体験を語る
- 避難所・避難生活
地域のつながりを生かして避難所を運営

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月17日 |
地震発生当初
聞き手
被災されたときの状況を教えていただきたいです。
坂尻さん
午後4時10分頃でしたかね。その前に震度5ほどの地震があったでしょう。それで、慌てて家に戻りました。家へたどり着いたときに、本震にあったんです。
ちょうど正月で娘たちが夫婦で孫を連れてきていたものですから、その時には、家には大人が7人、乳児から小学生までの子どもが6人で、13人が家にいたんです。
最初の地震のとき、子どもたちに「地震の時にはテーブルの下に入るんだよ」と言って、させました。そうしたら本震があったものだから、子どもたちはテーブルの下に隠れて、揺れが収まるのを待っていたという状況だったんです。
私の家は、10年ほど前に新築にしたものですから、多分、耐震面ではそれなりに条件が整っていたんだと思います。それで、揺れが収まってから家の状態を見ても、ほとんど傷んでいなかった。ですから、中に人がたくさんいた状況だったけども、大丈夫だったというのが一番良かったなという点です。
ただ、その後ご存知のように、交通も情報も、何もかも遮断されてしまって、言ってみれば、孤立集落になってしまった状況があるんです。
娘夫婦のうち1家族は、神奈川県の川崎、もう1家族は愛知県の安城なんですが、帰った方がいいと。ここにいても、どうしようもないから帰したいと思ったんです。ただ、孤立状態なので、大変なことにそのままになってしまいました。
聞き手
ご家族は帰れたのでしょうか。
坂尻さん
川崎まで 1家族が帰ったのが1月4日、もう1家族は1月5日で、すぐには帰れなかったんですね。穴水から金沢の間は、車の通れるところを探して探して走るとなんとか行けたんですけども、時間的には8時間から12時間かかったということで、大変時間もかかるし、それから渋滞もするしで、金沢へ出ればなんとかなるはずだけど出られないという、そういう状況でした。
聞き手
1月5日までどうやって過ごされていましたか。
坂尻さん
4日に川崎に帰った方は、自分の自宅にいました。5日に帰った方は能登空港にいたんです。なぜかと言ったら、2日にその2家族を車に乗せて、金沢まで送ろうとしたわけですが、能登空港で大渋滞。能登空港の前の道路が、1時間経っても、本当に数10メートル進むか進まないかぐらいの渋滞で。なんとか金沢へ行こうと思ったんだけども行けない。
そうしたら、能登空港も避難場所だったんですが、あそこは水も電気もあるし、それから、食料もあるということで、1家族はそこで降りるということになったんですよね。1家族は自分と一緒にそのまま自宅に戻った。
それで、なんとかならないかということだったんですが、 国道は隆起やら亀裂やらで、当然通れない。電気は停電しています。水道ももちろん止まっている。それからテレビやインターネットももちろんダメ。ラジオだけは聞ける状況で、新聞とか宅配だとかも、当然止まる。
地区に 1つだけ公衆電話があったんですよ。公衆電話は災害時でも大丈夫なんですね。だから、外部への連絡、今どんな状況で、どうしている、これからどうするっていうのを川崎や安城へ連絡するというのは、その公衆電話まで歩いていって連絡をするのが唯一、外部と連絡できる方法でした。
災害時の公衆電話って、料金を取らないんですね。だから、あまり気にせずに、そこからは連絡できました。そういうことは、実際なってみて初めて分かるんだけども、地区に1つあった公衆電話は、その時は十分役に立ちました。
地区の被災状況
聞き手
地震後の地区の様子を教えてください。
坂尻さん
人が住んでいた家で、完全に潰れてしまって、全く中にいられない状況になった家が1軒。あとは、被害調査では全壊って出てきた家も崩れずに立ってはいたんですよね。ただ余震がひどかった。30分おきぐらいに余震が来て揺れる。それから音がする。建物被害が大きい家では、とてもじゃないけども、自分の家にはいられないという状況だったんです。
そして、比良地区は52戸で、人口で言うと130人ぐらいの集落なんです。そういうところで地震の被害にあったんだけども。本当に潰れてしまった家の人は、もし中にいたら大変だっただろうけども、最初の震度5の時に危ないって、家族4人で外に出てしまったから、家は潰れたけども怪我はしなかった。他の地区内の家も、被害はもちろん大きいんだけども、うちの集落では人的被害はなかったんです。
聞き手
怪我などもなかったのですか。
坂尻さん
はい、怪我もなかった。人的にひどくなることは、なかったので、そういう意味では気が楽でした。
