石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 避難所・避難生活

原発と海が近い避難所

前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
体験内容
避難所(福浦工芸工房(旧福浦小学校))の運営に携わった。
場所 志賀町
聞き取り日 2025年9月2日

被災当時の状況

被災してから公民館を開けるまでの状況を教えてください。

私は地震発生時、家にいました。家の中にいるのが不安になるほどの揺れで、すぐに家の前へ出ました

家を出たときに、大津波警報発生という防災無線が鳴ったので、当時の副区長の濱村さんと電話で連絡を取って、避難所を開設しようという話をし、すぐに向かいました。

公民館に着くと、区の役員をしていた書記の方と役場の職員二名ほどがすでに着いており、開錠されていました。

当時はどれくらいの人がこの公民館に集まっていたのでしょうか。

地元に普段住んでいる方は350人くらいです。あと、帰省していた人が150人ほどいて、合計で500人ほど来ていました

もともと公民館だけで350名程度を収容できるようになっていたのですか。

それはなくて、公民館に収まらない人は車中泊でしたね。

100台以上の車が並んでいたので、我々がグラウンドへ誘導しました。きれいに止めないと100台入りませんので。

被災当日は会議室と放射能からの防護施設で100人を超えたと思います。それと、昔の学校の図書室に20、30人いたので、大体建物の中には150人ぐらいいました。あとは車中泊です。

体育館は、窓が全部破損して、冬場の海風が相当入ってきていました。当時、雨も雪も降っていなかったので、体育館に避難してもらうよりも、まだ外にいた方がいいんじゃないかということで、体育館は使いませんでした。

隣の校舎は、図書室しか使われてないんですか。

職員室やその他の教室は、書類などが散乱して、使えない状態でした。

1日目の夜は人もたくさんいて、あまり寝られてないですか。

私たちは寝てないですね。手足を伸ばしてゆっくり寝るという状況でもなかったですし、多分皆さんも寝られなかったと思います。

1日は余震が次から次に来たので、満足に寝られる状況じゃなかったですよ。

建物を使われた方と、車中泊された方の区別はつけていましたか。

区別はつけませんでしたが、お年寄りと、車にずっと泊まるのが嫌な方は建物の中に来ていただきました。車中泊を好まれる方、あるいは車中泊で良いよという方は車中泊していただきました。

当時は水もなく、電気もなくて真っ暗な状態です。発電機も利用して、明かりを少しつけてはいたんですけども。電気がついたら、半分ぐらいは家に帰っていきましたね。

この地区では、全壊という判定をもらった家は何件かあるんですけども、家が完全に倒壊したとか、どうしても家に住めないという方は少なくて、なんとか家で生活できる方のほうが多かったです。

ペットを飼われている方も少なからずいたと思うんですが、ペットと避難者との区分けみたいなのはどのようにされていたのですか。

ペットを飼っておられる方はみなさん車中泊でした。やっぱり一緒にいたいんでしょうね。

トイレの状況

最初、トイレの問題がありまして、1日目は、衛生上の問題があるので、ここのトイレは使用しないことにしました。電気もつかず、暗くて大変申し訳ないけれども、グラウンドの右と左で女性と男性に分かれてトイレをしてくださいとお願いしました。

防護施設には簡易トイレが2つあったんですが、それを使う方法を誰も知らない。町の看護師さんも知らないという状況だったんです。

たまたま福井県から帰省していた看護師の方が、災害ボランティアを経験していた方で、簡易トイレの使い方も知っていたんです。おかげで、防護施設の人やお年寄りはその簡易トイレを使うことができました。それで衛生面に関しては非常に助かりました。

その夜、我々役員と地元の何人かで、今後について話し合っていた時に、水さえあればトイレが流れるんじゃないかという話になったんです。

ここには簡易水道があって、飲むことはできないんですけど、水やりなどに使うために、各家庭にも引っ張っていました。それを確認してみたら水が出たんです。

この水を使ってトイレを流そうということで、実験したら流れまして、これで大丈夫だろうとなって、翌朝の早い時間に、車中泊の方と建物内の方を含めて全員に、トイレはこういうふうにすればできますと教えました。

