体験を語る
- 避難所・避難生活
原発と海が近い避難所

| 場所 | 志賀町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月2日 |
被災当時の状況
聞き手
被災してから公民館を開けるまでの状況を教えてください。
能崎さん
私は地震発生時、家にいました。家の中にいるのが不安になるほどの揺れで、すぐに家の前へ出ました。
家を出たときに、大津波警報発生という防災無線が鳴ったので、当時の副区長の濱村さんと電話で連絡を取って、避難所を開設しようという話をし、すぐに向かいました。
公民館に着くと、区の役員をしていた書記の方と役場の職員二名ほどがすでに着いており、開錠されていました。
聞き手
当時はどれくらいの人がこの公民館に集まっていたのでしょうか。
濱村さん
地元に普段住んでいる方は350人くらいです。あと、帰省していた人が150人ほどいて、合計で500人ほど来ていました。
聞き手
もともと公民館だけで350名程度を収容できるようになっていたのですか。
松井さん
それはなくて、公民館に収まらない人は車中泊でしたね。
濱村さん
100台以上の車が並んでいたので、我々がグラウンドへ誘導しました。きれいに止めないと100台入りませんので。
能崎さん
被災当日は会議室と放射能からの防護施設で100人を超えたと思います。それと、昔の学校の図書室に20、30人いたので、大体建物の中には150人ぐらいいました。あとは車中泊です。
体育館は、窓が全部破損して、冬場の海風が相当入ってきていました。当時、雨も雪も降っていなかったので、体育館に避難してもらうよりも、まだ外にいた方がいいんじゃないかということで、体育館は使いませんでした。
聞き手
隣の校舎は、図書室しか使われてないんですか。
能崎さん
職員室やその他の教室は、書類などが散乱して、使えない状態でした。
聞き手
1日目の夜は人もたくさんいて、あまり寝られてないですか。
能崎さん
私たちは寝てないですね。手足を伸ばしてゆっくり寝るという状況でもなかったですし、多分皆さんも寝られなかったと思います。
松井さん
1日は余震が次から次に来たので、満足に寝られる状況じゃなかったですよ。
聞き手
建物を使われた方と、車中泊された方の区別はつけていましたか。
能崎さん
区別はつけませんでしたが、お年寄りと、車にずっと泊まるのが嫌な方は建物の中に来ていただきました。車中泊を好まれる方、あるいは車中泊で良いよという方は車中泊していただきました。
松井さん
当時は水もなく、電気もなくて真っ暗な状態です。発電機も利用して、明かりを少しつけてはいたんですけども。電気がついたら、半分ぐらいは家に帰っていきましたね。
能崎さん
この地区では、全壊という判定をもらった家は何件かあるんですけども、家が完全に倒壊したとか、どうしても家に住めないという方は少なくて、なんとか家で生活できる方のほうが多かったです。
聞き手
ペットを飼われている方も少なからずいたと思うんですが、ペットと避難者との区分けみたいなのはどのようにされていたのですか。
能崎さん
ペットを飼っておられる方はみなさん車中泊でした。やっぱり一緒にいたいんでしょうね。
トイレの状況
能崎さん
最初、トイレの問題がありまして、1日目は、衛生上の問題があるので、ここのトイレは使用しないことにしました。電気もつかず、暗くて大変申し訳ないけれども、グラウンドの右と左で女性と男性に分かれてトイレをしてくださいとお願いしました。
防護施設には簡易トイレが2つあったんですが、それを使う方法を誰も知らない。町の看護師さんも知らないという状況だったんです。
たまたま福井県から帰省していた看護師の方が、災害ボランティアを経験していた方で、簡易トイレの使い方も知っていたんです。おかげで、防護施設の人やお年寄りはその簡易トイレを使うことができました。それで衛生面に関しては非常に助かりました。
その夜、我々役員と地元の何人かで、今後について話し合っていた時に、水さえあればトイレが流れるんじゃないかという話になったんです。