地震発生直後
坂尻さん
地震が起きて、そのあと大津波警報が出たでしょう。集会所は海と川のそばで海抜1メートルくらいのところなので、津波警報が出たら集会所は避難場所としてはだめなんですね。
地区にお寺が3軒あって、境内が全て山側で、海抜10メートル以上というところにあるから、津波警報が出たらお寺へ逃げるという話を、お寺さんにもしてあって、何かあった時には、地区の住民を受けることをお願いしていました。それで2日の晩は、3軒のうち2軒のお寺の境内に避難して、片方は50人くらい、もう片方は40人ぐらいいたかな。
あの晩は星がきれいでしたが、夜になったら寒くなっていくんですよ。お寺にあるだけの石油ストーブを出してくれたんだけども、それでもなかなか暖かくならない。うちの孫なんかも0歳から10歳までいて、そういう小さい子どもは寒い寒いって言っていました。ストーブの周りに集まって、持って来られる人は毛布を持ってきて、それを分け合って、温まっていました。
そういう状況の中で、大津波警報は解除されない。津波の心配はずっとあった。地震発生から長い時間、いつ津波が来るか分からないっていう感じですよね。午後4時10分に地震が起きて、実際、珠洲市の内浦側は随分、津波の被害がひどかった。ところが、津波が来ていて被害を受けているという情報は、ラジオじゃ全く入らなかったんです。輪島のほうへ30~40センチの津波が来たっていう情報が入ったのは午後6時くらいだったかもしれない。その後は、結局ずっと待機しているだけです。
大津波警報は解除されないんですが、夜9時くらいになった時に、もう寒いし、いくらストーブがあっても、ここにいるのは無理だとなったこともあるし、地震があってから4,5時間経っていて、多分震源地とこの地区との距離は数十キロぐらいだから、24時間後に大きな津波が襲ってくるというのは多分ないだろうなということで、皆さんに話をしました。
今状況として分かっているのは、3時間ほど前の話として、輪島に30~40センチの津波が来ている。ここにもこのあと津波が来るかもしれない。震源とここの距離から考えてみて、ロシアにぶち当たった津波が戻ってきて大津波になるとすれば、あるのかもしれないけども、まず無いように思われる。無いとは言えない。この状況の中で、どうするかはそれぞれ判断願います。私は、家へ帰ることもできるんじゃないかと思っています。区長が言ったから、皆帰ったというわけにはいかないので、それぞれの判断で、帰る場合は帰ってもいいんじゃないかと思います。そういう話をしたのが夜9時過ぎだったかな。
避難所の運営について
聞き手
どのように避難所を開設されたか教えてください。
坂尻さん
穴水町というのは「こんなことがあったら避難所を開設する」ということが手続き上うまくいっていなかった。だから、避難所になるのかならないのかも分からない状況があったんです。
だけども、平屋建ての集会所が、後から準半壊で痛んでいたことが分かるんですけども、そのときはすぐ倒壊する恐れがなさそうなので、自然発生的に、集会所へ行こうという人が出始めたんですね。それが2日のことです。
2日の時点で、区長も、自主防災委員会の会長で、集会所の管理もされている方ですが、その方は、集会所を地区の避難所にするとは言ってないんです。集会所もいつもは鍵がかかっていた。
ところが、2日の朝には、鍵が壊されてしまって、中へ自由に入れる状況になったんですね。一応、地震があった際の避難所として看板は掲げてあったこともあって、自宅に居るのがとても心配だと言う人が、何人か集会所に集まったんです。2日には18人が集まって、とにかく、ここで一晩過ごそうとなったんですね。ですから、自主的に集まって、そこが避難所の形になり始めたということです。
避難生活の開始
聞き手
避難生活のことを教えていただきたいです。
坂尻さん
やはり電気はない、水道は当然出ない。それから寒くて暖房が必要ですけれども、石油ストーブだけなんですね。集会所は30畳ほどと10畳ほどの2部屋あるんですけども、1日石油ストープをつけていると楽に20リットルぐらいは使ってしまう。そうすると、当然ガソリンスタンドも営業していないし、町外のガソリンスタンドへも行けないしで、灯油は手に入らない。
電気、水がない、そして、灯油もあるかないかの状況で、人が18人も集まったと。そうなると、どうやって食べるか、どうやって寝るか。布団も集会所に準備できているわけじゃないです。ということで、不自由なことばっかりでスタートしています。私も、2日はそこへ行っていないので、実際どんな風に皆さんやっていたのか、よく分かってないんですけどね。