トイレができるということが分かって、結構な方が帰られたと思います。この公民館のトイレは全部で3箇所あるんですが、そこには我々役員が水を用意して、順番に流してもらうというルールを作りまして、使えるようにしました。

下水は特に問題なかったんですか。

そうですね。下水は流れました。

車中泊の方は、トイレが使えるようになったらかなり減ったのですか。

だんだん日が経って、電気が通るようになって、それでも20、30台ぐらいはまだ残っていたかな。

ここに残った方は、お年寄りが中心で、トイレの水も自分で汲むことができないような方が多かったですね。

避難所の運営体制

避難所の運営はどのようにされていたのですか。

我々は、一週間はここに全員で泊まって、それからは二人交代という形にしました。

お風呂にも入れないし、家にも帰れないということで、半分半分で一日おきに泊まるようにしました。

愛知県から派遣された職員の方は一週間目ぐらいに来ていただいたかな。一週間ごとに交代されて、二週間目ぐらいになったところで、その方も泊まりますと言ってくれて、そこで、我々も二人ずつ交代で泊まろうかという話になりました。三週間目ぐらいで完全にお任せする形になりましたね。

ボランティアの方は全体で何人くらいいたのですか。

基本的には私たち役員5人で回していましたね。

スタッフはもちろん、有志の人たちが、12、13人手伝ってくれました。非常にチームワークよく運営していたと思います。
震災の日は非常にいい天気で、ここへ避難して来た時もまだ穏やかだったし、夜もそんなに寒くなかった。スタッフと相談しながら、運動会で使うようなテントをセットしたんですよ。周りをブルーシートで囲ったんだけど、やっぱり冬はテントじゃダメでした。次の日、片付けたけども、みんなの力を合わせたら一瞬で片付いて、やっぱり協力が大事なんだと思いました。

避難所の物資

冬で電気も通っていなかったということで、暖房器具はどうされていたのですか。

石油ストーブです。先ほど公民館長からもお話があったけども、3日間停電だったから、ファンヒーターは油があっても使えない。

福浦港区というのは4町内で組織されていたんですが、少子高齢化で役員がいない状況になっていて、なんとかしてほしいという声が前からあったので、たまたま、前の年の12月、この公民館ができた時に、4町内を一つの区が全部管理するようにしていたんです。 それで、各町内の会館に2、3台ずつ置いてあった石油ストーブを公民館に集めてありました。その石油ストーブが10台ぐらいあったのでそれを使いました。それでも足りなかったので、お寺に借りて、なんとか賄いました。

非常用の食料や毛布は常備されていたんですか。

公民館にはありませんでしたが、放射能防護施設にはあったので、それを使わせてもらって、助かりました。

食料の備蓄は足りましたか。

大体3日分ほどかな。おかゆみたいなものでしたが、あまり美味しくはなかったです。

支援物資は、いつ頃から届きましたか。

公的なものは2日目からです。夕方ぐらいにパンやカップ麺が送られてきました。

私的なものでは何が届いていたんですか。

コンビニで売っているような水、おにぎり、パンなどを主として、あとは歯ブラシなど、ないと困るような生活必需品も持ってきてくれた方がいました。

何日かすると薬を持ってきてくれた方もいて、色々と助かりました。

ここ出身の人が来てくれましたね。ここで生まれて都会へ行った人が持ってきてくれました。

1日目の夜は、ご飯は配られたんですか。

配っていません。1日目の夜は、我々も暖房や電気の準備で駆け回っていたので、食事に関しては全く気が回っていなかったです。

我々は区の役員をしていますから、避難所の中にいて、困っている人に手を差し伸べる体制を取らないといけなかったんですけれども、うちの家族は車内に避難していました。それで、お腹が空いたらどうしたかというと、怖いけども家に行って食べ物を取って来たということです。正月でおかずもありますから、1、2日はそれを取りに行った人もいらっしゃいます。多分皆さんそうだったと思います。

