体験を語る
- 避難所・避難生活
地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月2日 |
地震発生当初の状況
聞き手
地震発生当初の状況はどうでしたか。
山本さん
私自身は震災直後、富来中学校に避難をしました。本来なら体育館が避難所なんですが、体育館が使えなくて教室に避難していました。
その後、1月19日に学校を再開するので空けてほしいと頼まれたため、領家コミュニティセンターへ移ることになりました。
領家コミュニティセンターは指定避難所ではなく、みなし避難所として仕方なく使用することにしました。1月19日に東さんも含めて領家コミュニティセンターへ30人ほど移りました。
領家コミュニティセンターを運営するにあたり、役場の方からは、「できるだけ地域コミュニティを維持した方がいいだろう。とりあえずこの集落の方を優先に、このコミュニティセンターに避難してほしい。」と言われ、私が避難所のお世話をさせていただきました。
聞き手
山本さんと東さんのお二人が管理されていたということですか。
山本さん
いえ、私を含めて集落の役員3、4人で管理運営しました。
あとは愛知県からの応援職員2名が毎週交代で来ていました。その方々は本当に親身になり、高齢者の話し相手にもなってくれるし、日頃のお世話もちゃんとしていただき、本当に感謝しています。
聞き手
地震発生当時、お二人はどちらにいらっしゃったのですか。
山本さん
私は自宅です。
東さん
私も自宅です。
山本さん
地震発生時、正月なので私の家には富山の息子夫婦とその子供4人が来ており、子供たちは2階でゲームをしていました。最初の地震で「これはちょっとやばい」と、当時は珠洲市の方で地震が頻発していたこともあり、「志賀町でこれなら珠洲は相当すごいだろう」と思い、孫たちには2階から降りてくるよう伝えました。「珠洲市はどうなんだろう」と話をしていたら、いきなり下からドンと揺れが来て、それから最初は縦、次に横、その後は縦か横か斜めかわからない状態でした。一番小さい子がまだ保育園だったので、その子を真ん中にして、スクラムを組むように守っていました。天井から埃は落ちてくるし、電気はぶら下げ型だったので、ものすごい状態でした。
台所の棚はL字アングルで壁に留めてあったのですが、ネジが切れて全部倒れていました。音もすごかったので、多分この地震でアウトかなと思いました。
私の家は人的被害はなかったので、揺れが収まった段階で子供たちを外へ出し、すぐ近くの指定避難所である富来中学校へ避難しました。
私は区長でもあり、防災士の免許も持っていたので、避難してくる方々を中学校の入り口で誘導していました。津波警報も出ていたので、足の悪い方や高齢者もいましたが、無理でも3階へ上がるようお願いしました。
その日は役場の職員も来なかったので、自分たちでなんとか避難所を運営するしかないと思いました。夜は大津波警報もまだ解除されてなかったので、全員が座ったまま夜を明かしました。また、ペットがいる方は、こちらが「建物の中にペットを連れ込めない」と言ったわけではないのですが、遠慮して車中泊していました。
当時は地震直後で混乱もしていたので、正確に何人が避難していたかは掴めませんでした。
聞き手
富来中学校に避難された方はかなりの人数だったのでしょうか。
山本さん
多分300人ぐらいだったかと思います。あまり大きくない学校なので、全員を三階へ上げるとぎゅうぎゅう詰めになりました。
私の家は中規模半壊の判定で解体して今はないのですが、東さんの家はどうでしたか。
東さん
全壊です。
山本さん
かなりすごいことになっていますよね。東さんの家は1階が完全に潰れ、車が下敷きになっていました。当時は家の中にいたそうです。
東さん
被災当日は一人でした。本当は孫たちが2日に来る予定でしたが、その日に来ていたら大変でした。
