせていただいていて、つながりはありました。

避難所の運営

避難所ではどのようなことをされていたのでしょうか。

18年前の震災の時にも穴水町に入ってくださり、それからのつながりのあった、レスキューストックヤードというNPO法人の団体さんが入って、避難所の運営をしてくださっていました

私たちは、そのサポートみたいな感じで、炊き出しの準備のお手伝いをしたり、トイレ掃除の補助をしたりしていました。

同時に、災害ボランティアセンターも立ち上がったので、そちらの運営もお手伝いしていました。

プルートには、電気や水は通っていたんですか。

電気は来ていたけど、水は無かったですね。一番大変だったのはトイレ。流すことが出来ないので、汚物が溜まり、すごいことになっていました。

レスキューストックヤードさんにトイレのことに詳しい方がいらっしゃって、すぐゴミ袋をかけて、新聞紙を引いて、こういうやり方をしようという風に決めてくれてからは、皆ルールを守って、トイレを使用してくれるようになりました。

避難所にいる方々たちで何かできることをやろうという形で、お掃除係や、仮設トイレに水を補給する係、炊き出しを配膳する係などのお手伝いをする方が、毎日ボードにお名前を書いて、避難所の住民みんなでお掃除したりしていた記憶があります。

そのボードは皆さんが自主的に役割分担しようということで始まったのですか。

レスキューストックヤードさんの案ではじまったのですが、何かできることをしたい、身体も動かしたいという方が自主的に手を挙げてくれました。あと、避難所生活ではない地域住民のボランティアの方で、配膳の手伝いなどで朝昼晩来てくださった方々もいらっしゃったので、社協としてはそういう方々の調整もさせてもらいました。

手伝ってくれる方は何人くらいいらしたんですか。

結構いましたね。30人以上はいたのではないでしょうか。

避難所を運営していく上で、人数がだんだん減っていくなどの推移もあったと思うんですけど、役割分担はどうなっていきましたか。例えば、ご飯を作る担当ですとか。

皆さん、だんだんと自宅に戻られたり他の避難所に移られたりして、人数は減ってきましたが、サイクルができていたので掃除等はスムーズでしたし、食事の面はセントラルキッチンの存在が大きかったと思います。

まとめて食事を作って、在宅の方にも配っていたのですか。

プルートではセントラルサブキッチンで食事を作って、穴水町の各避難所や在宅で食事に困っている方々に配達もしていました。配達の経緯としては、私の職場の野菜が出荷できずにあまっていたので、それを各避難所などに配達していたことから、それにセントラルサブキッチンのお惣菜を乗せて運びました。

団体は、どのようにしてできたのですか。

常駐してくださっていた外部支援の方々の中に、たまたま料理人さんがいたんです。発災当初から食事は大事だということで、お野菜がたくさん入った暖かいご飯をいろいろ作ってくださっていました。そこに震災で仕事がなくなった住民の方も雇う形で、何人もお手伝いしたり、お仕事したりして毎日食事を作ってくれていました。そんな中、町が飲食店組合に声掛けをして、セントラルキッチンが立ち上がりました。

避難所では感染症もあったと思うのですが、そういうときの対応はどうされていましたか。

本来、福祉避難所になる施設が地震で被害にあって、どこも壊滅的な状況で、福祉避難所がない状態でした。そこで、まずプルートの1室を福祉避難所として設置しました。

どうしても感染症が出ちゃったときは2階のお部屋を隔離室にして、感染した方々もゆっくり休んでもらえるようにしていましたね。

ノロもあったし、インフルも出たし、コロナもありました。でも、レスキューストックヤードさんの繋がりで支援に入ってくださっていた愛知県の藤田医科大学の方々のサポートもあったので、感染症がすごく広がったというわけではなかったですね。

