体験を語る
- 行政
災害対応・避難所運営の課題と連携

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月12日 |
地震発生当初
聞き手
被災直後のご自身の被災状況について教えてください。
保下さん
被災時はお正月だったので、親戚の家を回ってお正月料理を食べたり、お酒を飲んだりして普通のお正月を過ごしていました。実家から叔母の家に行こうとしているときに被災して、車の中で縦揺れと横揺れを感じました。以前の能登半島地震も体験したことがありましたが、その何十倍もすごい揺れでした。車の中も散らかるほどでした。
聞き手
周りの道路などの状況はいかがでしたか。
保下さん
周りの家も全部潰れていって砂埃もひどく、道路もメキメキと押しあがる様子が見られました。マンホールも上がってきて、瓦礫が押し寄せてくるから、死んだかと思いました。そのあと、この状況ですし、ふれあい健康センターもすぐ近くにあるので家族は皆避難所に行けと言いました。
僕はすぐに仕事に行こうとしたのですが、道路の悲惨な状況から動けなくて、とりあえず近くにある叔母の家を見に行くことにしました。そしたら叔母の家も全壊でぺしゃんこになっていました。そこから、まずは足の悪い叔母の救出が先だと思って、救出しようとしたのですが、1月1日中では救出口を確保できず救出できなかったです。助けを呼ばないとダメだと感じたが、周りに助けがいる状況でもなく、助けを探している頃に叔母から電話がかかってきて、助けてくれということや、どんな状況になっているかを確認しました。
結果的に圧迫されているわけでもなく挟まれているだけで、ちょうど潰れたときにできた空間にいるということだったので、一晩待つことにしました。
次の日、2日の朝、助けを呼びに市役所に行こうとしたのですが途中で自衛隊の人を見つけて、その人に声をかけ、状況を説明しどのように救助するかを話し合い、自衛隊の人と一緒に叔母を救助しました。そのまま次に実家に行って父母を助けました。実家は潰れてはいなかったので大丈夫だったのですが、親が透析をしている人だったので、すぐに病院に連れていきました。そこから業務に入って避難所運営などを行ったという感じです。
聞き手
ご自宅は半壊だったのですか。
保下さん
後から全壊だと分かりました。
聞き手
ご家族は2日から避難所で生活されていたということですか。
保下さん
家族は2日まで安全なところに車を止めて、車で待機していて3日の朝からふれあい健康センターに行きました。
聞き手
市役所に行かれたのはいつ頃だったのですか。
保下さん
2日も自分の父親のことなどで、いろいろ時間かかって、結局夜まで忙しくしていたので、そこから市役所に電話を掛けたら、今ちょっと整理しているところなので明日で大丈夫と言われたので、3日に市役所に行きました。
避難所運営の開始
聞き手
それからすぐ避難所運営をされたのですか。
保下さん
そうですね。河原田地区というところにある5か所の避難所運営を僕が一人でやる感じでした。
聞き手
具体的にどのようなことをされたのでしょうか。
保下さん
避難所を回って避難者数をまとめることや、必要なものを物資として揃えることもしましたし、その避難所の中の運営をどういうやり方で行っていくかをまとめたりアドバイスしたりしました。自主避難所になっているので、避難者の中にも手伝ってくれる方がたくさんいて、皆でいろいろ話し合いながら、5か所の避難所を安定的に運営していくというようなことを行いました。
聞き手
見せていただいた避難所リストには、河原田地区の中に5か所以上避難所があって、各地に避難者数も記載されているのですが、これはどういうことなのでしょうか。
保下さん
避難所は沢山あるのですが、地震で使えないところが多くて、結果的に5か所になったということですね。使えない避難所に避難された方も最初はいたのですが、すぐに他の避難所に集約されて、5か所にまとまったという感じです。雨や雪の影響で土砂災害が心配されるような避難所の方に移動してもらう感じでした。保育所から小学校に移すとか、農協の施設に避難した方もいたのですが、農協の施設もそこまで長いこと居られないから、別の避難所に集約したりしていました。
なので、リストに書いてある避難所はすべて自主避難所で、最初は皆逃げられるところに逃げていたということで、最終的に集約された5か所以外の避難所運営には携わっていないということです。4日くらいまでは、そのような足らないところに行くという感じもあったのですが、4日にもなれば、当番の方が来られるようになったので、僕は避難者数を整理する側をやってくれと頼まれて、連絡をもらって避難者数を整理する仕事をしていました。
避難所の課題と工夫