地震発生時は私の座っていたそばに大屋根がドーンと落ちてきましたが、下敷きにならずに済みました。揺れが収まってからは、開かなくなったドアをやっとの思いで通り外へ出ましたが、靴を履いていなかったので隣の方に草履を借りました。
その時に、娘が「津波が来るよ」と伝えてくれたので、山の方までみんなで逃げました。津波が来なかったので、その足で富来中学校へ向かい、長い間お世話になりました。
そしてこの領家コミュニティセンターに移った後は、トイレが近い部屋を利用させてもらえて本当に幸せやったなと思いました。

山本さん
いや本当にこの状況を見ると、東さんが何ともなかったっていうのは奇跡だと思います。
東さん
道路に塀があり、地震発生時はまだそこに隙間があったので出てくることができましたが、後で見るとそこも崩れていて、命が助かっただけで良かったなと思います。
聞き手
地震が発生してから、自宅には戻られましたか。
東さん
戻れてないです。そのまま中学校にお世話になりました。
支援物資について
聞き手
着替えなどはどうされたのでしょうか。
山本さん
着る物など支援物資が割と早く届きました。
ただ、食べ物は、1月3日に、最初はパン1個ずつ、次の日はおにぎり1個ずつでした。そのうち、役場の方も落ち着いたことで、支援物資が定期的に来るようになりました。
ただ、当時すごいなと思ったことが、1月2日に岡山の方が単身ワゴン車で、うどんを持ってきてくれたことです。
当時、水は学校が高架タンク式で、その配管が破断しており全く使えない状況でした。備蓄の水は2ℓが10~15本ぐらいはありましたが、なかなか水は手に入りませんでした。そのような中で、岡山の方は水も持ってきてくれました。その方が富来中学校に来たのは2日の夜7時頃で、避難していた皆さんは休んでいたので、一晩車中泊をして、次の日に皆さんにうどんを配っていただきました。
避難所の世話をしている私達は、他の避難者を優先したため、うどんは残ってなかったのでスープだけいただきました。すごく温かくて美味しかったです。
1週間後に、その岡山の方が友達を連れて来てくれました。私だったら、そうしたい気持ちはあっても、いざという時にそこまで動けないと思います。
東さん
岡山県から来た方にはお世話になりました。
祭りについて
山本さん
はい、本当に。
愛知県の職員の方にも1週間交代で来ていただきました。その方々にいろいろ話を聞いていると、中にはじゃんけんで負けてきた方や、男気じゃんけんで勝ったから来ましたという方もいました。その中の1人は去年の祭りに来てくれました。嬉しかったです。今年も1人来てくれました。
東さん
賑やかな祭りでしたね。8月23、24の土日ですね。
山本さん
今年は1週間前ですね。
聞き手
地震が起きた年から祭りをしましたか。
山本さん
去年は、通常は2日間の開催のところを半日開催で行いました。こんな状況で祭りをしている場合かという人と、こんな時だからこそ祭りをしないといけないという人で両極端でした。
聞き手
かなりもめましたか。
山本さん
もめるというよりはもう決断です。どうせ怒られるのならやって怒られようと、ただ、お宮さんも痛んでいるので、まともな2日間開催は無理でした。 八幡神社と住吉神社、うちは住吉神社ですけど、往復の祭りなので、その往復だけはどういう形であろうがやろうと、ですから道も傷んでいて、もう担ぐとかは無理なので、神輿とかはトラックに載せて、運んできてもらうという感じでした。
聞き手
神社の鳥居はもう直りましたか。
山本さん
鳥居はようやく、先月の中旬に直りました。
聞き手
石碑も倒れていますね。
山本さん
狛犬とか、灯籠はみんな頭が落ちましたが修復しました。

道路の状況について
聞き手
震災直後の道路の状況はどうでしたか。
山本さん
岡山の方は、本当は輪島か珠洲へ行きたかったらしいですが、道路が通れなくて警察に止められたそうです。その時に、「近くに避難されているところはありますか」と聞き、警察に紹介されてこちらへ来たと言っていました。