感染症にかかっていない方に、注意や対策の声掛けはあったのですか。

消毒液を置いたり張り紙をしたりしました。トイレは感染するリスクが高いので、そういうところには特に気をつけていました。

藤田医科大学のおかげで、特に困ったことはなく、感染症は収まったという感じですかね。

そうですね。福祉避難所も設置して、段ボールベッド、パーテーションができるようになってからはだいぶよくなりました。それがなくて、そのまま床の状態だったら、もっと広がっていたと思うんですけど、そういうところのスピード感はレスキューストックヤードさんや、藤田医科大学さんが入ってくれていたおかげだと思います。

避難所運営で、女性の視点がクローズアップされてきていると思います。女性特有の問題や生活スタイルについてはどうされましたか。

小さい子どもさんがいらっしゃるご家庭は別部屋に入っていただいたこともありました。また、女性が着替えるスペースが欲しい。との声があがり設置したこともあったのですが、パーテーションや女性用の更衣室といったところを前もって、すぐに設置してあげることがすごくいいのかなと思います

避難所での生活で、物資はあったんですか。

段ボールベッドは割と早くからあったと思います。食事面でも、炊き出しもありましたし。 でも、割と避難所によって格差があるというか、地域の奥の方で、自分たちで頑張られていた避難所では、朝昼晩、献立を考えて、自分たちで作って、食材を持ち寄ってとか、若い人に買い物へ行って来てもらってといったことも聞きました。物資が届くか、届かないかでも色々と差があったのかなというのは感じますね

避難所はとても人数が多かったと思うのですが、その時の安否確認はどうやってしていたのですか。

いろいろな避難所から管理名簿をもらっていて、安否確認の電話で名簿の中で探しては答えてを繰り返していました。「親戚です」ということで電話がきても、本当に親戚かどうか分からないので、安否確認したい人のお名前や住所まで全部伝えていただいてから、答えていました。電話はほとんどが安否確認でした。

それぞれの立場での活動について

防災士という立場を意識して行動されたことは。

防災士もそうなのですけど、女性消防団にも入っています。ただ、その立場で何か活動をしたかっていうとできていなかったです。

でも時間が経って、防災に関して、防災士として、今後何ができるのかなとか、やっぱり学んでいかないくちゃいけないこと、いろいろ広めていかなきゃいけないことはすごく意識するようになりました

今までも資格は持っていたのだけど、持っているだけになっちゃっていたのだと思います。他の県の方からは、南海トラフがあるからということで、前から皆さん集まって防災士の活動をされているとお聞きしていました。もう二度と震災が起こらないとは限らないので、これから穴水町でも事前の備えが大事になってくるのではないかなと思っています。

災害ボランティアについてはどういうことをされていたのでしょうか。

災害ボランティアセンターは社協が運営していて、家の中の物を出したり、片づけたりといったことの全般を受け付けていました。家の中の家材道具を出してほしいとか、そういったニーズがどんどん上がってきて、多いときは160件ぐらいでしたかね。

外部のボランティアさんと地元のボランティアさんに来ていただいて、ニーズとマッチングをして、ニーズの自宅にいって作業してもらうことは今でも続いています。

災害ボランティアをしたいという問い合わせが来たり、電話がかかってきたりするのですか。

まず県のボランティアセンターに登録した人が、穴水町にマイクロバスでやってくるという募集の仕方です。テレビとかで見たことがあるかもしれませんが、1台で何十人とやってきます。

あとは地元の方から、ボランティアをやりたいというお電話も直接かかってきました。企業さん、学生さんとか団体の方々もいらっしゃっていましたね。そういう方々を受け入れて、マッチングをして活動してもらうという流れです。

炊き出しをしたいですとか、皆さんに元気になるような催し物をしたいっていうソフト面のボランティアも災害ボランティアセンターの方でマッチングさせてもらって、続けています。今でも皆さん来てくださってサロンをしてくださっています。

片付けとか力のいる活動は、今も月1回来ていただいてもらっています。たくさん来てくださったボランティアさんの中でも、すごく穴水町のことを気に入ってくださって、穴水町ラブなボランティアさんが結構いらしたんですよ。その方々をピックアップしまして、何回も入ってきてくれているので、ぜひ穴水のチームを作ってくれないかと声をかけて「穴水レンジャーズ」というチームができました。20~30人ぐらいいるかな。それは県内から県外の方まで様々いるのですが、今はその方々が中心となって、月 1回のボランティア活動をしています。