ここには簡易水道があって、飲むことはできないんですけど、水やりなどに使うために、各家庭にも引っ張っていました。それを確認してみたら水が出たんです。
この水を使ってトイレを流そうということで、実験したら流れまして、これで大丈夫だろうとなって、翌朝の早い時間に、車中泊の方と建物内の方を含めて全員に、トイレはこういうふうにすればできますと教えました。
トイレができるということが分かって、結構な方が帰られたと思います。この公民館のトイレは全部で3箇所あるんですが、そこには我々役員が水を用意して、順番に流してもらうというルールを作りまして、使えるようにしました。
聞き手
下水は特に問題なかったんですか。
能崎さん
そうですね。下水は流れました。
聞き手
車中泊の方は、トイレが使えるようになったらかなり減ったのですか。
能崎さん
だんだん日が経って、電気が通るようになって、それでも20、30台ぐらいはまだ残っていたかな。
ここに残った方は、お年寄りが中心で、トイレの水も自分で汲むことができないような方が多かったですね。
避難所の運営体制
聞き手
避難所の運営はどのようにされていたのですか。
能崎さん
我々は、一週間はここに全員で泊まって、それからは二人交代という形にしました。
濱村さん
お風呂にも入れないし、家にも帰れないということで、半分半分で一日おきに泊まるようにしました。
能崎さん
愛知県から派遣された職員の方は一週間目ぐらいに来ていただいたかな。一週間ごとに交代されて、二週間目ぐらいになったところで、その方も泊まりますと言ってくれて、そこで、我々も二人ずつ交代で泊まろうかという話になりました。三週間目ぐらいで完全にお任せする形になりましたね。
聞き手
ボランティアの方は全体で何人くらいいたのですか。
能崎さん
基本的には私たち役員5人で回していましたね。
松井さん
スタッフはもちろん、有志の人たちが、12、13人手伝ってくれました。非常にチームワークよく運営していたと思います。
震災の日は非常にいい天気で、ここへ避難して来た時もまだ穏やかだったし、夜もそんなに寒くなかった。スタッフと相談しながら、運動会で使うようなテントをセットしたんですよ。周りをブルーシートで囲ったんだけど、やっぱり冬はテントじゃダメでした。次の日、片付けたけども、みんなの力を合わせたら一瞬で片付いて、やっぱり協力が大事なんだと思いました。
避難所の物資
聞き手
冬で電気も通っていなかったということで、暖房器具はどうされていたのですか。
能崎さん
石油ストーブです。先ほど公民館長からもお話があったけども、3日間停電だったから、ファンヒーターは油があっても使えない。
福浦港区というのは4町内で組織されていたんですが、少子高齢化で役員がいない状況になっていて、なんとかしてほしいという声が前からあったので、たまたま、前の年の12月、この公民館ができた時に、4町内を一つの区が全部管理するようにしていたんです。 それで、各町内の会館に2、3台ずつ置いてあった石油ストーブを公民館に集めてありました。その石油ストーブが10台ぐらいあったのでそれを使いました。それでも足りなかったので、お寺に借りて、なんとか賄いました。
聞き手
非常用の食料や毛布は常備されていたんですか。
能崎さん
公民館にはありませんでしたが、放射能防護施設にはあったので、それを使わせてもらって、助かりました。
聞き手
食料の備蓄は足りましたか。
濱村さん
大体3日分ほどかな。おかゆみたいなものでしたが、あまり美味しくはなかったです。
聞き手
支援物資は、いつ頃から届きましたか。
能崎さん
公的なものは2日目からです。夕方ぐらいにパンやカップ麺が送られてきました。
聞き手
私的なものでは何が届いていたんですか。
能崎さん
コンビニで売っているような水、おにぎり、パンなどを主として、あとは歯ブラシなど、ないと困るような生活必需品も持ってきてくれた方がいました。
何日かすると薬を持ってきてくれた方もいて、色々と助かりました。
濱村さん
ここ出身の人が来てくれましたね。ここで生まれて都会へ行った人が持ってきてくれました。
聞き手
1日目の夜は、ご飯は配られたんですか。
能崎さん