3日になって、ようやく2リットル入りのペットボトルが12本、24リットルの水と、それから菓子パンが 18個届いたんですよ。他から届いたものはそれだけですね。
3日の晩には27人になるんですけども、それだけの人数で菓子パン18個だけ届いても、ということで、どうしたかというと、幸い正月で、田舎ですから、どの家でもだいたい餅をつくっているんですよ。それからお節というか、正月に向けての料理がある。それから、当然その間はスーパーに買い物も行かないのが普通だからっていうので、何日分か皆さん食料を買い込んである。ということで、食料がそこそこあったんです。ということで、最初はそれを持ち寄るという形にしました。2日の夜から持ってきている人もいるし、3日に持ってきた人もいます。
うちの集会所は1月4日の夕方に電気が来ました。そして、スマホも復旧したんですね。電気が来たから。集会所は、キッチンが備わっているので、この日初めてあったかいご飯を炊くことができまして、おにぎりと、それから豚汁かな。これも皆各家庭の冷蔵庫にあった豚肉とか味噌、白菜なんかを持ってきて作ったんですけども、ほぼ 3日ぶりくらいに、あったかい食事を摂ることができましたね。
聞き手
何かトラブルなどはありましたか。
坂尻さん
地区の集会所へ、地区の人が集まったということは、全員顔見知りなんですよ。もちろん、帰省していた人、あるいは親戚の人で、一緒に入った人も、何人かはいます。でも、基本的に顔見知りで、そして顔を知らない人は、どこの家のどんな関係の人とか、どこの家の誰かとかいうので、全くの他人という人はいなかった。ですから、食料を分ける時にギスギスするといったことは、最初から最後まで全くありませんでした。
最初に言ったように、亡くなった方、怪我した方がいなかったということと、それから、避難所の形となったのは、1月4日からなんですけども、その時点で、基本的には地区の人ばかりというので、そういう中でも小さないざこざはもちろんあるんですけども、大きなものはなかったですね。
ただ困ったのが、避難してきた方で、病気で寝たきりの、おむつ交換などもしなきゃいけないというおじいさんが 1人いて、介護が必要な方が一緒に居るというのは極めて難しいんですね。そのおじいさんについては、10畳の部屋をその家族に当てざるを得ませんでした。
それから、足が悪くて、ほとんど自分での移動が難しいおばあさんが1人。そうするとトイレが大変なんですよ。だから全然水気を取らなくなった。
その2人をこのままこの避難所に置いていたら、これは絶対にまずいことが起きるぞという状況で、そういう方たちが入るとすれば、福祉避難所なんですよね。ところが町もまだ普通の避難所についても、どんな手順でやるかがはっきりしていないところに、福祉避難所なんて、もっとはっきりしていないんですね。
それで個別に町当局へお願いして、おじいさんは、地区の老人福祉介護施設へなんとか入れてもらって、10畳の部屋は開けることができた。それから、水を全然飲まなくなったおばあさんも、このまま置いていたら、絶対体を壊すということで、福祉避難所へ移ってもらった。これが 3日と4日のことです。
介護の必要な方が2人、集会所から出られたあとは、それなりに健康な地区住民が主な避難所の利用者になったんです。
避難所の運営について
聞き手
あまり避難場運営のルールを決めてという形ではなかったのですか。
坂尻さん
別にルールを決めなくても、皆さんが、自主的に、それぞれ動いてくれていました。食事にしても、片付けや配膳は自然と皆がやってくれていたんですよ。
ところが、これも問題があって、だんだん、やる人とやらない人が分れてくるんです。そして、見ていると、やる人は朝昼晩やる。例えば炊飯ができるようになったこともあって、朝早くから食事当番して、昼もして、夜もやって片付けしてというようなことで、ずっと動きっぱなしにならざるを得ない人が出てきた。そして一方では、私は被災者だからっていうので、全く動かないで、誰かがしてくれるのを待っているという、そういう人たちに二分していった。
それでこれはまずいと。このままだったら、やっている人は倒れるし、やっていない人はそのままずっとそんなことになるだろうからというので、1月9日、1週間経ったところで、当番や役割を決めました。
区長のもとに運営班と炊事班っておいてね。その運営班、炊事班の中に3チームずつ 作って、そこへ人を当てはめていった。そうすると例えば、運営班の第1班は、今日1日の水がないわけですから、給水所に行ってポリタンクで汲んでこなきゃいけないとかね。それからゴミが溜まって、置いておくわけにはいかんから、集積所に持って行かなきゃいかんとか。あるいは、ここが壊れて隙間風が入るのを直すといったことをするために、男性は運営班に入れました。