当時は、川に架かる橋に段差ができて車が通れる状況ではなく、1か所だけ通れる橋があったので、みんなそこを通ってきたらしいです。
聞き手
よく利用される道路も破断されたのですか。
山本さん
そうですね。道路自体はそんなに傷んでなかったんですが、橋との段差でどうしても車は通れなかったです。
避難所の備蓄について
聞き手
富来中学校に備蓄はありましたか。
山本さん
備蓄があるかもわからない状態でした。職員室や校長室はもちろん鍵がかかっていて、教育委員会や学校からも連絡はありませんでした。
そのため、避難した方々には、領家町区で備蓄していたビスケットや水を配りました。300人ほどいたので、潤沢に配るわけにもいかず、1人1個というような感じでした。
また、毎年、区で防災訓練をしているので、避難所運営の段取りは区の役員が動いてくれました。被災当初、富来中学校だけでなく、自主的に領家コミュニティセンターや、集落の集会場へ避難された方もいましたが、領家コミュニティセンターや集会場は指定避難所ではなく、物資が届かないため、「皆さん順番に指定避難所である富来中学校あるいは地域活性化センターへ行ってください。ここにいても物資は届きません。」とご案内しました。
生活インフラについて
山本さん
発災当初は、周辺の情報が全くありませんでしたが、幸いにも電気は一部地域を除いて来ていて、富来中学校はエアコンが使えました。当時、中学校は、暖房のボイラーの調子が悪かったので、教室ごとにエアコンが設置されていました。ボイラーだったら寒くて無理でしたがエアコンだったので助かりました。
ただ、教室に大きなモニターはありましたが、テレビが映らなかったので情報は来ませんでした。ラジオを持っている方もいましたが、鉄筋の校舎はラジオ電波が入らず、電波を入れるにも窓は寒くて開けられないため、携帯で情報を得ようとしましたが、ちゃんとした情報が入ってきませんでした。情報が得られなかったことが、最初はきつかったです。
次にきつかったのはトイレです。水道は1ヶ月以上止まり、中学校は高架水槽の配管が破断していたため、知り合いの井戸がある人にお願いして、水を汲みに行きました。ちょっと大規模な井戸だったので、大きいポリバケツにザーっと入れられましたが、冬の水は冷たくて大変でした。
1週間ほどして中学校の目の前のお宅の井戸が復旧したため、それからはその井戸水を使わせてもらいました。
トイレは流すところがなく、簡易トイレもなかったので、ゴミ袋を広げた上に新聞を載せ、次の人にしていただいて、また新聞を載せて、3人分ぐらい溜まったら、それを私らが片付けるというのが数日続きました。
東さん
領家コミュニティセンターにいた私は、センターのトイレを使わせてもらいました。本当に感謝しかなかったです。
聞き手
領家コミュニティセンターのトイレは通常通り利用できましたか。
東さん
ええ、できました。
山本さん
領家コミュニティセンターは下水の配管がずれていて、皆さんに使ってもらうとまずいので、ご高齢の方や足腰の悪い方だけ使っていただきました。でもやっぱり直すまではずっとゴミ袋でした。
東さん
やっぱりトイレっていうのは一番肝心ですからね。
聞き手
食事の次に大事になってきますからね。
避難所について
聞き手
1日は津波警報が出ていたので、避難所の3階にいらっしゃったと思うんですが、解除されてから2階や1階に移動されたんですか。
山本さん
そうです。その時はまだ役場の職員が来ていなかったので、私達で、とにかく足の悪い方などは1階の和室、当直室へ、あとは年齢、家族構成を見ながら、2階、3階の教室に振り分けました。
聞き手
振り分けてからは、皆さん座ったままで寝るということはなかったですか。
山本さん
なかったです。
東さん
ある男性の方は、女性と同じ部屋にいたため、女性のいる部屋では眠れずに一晩中ずっと起きていました。
山本さん
