石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 避難所・避難生活

皆で知恵を出し合って自主避難所を運営

上出地区区長 宮森正人さん
体験内容
自主避難所の設置・運営に携わった
場所 穴水町
聞き取り日 2025年9月19日

地震発生当初

災害が発生して、避難するまでの状況についてお聞かせください。

午後4時ごろでしたから、テレビを見て、そろそろ夕食かなと話をしている最中でしたね。まずは震度4か5が来て「意外と大きかったな」と話をして、女房がガスを止めに行って、戻ってきて座った時だったかな。震度7が来て、立っていられない。その時、家が潰れるんじゃないかと思ったんです。家が潰れるなら、家に居てもだめだということで、立てないものですから、犬が歩くようにして外へ出て、家が潰れてくるかもしれないから、道路の真ん中まで行きました。

それで、何気なく、家から300メートルほどのところにある駅を見ました。駅と自宅の中間の家が倒壊するのが見えて、これはだめだなと思いましたね。

揺れが収まったら、家を確認して、もうこれは、とてもじゃないけど、住める家じゃないということで、女房と二人で、貴重品や薬を確認して、どこかへ避難しようと言った時に、大津波警報が発令されました。私たちの場合は、大津波警報の発令があったら、JAの建物に行くと決めていたものですから、女房にはJAに行くように言いました。

私は町内会長をしていて、足の悪いお年寄りが町内に3名いて心配になったので、見に行ったんです。まずは近くのところから行って、そこは正月でお子さんが帰ってきていたので、車に乗せて移動していました。次のところは、呼びかけても声が聞こえず、避難先になっているプルートという施設が近くにあるので、そこに行ったのかなと判断しました。もう一軒は少し離れていて、順番に回っていたものですから、行った頃には時間も経っていて、娘さんが車に乗せていました。

それで家に帰ったとき、女房から電話がかかってきたんです。もうJAの4階の方に上がっていて、避難して来た人がいっぱいだと。何人居るかは分からないけど、結構な人がいると。

その時、電気がだめだったからか、発電機のことが頭に浮かんだんですよ。そういうことが頭にあったもので、家に帰って、車のカギと防災倉庫のカギを持って出ました。ここでは防災倉庫を持っていたおかげで、避難所の立ち上げが出来たのだろうと思います。

ちょうど家を出るときに、知人の消防団員の方が来たもので、協力してもらいました。それで、発電機を防災倉庫から出して、でもよく考えたら発電機だけじゃ何もできない。照明の器具とかコードが、防災倉庫じゃなくて、違うところにあるから、そこまで取りに行かなきゃならないんですね。

その消防団員の方は、次は中学校のほうに協力に行きたいというので、ちょうど若者が一人いたのを捕まえて、取りに行きました。場所は祭りの倉庫なんですね。祭りで投光器を使うので、置いてあるのは知っていたわけです。それを取ってきて、JAに持って行った。

どうしてそうしたかは覚えていないのですが、真ん中にテーブルを置いて、その上に2台、投光器を置いて、1台は階段に置いた。この辺りの避難所ではJAで一番早く電気が点いたと思うんですが、そのおかげですね。

私は町内会長をしていて、震災の時で10年目だったんですね。20年前の震災の時、停電があったので、私が会長になってから毎年、自主防災会で防災訓練をしていたんです。防災倉庫も作っていただいたし、防災訓練で何がどこに置いてあるかを把握できていた

防災訓練は、12月の第一日曜にやるんですよ。ちょうど地震の一か月ほど前にしていたんです。避難訓練は必ずやるんですけど、他にも、災害時の講習をやっていました。そのおかげで、投光器を持って行って照明をつければ、ライフラインの一つは確保できると分かっていました。

指定避難所はまず町の職員が入るんですね。発電機も町で準備してある。残念ながらJAは指定避難所になっていない。つまり自主避難所です。だから、最初は役場の人も、一時避難が終われば、すぐに他の避難所に行くと思っていたんじゃないですかね。でも入った人はそう思っていない。ここに来た人は、ここを避難所にしようと思って来ていますから、電気なんかをどうにかしないといけないと思ったんです。