配っていません。1日目の夜は、我々も暖房や電気の準備で駆け回っていたので、食事に関しては全く気が回っていなかったです。
濱村さん
我々は区の役員をしていますから、避難所の中にいて、困っている人に手を差し伸べる体制を取らないといけなかったんですけれども、うちの家族は車内に避難していました。それで、お腹が空いたらどうしたかというと、怖いけども家に行って食べ物を取って来たということです。正月でおかずもありますから、1、2日はそれを取りに行った人もいらっしゃいます。多分皆さんそうだったと思います。
もし正月じゃなくて、すぐに食事を作らないといけないっていうのがあったら、それはちょっと難しかったですね。
聞き手
車は結構自由に動いていたのでしょうか。
能崎さん
最初きれいに整頓して並べたので、一旦家に帰って何かを取ってくるということはできたと思います。
あとは、普段、小さい子はこの地区にいないんですけども、正月で帰省していた中にはそんな方もいて、ミルクを作りたいという相談がありました。水はあるけど、沸騰させるものがなくて困りましたね。それは、地域の方がガスコンロでどうにかしてくれていたと思います。
私たちは、この後どうしてここを運営していこうとか、津波の警報も出ていたから、各班の班長さんに連絡を取って、地区の方がちゃんと避難しているか確認をしないといけないとか、消防団員に、津波が収まった頃に見回りをして、お年寄りの方もおられるかチェックしてほしいと依頼しないといけないとか、そんなことに頭がいっぱいで、食事や小さい子のミルクとまではちょっと手が回らなかった。他の皆さんが協力的に動いていただいて、それを全部クリアしてくれたんだと思います。
濱村さん
食事も、インスタントやレトルトのものばかり食べていたら体が悪くなります。私、二月の頭くらいにちょっと心臓を痛めました。苦しくて救急車を呼ぼうかと思ったくらいです。ここの泊まりが終わってから病院へ行ったんですが、原因を探すのに一ヶ月ぐらいかかって、その間も三回ぐらい夜中苦しくてどうにもならないことがありました。冠動脈狭心症で血管が二つ詰まっていたのが分かったのが4月のことです。それで入院してカテーテルを入れて広めてもらいました。
カレーライスとか、ラーメンとかそんなのばかり食べていましたから、先生に聞いたら、食の問題もありますねって言われました。
能崎さん
大体最初の支援物資といえば、カップ麺とパンとおにぎり。このおにぎりも翌日の朝には期限が切れるようなものが来るんですよ。ただ、避難されている方に期限切れのものを食べさせられないので、翌日余ったものを我々役員で食べることが多かったですね。 そのうちに町から弁当が出るようになったんだけど、これも当初、油物が多かったんです。そうすると、お年寄りになかなか好まれなくて、それを話したら、幕の内弁当みたいなものを出していただけるようになりました。役場の方も避難所には一律に出さないといけないということもありますけど、そういうところは協力していただいたので助かりました。
濱村さん
こういうところで食事をしていると、早食いになりますから、すぐに腹が減ってまた食べる。保健師さんもいないし、カップ麺、カレー、缶詰とかあるものを食べるという感じです。
能崎さん
地元の女性のボランティアの方は、食事の担当でも、今日はこれとこれねっていう風に選んで出してくれました。
カップ麺ばかりじゃなくて、非常食も取り入れないとダメと言って非常食を出してくれたりね。正直、非常食はあんまり要らないなと思いながら食べていましたね。
松井さん
非常食のカレーは一見美味しそうに見えたけど、食べたら美味しくなかったね。
聞き手
美味しかった非常食はありますか。
松井さん
なかったですね。カップ麺とかおにぎりの方がよくて。缶詰が一番うまかったかな。
聞き手
情報はどうやって入手されていたんでしょうか。
能崎さん
情報は全くなかったです。まず電気がない。一応家からラジカセを持ってきたけど、つながらなかったと思います。あとは皆さん車のテレビで情報を取っていました。
聞き手
携帯電話はどうでしたか。
松井さん
5、6日してから携帯会社がたくさん充電器を持ってきて、充電はできるようになりました。
能崎さん