私も4日間は中学校の玄関で座って寝ていましたが、人の出入りがあるので全然眠れなかったです。最初の3日間で眠れたのは2時間だけでした。
聞き手
皆さんはお布団など持ってきていたのでしょうか。
山本さん
いや、持ってきてないです。持ってくる余裕なんかないので、どこかから段ボールを持ってきたりしていました。
東さん
それでも布団がありました。私達が使わせてもらったのは、当直室のものだったと思います。
聞き手
中学校に置いてあった布団や毛布、エアコンなどを使って暖を取ったのですね。
山本さん
でも、ほとんどないので、支援物資が来るまでは、みんながそれぞれ持ってきたものを使っていました。東さんのように家が全壊になっていれば無理ですけども、うちは中規模半壊とはいえ、怖いけど家の中に入ろうと思えば入れたので、そこから引っ張り出してきて、孫たちには、これを着て、という風にしていました。
連絡手段について
聞き手
地震発生当初、ご家族との連絡は取れたのですか。
山本さん
取れました。うちは息子夫婦、孫が一緒にいましたので。
割とLINEはつながりました。以前からうちの集落で防災訓練をしている時に、電話はとにかくダメになるだろうということで、いろいろ調べたら、全国を防災の講演で回っている人の話や、本を見ると、LINEは割とつながるとのことで、訓練の時も、LINEをとにかくしてみようというふうにしていました。実際、私も娘が大阪にいますけれども、娘とのLINEはつながりました。
情報収集について
聞き手
高齢の方などLINEをあまりやってない方もいらっしゃいますよね。
山本さん
そうですね。情報収集が携帯ですから、高齢の方はガラケーが多いので、情報収集ができないですね。だから、若い人が情報を見て教えている光景が結構ありました。
ただ、石川県全体の情報として、輪島は火事で大変なことになっているという情報はありますが、ピンポイントでここの情報がなかったです。
聞き手
駐屯所の方が確認して、それを避難所の方々に報告するようなことはなかったのですか。
山本さん
当初は全くなかったですね。役場からも連絡は全くなかったです。
被害状況について
聞き手
この集落には何人くらいいますか。
山本さん
大体30世帯ぐらいです。
聞き手
この地区の方は皆さんが富来中学校に集まるのですか。
山本さん
中学校、あるいは富来小学校か、富来活性化センター、富来支所です。
聞き手
消防の方は、地震が起きた時に別の場所へいっていたのですか。
山本さん
消防の動きまではちょっとわからなかったです。
聞き手
壊れた家を回っていたんですかね。
山本さん
2日に「皆さん大丈夫ですか」とチラッと来られた気はします。
聞き手
具体的に何かしていただいたとかではなく、確認に来られたという感じですか。
山本さん
消防も潰れた家があれば、中に人がいないかの確認などをしているので、安全な場所に避難している人に関わりはそんなに持たなくていいとは思います。
この地震で約300軒のうち約140軒が壊れたり、あるいは解体となりました。
聞き手
今はかなり人口が減ってしまったのでしょうか。
山本さん
減っていますね。
東さん
皆さん子供がいる金沢に行ったりしています。
山本さん
50軒ほど転出しています。
聞き手
東さんのお孫さんは金沢にいますが、避難所で過ごしていたのはどうしてですか。
東さん
富来に娘も1人いますが、一緒に住もうとは思いません。娘にも生活がありますから迷惑はかけられないなと思います。
現在の状況について
聞き手
現在も仮設住宅で過ごしているのですね。
東さん
みんな狭いところだと言っていますが、こんなに良いとこはないと思って、住まわせてもらっています。
聞き手
今はもう布団でも寝られているのですね。
東さん
ベッドを置いて寝ています。仮設住宅の前に集会所があり、午後になると十数人集まるので、必ず行ってお茶を飲んだりしています。
聞き手
集会所でどのようなことをしていますか。
東さん