運営班を 3班作って、1日目、2日目、3日目と経ったら、またローテーションして、1日目、2日目、3日目というふうにして、男性をあてました。女性は炊事班です。これも3チーム作って、1チームが朝昼晩全部をやる。1日1チームが担当する。そうすると3分の1の人は、1日拘束されるけども、あと3分の2の人は、全く拘束されないので、自分の時間も取ることができる。
皆さん、家が傾いたり、隙間風が入ったりはしているんだけども、全然家に入れない、全然自分の家に居ることのできないというのではなくて、居る場所をなんとか作れるぐらいの人ばかりだったんです。そうすると、空いた時間があれば、ちょっと戻って片付けをするとか、あるいは家で休むとか、そういうことができる。この当番制というか、役割分担をしたことで、自分の時間を明確に区切ることができたのが良かったかなと思っています。
聞き手
役割分担のときに、気をつけたことはありますか。
坂尻さん
犬とサルは一緒にできないからね。様子を見ていて、この人とこの人は別のチームにしようとか、そういうことはしました。
聞き手
それは災害が起きる前の普段の関わり方から、見えていたんですか。
坂尻さん
災害前の関わりというより、皆が集まると、エゴが強く出る人とそうでない人がありますよね。エゴが強く出る人同士を一緒にしたら大変なので。そういう状況はそれまでにもいっぱいありました。
聞き手
やる人とやらない人が元々いて、役割分担をして、やらない人をなくすみたいなことでしょうか。
坂尻さん
そうです。
聞き手
「なんでやらないといけないのか」という不満はなかったのでしょうか。
坂尻さん
直接は聞かなかったですけども、役割分担してもやっぱりやらない人が少し出ましたね。ただ、そこはそれ以上言っても仕方がないというか。
避難生活
坂尻さん
暖房用の灯油が初めは全然手に入らなかったので、家に余分に買ってあるから使っていいよっていうのをもらって使っていたんです。でも、それも心細くなってきた頃に、自衛隊が灯油を運んできてくれました。食料も水も運んでくれる。水と食料と灯油の来たのが、1月8日だったか、1週間くらい経った頃です。
それから集会所には、水洗トイレがあったんですが、浄化槽が浮き上がってしまって、全く使えなくなってしまった。集会所の水道に水が来たのは4月か5月で、ずっと後のことだったので、当時は水も来ていなくて、トイレが問題になったわけです。
1月9日までは、トイレが使えないままにトイレをせざるを得ないという状況なんですね。それで、皆さんに小の方はしてもいいよと。こんな時だから、それが配管を通って川や海に行っても仕方がない。でも大の方は、逆流したり、詰まったりで、とんでもないことになるから、大は止めて、自分の家へ帰って、なんとか工夫してやってくれと言っていました。
状況が変わらなければ、ずっとそのままの流れになっただろうと思うんですが、1月10日に、日本財団というところから、ラップポンという簡易トイレが届いたので、男性用と女性用に1個ずつ置いて、それ以降は、ラップポンでやるということになりました。
聞き手
使い方は、すぐに皆さん分かったのですか。
坂尻さん
はじめは、「トイレの使い方が分からんからついて来て」と言われて、トイレに行きたい人に夜中に起こされた人もいました。
あと、ラップポンになったのはいいんだけど、今度はごみが大量に出ることになってきたわけです。それを長いことを置いておくわけにはいかないし、どうするかとなったんです。結局は普通の燃えるゴミとして回収することになったから、そういうのが山になるということはなくなりました。
水は相変わらずペットボトルを何十本も使ってという感じです。その内ポリタンクで、2㎞ほど離れたところで、給水所へ汲みに行くようになりましたね。水は最後までそんな風にしていました。
聞き手
2㎞先の給水所までどのように行ったのでしょうか。
坂尻さん
軽トラックで行っていました。
聞き手
避難生活で一番困っていたことは何ですか。
坂尻さん
避難生活が長くなってくると、皆さん、避難所で過ごす時間と自宅へ戻って過ごす時間とうまくバランスとるようになってきてね。自宅へ行って片付けしながら休むとか、食事は避難所へ戻ってするという生活のリズムができてきたんです。
そういうこともあって、私は困ったことというのはなかったですね。避難所に入っている人と言い合いになるとか、無理矢理命令してやらせるというようなことは、幸いなことに一度も無かった。最初に言ったように、地区の避難所で、顔見知りばっかりということがそういうことに繋がったのかもしれません。