もし正月じゃなくて、すぐに食事を作らないといけないっていうのがあったら、それはちょっと難しかったですね。

車は結構自由に動いていたのでしょうか。

最初きれいに整頓して並べたので、一旦家に帰って何かを取ってくるということはできたと思います。
あとは、普段、小さい子はこの地区にいないんですけども、正月で帰省していた中にはそんな方もいて、ミルクを作りたいという相談がありました。水はあるけど、沸騰させるものがなくて困りましたね。それは、地域の方がガスコンロでどうにかしてくれていたと思います。
私たちは、この後どうしてここを運営していこうとか、津波の警報も出ていたから、各班の班長さんに連絡を取って、地区の方がちゃんと避難しているか確認をしないといけないとか、消防団員に、津波が収まった頃に見回りをして、お年寄りの方もおられるかチェックしてほしいと依頼しないといけないとか、そんなことに頭がいっぱいで、食事や小さい子のミルクとまではちょっと手が回らなかった。他の皆さんが協力的に動いていただいて、それを全部クリアしてくれたんだと思います。

食事も、インスタントやレトルトのものばかり食べていたら体が悪くなります。私、二月の頭くらいにちょっと心臓を痛めました。苦しくて救急車を呼ぼうかと思ったくらいです。ここの泊まりが終わってから病院へ行ったんですが、原因を探すのに一ヶ月ぐらいかかって、その間も三回ぐらい夜中苦しくてどうにもならないことがありました。冠動脈狭心症で血管が二つ詰まっていたのが分かったのが4月のことです。それで入院してカテーテルを入れて広めてもらいました。

カレーライスとか、ラーメンとかそんなのばかり食べていましたから、先生に聞いたら、食の問題もありますねって言われました。

大体最初の支援物資といえば、カップ麺とパンとおにぎり。このおにぎりも翌日の朝には期限が切れるようなものが来るんですよ。ただ、避難されている方に期限切れのものを食べさせられないので、翌日余ったものを我々役員で食べることが多かったですね。 そのうちに町から弁当が出るようになったんだけど、これも当初、油物が多かったんです。そうすると、お年寄りになかなか好まれなくて、それを話したら、幕の内弁当みたいなものを出していただけるようになりました。役場の方も避難所には一律に出さないといけないということもありますけど、そういうところは協力していただいたので助かりました。

こういうところで食事をしていると、早食いになりますから、すぐに腹が減ってまた食べる。保健師さんもいないし、カップ麺、カレー、缶詰とかあるものを食べるという感じです。

地元の女性のボランティアの方は、食事の担当でも、今日はこれとこれねっていう風に選んで出してくれました。

カップ麺ばかりじゃなくて、非常食も取り入れないとダメと言って非常食を出してくれたりね。正直、非常食はあんまり要らないなと思いながら食べていましたね。

非常食のカレーは一見美味しそうに見えたけど、食べたら美味しくなかったね。

美味しかった非常食はありますか。

なかったですね。カップ麺とかおにぎりの方がよくて。缶詰が一番うまかったかな。

情報はどうやって入手されていたんでしょうか。

情報は全くなかったです。まず電気がない。一応家からラジカセを持ってきたけど、つながらなかったと思います。あとは皆さん車のテレビで情報を取っていました。

携帯電話はどうでしたか。

5、6日してから携帯会社がたくさん充電器を持ってきて、充電はできるようになりました。

3日後に電気が来るまでは、発電機を使っていたんですね。それと防護施設は停電になった場合に備えて非常電源があったので、それで皆さんの携帯の充電をしていました。

お風呂や洗濯について

電気と水が止まっていたということで、お風呂や洗濯の問題もあったと思いますけど、どうされていたのかお聞きしたいです。

みんな1週間から10日くらい、お風呂には入っていないです。

ここから離れられなくて、ずっとここで寝泊まりしていたので、10日間はお風呂に入っていませんでした。地区の方は車で近くの温泉とかへ行かれたと思います。

この辺なら高浜にシ・オンっていうのがあって、それか羽咋、遠くは金沢まで、皆さん、車で行っていましたね。たまたま冬場だったから、私たちは1週間ぐらい入らなくても大丈夫だったけどね。