私はお茶を飲むだけです。カラオケをしたり、絵を描いたりする人もいますし、ボランティアの方々がコンサートしてくれたり、手のマッサージをしてくれたりなど、何回もあります。
聞き手
現在もですか。
東さん
ええ、そんな風にしてもらっています。
聞き手
今は何人ほどいらっしゃるのでしょうか。
東さん
私のところは出た方もいますが60人くらいですかね。
山本さん
もっといますね。60世帯くらいですね。
東さん
今日も役場の人が来て、イベントをするみたいです。
山本さん
東さんのいるところは世帯数の多いので集会所がある仮設住宅です。私がいるところはすぐそこですが世帯数が少ないので、集会場みたいなものがないためイベントも全くないです。
聞き手
避難所では回覧板などで、現況を確認し合うということはありますか。
東さん
あります。この間は、富来中学校でのコンサートのお知らせがポスティングされていました。
町職員
私も全部知っているわけではないですが、介護予防に筋トレや体操などを毎週火曜日にとぎ第二団地(仮設住宅)でやっています。
東さん
火曜日は必ずあるのでありがたいですね。
山本さん
とぎ第六はこういうのが一切ないですからね。
聞き手
とぎ第六の方も一緒に行けたらいいんですけどね。
山本さん
ただ、すぐ横の富来活性化センターで何かあるって行くと、他のところへ行ってもいいよって言われますが行きにくいですね。そこの人じゃないから。
学校再開について
聞き手
学校が再開しようとして、この領家コミュニティセンターへ移ってきたと思いますが、それは 1月のいつくらいでしたか。
山本さん
1月19日だったと思います。
避難所を引き上げても、片付けや、学校を再開する準備などがあるので、19日に出てくださいということでした。
聞き手
学校の再開が結構早いかなと思ったのですがどうでしたか。
山本さん
体育館は全くダメでしたが学校自体は使える状態でした。それに勉強もしなくてはいけないですからね。
聞き手
学校のトイレは使えるようになっていましたか。
山本さん
仮設トイレだったかと思います。
聞き手
給食はどうでしたか。
町職員
給食も間に合わせました。給水車の水などで調理して出していました。
聞き手
中学校も再開になってよかったですね。中学校からの移動も大変だったのではないですか。
山本さん
自分の家からここへ引っ越してとなると荷物がとなりますが、荷物はほとんど持って来ることができなかったので、そんなでもなかったです。
やっぱりご高齢の方は自分で持っていくというのは無理だったので、その方々のものを運ぶのに少し手が入りました。
東さん
私達も連れてきてもらっただけで荷物は全く出せなかったので、かえって良かったです。出したって置くところがないですからね。
仮設住宅について
山本さん
東さんも私も今仮設住宅にいますが、私は夫婦でいるので物を置くところがないです。畳半分ぐらいの押し入れが1個あるだけで、あとは四畳半が2つなので、1つは寝るところ、1つはテレビを見たりご飯を食べたりするところで、そこに冬物をドバッと置くというわけにいかないため、私は親戚の家に預けて、季節になったら引っ張り出してきています。
今まで贅沢だったのかなとも思います。本人は贅沢しているつもりはないですが、今まで大きい家だったので、どこに物を置いても大丈夫でしたが、全く物が置けないので衣替えができないですね。
東さん
金沢にいる孫が昨日来て、部屋をきれいに掃除して、布団のカバーも洗って替えてくれました。
聞き手
仮設住宅は、場所が違っても建物や部屋の造りは同じでしょうか。
山本さん
大体似た感じです。東さんのいるところはプレハブなので暑いですよね。それともエアコンあるし暑くないですか。
東さん
エアコンがあるのと、後ろにドアがあってそこを開けると風も入ってきます。
山本さん
私がいるところは木造の仮設住宅なので、プレハブよりはいいと思います。例えば、今年ほとんど降らなかったですがプレハブは雨の音はすると思います。それと隣の音とかも、プレハブの方がしますね。