電気をつけたのが19時頃だったかな。それから気が付くことがたくさんあるんですよ。投光器と発電機があっても、一番大事なもの、燃料がないとだめなんですよね。燃料は防災倉庫に少しあった。私の家にもあったので、もう津波は来ないだろうという時間になるまで待って、取りに行きました。1日分、2日目の昼までなら足りる分があったんですよ。

でもいつまでそういう状況が続くか分からないものですから、まず役場の安全課に行って、ガソリンを何とかしてくれんかと言ったんですよ。ただ、役場も手に入れられない。入ったとしても、指定の避難所を優先するから、そのあとでないとうちには入らないんです。2日の昼頃までに何とかするという約束をしてもらって、帰りました。

それで、プルートに防災用の備蓄があったと思い出し、毛布をもらっていこうと思って、役場から帰る途中にプルートに寄りました。そこもたくさんの人がいたんですけど、そこを仕切っている人と知り合いで、毛布を7枚ほどもらったんです。

でもそれは車に積んだままになった。人がいっぱい、120人以上の人がいたので、いま毛布を持って行っても無理だろうと思いました。座るところもないので、毛布を広げるような場所もない

4階のフロントもホールも、寒いんですよ。でかいホールはみんな使わないで、みんなフロアのほうのスペースにいるんですけど、なんでホールに入らないのかというと、天井が落ちて、電気がぶら下がっていたのと、天井が高くて寒いからで、みんな少しでも暖かいところを求めていたんですね。

ガソリンの手配とかをしていたらもう夜中です。建物が吹き抜けになっているので、階段から上がってくる風がすごく冷たい。何か保温する物を持ってこないといけないと考えて、確かブルーシートがあったと思い出しました。階段だけでもふさげれば、ということで何人かと一緒にガムテープとかを持って行って、ブルーシートを張ったんです。それだけでもだいぶ違いました。

避難所運営について

一晩そこで過ごした。ガソリンやらなんやらのことを考えていて、ちょっと思ったのは、役場の人たちは何もしてくれないなと。今になってみると、JAが指定避難所になってないからで、やっぱり指定避難所になるところに職員を配置する、だから全く応援が来ない、というのも分かるんですよ。

そうは言っても、やることはやらないといけないだろうって思っていたんですけど、職員も少ないですからね。少ない中でやっていくことになれば、やっぱり人数的にも指定避難所の方を先にすることになる。プルートは300人ほど、中学校は200人ほどいて、JAは大体120~130人なんですね。

一時避難所ですし、役場の人も、そんな高いところに避難所を作っても、とか、津波が収まれば、みんな他の避難所へ行くだろうというのもあったんでしょう。ただ、もう他の避難所もいっぱいなんですよ。行ったけど、もういっぱいでだめだったと言って戻ってきた人もいましたからね。

だから、その時点で、私は、ある程度の人間はここで避難を要するから、避難場所じゃなくて、避難所にしようということが頭にありました。ですから、自主避難所として立ち上げたということです。

立ち上げる時には、やっぱり色々なことがあるので、最初はハード面で、発電機を持ってくる。投光器を持ってくる。それからブルーシートで保温する。そういうことをほとんど1日寝ずにやっていました。次に頭にあったのは水のことですね。飲料水の備蓄はなかったですが、とりあえずは、明るくなれば、みんなある程度家へ帰って持ってこられるだろうと。家が潰れたり、傾いていたりして、住めないけども、物資は持ってこられるんですね。

朝の9時頃になるともう出ていく人は出ていく。残る人は残るんです。ですから、その時点で、ここで避難生活をする人数が大体把握できました。そうして、ある程度の人数が残り、私がガソリンを手配しに出て行った時、電話があったんですが、最初は4階にみんな避難していたんですけど、会議室が3階にあるので、そこも避難所とすればどうかっていうんですね。

私が帰ってきた時には、もう3階と4階に分かれていましたね。不思議なものでね。誰が言ったわけでもないけど、やっぱり各々の地区がグループとなって、3階は川島地区の人たちが主体、上は大町の人が主体、という分かれ方をしていました

上の階は大体40人ほど、下の階は50人ほどですかね。上の階は、ちょっと40人はきつくて、下はちょっと余裕があるんだけども、降りようとしない。やっぱり仲間意識、今までの付き合いがあるので、そこに寄りたいっていうのもあるんでしょうね。