そのシ・オンというところでは、避難者優先でお風呂に入れてくれました。

自衛隊のお風呂は来ましたか。

隣の熊野地区には来ました。ここにも計画はあったんですけど。

皆がほとんど帰って、車も少なくなった段階で、自衛隊のお風呂の話があったんですけど、いろいろ設備の接続とかで難しくて。

水が復旧したのはいつ頃ですか。

避難所の閉鎖と同時に水が通ればいいねという希望だったんですけど、完全には通らず、流れ始めたのは2月13日。それから、ちょろちょろと出たり止まったりの繰り返しでした。水が飲めるようになったのは、2月の17、18日だったと思います。

避難所を閉鎖したのは2月10日なので、41日間ここにいたんですよ。

それまでは給水車などでしのいだのですか。

給水車というか、ここに給水施設がセットされたのが1月16日です。それまでは、皆さん中核工業団地まで車で飲み水を取りに行っていたんです。
この建物は元々小学校だったので屋上に給水タンクがあって、そこへ水を上げることができれば使えるという話が、5日にあったので、じゃあやってみようかっていうことで、役場に水を入れていただいたら、タンクが破損していたんです。
たまたま地元に造船所をされている方がいて、電話でお願いしたら、仕事終わりにすぐ来て、直してくれました。FRP製のタンクで、通常は修理しても1、2日は使えないらしいんですけど、それを一晩中作業して、翌日には使える状況にしてもらいました。でも、やはり急な仕事で、FRPの削った粉が残ったんです。それで、飲み水としては多分ダメだということで、トイレの水と普通の生活用水に使う形になりました。ここのトイレはそれ以降ずっと水洗で使えたので、避難所としては非常にありがたかった。

衛生面・健康管理について

季節も冬でしたし、コロナやインフルエンザなどに気をつけた点があれば、お伺いしたいです。

感染症は一番心配だったんですけども、10人近くの地区の女性ボランティアの方に朝からずっと詰めてもらって、簡易トイレの指導を受けたり、掃除もしてもらったりしました。そこは気をつけてもらって非常に助かりました。我々のところでは、感染症は一つも出なかったです。

でも、その簡易トイレが和式で、不評でしたね。

和式の簡易トイレだけが残っていました。洋式を町に希望したけども、洋式がもう一つもなかった。

簡易トイレも利用されていたんですね。

2日目からは、中のトイレも水を流せば使えると分かったので、皆さんで使っていました。

換気はされていましたか。

していました。避難所にはお年寄りが多かったので、定期的にラジオ体操もしていました。DMATなどの方々も顔を出してくれて、そういうことが必要ですよという話をしていただいたので、ボランティアの女性の方々も実践してくれました。

トラブルなどは何かありましたか。

私は、トラブルらしいトラブルはなかったと思っています。避難されている方で、少し認知症に近い方が一人で住んでおられて、夜中に起きて歩いているという話があったんですが、それに関しては、ご家族の方や親戚の方に相談して、何とか対応しました。

地震で直接亡くなった方より、その後に具合が悪くなって、結果的に亡くなってしまった方が結構いらっしゃいますが、この避難所でも搬送された方はいましたか。

一人だけですね。関連死になっているかは、個人情報だから分かりません。

安否確認について

安否確認は問題なくできましたか。

私は当時副区長だったので、誰も来ていない家があって、見回りに行きましたね。能崎さんと一緒に行って、停電して真っ暗なところで「〇〇さん」って呼んだら、「はい」っていう声があって、「避難してください」って言ったら、「まだ大丈夫。私はここにいます」って言うんですね。「皆さん避難していますよ」って言って帰ってきたら、次の日にやっぱり怖かったからということで来られましたね。

正月でこっちにいなくて、家族のところへ行っているというパターンもあるんですよ。そうしたら、あのお婆ちゃんが来てないぞという話になって、班長さんに聞こうと思っても班長さんもいない。さあどうするかとなって、最終的に私と濱村さんで現地を見て回りました。それで鍵がしまっていて電気もついていないから、これはしょうがないってなりました。そういう家も5、6軒ほど回りましたね。

福浦地区は170軒くらいが固まっているので、誰がどこに住んでいるか大体分かるんですね。もちろん班長さんたちに確認してもらったんですけど、ある程度簡単に把握できるっていうのはいい点かなと思いますね。