東さん
地震が来ると持ち上がる感じもします。あとはやっぱり揺れますね。四角い箱みたいなところにいるけど、やっぱ揺れますね。
山本さん
久々に昨日も下からドーンと地震の揺れがきました。
東さん
震度3か2でしたね。
聞き手
怖い思いをしたのではないですか。
東さん
はい、まだ怖いです。
聞き手
今でも地震の揺れがあると、やっぱりヒヤヒヤしますか。
山本さん
横にゆっくり揺れる分にはそんなにですが、やっぱり下から来る揺れは構えます。
聞き手
規模にもよると思いますが、差があるのですね。
病気の流行の対策について
聞き手
被災直後は、避難してきた方々の怪我や、コロナなどが流行っていたと思いますがどうでしたか。
山本さん
怪我された方はいなかったです。ただ、座ったまま寝るぐらいの密集だったので、インフルエンザとコロナにはかなり気を使いました。
私は4、5日ぐらいずっと玄関にいたので、とにかく来る人には消毒をしていました。
聞き手
体温を測ったりもしましたか。
山本さん
ちょっとという人には測っていました。私たちは富来中学校から領家コミュニティセンターへ順番に移っていましたけども、他の避難所では、クラスターが発生したところがいくつかありました。
私たちの避難所には、看護師さんが1人避難されていたので、とにかく手指消毒は徹底してくれと言われました。
現役の看護師さんなので、みんなで徹底しました。ただ、5月12日まで富来中学校と領家コミュニティセンターと含めて避難生活していたのですが、その間に1人だけ罹りました。ここで罹ったのではなく、他のところへ出て罹ったという人が1人だけいました。罹患者ゼロを目指すぞと言っていたのですが1人だけ出ましたね。 でも、他の避難所でクラスターが出ている中、1人で抑えられたのは良かったと思います。努力の成果ですね。その看護師さんも日中は看護の仕事をして、ここの避難所に来て、また同じように皆さんに注意喚起して大変だったと思います。
聞き手
換気などは頻繁に行われていましたか。
山本さん
頻繁というほどでもなかったですね。寒かったので、時々しかできなかったです。
聞き手
空気がこもったかなと思った時に、窓を開けていました。
東さん
トラブルもなく、よくたくさんでいたものですね。本当に。喧嘩もなく。
聞き手
隣の人の寝息がうるさいみたいなトラブルもなかったのですか。
東さん
いびきをかく人はいました。
洗濯・入浴について
聞き手
昨日お伺いした方は洗濯物を少し貯めて、金沢とかのコインランドリーへ持っていき、お風呂と一緒にというようなことを伺ったのですが同じでしょうか。
山本さん
同じです。被災当初は1週間から10日ぐらいは皆さん洗濯物を貯めていて、羽咋近辺までのコインランドリーはいっぱいで、津幡や金沢の方へお風呂もそうですけど、行っていたみたいです。
ただ、いろいろ話を聞くと洗濯物をいっぱい持ってコインランドリーへ行くと、「どっから来たの?」と聞かれて、「能登の富来からです」と伝えると、「先にどうぞ」と譲ってくださったという話は聞きます。お風呂も例えばたくさんの人が入れる、テルメ金沢などの大きな浴場へ行くと、この辺の人がいっぱいいたと聞きました。避難所の私たちは10日目ぐらいに自衛隊の風呂に入りました。
私は避難所の世話人で金沢まで風呂に入りに行くことはできなかったので、風呂に入らずにいましたが、自衛隊が来てくれて入りました。
聞き手
どんなお風呂ですか。
山本さん
仮設でした。浴槽は水漏れしないようなシートで組んだお風呂でした。
聞き手
洗い場もありましたか。
山本さん
仮設の洗い場もありました。
聞き手
外にテントでも張るのですか。
山本さん
大きいテントの中に脱衣所とお風呂とがあるという感じでした。 自衛隊にお風呂の水を提供してくれたのが、相当の量なのですが、石田生コンクリートさんです。会社が山手のところにあり、生コンに水をいっぱい使うので、そこの井戸の水を自衛隊が往復して運んできて、お風呂を沸かしてくれました。
