石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 避難所・避難生活

地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営

領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
体験内容
領家コミュニティセンターの避難所運営に携わった。
場所 志賀町
聞き取り日 2025年9月2日

地震発生当初の状況

地震発生当初の状況はどうでしたか。

私自身は震災直後、富来中学校に避難をしました。本来なら体育館が避難所なんですが、体育館が使えなくて教室に避難していました。

その後、1月19日に学校を再開するので空けてほしいと頼まれたため、領家コミュニティセンターへ移ることになりました。

領家コミュニティセンターは指定避難所ではなく、みなし避難所として仕方なく使用することにしました。1月19日に東さんも含めて領家コミュニティセンターへ30人ほど移りました。

領家コミュニティセンターを運営するにあたり、役場の方からは、「できるだけ地域コミュニティを維持した方がいいだろう。とりあえずこの集落の方を優先に、このコミュニティセンターに避難してほしい。」と言われ、私が避難所のお世話をさせていただきました。

山本さんと東さんのお二人が管理されていたということですか。

いえ、私を含めて集落の役員3、4人で管理運営しました。

あとは愛知県からの応援職員2名が毎週交代で来ていました。その方々は本当に親身になり、高齢者の話し相手にもなってくれるし、日頃のお世話もちゃんとしていただき、本当に感謝しています。

地震発生当時、お二人はどちらにいらっしゃったのですか。

私は自宅です。

私も自宅です。

地震発生時、正月なので私の家には富山の息子夫婦とその子供4人が来ており、子供たちは2階でゲームをしていました。最初の地震で「これはちょっとやばい」と、当時は珠洲市の方で地震が頻発していたこともあり、「志賀町でこれなら珠洲は相当すごいだろう」と思い、孫たちには2階から降りてくるよう伝えました。「珠洲市はどうなんだろう」と話をしていたら、いきなり下からドンと揺れが来て、それから最初は縦、次に横、その後は縦か横か斜めかわからない状態でした。一番小さい子がまだ保育園だったので、その子を真ん中にして、スクラムを組むように守っていました。天井から埃は落ちてくるし、電気はぶら下げ型だったので、ものすごい状態でした。

台所の棚はL字アングルで壁に留めてあったのですが、ネジが切れて全部倒れていました。音もすごかったので、多分この地震でアウトかなと思いました。

私の家は人的被害はなかったので、揺れが収まった段階で子供たちを外へ出し、すぐ近くの指定避難所である富来中学校へ避難しました。

私は区長でもあり、防災士の免許も持っていたので、避難してくる方々を中学校の入り口で誘導していました。津波警報も出ていたので、足の悪い方や高齢者もいましたが、無理でも3階へ上がるようお願いしました

その日は役場の職員も来なかったので、自分たちでなんとか避難所を運営するしかないと思いました。夜は大津波警報もまだ解除されてなかったので、全員が座ったまま夜を明かしました。また、ペットがいる方は、こちらが「建物の中にペットを連れ込めない」と言ったわけではないのですが、遠慮して車中泊していました。

当時は地震直後で混乱もしていたので、正確に何人が避難していたかは掴めませんでした。

富来中学校に避難された方はかなりの人数だったのでしょうか。

多分300人ぐらいだったかと思います。あまり大きくない学校なので、全員を三階へ上げるとぎゅうぎゅう詰めになりました。

私の家は中規模半壊の判定で解体して今はないのですが、東さんの家はどうでしたか。

全壊です。

かなりすごいことになっていますよね。東さんの家は1階が完全に潰れ、車が下敷きになっていました。当時は家の中にいたそうです。

被災当日は一人でした。本当は孫たちが2日に来る予定でしたが、その日に来ていたら大変でした。

地震発生時は私の座っていたそばに大屋根がドーンと落ちてきましたが、下敷きにならずに済みました。揺れが収まってからは、開かなくなったドアをやっとの思いで通り外へ出ましたが、靴を履いていなかったので隣の方に草履を借りました。