聞き手
輪島市全体の避難者数を整理していたということでしょうか。
保下さん
そうです。石川県と連絡をして調整することも行っていました。1月10日過ぎくらいから本部に行ってくれと言われたので、避難所の物資班ということで僕が入りました。
聞き手
本部というのは災害対策本部ですか。
保下さん
そうです。災害対策本部の避難所物資班ということで、避難所に起こることとか、物資が届けられるような手配とかそういった避難所で必要になってくるようなものを整理していくことをしていました。少しずつ状況も変わってくるので、物資が届いたら、それを必要な分、避難所に振り分けていくようなことをしていました。ダンボールベッドや食事、災害グッズなどですね。避難所でトラブルがあればそれをどうやって解決していくかとかも考えていました。
例えば、トイレがこうなっているとか水が出なくなったとか、細かなトラブルから大きなことまでを解決するためにいろいろ指示をしていました。お年寄りで体調の悪い方を福祉避難所に移さないとダメで手配をしたりもしました。
聞き手
福祉避難所への手配もされていたのですか。
保下さん
福祉課に、「こんな人がいるので福祉避難所に入れないか」と掛け合ったりしました。
聞き手
避難所から上がってくる要望の中で一番多かったものはありますか。
保下さん
一番っていうのはなかなか難しいですね。トイレ問題ももちろん多いですし、いろいろな部署からの要望が来ますね。DMATからこういう用意してくれとか、避難所だけでなく各セクションから要望が来るので、すべての要望が一番ってくらいありますね。
聞き手
ほかの職員さんからは、トイレに関する要望が一番多いという意見が多かったのですが。
保下さん
トイレもそうですし、食事はいつ届くのかというようなものも多かったですね。
聞き手
トイレの要望はトイレを増やしてほしいということですか。
保下さん
「簡易トイレがあふれてなんとかならんか」というのもありますし、「排水が詰まった」というようなものもありましたし、「水はいつ来るのか」というのもありましたので、トイレに関してだけでも様々な要望がありました。
聞き手
珠洲市でマンホールトイレを利用した例もあったようですが、輪島市ではマンホールトイレの利用はありましたか。
保下さん
マンホールトイレは利用してないですね。避難所って公共施設で、公民館であったり、小学校であったりするのですが、そのようなところにマンホールトイレがなかったのです。そのような避難所にたくさんの人が一気に入るのでトイレなんてすぐあふれるのですよね。そういった対応をしていました。
聞き手
避難所の人数が減り始めたのは、1月3日ごろからでしたでしょうか。
保下さん
そうですね。少なくはなっていました。正月で帰ってきている方とかいたので。でも珠洲市ほどの規模じゃないですね。帰る人はもちろんいますし、減るのですけど減らなかったです。例えば、あふれている避難所で避難者数が減っても、その避難所はあふれたままなのです。
聞き手
1月3日ごろには、人数は全体の何割くらいまで減っていた感じでしょうか。
保下さん
そこまでは分からないですね。調べないと出ない部分ではありますね。
聞き手
いつごろから、ダンボールベッドを置けるくらいの広さや人数の状況になりましたか。
保下さん
ダンボールベッドはちょうど2月くらいだったかもしれないです。あふれている中で、ダンボールベッドを置いてレイアウトしても避難所に入りきらないですよね。そこまで既定のダンボールベッドが届かない場合もありますね。段取りとかで2週間後に届くと言われて、それを待っている間にレイアウトとかを考えないといけなくて。避難者がこれだけいるからダンボールベッドをどう配置したら全員収納できるかとか作戦をずっと考えていました。相談しながらレイアウトを考えるのですが、会場の仕上げも大変なのですよね。ベッドを組み立てて、パーテーションを組んで、このテントしかないけどこのテントだと避難者の顔色を見られないとか医療チェックできないとか、でもこれしか方法がないとか、いろいろな機関と話し合いながらレイアウトをしていました。このレイアウトじゃお金がかかるから駄目だとか、このベッドはだめだとか言われましたね。
聞き手
このベッドじゃダメというのはどういうことですか。
保下さん
ベッドの高さが低いからもう少し高いものじゃないとダメだとか、サイズがこれだけだと落ちてしまうとか、もう少しこれくらいの幅が必要だとか言われました。それでこのサイズのベッドをくれと依頼するとまた2週間くらいかかりますと言われ、まだかまだかとレイアウトを考えての繰り返しでしたね。
聞き手
そのときアドバイスをしてくださったのは、DMATの方でしたか。
保下さん