3日後に電気が来るまでは、発電機を使っていたんですね。それと防護施設は停電になった場合に備えて非常電源があったので、それで皆さんの携帯の充電をしていました。
お風呂や洗濯について
聞き手
電気と水が止まっていたということで、お風呂や洗濯の問題もあったと思いますけど、どうされていたのかお聞きしたいです。
濱村さん
みんな1週間から10日くらい、お風呂には入っていないです。
能崎さん
ここから離れられなくて、ずっとここで寝泊まりしていたので、10日間はお風呂に入っていませんでした。地区の方は車で近くの温泉とかへ行かれたと思います。
松井さん
この辺なら高浜にシ・オンっていうのがあって、それか羽咋、遠くは金沢まで、皆さん、車で行っていましたね。たまたま冬場だったから、私たちは1週間ぐらい入らなくても大丈夫だったけどね。
能崎さん
そのシ・オンというところでは、避難者優先でお風呂に入れてくれました。
聞き手
自衛隊のお風呂は来ましたか。
濱村さん
隣の熊野地区には来ました。ここにも計画はあったんですけど。
能崎さん
皆がほとんど帰って、車も少なくなった段階で、自衛隊のお風呂の話があったんですけど、いろいろ設備の接続とかで難しくて。
聞き手
水が復旧したのはいつ頃ですか。
能崎さん
避難所の閉鎖と同時に水が通ればいいねという希望だったんですけど、完全には通らず、流れ始めたのは2月13日。それから、ちょろちょろと出たり止まったりの繰り返しでした。水が飲めるようになったのは、2月の17、18日だったと思います。
濱村さん
避難所を閉鎖したのは2月10日なので、41日間ここにいたんですよ。
聞き手
それまでは給水車などでしのいだのですか。
能崎さん
給水車というか、ここに給水施設がセットされたのが1月16日です。それまでは、皆さん中核工業団地まで車で飲み水を取りに行っていたんです。
この建物は元々小学校だったので屋上に給水タンクがあって、そこへ水を上げることができれば使えるという話が、5日にあったので、じゃあやってみようかっていうことで、役場に水を入れていただいたら、タンクが破損していたんです。
たまたま地元に造船所をされている方がいて、電話でお願いしたら、仕事終わりにすぐ来て、直してくれました。FRP製のタンクで、通常は修理しても1、2日は使えないらしいんですけど、それを一晩中作業して、翌日には使える状況にしてもらいました。でも、やはり急な仕事で、FRPの削った粉が残ったんです。それで、飲み水としては多分ダメだということで、トイレの水と普通の生活用水に使う形になりました。ここのトイレはそれ以降ずっと水洗で使えたので、避難所としては非常にありがたかった。
衛生面・健康管理について
聞き手
季節も冬でしたし、コロナやインフルエンザなどに気をつけた点があれば、お伺いしたいです。
能崎さん
感染症は一番心配だったんですけども、10人近くの地区の女性ボランティアの方に朝からずっと詰めてもらって、簡易トイレの指導を受けたり、掃除もしてもらったりしました。そこは気をつけてもらって非常に助かりました。我々のところでは、感染症は一つも出なかったです。
松井さん
でも、その簡易トイレが和式で、不評でしたね。
濱村さん
和式の簡易トイレだけが残っていました。洋式を町に希望したけども、洋式がもう一つもなかった。
聞き手
簡易トイレも利用されていたんですね。
能崎さん
2日目からは、中のトイレも水を流せば使えると分かったので、皆さんで使っていました。
聞き手
換気はされていましたか。
能崎さん
していました。避難所にはお年寄りが多かったので、定期的にラジオ体操もしていました。DMATなどの方々も顔を出してくれて、そういうことが必要ですよという話をしていただいたので、ボランティアの女性の方々も実践してくれました。
聞き手
トラブルなどは何かありましたか。
能崎さん
私は、トラブルらしいトラブルはなかったと思っています。避難されている方で、少し認知症に近い方が一人で住んでおられて、夜中に起きて歩いているという話があったんですが、それに関しては、ご家族の方や親戚の方に相談して、何とか対応しました。
聞き手