3階にも照明が必要で、発電機は一つしかないので、発電機の位置を変えて、照明の配置換えをしました。結構時間がかかりました。

それで今度は暖房ですね。これも指定避難所なら役場の人に来てもらったんでしょうけど、そういうのはない。もう暖をとれるものを持ってこい、ファンヒーターはだめだといって集めました。ファンヒーターは発電機の電気を食うし、もしブレーカーが落ちたらだめなんで、石油ストーブを持ってきました。不思議なことに、これも4階に 3台。それから3階に 3台が集まった。石油ストーブはものすごく重宝したんです。

それから食事、炊事をしなきゃならないので、ガスコンロとか鍋とか、たくさんの物を作るときに必要になる。そこで、防災倉庫に、昔使っていた大きい鍋とかお椀、発泡スチロールとか、確か余っていたと思って、それをまた取りに行きました。それは4階に置いて、3階は3階で何とかしていました。

同じJAの建物なんですけど、その時には3階と4階で独立していましたね。そこにはリーダーがいて、それは大体女性なんですよ。男は力仕事です。これから食事や掃除をしなきゃならんとなった時に、どうしても女性のほうが慣れています。それもある程度の年齢のおばちゃん達なんですね。いまはどうか分からないですけど、昔の人は、町内の行事なんかで、婦人会が炊き出しをして、おにぎりを作って、山からとってきた山菜で料理を作ったりしていました。これだけの人数がいたら、どれだけのご飯を炊けばいいのか知っているわけです。それを知っている人たちが、どうしても主体になって、その中でも前に会長をしていたとか、そういう人がリーダーになるんですよ。

私は、最終的に3階と4階両方の責任者ということになったんですが、最初は4階のほうを見ていました。みんな地域に居る人で、分かっていますから、2日のときから、ある材料の中で、何を作るのかをもう話し合っていましたね。

次は名簿ですね。どこの誰がどういう風に入ってきたのか、把握しなきゃならないんですよ。最初は紙なんてないですから、ダンボールに線を引いて、みんなに名前と歳と性別、血液型も書いてと言いました。それを4階も3階も全部やりました。3階にもリーダーがいて、頼むって言ったら、分かったよと言ってくれましたね。後から入ってくる人もいたんですけど、その人たちにもみんな書いてもらうようにしました。

後は、水です。特にトイレなんかは水がないと大変なことになります。みんな我慢していて、2日ぐらいは我慢できる人もいましたけども、このままだと困るなと思っていました。その時、私が普段から汲みに行っていた湧水のことが頭に浮かんだんです。車なら6、7分で行けるところで、その湧水は飲める水だって知っていたので、そこの水を持ってくれば、飲み水にもトイレの水にもなるかなと。結果として、地震の影響で濁ってしまっていて、飲み水としては使えなかったけども、トイレやトイレ掃除には使えると思ったんです。

それをどうやって運ぶかということですけど、不思議なもので、知恵が集まってくるんですね。ペットボトルを用意しようとなって、小さなものから大きなものまで、たくさん集まりました。最初は20本ほど集まったかな。それを若い人たちが持って汲みに行くわけですよ。

次は水をどうやって使うかということになって、いろいろ知恵が出てきました。小便はペットボトルの水で流す。大便はどうするかとなった時に、和式の場合は下に新聞紙を敷いてその上にオムツを敷いて、用を足した後、ゴム手袋を嵌めて包み、ビニール袋に入れて結んで、そして燃えるゴミ袋に入れる。

簡易トイレというか、物資は1~3日は入ってこないんです。その間に我慢できない人もいるわけですから、知恵を出し合って、こういう風にやろうと決めて、全員を3階に集めてミーティングをしました。私がミーティングを進めて、決め事なんかは案を出した人に説明してもらいました。

お年寄りは和式のトイレは使えない、洋式トイレでないとだめだと言う。トイレは暗いですから懐中電灯を持って行かないといけない。一人では無理ですよ。だから朝起きたらトイレが使ったそのまま、ということもありました。でもリーダーになった女の人は、率先して掃除をするんですね。だからリーダーになれるんだと思いました。