その時に、娘が「津波が来るよ」と伝えてくれたので、山の方までみんなで逃げました。津波が来なかったので、その足で富来中学校へ向かい、長い間お世話になりました。

そしてこの領家コミュニティセンターに移った後は、トイレが近い部屋を利用させてもらえて本当に幸せやったなと思いました。

全壊となった東さんのご自宅

いや本当にこの状況を見ると、東さんが何ともなかったっていうのは奇跡だと思います。

道路に塀があり、地震発生時はまだそこに隙間があったので出てくることができましたが、後で見るとそこも崩れていて、命が助かっただけで良かったなと思います。

地震が発生してから、自宅には戻られましたか。

戻れてないです。そのまま中学校にお世話になりました。

支援物資について

着替えなどはどうされたのでしょうか。

着る物など支援物資が割と早く届きました。

ただ、食べ物は、1月3日に、最初はパン1個ずつ、次の日はおにぎり1個ずつでした。そのうち、役場の方も落ち着いたことで、支援物資が定期的に来るようになりました

ただ、当時すごいなと思ったことが、1月2日に岡山の方が単身ワゴン車で、うどんを持ってきてくれたことです。

当時、水は学校が高架タンク式で、その配管が破断しており全く使えない状況でした。備蓄の水は2ℓが10~15本ぐらいはありましたが、なかなか水は手に入りませんでした。そのような中で、岡山の方は水も持ってきてくれました。その方が富来中学校に来たのは2日の夜7時頃で、避難していた皆さんは休んでいたので、一晩車中泊をして、次の日に皆さんにうどんを配っていただきました。

避難所の世話をしている私達は、他の避難者を優先したため、うどんは残ってなかったのでスープだけいただきました。すごく温かくて美味しかったです。

1週間後に、その岡山の方が友達を連れて来てくれました。私だったら、そうしたい気持ちはあっても、いざという時にそこまで動けないと思います。

岡山県から来た方にはお世話になりました。

祭りについて

はい、本当に。

愛知県の職員の方にも1週間交代で来ていただきました。その方々にいろいろ話を聞いていると、中にはじゃんけんで負けてきた方や、男気じゃんけんで勝ったから来ましたという方もいました。その中の1人は去年の祭りに来てくれました。嬉しかったです。今年も1人来てくれました。

賑やかな祭りでしたね。8月23、24の土日ですね。

今年は1週間前ですね。

地震が起きた年から祭りをしましたか。

去年は、通常は2日間の開催のところを半日開催で行いました。こんな状況で祭りをしている場合かという人と、こんな時だからこそ祭りをしないといけないという人で両極端でした

かなりもめましたか。

もめるというよりはもう決断です。どうせ怒られるのならやって怒られようと、ただ、お宮さんも痛んでいるので、まともな2日間開催は無理でした。 八幡神社と住吉神社、うちは住吉神社ですけど、往復の祭りなので、その往復だけはどういう形であろうがやろうと、ですから道も傷んでいて、もう担ぐとかは無理なので、神輿とかはトラックに載せて、運んできてもらうという感じでした。

神社の鳥居はもう直りましたか。

鳥居はようやく、先月の中旬に直りました。

石碑も倒れていますね。

狛犬とか、灯籠はみんな頭が落ちましたが修復しました。

修復した住吉神社の鳥居や石碑、狛犬、灯篭

道路の状況について

震災直後の道路の状況はどうでしたか。

岡山の方は、本当は輪島か珠洲へ行きたかったらしいですが、道路が通れなくて警察に止められたそうです。その時に、「近くに避難されているところはありますか」と聞き、警察に紹介されてこちらへ来たと言っていました。

当時は、川に架かる橋に段差ができて車が通れる状況ではなく、1か所だけ通れる橋があったので、みんなそこを通ってきたらしいです。

よく利用される道路も破断されたのですか。

そうですね。道路自体はそんなに傷んでなかったんですが、橋との段差でどうしても車は通れなかったです。

避難所の備蓄について

富来中学校に備蓄はありましたか。

備蓄があるかもわからない状態でした。職員室や校長室はもちろん鍵がかかっていて、教育委員会や学校からも連絡はありませんでした。

そのため、避難した方々には、領家町区で備蓄していたビスケットや水を配りました。300人ほどいたので、潤沢に配るわけにもいかず、1人1個というような感じでした

また、毎年、区で防災訓練をしているので、避難所運営の段取りは区の役員が動いてくれました。被災当初、富来中学校だけでなく、自主的に領家コミュニティセンターや、集落の集会場へ避難された方もいましたが、領家コミュニティセンターや集会場は指定避難所ではなく、物資が届かないため、「皆さん順番に指定避難所である富来中学校あるいは地域活性化センターへ行ってください。ここにいても物資は届きません。」とご案内しました