今だったら、家を新築したから引っ越しをお手伝いしてほしいとか、仮設住宅からの引っ越しやごみを片付けて欲しいといったニーズがあるのですけど、それを月 1回まとめて、レンジャーズがやってくれています。

レンジャーズの20~30人が一気に活動するのですか。

グループLINEがあって、この日活動します。と連絡すると、行けますという人が大体12 、3人ぐらい手を挙げてくれます。本当に穴水町の道を詳しく網羅しているくらいなので、お任せしています。

最初の頃は、マッチングしていたのですが、今はもうその方々が勝手にマッチングもしてくれるので、とても頼りにしていますし、すごくいい形だなと思います。

ボランティアの方が穴水を大好きになった理由は何だったのでしょうか。

私はこの震災後に社協に入ったのですが、社協職員がとにかく明るい方ばかりなのです。ずっと休みもなくて、本当にすごく大変なんですけど、いつも笑っている。ボランティアさんからすると、気持ちよく迎えてくれて、帰りはすごく気持ちよく送ってくれる。だからすごく来やすい。ということを言ってくださっています。

長期的に活動をしていく中で、心が疲れることも、あったと思うのですけど、その時のモチベーションというか、こういう気持ちで頑張っていたということはありますか。

私はやっぱり社協職員とボランティアさんですかね。特にボランティアさんにはすごいパワーをもらっていますし、感謝しかないですね。

社協職員とボランティアのメンバー、お互い良い刺激だったということですかね。

そうですね。よくここまでやってくれたなって素直にボランティアさんに感謝しかなくて。

仕事もされていて、土日は休みたいだろうに、自分たちの時間を割いて来てくれる。しかも、ガソリン代を使って。交通費の無料化はあるだろうけど、時間だってお金の内じゃないですか。それをすべて使って、穴水町に来てくれていることに、すごく感謝です

印象的だったボランティアの方やエピソードはありますか。

みなさん個性派です。例えば2トン車の中にテトリスみたいな状態で、きっちり物を入れる方がいるのですよ。本当は軽トラで何台分となるのをその1台で、きっちり詰める。ゴミ捨て場のお兄さんたちが、またこんなに詰めて、っていうぐらいきっちり詰める人は、レンジャーズの中でも、レジェンドと言われています。

その1台が行けば、その家1軒が終わるから、すごくスピードが速い。軽トラも1台で終わるので、他に軽トラを回せて、早くニーズが消化できるので、その分、住民の方を待たせなくて済みますし、本当に早かったと思います。

皆さん、職業もバラバラで、穴水に来てくれたっていうところでしか接点がなかったりしますよね。

ないですよね。不思議ですね。そこで皆お互いに力を合わせて1軒きれいにしますとか、そういったところが、本当にすごいなと思います。

1軒きれいにするのに、大体どれぐらいかかるのですか。

何日もかかるパターンもあるのですが、そこはもう皆さんから冗談で、穴水町のボランティアセンターが世界一、人使い荒い、って言われるくらいに、皆さんにやっていただいたので、すごく時間がかかったお宅っていうのは無かったかな。

いろいろなボランティアさんから、帰ってきたよって言って報告書が出てくるのですが、その報告書を車からドライブスルー形式で受け取って、次行ってねという風に、本当にもう人使い荒いです。いっぱいこき使ってくれるっていうのがまた魅力だったらしくて。

やっぱり片付かないと次に進めないですよ。片付いたら、次のことを1つ考えられるのだと思うんですね。だからそこを早くしてあげたいっていう思いが、私たちはもちろん、ボランティアさんにもあったと思います