家があっても、施設に入っている方や空き家もあって、実際住んでいるのは163世帯です。

車を誘導するときに、お顔を見て誰がいるか確認をしたのですか。

班長さんにおまかせしました。15、16軒で1つの班だから、来ているかどうか確認してもらいました。結構、県外のお子さんのところに行っている人もいましたね。

ペットボトルの水をいっぱいもらったので、班長さんを中心にして、各家庭に2リットル入りを6本配りながら安否確認もできました。

避難所の閉鎖について

この避難所が閉鎖されたのは、皆さんが仮設住宅に移られてからでしょうか。

閉鎖されたときはまだ仮設住宅はできてないです。だんだん避難所を集約していったんですよ。当時20名近い人が残っていて、志賀か富来のどちらかの避難所を選んで行ってもらう形になりました。

町の人が来て説明会を開いてもらいました。ここの人はどこに入るとか2月に入れますという話をしていました。

うちの地区で仮設住宅に入った人は、非常に少ないです。

自宅の倒壊などが少なくて、自宅に帰れた方が多かったということでしょうか。

そうですね。

傾いている家にそのまま戻られたような方もいらっしゃいますか。

私が聞いたのは、80歳で一人暮らしの男性ですが、全壊に近いような半壊だけど、特に修理はせず、今もその家に住んでいます。
「直せばどうか」と言うと、「もう80歳で、人生あと10年あるかどうか。それで1千万も使って直すくらいなら、子どもにお金を残す」と言っていました。
家族は高浜の方でアパートに入るように言っているけど、本人は福浦を離れたくないんですね。それは人それぞれですね。自分ならどうするかというと、家は直さないとしても、子どもに近いところでアパートでも借りようかなと思いますけど。

この地区で170軒前後あって、公費解体で壊した家は5、6件、空き家を含めれば30軒近くです。この地区は地盤が結構強くて良かった。それに比べると他の町や富来なんかもう見てられんですよ。輪島や珠洲なんか見ると、うちのほうはまだよかったのかなって思いましたね。その後、能登を一周してきて、やっぱり地盤が大事だと思いました。今回、全壊したところは、家は立派なんですけど、地盤は柔らかかったので。

避難について

小学校は割と高い位置にあると思うんですけど、沿岸部の方は直ぐこちらに避難されたんですか。

津波があって、床上浸水が3、4件ありました。

港のところに並んでいる家は床下浸水でした。

私は若い時に消防団に入っていたんですけど、津波が来た時、消防団は消防車に乗って、港の様子を確認するという時代でした。今はそんなところを見に行ったらダメなので、今回の地震で港がどうなったかは誰も分からないけども、港の近くに置いてあった小屋が、上の道路に載っていましたから、4メートル以上の津波が来ていたんだと思います

港の真ん中に家のある人が車で逃げる時に、もう津波ギリギリで逃げてきたっていうことを聞きましたね。津波が来るのと車の逃げるのが一緒だったと。津波の引き波になると、車ごと持っていかれて大変なことになるので、危なかったですね。

避難訓練はされていましたか。

年に一回、津波と地震を想定して避難訓練をしていました。

避難訓練の成果は出ていましたか。

非常食を町からもらって食べたり、県の危機管理の担当者の人の話を聞いたりということは地区で昔からしていたんですよ。福浦の人は皆さん、何かあればここに集まる、例えば大雨が降って怖いなと思ったらここに集まるという認識でした。原子力防災だとまた違ってきますけども。

被災する一ヶ月前くらいにこの施設が建てられたということでしたが。

そうですね。改修されて公民館として使用できるようになりました。

改修してから避難訓練はされたんですか。

それはしていないですが、避難するときはここの駐車場に集まってくださいという訓練は前にもしていました。

改修してすぐだったので、避難物資なども揃っていなかったということでしょうか。

もともと公民館自体が避難所になるということは想定してないので、ここには全く置いてないです。たまたま放射能防護施設があって、そこに物資があったので利用できたけども、もしもそこがなかったら全く物資もなくて大変だったかもしれませんね。

町が置いた物資なので、他のところで災害があったらここから持っていくんです。

ここはもともと指定避難所ではなくて、結果的にそうなったというわけですね。

少し大きな雨が降ったら、区が開設する地域の避難所になるんです。地域の避難所なので、区で費用も持つ形になります。それが大きくなって、地震になると町の避難所に格上げという形です。