皆さん、12月31日には、お風呂に入って正月を迎えますが、1月1日からはずっとお風呂に入れない。ですから基本的にまるまる10日間はお風呂に入れていない中で、1月11日から自衛隊の入浴支援が始まったんです。初めは町のほうでマイクロバスを準備して、それに乗って、お風呂に入って、戻ってくるという行き方でした。そのうち、自分で行ってもいいよという風になったから、時間を見つけては、皆さんお風呂に入りに行っていました。毎日行っている人はさすがにいなかったけど、10日もお風呂に入れないということが解消されて、その面ではよかったですね。
聞き手
どのくらい避難生活は続きましたか。
坂尻さん
1月10日にラップポンが入った。11日に風呂へ入れるようになった。10日以上も経つから、自宅の片づけもそこそこできた。となると、皆さん、避難所での生活と自宅での生活という、生活のリズムがだいぶ出来てきて、これだったら、そう長いこと避難所を開設しなくてもいいのかなという感じになってきたんです。
1月14日には、各地区に避難所がいっぱいあって、自衛隊も含めて、いろいろな支援が入って運営されているんだけども、いつまでもそんなわけにはいかない、できるところから、避難所を集約したり減らしたりしていかないといけない、ということが町から少しニュースとして入ってきたんです。そうしたら、うちの地区も2週間経ったけども、どこかの時点でこの避難所を終了することになるので、そうなったときにどうするか皆さん考えてくださいという前触れを出しました。
聞き手
その頃には避難所には何人ぐらいにいましたか。
坂尻さん
20人弱でした。
聞き手
そこから徐々に避難者が減っていったのですか。
坂尻さん
いや、そのあたりからは、数があまり変わらないです。最後は14、15人だったかな。
聞き手
最終的に避難所を閉じるまでの流れは、どのような感じでしたか。
坂尻さん
14日に皆さんに話をして、1週間後の21日には、来週27日の土曜日にはここを閉じますという風に決定して、皆さんにお話しました。だから、予告をしてから、2週間は時間があったんですけども、閉じた後どうするかっていうのが問題なんですね。閉じた後どこへも行きようがないとか、他の避難所へ行かざるを得ないとか、いろいろな人が出てくる可能性がある。
避難所にいれば3度の食事がありましたので、避難所を閉じて、食事もなくなる、寝るところもなくなったらどうするかっていうのがあるわけですよ。それで一人ずつヒアリングして、あなたはどうしますか、という風に話をしました。そうしたら、20人弱の中で、一人だけ行くところがないというんです。それでどうするかと言っていたら、お姉さんの職場の寮が一室使えそうだということが分かって、27日に避難所を終了しても全員集会所を出ることが出来るようになりました。
27日に避難所を閉じると言って、24日の段階で、先ほどの最後の一人の行き先が決まったから、避難所が閉鎖した後も、さらに集会所に残って生活するという人はゼロになった。それじゃあ27日で集会所としても閉じましょうとなりました。
聞き手
ヒアリングされていたから、27日に閉じることができたということですね。
坂尻さん
そうです。急にここを閉じるから、鍵もかけるし明日から出てってと言われても困るわけですよね。言われたほうも困るし、言うほうも辛いし。徐々に話をしながら、様子を見ながら閉じることにして、1月27日に閉じたということですよね。
震災対応に役立った地域の防災活動
聞き手
お話を聞かせていただいて、地域の顔見知りや元々の関係性がすごく大事だったのかなと思ったんですが、これまで地域の絆を深めるようなことはありましたか。
坂尻さん
各地区に自主防災委員会という委員会を立ち上げて、避難訓練や防火訓練をやったらいいよねという話があって、それを今から15年位前に立ち上げた。
8年前に自主防災員会の会長さんになった人が、非常に積極的に活動を企画して実施するということを続けてきた人だったんです。避難訓練、それから防火訓練、炊き出しもやりました。各地区に消火栓があって、消火栓を開いて初期消火するようになっているんですけども、実際に開いて、ホースを接続して放水するっていうのは、やったことがないとできないんですよ。
毎年、自主防災委員会が中心になって、年に2回ほどは活動をしてきたということがあってね。何かあった時には、誰が中心になって、どんな動きをすればいいのかを見てきた、あるいは、やってきたことが、避難所を運営していく上で役に立ったと思います。
区長として
聞き手
区長という立場で、指揮を取らないといけないとかこうしなきゃいけないということはありましたか。
坂尻さん