次は物資です。何を持ってくるにしても、一度全部見て、足りないものを確認して、メモして、次の時に頼むんですよ。料理にしても献立を作る。何人いて、どれくらいの量が必要かって把握してないと、カップラーメンがあっても1人1個当たらないんです。足りないから。だからそれを小分けにして、人数分作る。助かったのは餅ですね。正月ですから、皆さん餅を持ってきていたので、餅が何個あって、いつまでに食べないといけないのかを全部計算して出していました。

これは誰にでもできるものでもなくて、前に停電してとか、前に世話したことがあってという経験がある人が出来るんですね。若い人もそれに文句を言わずに協力するんです。自然にリーダーとか当番が決まっていきましたね。食事当番や掃除当番、それから換気当番。

健康面では、感染症も2日目から出てきました。本当に良かったのが、近くのクリニックの先生が避難所に上がってきていたことですね。薬局の人と先生がたまたま上がってきていたので、どうすればいいのかと相談して、まず血圧を測る、換気をする、ある程度の運動もする、と教えてもらいました。朝に必ず血圧を測ることを徹底して、一人も欠かさず行っていたと思います。ラジオ体操も行っていたのですが、これはやる人とやらない人がいました。でも7割くらいはしていたかな。あと換気は2~3回。若い人は昼間に仕事に行くので、昼間に残っているのは年寄り、60代以降の者で運営していかないとならない。これも先生が居てくれてよかったです。やっぱり地べたに寝るので、せき込む人が出てきて、一人出てくると連鎖的に、3分の1くらいはせき込んで、熱を出す人も出てくる。先生からは、何かあったらすぐ電話すればいいと言われていて、熱が出た人がいることを言ったらすぐに飛んできてくれました。熱が出ていると不安なんですけど、お医者さんが診てくれるとそれで安心する。やっぱり医者の力というか、とても感心しました。あとは薬も処方箋もなくなったんですけど、お薬手帳を持っていれば出してもらえたんです。その避難所に居たのは20日間ですが、その間に熱冷ましなどをもらうことは結構あって、助かりましたね。

避難所の役割分担のことを話されていましたが、協力していく中で大変だったことは何だったでしょうか。

大変というか、協力する人はするんですけど、協力しない人はしないですね。あの人が何もしてくれないという話も聞きました。何かできる事はないかという人もいました。

でも聞くといろいろあるんですよ。心臓の疾患を持っているとか、本人が言わなきゃ見た目では分からないんです。聞いて初めて、そういう疾患を持っていることが分かって、それを知ればみんな納得しますよね。腰が痛いとか膝が痛いとかでしない人もいましたけど、それはどこでも大小あるんではないですかね。

他にも気の合うものと合わないものがいますから、1回だけ、3階に居られないからって4階に上がってきた人もいます。うちは毎日夜の7時半~8時ごろにミーティングを欠かさずしていました。喧嘩の仲裁もあって、空気が悪かったですから、その時は「こんな時期だし、震災を受けたのはみんな一緒なんだし、怒ったり泣いたりするよりも、笑顔でおったほうがいいんじゃないか。だからできるだけ笑顔でいましょうよ」ということを言った気がします。そのあとはそのような揉め事はなかったですね。

学校の美術の先生もいて、トイレを綺麗にということを絵と文字で貼ってくれたりもしましたね。利用できるものは何でも利用しないと、役場の人たちは何もしてくれないからね。

でもおかげでやりやすかったこともあるんですよ。結構自由にできますから。役場の人が入ると、何するにしても上の人に聞いてからという話になる。ここは自主避難所ですから、ある程度、仕切っている人たちがこれでいいんじゃないかって言えば、そのとおりに行きますからね。その点、物事を進めていくのが早かったですよ。

大体4日ごろになると物資が入ってきたんです。仕分けして、4階でこれが欲しい、3階はこれが欲しいというのをまとめて、自衛隊の物資を持ってくる人に、明日はこれを持ってきてと伝えていました。

必要なものはどこも必要なので、偏ってくるんですよ。紙コップが欲しいっていうと、でかいコップとか、なかなか使いようのないコップも来たりする。でも、仕方ないですよね。どこもないんですから。