今後も避難所として利用される可能性はありますか。

避難所として利用できる場所はここしかないですからね。あとはここを行政の避難所にするかしないかは行政の判断ですかね。

やはり、どこでも指定避難所にするのは難しいのですかね。

町の職員が張り付く必要がありますからね。10箇所の避難所があれば、1人ずつ行っても10人必要でしょう。でも絶対に1人で運営するのは無理だから、3人行ったら30人。それが 1ヶ月続いたら交代でも90人となるから、町とすれば少なくしたいでしょうね。地元とすれば、町の避難所に格上げしてほしいっていう思いはあります。

新聞に、輪島市の避難所は、震度5以上の地震が来たら自動的にボックスが開いて、誰でもそこに行って鍵を開けられる避難所ができるという記事が出ていました。公民館、中学校、小学校、全部指定していたから、輪島は多分公民館は全部指定避難所にしているんだと思います。志賀町がどうするか分からんけど、自動的にロック解除されるというキーボックスはいいなと思いました。

誰かが鍵を持っていても、その人が行けなかったら開かないですしね。

私は、能崎さんから鍵を開けてほしいと電話がかかってきて、車で3分くらいのところに家があるんですけど、車庫の鍵が開かない。作ったばかりの車庫がもう揺れて歪んでしまって開かない。蹴り飛ばしてなんとか開いたので、急いで向かったんですけど、公民館長の方が早かったです。

私は走ってきました。リビングで大きいテレビが倒れたんですけど、それさえ気がつかず、急いで外に出ました。

町から避難状況などの情報を事前に確認していたんですけど、福浦工芸工房(旧福浦小学校)の避難者数は、実際にはこの公民館にいた人数ということですか。

ここにいた人数ですね。

指定避難所の福浦工芸工房の敷地内に、放射能防護施設と公民館があるという形なんですね。公民館は避難所になっているのに、隣の福浦工芸工房は避難所として使えなかったんですね。

校舎のほうは工房もあったり、木工もあったりで、ぐちゃぐちゃでしたね。図書館には大した荷物がなかったので、そこで20人ぐらい避難してもらいました。

この公民館ができるまで、この地区にはみなと会館という木造の大きい建物があったんです。それを潰してここを直してもらったんですが、もし潰さずにそこに避難していたら、大変なことになっていたかもしれません。

避難所がなかったかもしれないね。今回はたまたま公民館の部屋が使えたけど、体育館も戸がめちゃくちゃだったし。

本当にこの建物があって良かったです。車も停められないし、前の集会所だったら避難所にできなかったね。

予備の避難所みたいなものはあるんですか。

ないです。避難場所としてもう少し充実した避難所があったらいいですね。 福浦地区は色々な防災訓練をしていて、地震があったら能登町へバスに乗って避難するというのもあるんですけど、今回の地震でそれは無理だなと思いました。いろんな問題で海も空も無理でしたし。

実際に、小さめの船を持っている方が沖に出られたんですよ。でも沖から帰ってくる時に、津波でゴミが港の中に入って、もう港に入れなかったと言っていました。 空はどうかって言うと、ヘリポートは駐車場なんですよ。車が止まっていたらヘリコプターが降りられない。道路は割れているし、陸海空全部駄目でした。

以前はヘリポートだったホッケー場も今は仮設住宅になっています。どうやって避難すればいいのか本当に教えてほしいです。

原子力防災について

町にも、避難のための道路が大事だから、そこから直してほしいという話も伝えたんですけど、防災に関しては、町は県が作ったものに従うと言うんですね。じゃあ県は何に従っているのかというと、国が作ったものです。地元の我々が経験して、どうしたらいいのかっていうことを誰も聞かずに、机の上で原子力規制庁か何かが計画を作っている。同じことがまた繰り返されるように思っています。

今ここで330人前後の人が住んでいて、何かあってここに来ても80人しか入れないんです。だから原子力防災なんて、強靭な道路を作って、金沢の方へ逃げてください、車の免許を持ってない高齢者など80人は残ってくださいということになるんですよ。