聞き手
お風呂の温度はどうでしたか。
山本さん
お風呂は快適でした。ただ、仮設で組んだ浴槽で真四角くなっていて割と深かったので、入ったり出たりするのが若干つらかったですね。
浴槽に入るための仮設の階段がグラグラしたので、ちょっと怖かったですが、自衛隊の方もこちらですよ、どうぞ、と案内しくれて、すごく良かったです。
町職員
3ヶ所くらい自衛隊が来てくださっていました。熊野交流センターとB&G海洋センターの前の給水場所とかですね。
聞き手
お風呂までは車で行かれたのですか。
東さん
はい。車で数人が乗り合わせていきました。
聞き手
10日間お風呂に入れなかったので、久しぶりにお風呂に入るのは、とても気持ちよかったのではないですか。
山本さん
避難している方には、何日目かに金沢でお風呂に入ってきた方もいたのですが、私は離れるわけにはいかなかったので、久しぶりのお風呂は気持ちよかったです。
聞き手
一緒にいる方が交代で、お風呂に入りにいくことはありませんでしたか。
山本さん
避難者数も多かったので、私と区の役員3人か4人でお世話をしていたのですが、私が行かないと、その方達も行きにくいので、順番に入りに行こうかという話もしましたが、結局、お互いに遠慮して、何日かすれば自衛隊が来るので、その時まで我慢するかということで、全員入りに行きませんでした。夏ならそんなことできないですけどね。
聞き手
自衛隊の方が来るという情報はありましたか。
山本さん
自衛隊が来る3、4日前には自衛隊が来るらしいという情報はありました。
聞き手
やっぱりどうしても先に、珠洲や輪島のほうへ行ったんですかね。
山本さん
そうですね。
東さん
自衛隊には女性もいました。
避難訓練について
聞き手
今までも避難訓練にはよく参加されていましたか。
山本さん
冒頭でも少し話しましたが、私の集落では7、8年続けて毎年、避難訓練はしていました。
集合場所と、その後の避難場所を皆さんに確認いただき、津波が想定されるので、避難場所は富来中学校という風に決めてありました。
訓練時に中学校が休みの時などはどうするかという話があったので、その時はガラスを割って警報が鳴ってもいいから何とかして中へ入ってほしいというふうに伝えてありました。 ただ、なぜか発災日の1月1日は鍵のかけ忘れなのか、誰かが開けたのかはわからないですが、鍵が開いていたので、ガラスを割らずに中へ入れたので、私達のように中学校の玄関で寝ていた者にとってはよかったです。
聞き手
被災時の状況を踏まえ、避難訓練をしていてよかったと思うところはありますか。
山本さん
海が近いことから津波を想定した避難訓練をしていたため、中学校の向こう側の少し小高くなった場所へほとんどの方が行っていたので、その辺は役に立ったと思います。
聞き手
危険を感じてから皆さんが迅速に行動できたのは避難訓練をしていたおかげだということですね。
山本さん
はい。日頃から訓練をしないと、私はどこへ行けばいいのかわからなくなってしまったと思います。まず自分で自分を助けることを第一にという感じです。訓練のときにどうせ津波は来ないだろうみたいな意識を、少しずつ毎年やることによって変えていくという感じでした。
ただ、最近は、コロナでまとまった行動ができなかったので、2、3年間はまとまっての訓練はなかったです。 役員で通信の訓練をしましたが、みんなが集まって、コロナに罹っても本末転倒なので、少し落ち着いたらまた訓練を再開したいとは思っています。
聞き手
いつもは何月に訓練をしていましたか。
山本さん
10月の最終日曜日の午後からです。区民のグランドゴルフ大会がありますので、午前中に訓練をして、昼からはグランドゴルフという形です。行事で2日間潰すより、どうせなら1 日の方が効率的です。
支援活動について
聞き手
ブルーインパルスが飛んだりいろんな活動があったみたいですね。
山本さん
