体験を語る
- 避難所・避難生活
防災士の知識も活かして、避難所を運営

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月17日 |
災害発生時の状況
聞き手
災害が発生し、避難するまでの状況についてお聞かせいただければと思います。
濱中さん
どこの家庭も同じだと思うんですけど、元日で、子ども達も帰省していたんです。私は釣りが好きで、船を持っていて、朝も釣りに行ったんです。すごく魚が釣れました。後から思ったんですが、何十年も釣りをしとって、年末から元日の時に、これだけ魚が釣れた記憶がなかったんですよ。後付けになりますけど、そういう予兆があったんかなと思いました。
釣りが終わって、家に上がり、正月ですからお酒を飲みました。ちょっと酔ったもので、2階で寝とったんです。そうしたら突然ドカッと来た。私の寝室はタンスとかそういう家具もなくて、隣の部屋にあるんですけど、部屋から出ようかなって思ったら、隣の部屋が全部倒れてきて、なかなか出られない。なんとか乗り越えて下に行ったんですけども、その時はたまたま子どもたちがコンビニへ買い物に行っていて、私しかいなかった。
家のすぐ後ろの高台が津波の避難場所になっているんですね。私はすぐ高台へ上がりまして、高台から海が見えるので、東日本大震災のことを思い出して、絶対津波が来るなって、水平線を見ました。
真下の岸を見ると、道路があって、そこに波返しがあるんですよ。3メートルと2メートルのものです。第一波が来た時に、一番高いところは乗り越えなかったんですけど、次に低いところに行ったら全部道路に入っちゃった。これは絶対危ないと思いました。第一波が来て、津波が一旦、海の底が見えるくらい引くんですよ。第二波が来て、それが落ち着いて、もう大丈夫かなということで、高台から下に降りていきました。
私は公民館の館長もしているので、まず公民館へ行きました。公民館は海抜が低いから、津波の避難所にはなっていなくて、兜の小学校が津波の避難所になっているんです。そうしたら、公民館に避難している方は 2、3人しかいなかった。区長さんはじめ、集落でお年寄りとかの安否確認に回ったんですが、ほとんどの方が小学校のほうへ行っていました。1時間ほどして、私も行ったんですが、その時にはもうすでに体育館はいっぱいでした。350人ほどいて、当初は帰省客もいましたから、そのときが一番多かったです。
避難生活の開始
濱中さん
幸い、令和 6年に防災士の資格を取ったばかりで、研修を受けた時の防災士協会の説明が頭にしっかり残っていたんです。あまり慌てませんでした。
停電ですし、寒いですし、皆さんが集まって、お正月ですから、おせち料理を持ち寄って食べました。石油ストーブも持ち寄って、その一晩は皆さん、多分寝ないで夜を明かしたと思います。
私は、これは長期戦になると感じましたね。これも偶然が重なったんですけど、私の地域の任意団体で田んぼをやっていて、小学校の運動場の横に米の倉庫があったので、すぐにそこから玄米を10袋持ってくるように伝えました。水については、一応学校にも、公民館にも非常用の水がありました。次にエネルギー、小学校がプロパンガスで、50キロボンベが2本ほどあったんですけど、長期戦になるからどうなるか分からない。たまたま近所の人がプロパンガスの事業所の所長だったので、「プロパンガスも3本ほど持ってきてほしい」と頼んだら、「わかった」と言ってくれて、次の日の朝の8時に出発しました。穴水の町を16キロ、往復32キロの道なんですが、帰ってきたのは、夜の10時なんですよ。というのは、その時は情報が全くないですから、道路がどうなっているか全く分からない。国道が通行止めとすると、迂回路はある程度分かっていますから、空港のほうへ出て、山道を行ったらしいんですけど、こんなに時間かかるわけないと思ったら道路が寸断されていたということです。
ガスと食料、毛布は、皆さん持ち寄りで、一応そこで夜を明かしました。私は家が大規模半壊でしたが、兜地区でも、場所によって被害のないところもあるんです。ただ、電気や水が来てないから、避難所に来ている。だから、私のような家で生活できない方やいろんな方がいるんですが、皆さん兜小学校の体育館で、避難生活をはじめたということです。
全員が同じ形で避難をしたわけじゃないです。車で高台に避難した方もいます。公園のパーキングとか、一番奥に行くと能登ワインとかがあるんですけど、そこにあるトイレ休憩のパーキングにも、何十台も車がいて、みなさんそこで車中泊して夜を明かしたわけですけど、あの人はあそこに行っているとか、それをほとんどの方が分かっているんですよ。
避難所の運営組織を立ち上げて、区長をトップとして、公民館長と地区会長、青年団ということで、いろんな組織がありますが、穴水町内でもうちの兜地区は一番組織があるんです。だから、その組織の人に話しかけると、ピラミッド式ではないですけど、指揮命令がきちんといくんです。不特定多数の人が集まっても多分まとまりません。その辺がうちの地区では避難所運営がうまくいった理由です。
避難所の運営
濱中さん