その80人は区の役員が面倒を見る。私も逃げたいですけど、そういったことはできない。本当に命がけですよ。それが区の責任かって言えばそうじゃないけど、やっぱりそこまでしないことにはダメなんですよね。そうすると何百人の面倒なんて見られるわけないです。

ある区長さんは、私は町からそんな仕事してくれなんて頼まれてないという方もいらっしゃいます。でも、我々自治会の組織なので、人が困っていたら手を差し伸べてやらないといけないですよね。ただ、原子力防災であったり、避難所の運営であったり、どうすればいいのか、能登半島地震での疑問もあるし、今後どうしていくのかって話になればいいなと思いますね。

能登半島地震の後、県や町の話を聞くと、強靭化という言葉が出るんです。道路、電気、水道、下水、強靭化しますと。強靭化って、例えば道路ならアスファルト舗装厚を高くするんですか、と聞くと、それもあるけど、壊れたらすぐ直せるようにしたり、迂回路を先に作っておいたりというようなことだと、専門家の方が答えてくれました。でもまだどこも実際やっていませんね。

里山海道はなっているのかもしれませんが、福浦から里山海道へ行く道は、中核工業団地の方の県道で、その県道がダメなら原子力発電所の前になるわけです。でも何か事故があったのに原子力発電所のほうへ向かうっていうことは考えられないですよ。

中核工業団地のところと、和光台の2つぐらいの道をきれいにして、逃げる道を作ってくれれば、少しは安心・安全に生活できますし、それが自治体の仕事でないかと思います。

実際、今回の地震ではその道路が2つとも使えなかったからね。土砂崩れで通れなかったのと、もう一箇所は陥没や隆起です。地震の翌日、その道を通って七尾の家に帰るっていう人がいましたが、車が落ちてパンクしていました。狭い道路なので一台でもそんなことになったらもう通れませんよ。現状のままだったら、また災害があったらどうなることか不安ですね

もう一回同じことが起きたら、今の状態だと、また同じことになりそうですね。

もっとひどくなるでしょうね。復旧していないので、もう一度同じ地震が来たらさらに被害が大きくなります。

逃げ道がなくなることは怖いですね。

原発も、もしかしたら、もう一度地震が来たら危ないかもしれない。私は当時区長をしていて、北陸電力さんの対応にもいろいろ不満があって、直接お話させてもらったんです。

もしまた地震があったときに、例えば、今回はなかったけど、海底が四メートルとか隆起して、取水口が上がったらどうするのか。水が無かったら原発がダメになるのは、東北の地震で皆さんも分かりきっているから、電源よりもそっちはどうなるのかという話をしたら、水は近くのダムから取ってくるし、消防車も何台か置いてあるので大丈夫ですと言うんです。

でも、そこまでの道路やパイプが壊れることがあり得ます。どれだけの震度の地震が来てもダムは壊れません、原発の周りの道路も完璧です、何でも対応ができますっていう状況なら、私も納得しますけど、実際は、二万リットルの油が流れて、外部電源のルートが一年半経ってもまだ治っていないんですね。そんな中で、本当に大丈夫と言えるのかなということです。本部長さんは大丈夫と言いますし、埒があかないので、私も分かったと言いましたけども。

自然災害でもそうですけど、防災訓練はそこへ逃げられる、支援できるという状況を崩さない形でやっているんですね。もっと根本的なところを考えてもらわないと、訓練にならないんじゃないかなと思っています。

地震になった時、原発はどうかっていうのが、頭から離れていて。他人事みたいに思えてしまいました。

実際に経験していないからね。でも、東北の浪江町とか、帰還困難地域で十年経っても地元に帰れない方もおられるじゃないですか。自分たちもその立場になることが、実際にあり得るわけです。

今まで、そういう経験がないので、何かあった時のための勉強をしたこともなかったんです。 でも、今回いろいろ本を読んでみたら、本当に福島第一原発の周りの方って大変な思いをしているんです。放射能が漏れた時に、直接自分の生命に関わってくる経験をしていて。いろんな人の話を聞くと、東北の場合は、放射能が溜まりやすい場所が避難所になっていたということもあって、大変だったらしいです。まだまだ、我々も自治体も、本当にそうなったらどうしようかっていう意識が足りない気がしますね

当時のことを語る皆さん

伝える