逆に使わない物資も来るんですよね。なんで使わない物資を入れるのかと聞いたら、せっかく持ってきてくれたものを返したら失礼にあたるからと言う。でも私は、それは違うと思って、ここにはその物資は間に合っているけど、この物資を欲しがっているところもあるはずなんだから、断るように言いました。最初は、断るのも悪いのでと言っていましたけど、物資を減らすというか、要らないものは要らないと言うようにしましたね。

ミーティングではどのようなことを話していたのですか。

最初は決め事です。役割分担を決めるとか、掃除当番、健康にはこうやって気を付けていこうとか、クリニックの先生から言われたことを皆さんに報告するとか。他愛のない話をするときもありました。

あとは行政のほうから罹災証明の手続きや仮設住宅の書類が何日に届きますとかね。役場のOBの人もいたから、その人達に聞くなりして、私に聞いてくだされば、ある程度教えますというようにしていました。やっぱりそういうことは結構勉強しましたね。最初に教えるときは自分が分からなきゃ説明できないですからね。

自主避難所ということで、物資をもらいにくいなどはありましたか。

自主避難所ですけど、町役場へ行って「ここを避難所として90人くらいの人がいます。そのことを知ってください。物資もその分だけ回してください」ということは、立ち上げて2日の日には伝えていましたから、それで理解してもらいましたね。

そのおかげもあって、人的な協力はないんですけど、物資は回ってきました。何よりも一番先に電気をつけてもらったのはJAなんです。中部電力の人たちが大きな簡易発電機を持ってきて、3階と4階だけの電気とその為のコンセントをつけてくれました。5日の日には電気が通っていましたから、ガソリンの心配をしなくていいわけですよ。これは助かりました。

本格的に電気がついたのは10日過ぎ頃だったかな。1週間ほどは中部電力の電源でやっていましたね。電気がついたら、トイレも明るくなるし、掃除も楽だし。電気のないところに比べてやりやすかったですね。懐中電灯で照らしてやるのとではまったく違うし。

下には簡易トイレが出来ましたし、よかったのは自動車トイレですね。これはウォシュレット付きですし、感謝感激でした。ただ、避難所が4階にあるのがネックなんです。足の悪い人は、どうしても行ったり来たりが大変で使っていませんでしたけど、その時には簡易トイレ用品が物資で入ってきましたから、ミーティングで使い方を確認して、やっていましたね。

高い階の避難所のネックは階段の昇り降り。例えば物資や水を1つ運ぶにしても、もう4階まで上がらないといけない。私は立ち上げ当時、3日ごろまでは昇り降りを50回ほど、25往復くらいしたと思います。20日まで居たんですけど、最後の5日ほど前から足と腰が痛くて、昇り降りするだけでもつらかった。力仕事は男性に任せることになって、役割分担がはっきりしていました。それもあって、男性は何もしていないという文句は出なかったですね。

JAの避難所としての機能はいつまで続いたのでしょうか。

20日間いて、そのあとは違う避難所に引っ越しました。穴水中学校第二体育館に移ったんです。最終的には70名を切るほどですね。もう家が片付いて帰るという人もいました。JAから穴水体育館に移ったときは33名で、16家族ほどですね。あとの人は距離が遠くなるから行きたくないということで、家に帰りました。

今後への教訓

今回の地震を踏まえ、災害の備えとして大事だと思ったことを教えてください。

防災倉庫ですね。あと、避難したとき、発電機はあったけど照明器具、電気コードが同じ場所になかった。ですから必要なもの、電気をつけるなら発電機と照明器具、電気コード一式は同じところにまとめておくことです。

それと水をどこからでもいいから用意すること。トイレをするにしても何にしても水は必要です。飲料水をトイレに使うわけにはいかないので、少し汚くても、川の水でもいいです。

あとは燃料です。行政にお願いしたいこととして、ガソリンとかの燃料は保存がきかないので、備蓄はできないにしても、自主避難所を立ち上げた時に、ある程度は手配できるようなシステムが必要だと思います。

それからやっぱり防災訓練。私たちは、10年間、コロナの時期を3年ほど除いて、12月に日を決めてやってきました。やっておくことが必要だと思うんです。4日ぐらいには物資が入ってくるので、みんなと協力して、いろいろやらないといけないのは大体3日間です。この3日間が一番大変で、どう乗り越えるのかということが大切です

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