ブルーインパレスは感動しました。あとは、長渕剛さんがきました。
聞き手
結構いろんな方が来られていますね。
山本さん
ここの避難所は鈴木宗男さんも来ましたね。北海道の国会議員の方でちょっと個性的ですけど。
聞き手
町の広報誌「広報しか」は届いていましたか。
東さん
はい。留守でも、班長がちゃんと届けてくれました。
医療体制について
聞き手
被災直後、診療所は運営されていましたか。
山本さん
この地域は富来病院ですが、病院もかなり被災して、入院していた患者をここではもう診られないというので、他の病院へ搬送するため、他の地域から応援に来た救急車がずっと何十台と並んでいたらしいです。
聞き手
富来病院はこの辺で一番大きい病院ですか。
山本さん
この辺では一番大きい病院です。1年半ほどでようやくオペができるようになりました。
聞き手
最近利用できるようになったのですか。
山本さん
診療自体は割と早めにしていましたが、肝心な手術室は全然使えなくて、1年半ほどでようやく使えるようになりました。
聞き手
避難所にお医者さんが来たことはありましたか。
山本さん
D-MAT や J-MATなど、MATのつくグループがいっぱい来ました。お医者さんのチームや、あるいは理学療法士のチーム、薬剤師のチームなどに結構来ていただいて、「どうですか」、「足にむくみがないですか」などお声かけをいただきました。
どうしても狭い空間であまり体を動かしてないということであれば、エコノミークラス症候群などにも気を使っていただきました。
海岸について
山本さん
海へ行くと砂浜に「桜貝」がたくさんありますよ。拾って彼女にあげると幸せの貝ですよ。
聞き手
さっきベンチのところを少し登りましたが、風が強かったですね。あそこは砂浜まで降りられるのですか。
東さん
工事中で砂浜も少なくなりましたね。
聞き手
昔はもっとあったのですね。砂浜を残そうという活動はないですか。
山本さん
今、石川県が沖合に人工リーフを入れて砂を寄せるという工事をしていますが、1年や2年で終わる話ではないので、千里浜も同じです。何年かかるとかで砂を寄せようというようなことはしていただいていますけど、なかなか自然相手ですからね。
聞き手
砂浜は風がすごく強いところですか。
東さん
海だから強いですね。
山本さん
西向きなので、七尾、穴水側は内浦で、こんな大きな波はないですね。
避難所の運営を経験して
聞き手
こちらの避難所の方はかなり大人数が避難されたということよくわかりましたが、その中で、例えば、住民のトラブルとか、困り事で一番悩ましいことだとか、そういったことを今後の参考のためにも教えていただければと思います。
山本さん
幸いにもここが指定の避難所ではないがゆえに、ここの集落の方を優先に、ここに指定扱いでということで、お互い気心知れた方や、顔見知りということもあって、トラブルはほとんどなかったですね。
そして、皆さんお互いに助け合いという感じでした。その中でも、廊下に弁当やパンなどが置いてあり、それをそれぞれ持って行き、皆さんダンボールベッドで自分のスペースがそこしかないので、ダンボールベッドの上で食事をするというような生活でしたので、気を使って、若い人が、例えば東さんみたいな方に弁当を持ってくるからというふうなこともしていましたが、そのうちそれではダメだと。動かんようになったらダメだから自分でさせていましたね。だからそういうことで動いて、動かなくなるのが減ったというか、そういう面でもお互いに気を使っていい関係ができたのかなというふうには思いますね。

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「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
小橋敦郎さん
「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