地震で直接亡くなった方より、その後に具合が悪くなって、結果的に亡くなってしまった方が結構いらっしゃいますが、この避難所でも搬送された方はいましたか。
濱村さん
一人だけですね。関連死になっているかは、個人情報だから分かりません。
安否確認について
聞き手
安否確認は問題なくできましたか。
濱村さん
私は当時副区長だったので、誰も来ていない家があって、見回りに行きましたね。能崎さんと一緒に行って、停電して真っ暗なところで「〇〇さん」って呼んだら、「はい」っていう声があって、「避難してください」って言ったら、「まだ大丈夫。私はここにいます」って言うんですね。「皆さん避難していますよ」って言って帰ってきたら、次の日にやっぱり怖かったからということで来られましたね。
能崎さん
正月でこっちにいなくて、家族のところへ行っているというパターンもあるんですよ。そうしたら、あのお婆ちゃんが来てないぞという話になって、班長さんに聞こうと思っても班長さんもいない。さあどうするかとなって、最終的に私と濱村さんで現地を見て回りました。それで鍵がしまっていて電気もついていないから、これはしょうがないってなりました。そういう家も5、6軒ほど回りましたね。
松井さん
福浦地区は170軒くらいが固まっているので、誰がどこに住んでいるか大体分かるんですね。もちろん班長さんたちに確認してもらったんですけど、ある程度簡単に把握できるっていうのはいい点かなと思いますね。
濱村さん
家があっても、施設に入っている方や空き家もあって、実際住んでいるのは163世帯です。
聞き手
車を誘導するときに、お顔を見て誰がいるか確認をしたのですか。
濱村さん
班長さんにおまかせしました。15、16軒で1つの班だから、来ているかどうか確認してもらいました。結構、県外のお子さんのところに行っている人もいましたね。
松井さん
ペットボトルの水をいっぱいもらったので、班長さんを中心にして、各家庭に2リットル入りを6本配りながら安否確認もできました。
避難所の閉鎖について
聞き手
この避難所が閉鎖されたのは、皆さんが仮設住宅に移られてからでしょうか。
能崎さん
閉鎖されたときはまだ仮設住宅はできてないです。だんだん避難所を集約していったんですよ。当時20名近い人が残っていて、志賀か富来のどちらかの避難所を選んで行ってもらう形になりました。
濱村さん
町の人が来て説明会を開いてもらいました。ここの人はどこに入るとか2月に入れますという話をしていました。
松井さん
うちの地区で仮設住宅に入った人は、非常に少ないです。
聞き手
自宅の倒壊などが少なくて、自宅に帰れた方が多かったということでしょうか。
能崎さん
そうですね。
聞き手
傾いている家にそのまま戻られたような方もいらっしゃいますか。
濱村さん
私が聞いたのは、80歳で一人暮らしの男性ですが、全壊に近いような半壊だけど、特に修理はせず、今もその家に住んでいます。
「直せばどうか」と言うと、「もう80歳で、人生あと10年あるかどうか。それで1千万も使って直すくらいなら、子どもにお金を残す」と言っていました。
家族は高浜の方でアパートに入るように言っているけど、本人は福浦を離れたくないんですね。それは人それぞれですね。自分ならどうするかというと、家は直さないとしても、子どもに近いところでアパートでも借りようかなと思いますけど。
松井さん
この地区で170軒前後あって、公費解体で壊した家は5、6件、空き家を含めれば30軒近くです。この地区は地盤が結構強くて良かった。それに比べると他の町や富来なんかもう見てられんですよ。輪島や珠洲なんか見ると、うちのほうはまだよかったのかなって思いましたね。その後、能登を一周してきて、やっぱり地盤が大事だと思いました。今回、全壊したところは、家は立派なんですけど、地盤は柔らかかったので。
避難について
聞き手
小学校は割と高い位置にあると思うんですけど、沿岸部の方は直ぐこちらに避難されたんですか。
松井さん
津波があって、床上浸水が3、4件ありました。
濱村さん
港のところに並んでいる家は床下浸水でした。