生活インフラについて

発災当初は、周辺の情報が全くありませんでしたが、幸いにも電気は一部地域を除いて来ていて、富来中学校はエアコンが使えました。当時、中学校は、暖房のボイラーの調子が悪かったので、教室ごとにエアコンが設置されていました。ボイラーだったら寒くて無理でしたがエアコンだったので助かりました。

ただ、教室に大きなモニターはありましたが、テレビが映らなかったので情報は来ませんでした。ラジオを持っている方もいましたが、鉄筋の校舎はラジオ電波が入らず、電波を入れるにも窓は寒くて開けられないため、携帯で情報を得ようとしましたが、ちゃんとした情報が入ってきませんでした。情報が得られなかったことが、最初はきつかったです。

次にきつかったのはトイレです。水道は1ヶ月以上止まり、中学校は高架水槽の配管が破断していたため、知り合いの井戸がある人にお願いして、水を汲みに行きました。ちょっと大規模な井戸だったので、大きいポリバケツにザーっと入れられましたが、冬の水は冷たくて大変でした。

1週間ほどして中学校の目の前のお宅の井戸が復旧したため、それからはその井戸水を使わせてもらいました。

トイレは流すところがなく、簡易トイレもなかったので、ゴミ袋を広げた上に新聞を載せ、次の人にしていただいて、また新聞を載せて、3人分ぐらい溜まったら、それを私らが片付けるというのが数日続きました

領家コミュニティセンターにいた私は、センターのトイレを使わせてもらいました。本当に感謝しかなかったです。

領家コミュニティセンターのトイレは通常通り利用できましたか。

ええ、できました。

領家コミュニティセンターは下水の配管がずれていて、皆さんに使ってもらうとまずいので、ご高齢の方や足腰の悪い方だけ使っていただきました。でもやっぱり直すまではずっとゴミ袋でした。

やっぱりトイレっていうのは一番肝心ですからね。

食事の次に大事になってきますからね。

避難所について

1日は津波警報が出ていたので、避難所の3階にいらっしゃったと思うんですが、解除されてから2階や1階に移動されたんですか。

そうです。その時はまだ役場の職員が来ていなかったので、私達で、とにかく足の悪い方などは1階の和室、当直室へ、あとは年齢、家族構成を見ながら、2階、3階の教室に振り分けました

振り分けてからは、皆さん座ったままで寝るということはなかったですか。

なかったです。

ある男性の方は、女性と同じ部屋にいたため、女性のいる部屋では眠れずに一晩中ずっと起きていました。

私も4日間は中学校の玄関で座って寝ていましたが、人の出入りがあるので全然眠れなかったです。最初の3日間で眠れたのは2時間だけでした。

皆さんはお布団など持ってきていたのでしょうか。

いや、持ってきてないです。持ってくる余裕なんかないので、どこかから段ボールを持ってきたりしていました。

それでも布団がありました。私達が使わせてもらったのは、当直室のものだったと思います。

中学校に置いてあった布団や毛布、エアコンなどを使って暖を取ったのですね。

でも、ほとんどないので、支援物資が来るまでは、みんながそれぞれ持ってきたものを使っていました。東さんのように家が全壊になっていれば無理ですけども、うちは中規模半壊とはいえ、怖いけど家の中に入ろうと思えば入れたので、そこから引っ張り出してきて、孫たちには、これを着て、という風にしていました。

連絡手段について

地震発生当初、ご家族との連絡は取れたのですか。

取れました。うちは息子夫婦、孫が一緒にいましたので。

割とLINEはつながりました。以前からうちの集落で防災訓練をしている時に、電話はとにかくダメになるだろうということで、いろいろ調べたら、全国を防災の講演で回っている人の話や、本を見ると、LINEは割とつながるとのことで、訓練の時も、LINEをとにかくしてみようというふうにしていました。実際、私も娘が大阪にいますけれども、娘とのLINEはつながりました。