ボランティアさんをマッチングするときに工夫をされたことはありますか。

例えば一人暮らしの女性のお宅に入るのだったら、できるだけ女性にいってもらおうとか。高齢の方で、自分では判断が難しい方の場合は、ゆっくり声をかけながらやってくれるような方をマッチングするようにはしていましたね。

手に負えない案件というのはなかったですか。

そういうのはないですね。

多いときは160件というお話でしたが、優先順位は、社協さんが決められていたのですか。

そうですね。本当は電話をかけてきてくれた順に行けばいいんだろうけど、どうしても1日何件こなせるかって考えた時に、いろいろ組み合わせる必要があります。同じ地域でまとめたり、穴水町内でも、片道 30分かかるような離れている場所もあって、そういうところは、午前中にするとか。

あと、環境省からパッカー車(ゴミ収集車)がお手伝いに来てくれる時があったんですね。その時は、事前に行く地域を決めて、そこである程度ゴミを出してもらって、パッカー車が来てまとめて持っていってもらうという事も、エリアごとにやりました。それもすごく効果的だと思います。区長さんから、パッカー車がこの日に来るから、ゴミを出しておいたら持って行ってくれるよって、皆に声を掛けてもらいました。そうやって、いろいろな事をして、今に至ります。

優先順位をつけたときに、先に言ったのにという不満は出なかったのですか。

そういうのはあまりなかったですね。ボランティアさんは、こんな優しい地域住民の方はいないって言っていました。社協に応援に来てくれた他の社協のスタッフたちも、こんなにボランティアさんたちから苦情がないボランティアセンターはないっていうくらい、ボランティアさんもすごく紳士的だったし、地域住民の方からの苦情もなくて。逆に本当に感謝していただきました。

今後への教訓

あの時こうしておけばよかったなと思う点はありますか。

災害への備えってよく言われますが、どこまで備えていたら良かったのか。実際なってみて、これがあったら良かったというものがなかなか思い浮かばない。

ただ、トイレが本当に最初はひどかったので、皆それぞれに簡易トイレの作り方や使用方法の知識があれば、溢れるようなこともなかったのかな。物というより、そういった知識があればよかったかなって思いますね。住民一人一人が、皆そういう知識を頭の隅っこに少しでも持っていれば、また違ったのかなというころもありますね。

あとは防災の心構えというか、いつか来るぞっていっても、きっと自分のところは来ないだろうという思いが、私もそうですけど、どこかにあって。ずっと珠洲で頻発している地震だけど、まさか穴水町に、こんな大きな地震が起こるとは皆きっと思っていなかったと思うんですね。その意識が一番、備えていかなくちゃいけないところかなと思います。

震災を経験して、知ってもらいたいことや教訓はありますか。

一番大事なことは人と人との関わりかなって思いました。避難所の中でも、手伝ってあげたり、困っている人に何かしてあげたり、お願いって言える人がいたり、それはやっぱり日頃の関わり、顔も知っていて、おしゃべりしていれば、声もかけやすかったりするじゃないですか。

あとは、いろいろなところからお話を聴いて思うのは、聴いた内容を繋げていくというか、皆に広めていくことがいいと思います。リアルな話を実際に聴いてどうするかだと思うのですね。

今回できなかったことに対して学んでおこうとか、一人一人の気持ちが大事だと思います。

ボランティアについても、穴水レンジャーズすごいねって言ってくださるのですが、穴水町住民の方がそこに入っていないのですよね。

やっぱりこれからずっと穴水レンジャーズがあるってわけでもないと思うんです。今後、そうなっていった時に、地元の方々が動けるような組織というか、そういうメンバーがいたらもっといいな、若い力が本当に大事だなと思います。

小川さんが社協に行ったことも、繋がりの1つだと思いますが、人と人との関わりやコミュニケーションが活きた場面はありましたか。

自分も実際にそうでしたし、そういう人が多かったんですね。皆さん「なんか手伝うことない?」って来てくれて、それは日頃の社協職員との繋がりがあったからだと思います。そういうことで活きてくるのかなと思うので、私も社協の人間として、そのような関わり方をしていきたいなと常に思っています。

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