私は若い時に消防団に入っていたんですけど、津波が来た時、消防団は消防車に乗って、港の様子を確認するという時代でした。今はそんなところを見に行ったらダメなので、今回の地震で港がどうなったかは誰も分からないけども、港の近くに置いてあった小屋が、上の道路に載っていましたから、4メートル以上の津波が来ていたんだと思います。
港の真ん中に家のある人が車で逃げる時に、もう津波ギリギリで逃げてきたっていうことを聞きましたね。津波が来るのと車の逃げるのが一緒だったと。津波の引き波になると、車ごと持っていかれて大変なことになるので、危なかったですね。
聞き手
避難訓練はされていましたか。
能崎さん
年に一回、津波と地震を想定して避難訓練をしていました。
聞き手
避難訓練の成果は出ていましたか。
濱村さん
非常食を町からもらって食べたり、県の危機管理の担当者の人の話を聞いたりということは地区で昔からしていたんですよ。福浦の人は皆さん、何かあればここに集まる、例えば大雨が降って怖いなと思ったらここに集まるという認識でした。原子力防災だとまた違ってきますけども。
聞き手
被災する一ヶ月前くらいにこの施設が建てられたということでしたが。
能崎さん
そうですね。改修されて公民館として使用できるようになりました。
聞き手
改修してから避難訓練はされたんですか。
能崎さん
それはしていないですが、避難するときはここの駐車場に集まってくださいという訓練は前にもしていました。
聞き手
改修してすぐだったので、避難物資なども揃っていなかったということでしょうか。
能崎さん
もともと公民館自体が避難所になるということは想定してないので、ここには全く置いてないです。たまたま放射能防護施設があって、そこに物資があったので利用できたけども、もしもそこがなかったら全く物資もなくて大変だったかもしれませんね。
濱村さん
町が置いた物資なので、他のところで災害があったらここから持っていくんです。
聞き手
ここはもともと指定避難所ではなくて、結果的にそうなったというわけですね。
濱村さん
少し大きな雨が降ったら、区が開設する地域の避難所になるんです。地域の避難所なので、区で費用も持つ形になります。それが大きくなって、地震になると町の避難所に格上げという形です。
聞き手
今後も避難所として利用される可能性はありますか。
濱村さん
避難所として利用できる場所はここしかないですからね。あとはここを行政の避難所にするかしないかは行政の判断ですかね。
聞き手
やはり、どこでも指定避難所にするのは難しいのですかね。
濱村さん
町の職員が張り付く必要がありますからね。10箇所の避難所があれば、1人ずつ行っても10人必要でしょう。でも絶対に1人で運営するのは無理だから、3人行ったら30人。それが 1ヶ月続いたら交代でも90人となるから、町とすれば少なくしたいでしょうね。地元とすれば、町の避難所に格上げしてほしいっていう思いはあります。
能崎さん
新聞に、輪島市の避難所は、震度5以上の地震が来たら自動的にボックスが開いて、誰でもそこに行って鍵を開けられる避難所ができるという記事が出ていました。公民館、中学校、小学校、全部指定していたから、輪島は多分公民館は全部指定避難所にしているんだと思います。志賀町がどうするか分からんけど、自動的にロック解除されるというキーボックスはいいなと思いました。
聞き手
誰かが鍵を持っていても、その人が行けなかったら開かないですしね。
濱村さん
私は、能崎さんから鍵を開けてほしいと電話がかかってきて、車で3分くらいのところに家があるんですけど、車庫の鍵が開かない。作ったばかりの車庫がもう揺れて歪んでしまって開かない。蹴り飛ばしてなんとか開いたので、急いで向かったんですけど、公民館長の方が早かったです。
松井さん
私は走ってきました。リビングで大きいテレビが倒れたんですけど、それさえ気がつかず、急いで外に出ました。
聞き手
町から避難状況などの情報を事前に確認していたんですけど、福浦工芸工房(旧福浦小学校)の避難者数は、実際にはこの公民館にいた人数ということですか。
能崎さん
ここにいた人数ですね。
聞き手
指定避難所の福浦工芸工房の敷地内に、放射能防護施設と公民館があるという形なんですね。公民館は避難所になっているのに、隣の福浦工芸工房は避難所として使えなかったんですね。