情報収集について

高齢の方などLINEをあまりやってない方もいらっしゃいますよね。

そうですね。情報収集が携帯ですから、高齢の方はガラケーが多いので、情報収集ができないですね。だから、若い人が情報を見て教えている光景が結構ありました

ただ、石川県全体の情報として、輪島は火事で大変なことになっているという情報はありますが、ピンポイントでここの情報がなかったです。

駐屯所の方が確認して、それを避難所の方々に報告するようなことはなかったのですか。

当初は全くなかったですね。役場からも連絡は全くなかったです。

被害状況について

この集落には何人くらいいますか。

大体30世帯ぐらいです。

この地区の方は皆さんが富来中学校に集まるのですか。

中学校、あるいは富来小学校か、富来活性化センター、富来支所です。

消防の方は、地震が起きた時に別の場所へいっていたのですか。

消防の動きまではちょっとわからなかったです。

壊れた家を回っていたんですかね。

2日に「皆さん大丈夫ですか」とチラッと来られた気はします。

具体的に何かしていただいたとかではなく、確認に来られたという感じですか。

消防も潰れた家があれば、中に人がいないかの確認などをしているので、安全な場所に避難している人に関わりはそんなに持たなくていいとは思います。

この地震で約300軒のうち約140軒が壊れたり、あるいは解体となりました。

今はかなり人口が減ってしまったのでしょうか。

減っていますね。

皆さん子供がいる金沢に行ったりしています。

50軒ほど転出しています。

東さんのお孫さんは金沢にいますが、避難所で過ごしていたのはどうしてですか。

富来に娘も1人いますが、一緒に住もうとは思いません。娘にも生活がありますから迷惑はかけられないなと思います。

現在の状況について

現在も仮設住宅で過ごしているのですね。

みんな狭いところだと言っていますが、こんなに良いとこはないと思って、住まわせてもらっています。

今はもう布団でも寝られているのですね。

ベッドを置いて寝ています。仮設住宅の前に集会所があり、午後になると十数人集まるので、必ず行ってお茶を飲んだりしています。

集会所でどのようなことをしていますか。

私はお茶を飲むだけです。カラオケをしたり、絵を描いたりする人もいますし、ボランティアの方々がコンサートしてくれたり、手のマッサージをしてくれたりなど、何回もあります。

現在もですか。

ええ、そんな風にしてもらっています。

今は何人ほどいらっしゃるのでしょうか。

私のところは出た方もいますが60人くらいですかね。

もっといますね。60世帯くらいですね。

今日も役場の人が来て、イベントをするみたいです。

東さんのいるところは世帯数の多いので集会所がある仮設住宅です。私がいるところはすぐそこですが世帯数が少ないので、集会場みたいなものがないためイベントも全くないです。