そうですね。そのような医療機関的には要配慮者とかお年寄りに合ったとかあるのでしょうね。
聞き手
一律で届いたベッドは、DMATの方がおっしゃっていた規定のサイズとは違っていたということですか。
保下さん
ダンボールベッドにもいろいろ種類がありすぎて。僕たちはダンボールベッドは、ダンボールベッドだと思って設置するのですけどね。
聞き手
どのようなダンボールベッドが、現場としては一番理想的だと感じられますか。
保下さん
横幅90㎝、縦幅は180㎝くらいで、高さが60㎝以上ないとダメみたいですね。だから高さが30㎝くらいのものもあってこれじゃあ効果があまりないとか言われたり、でもどんどん届いてくるしなって感じで、組み立てる仕組みも違うから大変だったりしますね。それに避難者の方にも手伝ってもらうのですが、僕たちも知識がない中やっていくので難しいところもありしました。先ほど何が一番かってあったと思うのですが、トイレなのかもしれないですけど、トイレにもいろいろ種類があるし、ベッドに対してもいろいろ言われることが多かったですね。だから何が一番かっていうのは難しいのですよ、たくさんのことが起こりすぎていて。
聞き手
避難所のレイアウトをするときに、ダンボールベッドを設置する基準など意識されていたことはありますか。
保下さん
NPOさん等と相談しながらやるのですよね。NPOさん、ピースボートというところがあるのですけど、大阪の吹田市さんが避難所班に入ってくれたので、吹田市さんと連携して行いました。NPOさんは災害のプロですから、例えば、談話室を設けるなら一人ひとりのスペースは2m要しなければいけないとかアドバイスをもらったりしました。現場ではピースボートさんが手伝ってくれて分担作業で行っていきました。
福祉避難所と要配慮者対応
聞き手
避難所にいらっしゃる要配慮者や高齢者の方々に対して、輪島市では2007年の経験を契機に福祉避難所などの整備を進めてこられたと思います。今回の災害では、どのような形で対応されたのでしょうか。
保下さん
福祉避難所自体も被災して、いろいろなものが壊れるわけで、だから応援要請するしかないっていう部分もありました。県内のほかの福祉施設も福祉避難所として開設されていたりしていて、マニュアル通りに行っているのですが、やはりトイレがだめだったり、水が使えないところや、電気がいてないところもあったりして、機能しない部分も出てきていました。ある程度機能する部分は残りましたが、そのような場面では、おそらく県内のほかのところに行ったりしているのかなと思います。そのあたりは福祉課に任せているので詳しいことは分かりませんが。
聞き手
一般の避難所に来られた方の中で、福祉避難所に移られたほうが良いと判断しながらも、結果的に一般避難所にとどまられたケースはありましたか。
保下さん
福祉避難所が飽和してしまったら止めるしかないのですが、避難所のスタッフで何とか面倒を見ていることもありましたね。介護系になるととても大変なので、協力してやるのですが、見知らぬ人を素人が介護するわけですから、そろそろ何とかならないかっていう様子になってしまいますよね。
あと重要だったのは、避難所という文字が付くだけで避難所班の仕事になってしまうということですね。セクションとしては、避難所の設置管理なので避難所を作るのが仕事なのですけど、避難所の○○ってなるだけで避難所班の仕事みたいになってしまうことが多かったですね。避難所のトイレとかなんでも避難所で起こることは全部避難所班でしたね。
聞き手
1.5次避難所として関わった部分はありますか。
保下さん
実際はないのですよ。僕らは現場の人間なので、そこは違うセクションになってきますね。
聞き手
1.5次避難所は何課が担当なのですか。
保下さん
1.5次避難所は復興推進課と言って当時の企画課が担当になります。広域避難になってくるので、復興推進課の担当になってくるのですが「避難所」とつくと、避難所班に仕事が集中してくるのですよ。大概起こることは避難所内で起こるので、避難所班に全部回ってくるのですよね。そこが一番苦労しますね。
聞き手
設置管理がメインということですが、設置の時に全体を把握するのにどのくらい時間がかかるのでしょうか。
保下さん
これは結構早くて、設置しながら、もう近くの場所に避難したとお聞きしたりして、総務課の方で把握していくという感じですね。
自主避難所と指定避難所
聞き手
避難所管理をされているうえで、大変だったことは何ですか。
保下さん
僕ら的には把握できないものは把握できないので、そもそも行けなかったりもするし、最初は自衛隊さんとかと協力しながら運んだりするのですが、やっぱり見えないですよね。