津波で道路も浸水しました。海岸の近い家の人は、水が家の床下に行った人や、床上ギリギリまで津波が来た人もいました。民生委員の方が、家庭訪問で「元気ですか」っていう確認をしっかりしまして、すぐに住民台帳を作ったんです。「誰それさん、あばあちゃん、おじいちゃん、いますか、来ていますか」と、一人残らず全員来ているということを全部確認しました。
次にどうしたかというと、例えば、「ちょっと家に帰って物を持ってくる」と外出することがありますよね。そうすると、誰が出て行って、誰が帰ってくるのか分からんということで、外出届というものを出入り口に作ったんです。常に安否確認をしっかり行っていました。
もう一つは、情報がないんです。やっぱり携帯も繋がらないし、電話は途中からできたんですけど、情報がないことが一番不安ですよね。まず、道路の状況が分からない。どこが寸断されているか分からない。役場がどういう条況か分からない。隣の集落がどうかも分からない。ということで、情報というのが一番心配でしたね。
あと、情報に関しては、北國新聞とか中日新聞の方が徐々に新聞を届けてくれて、いいことやなと思いました。最初の新聞がなかったころは、兜では何人が避難生活をしていて、病気が出て、という風に記録を作っていて、新聞が来た時から、県の避難所数、穴水町の避難所数というように人数を毎日まとめたんです。そうするとだんだん避難所数、避難者数が減ってきたねって推移が分かる。県の方からヒントをもらって、これは絶対に役に立つなと思い、そういう記録ノートを作りました。普通の地震だったらだいたい 2週間ほどすると約半分になるらしいです。それで、徐々に減ってきたんです。
次、避難生活のことなんですけど、先ほどお話したように、地震は皆さん共通の被害なんですよ。ということは、困っていることも一緒ですから、協力し合うんですよね。私も先ほど言ったように、防災士協会の方の言葉がずっと残っているものですから、シチュエーションというか、次こうなるということをすべて想定していたんです。だから、私の思ったことに想定外はありませんでした。
1週間、 10日と過ぎていくうちに電気が来ましたね。水道はちょっと遅れたんですけど、そこから徐々に石油ストープもファンヒーターも使えるようになりました。体育館に350人が居ると、普通は床にブルーシートを敷きますよね。私達の場合は、小学校の体育館で2つの集落が合同で毎年、敬老会をやっていたので、ステージの裏にも公民館にも畳があるんです。その畳を合同で体育館に広げたんです。それで家から持ってきた布団をしいて、皆さん床じゃなくて、畳の上で生活したんです。これはちょっとすごいと思いますね。ダンボールベッドも来たんですけど、結局使いませんでした。間仕切りはなかったですけど。
役割分担もあるんですけど、さっき言ったように共通の問題を抱えたときは協力しても、半月、1ヶ月して慣れてくると、自分の我が出てくる。穴水町に見知らぬ人が一斉にやってくるとなると、多分いろんなことが起きるけど、ここだと何かとみなさん知っていますから、トラブルにはならないんです。私はみんなと面識がありますから、少しずつ慣れてくると、あの人こういうこと言っとるよねって、いろんな意見が出てきて、人間ってそういうものなんです。私は全然焦りませんでしたし、その通りだよねって思っていました。
例えば、近所の方でもよくお話しする人と話さない人もいます。あの人こういう性格だったんだと分かることもあるんですよね。若い男性で、あまり喋らないけども、ものすごく一生懸命に働く。水とか重い物が来たら積極的に運ぶんですよ。2階に持って上がって行ったりね。いやこの子はこういう性格の子だったのかと思って、本当に感心することがありますよ。
あと、お年寄りの方はトイレが近くて、トイレに行くのに扉を開けるともう寒いです。若い人が扉の前に立っていて、どうしたのかと思ったら、お年寄りは開け閉めが大変だから代わりにしているって言うんです。そういう子もいましたよ。
聞き手
避難所の運営で工夫をされたことはありますか。
濱中さん
公民館に自衛隊の入浴支援がありました。シャワーが10機ついていて、それを体育館の横に、入浴支援のお風呂ということで作ったんですね。その方たちが、実は兜の公民館で宿泊したんです。本来ならテントですけど、公民館の中は、電気が来ました、水が来ました、冷暖房あります、ストーブあります、となるとテントの中よりも快適ですよね。
兜の近くの人はお風呂に入りやすかったんです。少し離れた方も入浴支援に来ていました。
公民館に行って、パソコンで役場の方からいろんな情報を仕入れました。私はどうなるんや、家はどうなるんやろうとか、家を修理できるんやろうかという訴えがありましたので、いろんな補助金や助成金の制度について紙に書き写して、箇条書きにして分かりやすくしました。例えば応急修理制度はこうなんですよって簡単に書いたりしました。まず、焦らないでくださいって書いたの。絶対焦らないで、分からんことがあったら役場で確認してくださいという紙を定期的に配ったんです。あとは、それと同じように避難所は今全部でこれだけある、何人避難しているっていう情報をできるだけ大きな字で、皆さんに配って、マイクでも説明しました。そうするとみなさんちょっと安心するんですよね。