避難所では回覧板などで、現況を確認し合うということはありますか。

あります。この間は、富来中学校でのコンサートのお知らせがポスティングされていました。

私も全部知っているわけではないですが、介護予防に筋トレや体操などを毎週火曜日にとぎ第二団地(仮設住宅)でやっています。

火曜日は必ずあるのでありがたいですね。

とぎ第六はこういうのが一切ないですからね。

とぎ第六の方も一緒に行けたらいいんですけどね。

ただ、すぐ横の富来活性化センターで何かあるって行くと、他のところへ行ってもいいよって言われますが行きにくいですね。そこの人じゃないから。

学校再開について

学校が再開しようとして、この領家コミュニティセンターへ移ってきたと思いますが、それは 1月のいつくらいでしたか。

1月19日だったと思います。

避難所を引き上げても、片付けや、学校を再開する準備などがあるので、19日に出てくださいということでした。

学校の再開が結構早いかなと思ったのですがどうでしたか。

体育館は全くダメでしたが学校自体は使える状態でした。それに勉強もしなくてはいけないですからね。

学校のトイレは使えるようになっていましたか。

仮設トイレだったかと思います。

給食はどうでしたか。

給食も間に合わせました。給水車の水などで調理して出していました。

中学校も再開になってよかったですね。中学校からの移動も大変だったのではないですか。

自分の家からここへ引っ越してとなると荷物がとなりますが、荷物はほとんど持って来ることができなかったので、そんなでもなかったです。

やっぱりご高齢の方は自分で持っていくというのは無理だったので、その方々のものを運ぶのに少し手が入りました。

私達も連れてきてもらっただけで荷物は全く出せなかったので、かえって良かったです。出したって置くところがないですからね。

仮設住宅について

東さんも私も今仮設住宅にいますが、私は夫婦でいるので物を置くところがないです。畳半分ぐらいの押し入れが1個あるだけで、あとは四畳半が2つなので、1つは寝るところ、1つはテレビを見たりご飯を食べたりするところで、そこに冬物をドバッと置くというわけにいかないため、私は親戚の家に預けて、季節になったら引っ張り出してきています。

今まで贅沢だったのかなとも思います。本人は贅沢しているつもりはないですが、今まで大きい家だったので、どこに物を置いても大丈夫でしたが、全く物が置けないので衣替えができないですね。

金沢にいる孫が昨日来て、部屋をきれいに掃除して、布団のカバーも洗って替えてくれました。

仮設住宅は、場所が違っても建物や部屋の造りは同じでしょうか。

大体似た感じです。東さんのいるところはプレハブなので暑いですよね。それともエアコンあるし暑くないですか。

エアコンがあるのと、後ろにドアがあってそこを開けると風も入ってきます。

私がいるところは木造の仮設住宅なので、プレハブよりはいいと思います。例えば、今年ほとんど降らなかったですがプレハブは雨の音はすると思います。それと隣の音とかも、プレハブの方がしますね。

地震が来ると持ち上がる感じもします。あとはやっぱり揺れますね。四角い箱みたいなところにいるけど、やっぱ揺れますね。

久々に昨日も下からドーンと地震の揺れがきました。

震度3か2でしたね。

怖い思いをしたのではないですか。

はい、まだ怖いです。

今でも地震の揺れがあると、やっぱりヒヤヒヤしますか。

横にゆっくり揺れる分にはそんなにですが、やっぱり下から来る揺れは構えます。

規模にもよると思いますが、差があるのですね。

病気の流行の対策について

被災直後は、避難してきた方々の怪我や、コロナなどが流行っていたと思いますがどうでしたか。

怪我された方はいなかったです。ただ、座ったまま寝るぐらいの密集だったので、インフルエンザとコロナにはかなり気を使いました

私は4、5日ぐらいずっと玄関にいたので、とにかく来る人には消毒をしていました。

体温を測ったりもしましたか。

ちょっとという人には測っていました。私たちは富来中学校から領家コミュニティセンターへ順番に移っていましたけども、他の避難所では、クラスターが発生したところがいくつかありました。

私たちの避難所には、看護師さんが1人避難されていたので、とにかく手指消毒は徹底してくれと言われました。

現役の看護師さんなので、みんなで徹底しました。ただ、5月12日まで富来中学校と領家コミュニティセンターと含めて避難生活していたのですが、その間に1人だけ罹りました。ここで罹ったのではなく、他のところへ出て罹ったという人が1人だけいました。罹患者ゼロを目指すぞと言っていたのですが1人だけ出ましたね。 でも、他の避難所でクラスターが出ている中、1人で抑えられたのは良かったと思います。努力の成果ですね。その看護師さんも日中は看護の仕事をして、ここの避難所に来て、また同じように皆さんに注意喚起して大変だったと思います。

換気などは頻繁に行われていましたか。

頻繁というほどでもなかったですね。寒かったので、時々しかできなかったです。

空気がこもったかなと思った時に、窓を開けていました。

トラブルもなく、よくたくさんでいたものですね。本当に。喧嘩もなく。

隣の人の寝息がうるさいみたいなトラブルもなかったのですか。

いびきをかく人はいました。

洗濯・入浴について

昨日お伺いした方は洗濯物を少し貯めて、金沢とかのコインランドリーへ持っていき、お風呂と一緒にというようなことを伺ったのですが同じでしょうか。

同じです。被災当初は1週間から10日ぐらいは皆さん洗濯物を貯めていて、羽咋近辺までのコインランドリーはいっぱいで、津幡や金沢の方へお風呂もそうですけど、行っていたみたいです