松井さん
校舎のほうは工房もあったり、木工もあったりで、ぐちゃぐちゃでしたね。図書館には大した荷物がなかったので、そこで20人ぐらい避難してもらいました。
濱村さん
この公民館ができるまで、この地区にはみなと会館という木造の大きい建物があったんです。それを潰してここを直してもらったんですが、もし潰さずにそこに避難していたら、大変なことになっていたかもしれません。
松井さん
避難所がなかったかもしれないね。今回はたまたま公民館の部屋が使えたけど、体育館も戸がめちゃくちゃだったし。
能崎さん
本当にこの建物があって良かったです。車も停められないし、前の集会所だったら避難所にできなかったね。
聞き手
予備の避難所みたいなものはあるんですか。
松井さん
ないです。避難場所としてもう少し充実した避難所があったらいいですね。 福浦地区は色々な防災訓練をしていて、地震があったら能登町へバスに乗って避難するというのもあるんですけど、今回の地震でそれは無理だなと思いました。いろんな問題で海も空も無理でしたし。
能崎さん
実際に、小さめの船を持っている方が沖に出られたんですよ。でも沖から帰ってくる時に、津波でゴミが港の中に入って、もう港に入れなかったと言っていました。 空はどうかって言うと、ヘリポートは駐車場なんですよ。車が止まっていたらヘリコプターが降りられない。道路は割れているし、陸海空全部駄目でした。
濱村さん
以前はヘリポートだったホッケー場も今は仮設住宅になっています。どうやって避難すればいいのか本当に教えてほしいです。
原子力防災について
能崎さん
町にも、避難のための道路が大事だから、そこから直してほしいという話も伝えたんですけど、防災に関しては、町は県が作ったものに従うと言うんですね。じゃあ県は何に従っているのかというと、国が作ったものです。地元の我々が経験して、どうしたらいいのかっていうことを誰も聞かずに、机の上で原子力規制庁か何かが計画を作っている。同じことがまた繰り返されるように思っています。
濱村さん
今ここで330人前後の人が住んでいて、何かあってここに来ても80人しか入れないんです。だから原子力防災なんて、強靭な道路を作って、金沢の方へ逃げてください、車の免許を持ってない高齢者など80人は残ってくださいということになるんですよ。
その80人は区の役員が面倒を見る。私も逃げたいですけど、そういったことはできない。本当に命がけですよ。それが区の責任かって言えばそうじゃないけど、やっぱりそこまでしないことにはダメなんですよね。そうすると何百人の面倒なんて見られるわけないです。
ある区長さんは、私は町からそんな仕事してくれなんて頼まれてないという方もいらっしゃいます。でも、我々自治会の組織なので、人が困っていたら手を差し伸べてやらないといけないですよね。ただ、原子力防災であったり、避難所の運営であったり、どうすればいいのか、能登半島地震での疑問もあるし、今後どうしていくのかって話になればいいなと思いますね。
能登半島地震の後、県や町の話を聞くと、強靭化という言葉が出るんです。道路、電気、水道、下水、強靭化しますと。強靭化って、例えば道路ならアスファルト舗装厚を高くするんですか、と聞くと、それもあるけど、壊れたらすぐ直せるようにしたり、迂回路を先に作っておいたりというようなことだと、専門家の方が答えてくれました。でもまだどこも実際やっていませんね。
里山海道はなっているのかもしれませんが、福浦から里山海道へ行く道は、中核工業団地の方の県道で、その県道がダメなら原子力発電所の前になるわけです。でも何か事故があったのに原子力発電所のほうへ向かうっていうことは考えられないですよ。
中核工業団地のところと、和光台の2つぐらいの道をきれいにして、逃げる道を作ってくれれば、少しは安心・安全に生活できますし、それが自治体の仕事でないかと思います。
能崎さん
実際、今回の地震ではその道路が2つとも使えなかったからね。土砂崩れで通れなかったのと、もう一箇所は陥没や隆起です。地震の翌日、その道を通って七尾の家に帰るっていう人がいましたが、車が落ちてパンクしていました。狭い道路なので一台でもそんなことになったらもう通れませんよ。現状のままだったら、また災害があったらどうなることか不安ですね。