ただ、「あなたは避難所の運営組織で、区長の2番目くらいだから公民館にいないといけない」って言う人がいたんです。それも分かります。私は避難所と公民館をいったり来たりしていたんです。公民館に行って紙を作成したり、外出届の用紙を作ったり色々しました。やっぱり公民館というのは、役場の出先でもあるんですよ。役場の出先ということは、少しだけでも役場の知識をもっとらんといかんのです。「館長さんちょっとこれ教えてよ」って聞かれて、「いや分からんから役場に聞いて」ってことじゃおかしいでしょう。分かる範囲でお答えして「これ以上は分からないですから役場に聞いてね」って第一段階は、私は当然だと思っているんですね。そう言う風にみなさんにお知らせするとやっぱり安心します。
お年寄りはお孫さんが都会から引き取りに来る方もいました。だんだん人数が減ってきて、最終的に最後に残ったのはおばあちゃん 1人だったんです。役場の方からも、避難所の人数が減ってくるとまとめていって、10か所あったのが 5か所になると、そういう風になっていきまして、うちの方からも、最後の1人のおばあちゃんだけ穴水のプルートの避難場に行きました。おばあちゃんも、今は仮設住宅にいます。
ご飯も最初は作っていたんですけど、学校食堂の人たちも徐々に自宅へ帰りますし、人数が減ってくると、避難所にいる人たちでご飯を作ってくださいって言われたんです。自衛隊の方々の食事、ボランティアの食事、それと自分たちが作る食事と、いろいろローテーションしながら、食事をとっていました。
学校食堂のメンバーの方が、本当にもうプロみたいなものですから、まとまっているし、チームワークはいいし、食事の方もうまくいったなと思います。トイレもうまくいったし、暖や寝るところについても、畳の上で寝ていたので、兜の避難所運営は上手くいったほうだなと、思っています。
それぞれの立場からの支援
濱中さん
物資は、富山県のボランティアの方が確か早く持ってきてくれたと思います。ある個人の会社が、ハイエースで来たんです。何で来てくれたんですかと尋ねると「地震で困っていると思ったから来た。それだけですよ」ということでした。東京からも、そういう個人の方がいました。
支援物資は、 国はプッシュ型と言って、こっちが要望しなくても、ポンポン送ってくるので、山になるくらいあるんです。避難所にいる方にも、支援物資は避難所のものだと勘違いしている人がいました。そうじゃなくて、必要な人に必要な分をあげるのが支援物資なんです。支援物資は女性の方に管理を任せていました。
電気が来たら、自宅へ帰る人が出てきました。そうすると、自宅で困っている方に向けて、私が「支援物資を取りに来てね」という文書を公民館で作成して配ったんです。もしおばあちゃん1人で取りに来られなかったら、隣の人に頼んでくれたらあげますからねっていうのを、チラシを配ってお知らせしました。
他にも、体育館にペットを連れてくる方がいたんです。好きな方と嫌いな方がいて「ペットはおかしい」という声もあった。私もペット好きですから、マイクで「ペットも家族なんです」と言って、ペットの部屋を作りました。
また、看護師のOBの方と現役の方が5人ほどいて、衛生班を立ち上げました。 隔離室というか個室を1つ作ったんです。インフルエンザ、コロナウイルスにかかった人が出て、教室の部屋にベッドをひいて、看護師さんが面倒を見ていました。途中からはエアーベッドが30台ほど来て、お年寄りの方々に優先して使ってもらいました。いろいろな地区から救急車が来て、入院された方や入院して最終的には亡くなった方もいました。
全国から多くのボランティアの方が来ました。避難所もそうですけども、避難所から皆さんが自宅へ戻ったときにもボランティアを頼みました。穴水町は、大きな基幹産業は無いですから、一次産業がメインなんですね。私らの地域は田んぼをやる人も、だんだん減っていますけど、田んぼや農作業のボランティアを県へ2回お願いして、全国から10数人が来ました。その方たちも、草刈りのプロなんですよ。 都会から来ているから、草を刈るのもやっとかなって思ったんですけど、全然違う。プロです。自分で草刈りの刃を研いでいました。
全国から来るので、最初は県庁で集合して、そこからバスで来たんですけど、次の時はもうお互い現地集合。公民館まで来て、「今日はもう帰るんですか」って聞いたら、「いや、せっかく来たんですから、観光してきます」って言ったんです。そうですよね。東京から来たんだったら、せっかく能登に来たから、帰りに富山に寄ってくとか、高山に寄ってくとかね。なるほど、そういうやり方もあるんやなって思いました。そういう方もいました。若い方やお年寄りの方もいました。
あと、家の片付けとか災害ボランティアに来られた方、私も3回頼んだかな、広島の人だったかと自分の家でしゃべっていて、「本当にすごいね。こんなボランティアは助かる。もし自分がこういうことができて、他に災害が起きた時は、私もボランティアとして行きたい」って言ったんです。そうするとその人は「その言葉が一番嬉しい」って言っていました。暑い中、東京から車で来て、家を片付けてもらって、本当にもう感謝しかありませんでしたね。
今後への教訓
濱中さん