ただ、いろいろ話を聞くと洗濯物をいっぱい持ってコインランドリーへ行くと、「どっから来たの?」と聞かれて、「能登の富来からです」と伝えると、「先にどうぞ」と譲ってくださったという話は聞きます。お風呂も例えばたくさんの人が入れる、テルメ金沢などの大きな浴場へ行くと、この辺の人がいっぱいいたと聞きました。避難所の私たちは10日目ぐらいに自衛隊の風呂に入りました

私は避難所の世話人で金沢まで風呂に入りに行くことはできなかったので、風呂に入らずにいましたが、自衛隊が来てくれて入りました

どんなお風呂ですか。

仮設でした。浴槽は水漏れしないようなシートで組んだお風呂でした。

洗い場もありましたか。

仮設の洗い場もありました。

外にテントでも張るのですか。

大きいテントの中に脱衣所とお風呂とがあるという感じでした。 自衛隊にお風呂の水を提供してくれたのが、相当の量なのですが、石田生コンクリートさんです。会社が山手のところにあり、生コンに水をいっぱい使うので、そこの井戸の水を自衛隊が往復して運んできて、お風呂を沸かしてくれました。

お風呂の温度はどうでしたか。

お風呂は快適でした。ただ、仮設で組んだ浴槽で真四角くなっていて割と深かったので、入ったり出たりするのが若干つらかったですね。

浴槽に入るための仮設の階段がグラグラしたので、ちょっと怖かったですが、自衛隊の方もこちらですよ、どうぞ、と案内しくれて、すごく良かったです。

3ヶ所くらい自衛隊が来てくださっていました。熊野交流センターとB&G海洋センターの前の給水場所とかですね。

お風呂までは車で行かれたのですか。

はい。車で数人が乗り合わせていきました。

10日間お風呂に入れなかったので、久しぶりにお風呂に入るのは、とても気持ちよかったのではないですか。

避難している方には、何日目かに金沢でお風呂に入ってきた方もいたのですが、私は離れるわけにはいかなかったので、久しぶりのお風呂は気持ちよかったです。

一緒にいる方が交代で、お風呂に入りにいくことはありませんでしたか。

避難者数も多かったので、私と区の役員3人か4人でお世話をしていたのですが、私が行かないと、その方達も行きにくいので、順番に入りに行こうかという話もしましたが、結局、お互いに遠慮して、何日かすれば自衛隊が来るので、その時まで我慢するかということで、全員入りに行きませんでした。夏ならそんなことできないですけどね。

自衛隊の方が来るという情報はありましたか。

自衛隊が来る3、4日前には自衛隊が来るらしいという情報はありました。

やっぱりどうしても先に、珠洲や輪島のほうへ行ったんですかね。

そうですね。

自衛隊には女性もいました。

避難訓練について

今までも避難訓練にはよく参加されていましたか。

冒頭でも少し話しましたが、私の集落では7、8年続けて毎年、避難訓練はしていました。

集合場所と、その後の避難場所を皆さんに確認いただき、津波が想定されるので、避難場所は富来中学校という風に決めてありました。

訓練時に中学校が休みの時などはどうするかという話があったので、その時はガラスを割って警報が鳴ってもいいから何とかして中へ入ってほしいというふうに伝えてありました。 ただ、なぜか発災日の1月1日は鍵のかけ忘れなのか、誰かが開けたのかはわからないですが、鍵が開いていたので、ガラスを割らずに中へ入れたので、私達のように中学校の玄関で寝ていた者にとってはよかったです。

被災時の状況を踏まえ、避難訓練をしていてよかったと思うところはありますか。

海が近いことから津波を想定した避難訓練をしていたため、中学校の向こう側の少し小高くなった場所へほとんどの方が行っていたので、その辺は役に立ったと思います。

危険を感じてから皆さんが迅速に行動できたのは避難訓練をしていたおかげだということですね。

はい。日頃から訓練をしないと、私はどこへ行けばいいのかわからなくなってしまったと思います。まず自分で自分を助けることを第一にという感じです。訓練のときにどうせ津波は来ないだろうみたいな意識を、少しずつ毎年やることによって変えていくという感じでした