そういうのは特になかったです。区長だからと言って、こういう時にどういう風に指揮できるとか指示できるというようにはできていないですね。
ただ、皆さんの前で、そのままずっと流されていくというわけにはいかないぞと。周りの状況や町からの情報を判断した上で、こういうことが考えられます、あるいは、こうしたらいいと思っています、ということはお話していました。好き勝手に、あるいは、何をしていいか分からないままに、延々とそのままというわけにはいかないと思うんですよね。
私とすれば、皆さんにああしろ、こうしろという指示をするつもりはなかったですし、情報を集めてきて、皆さんの便宜を図るように努力をするので、その上で判断して下さい、あるいは、こういう方向がありますとお伝えしました。
今後への教訓
聞き手
被災された経験を踏まえて、災害への備えとして、大事だったと思うことは何ですか。
坂尻さん
どんな災害が来るかっていうのは全く分からないわけでしょう。今回にしても、昔から、北陸は地震も少ないし台風も来ないし、そういう天災にはある意味、無縁の場所だという風に思っていたわけです。ところが、こういうような経験したことがない大きな地震に出会ってしまったわけですから、これに対する備えなんか、言ってみれば不可能です。そんなものを想定して、何かするというのはできるものじゃない。
もしやれるとすれば、防災委員会の活動の話もしましたが、それが本当に実際に即したものかっていうのは必ずしも分からないんだけど、災害が起きる前に、地震だったら、あるいは洪水だったら、あるいは津波だったらどうするかということをやっておくことが、後々に役に立つという気がしますね。
災害時のモラル
坂尻さん
それから、こういう非常事態が起きたことで困ったというか、びっくりしたことがありましてね。集会所の鍵が壊されていたという話もしましたが、ガラスを割って中へ入って、自分らが必要と思うものを持って出て行ったという人が複数いるんです。
私は、別の場所でもよく似たことを目撃したんですけども、こんな非常時だから何をしても許されるんだって言い放つ人がいました。非常時だからっておかしなことをしていいはずがないだろうと。例えば、うちの集会所で言うと、器物破損、住居侵入、窃盗。平時だったら、これに相当することをやっているわけですよ。
やった人、あるいはグループが分かったものだから、あとで話を聞いたんですが、非常時だから何をやってもいいと平然と言うんです。違うだろうと、非常時だからこそ、気をつけなきゃいけないことがいっぱいあるのに。自分の都合いいように解釈してやってしまうというのに本当にびっくりしました。それがうちの集会所の話です。
それから、もう一つ、近くの小学校も避難所になっていたんですが、1月2日の午前中の朝早い時間に、本当に避難所として使えるのか見に行ったら、まだ全く準備されていないんですね。そこへ若い男の2人連れが入ってきた。そうしたら、その若者が、「車椅子があったらいいな」と言って、「多分保健室にあるだろう」「鍵がかかっているけどどうする」「じゃあ戸を破るか」っていうやり取りの後に戸を蹴り始めたんですよ。
それで待てと言って、「ここは管理人がいない場所だ。あんたたちは、何のために、どうしても車椅子がいるような状況なのか」と聞くと、そのままそっと行ってしまいました。そのまま放っておいたら、多分保健室の戸を蹴破って、中に合った車椅子を出して持って行ったでしょうね。
その件については、うやむやになっている部分もあるんですけども、ガラスの修理代が14,300円かかったんですが、誰も払ってくれません。非常時だから、命がかかっているならば、本当に切迫している状況であれば、そんなことは言っていられないです。ガラスを破ろうが戸を破ろうが、中にある物を持って、命を助けるというのは当然だと思うんです。でも、全然そうでもないのに、そんなことを平気でやる人が世の中にいるんだなと思って、それはがっかりしました。
伝える
- 体験を語る
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「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
穴水消防団長
濱出泰治さん
「消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに」 -
穴水消防署員
吉岡邦範さん
「避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長
中橋毅さん
「被災地の医療を支えた穴水総合病院」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