避難所運営がうまくいったのは、日頃のコミュニケーションのおかげです。消防団があったり、自治会があったり、女性会があったり、そういう組織がものすごく大切なんです。その組織がある集落、地域というのは、何事においても取り組みやすいんですよ。
いまこういう地震がおきたけども、少子高齢化で、毎年人口が減っています、空き家になりますというのが、一気に加速して、縮まったんやなって思ったんです。10年後が今、パンと一発で来た。じゃあ過疎化、人口減少、何もしないで放っておいたら限界どころか消滅集落ですよね。私の思いは今できる事をやれっていうことです。将来は誰も分からないんです。分からないことを心配するよりも、今できることをやって、後は、未来の人に託すだけ。放っておいたらだめです。
みんな復旧、復興って言いますけど、大変なんです。私も家のことで頭がいっぱいですよ。これからどうしようとかね。だけど、地域全体の祭りでも、盆踊りっていう、農業祭を地震のあった後の8月からしたんです。これをやめたら、もうだめやって。今までの中でかつてない人でした。若い人が多い。こんなことになったけど、若い人がたくさん来てくれた。その若い人たちも火がついたのか、感じることがあったのか、今年の8月もたくさんの人でした。
やめるのは簡単なんです。やり方も、今の状態にあったやり方をすればいいんです。やり方さえ変えてやれば継続できる。継続は力なりって、なるほどなって思いますよ。例えば、 川でカヌーを一生懸命に漕いで、止まっている。何もしなかったら流れていくんですね。現状維持ということは、一生懸命が現状維持なんですよ。それ以上に行くときは、それよりまた力を入れないと上へ行けないと、いつもそう思っている。現状維持って簡単に言うけど、そんな簡単にできないんですよ。
結果的に穴水の避難所としてはうまくいったかなとは思います。いろんないいことが重なって避難所を運営できたかなという風に思います。教訓とすれば、いつどこで何が起きてもおかしくないって思っておくことです。試合でもそうですけど、練習していなかったことはいきなり本番でできるわけがない。訓練というのは本当に大切です。やったことがないと本当にできないですから。訓練も一回二回ではなく何回もやることで身についてくるんですよ。ある程度のサイクルでやっていると当たり前にできるようになるんですよね。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
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(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
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「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
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「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
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「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
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「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
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「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
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「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
兜公民館長(防災士)
濱中勲さん
「防災士の知識も活かして、避難所を運営」 -
比良地区区長(防災士)
坂尻忠秀さん
「地域のつながりを生かして避難所を運営」 -
上出地区区長
宮森正人さん
「皆で知恵を出し合って自主避難所を運営」 -
諸橋公民館館長
油谷清治さん
「避難所運営を通じて、最悪の事態を考えて備えることの重要性を認識」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
穴水消防団長
濱出泰治さん
「消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに」 -
穴水消防署員
吉岡邦範さん
「避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長
中橋毅さん
「被災地の医療を支えた穴水総合病院」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