ただ、最近は、コロナでまとまった行動ができなかったので、2、3年間はまとまっての訓練はなかったです。 役員で通信の訓練をしましたが、みんなが集まって、コロナに罹っても本末転倒なので、少し落ち着いたらまた訓練を再開したいとは思っています。

いつもは何月に訓練をしていましたか。

10月の最終日曜日の午後からです。区民のグランドゴルフ大会がありますので、午前中に訓練をして、昼からはグランドゴルフという形です。行事で2日間潰すより、どうせなら1 日の方が効率的です。

支援活動について

ブルーインパルスが飛んだりいろんな活動があったみたいですね。

ブルーインパレスは感動しました。あとは、長渕剛さんがきました。

結構いろんな方が来られていますね。

ここの避難所は鈴木宗男さんも来ましたね。北海道の国会議員の方でちょっと個性的ですけど。

町の広報誌「広報しか」は届いていましたか。

はい。留守でも、班長がちゃんと届けてくれました。

医療体制について

被災直後、診療所は運営されていましたか。

この地域は富来病院ですが、病院もかなり被災して、入院していた患者をここではもう診られないというので、他の病院へ搬送するため、他の地域から応援に来た救急車がずっと何十台と並んでいたらしいです。

富来病院はこの辺で一番大きい病院ですか。

この辺では一番大きい病院です。1年半ほどでようやくオペができるようになりました。

最近利用できるようになったのですか。

診療自体は割と早めにしていましたが、肝心な手術室は全然使えなくて、1年半ほどでようやく使えるようになりました。

避難所にお医者さんが来たことはありましたか。

D-MAT や J-MATなど、MATのつくグループがいっぱい来ました。お医者さんのチームや、あるいは理学療法士のチーム、薬剤師のチームなどに結構来ていただいて、「どうですか」、「足にむくみがないですか」などお声かけをいただきました

どうしても狭い空間であまり体を動かしてないということであれば、エコノミークラス症候群などにも気を使っていただきました。

海岸について

海へ行くと砂浜に「桜貝」がたくさんありますよ。拾って彼女にあげると幸せの貝ですよ。

さっきベンチのところを少し登りましたが、風が強かったですね。あそこは砂浜まで降りられるのですか。

工事中で砂浜も少なくなりましたね。

昔はもっとあったのですね。砂浜を残そうという活動はないですか。

今、石川県が沖合に人工リーフを入れて砂を寄せるという工事をしていますが、1年や2年で終わる話ではないので、千里浜も同じです。何年かかるとかで砂を寄せようというようなことはしていただいていますけど、なかなか自然相手ですからね。

砂浜は風がすごく強いところですか。

海だから強いですね。

西向きなので、七尾、穴水側は内浦で、こんな大きな波はないですね。

避難所の運営を経験して

こちらの避難所の方はかなり大人数が避難されたということよくわかりましたが、その中で、例えば、住民のトラブルとか、困り事で一番悩ましいことだとか、そういったことを今後の参考のためにも教えていただければと思います。

幸いにもここが指定の避難所ではないがゆえに、ここの集落の方を優先に、ここに指定扱いでということで、お互い気心知れた方や、顔見知りということもあって、トラブルはほとんどなかったですね。

そして、皆さんお互いに助け合いという感じでした。その中でも、廊下に弁当やパンなどが置いてあり、それをそれぞれ持って行き、皆さんダンボールベッドで自分のスペースがそこしかないので、ダンボールベッドの上で食事をするというような生活でしたので、気を使って、若い人が、例えば東さんみたいな方に弁当を持ってくるからというふうなこともしていましたが、そのうちそれではダメだと。動かんようになったらダメだから自分でさせていましたね。だからそういうことで動いて、動かなくなるのが減ったというか、そういう面でもお互いに気を使っていい関係ができたのかなというふうには思いますね。

当時のことを語る山本さんと東さん

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