聞き手
もう一回同じことが起きたら、今の状態だと、また同じことになりそうですね。
能崎さん
もっとひどくなるでしょうね。復旧していないので、もう一度同じ地震が来たらさらに被害が大きくなります。
濱村さん
逃げ道がなくなることは怖いですね。
能崎さん
原発も、もしかしたら、もう一度地震が来たら危ないかもしれない。私は当時区長をしていて、北陸電力さんの対応にもいろいろ不満があって、直接お話させてもらったんです。
もしまた地震があったときに、例えば、今回はなかったけど、海底が四メートルとか隆起して、取水口が上がったらどうするのか。水が無かったら原発がダメになるのは、東北の地震で皆さんも分かりきっているから、電源よりもそっちはどうなるのかという話をしたら、水は近くのダムから取ってくるし、消防車も何台か置いてあるので大丈夫ですと言うんです。
でも、そこまでの道路やパイプが壊れることがあり得ます。どれだけの震度の地震が来てもダムは壊れません、原発の周りの道路も完璧です、何でも対応ができますっていう状況なら、私も納得しますけど、実際は、二万リットルの油が流れて、外部電源のルートが一年半経ってもまだ治っていないんですね。そんな中で、本当に大丈夫と言えるのかなということです。本部長さんは大丈夫と言いますし、埒があかないので、私も分かったと言いましたけども。
自然災害でもそうですけど、防災訓練はそこへ逃げられる、支援できるという状況を崩さない形でやっているんですね。もっと根本的なところを考えてもらわないと、訓練にならないんじゃないかなと思っています。
松井さん
地震になった時、原発はどうかっていうのが、頭から離れていて。他人事みたいに思えてしまいました。
能崎さん
実際に経験していないからね。でも、東北の浪江町とか、帰還困難地域で十年経っても地元に帰れない方もおられるじゃないですか。自分たちもその立場になることが、実際にあり得るわけです。
今まで、そういう経験がないので、何かあった時のための勉強をしたこともなかったんです。 でも、今回いろいろ本を読んでみたら、本当に福島第一原発の周りの方って大変な思いをしているんです。放射能が漏れた時に、直接自分の生命に関わってくる経験をしていて。いろんな人の話を聞くと、東北の場合は、放射能が溜まりやすい場所が避難所になっていたということもあって、大変だったらしいです。まだまだ、我々も自治体も、本当にそうなったらどうしようかっていう意識が足りない気がしますね。

伝える
- 体験を語る
-
避難所・避難生活
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
小橋敦郎さん
「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
領家町区長 山本政人さん、領家町区民 東澄江さん
「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
前福浦区長 能崎亮一さん、福浦公民館長 松井 正浩さん、福浦区長(前副区長) 濱村 大さん
「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
-
行政
-
輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
-
輪島市復興推進課(当時)
-
消防
-
七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
-
七尾消防署 署長補佐
-
警察
-
医療機関
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
-
教育・学校
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
-
企業・団体
-
ボランティア
-
関係機関が作成した体験記録