僕らは数字は見れば分かるけど、その現場がどうなっているかは、行かないと見えないので。指定避難所だけなら設置できますけど、190か所もある自主避難所すべてをどうやってどのように把握するかっていうのはなかなか難しいところはありましたね。
聞き手
避難所に物資を届けるときはどのように手配されていたのでしょうか。
保下さん
物資は物資班があって文化課が担当していて、物資の運送に関しては、物資運送班というのがあって、それは観光課の担当になっていますね。
でも置く場所がないからどうするかとかは、物資班が段取りするのですが、僕は、本部の避難所物資班というところで避難所中心に活動していたので、物資班とは少し違うのですけど、苦労したのは置き場所の確保ですね。置き場所がないのに大量に物資が届くし、ダンボールベッドなんかは広いスペースが必要で置けないのですよね。
聞き手
どこで物資管理をされていたのでしょうか。
保下さん
本当はサンアリーナが置き場所なのですが、サンアリーナも被災してしまって危険な状況だったので、まだ置ける場所として文化会館があったのですが、そこはステージしか置ける場所がないとかなかなか場所の確保がうまくいかない状況でした。
結局マリンタウンに壁もないテントみたいなところがあって、そこに入れることになりました。でもそこもいっぱいになってしまう状態でした。次は物資をどこに置くか、学校の空いているところに置くか、いったんそこに入れてそれをどかしていく感じにするか、どこも置き場所が見つからない、でもダンボールが500個届く、でも置き場所がないから野ざらしで置かれている、この後雨が降ると分かって、人力で自衛隊さんも総務省の方もフルに使って運ぶという感じで悪戦苦闘しながら頑張っていました。
聞き手
避難者の集約は結構早く終わったのですか。
保下さん
集約は早くなかったですね。場所をなるべく自主避難所から指定避難所に移したかったのですよね。しかし一人2メートル間隔で受け入れていくと入りきらなくて、何とかこのくらいの人数まで減らしたいと思って、最初の方から二次避難を勧めているのですけどね。それでもこの基準まで減らないとパンクするだけだし、ここまで減るタイミングで移動してもらい、それまでに別の避難所を整備しておこうという風にしていました。なんかパズルゲームみたいなもので、この地区とこの地区は一緒にまとめて移動させたいとかそのような思考の繰り返しでした。
聞き手
基本的に同じ地区は同じ避難所に集約されるのですか。
保下さん
そうですね。だいたい同じ地区の方がまず近くの避難できるところに避難しているから地区で集まっているのですよね。だからおのずと集約しても地区ごとになるという感じです。
聞き手
ダンボールベッドも地区ごとに動かれる感じなのですか。
保下さん
何日から入っていいよって言ったら、早い者勝ちで好きな場所を取っていく形です。
聞き手
どこか良い場所などあるのですか。
保下さん
皆そんなに変わらないですけど、学校の教室なんか一番良いでしょうね。小さい空間で6人ほどの知っている人だけで構成された空間になってくるので環境的には良いでしょうね。僕だったら、天井の高い他の人と距離のある体育館なんかが良いと思いました。
聞き手
教室か体育館かという選択は誰が決めるのですか。
保下さん
それは避難者と相談して決めてもらいます。ある程度、体育館の場合は違ってきますが、教室の場合は何となく決めてもらいますね。
聞き手
コロナの感染対策や、要配慮者の方などで、他の方と少し距離をとる必要がある場合、また、常にスペースを確保しておかなければならないような方がいらっしゃる場合には、どのように対応されたのでしょうか。
保下さん
一つの教室を使って、高齢の方で足の悪い方はトイレの近くに配置するなど、そういうことはします。
聞き手
コロナの感染が確認された方については、どのように対応されたのでしょうか。
保下さん
コロナは、別でテントなど用意してなるべく動線を分けるようにはしていました。なかなか個別のところに移せないというか、本当でしたら施設内で隔離部屋を作ることができたら一番いいですけど、そこまでスペースに余裕がなかったので。テントも別の場所、廊下とかに用意をして作ったりしましたし、部屋に空きがあれば隔離部屋を作って人を入れていく感じでした。
聞き手
テントを設置することで動線を分けたということですか。
保下さん
動線を考えてどこか隔離できる場所に設置するというのはありましたね。どこがよいとかではなくて、現状で隔離をどうできるか考えて、100%正解の場所なんてないですから、最大限できる範囲で設置していく感じでしたので、皆さんが思い描いているきっちりした避難所にはなかなかならないですね。
聞き手
県の施設を、急きょ避難所として活用されるようなことはなかったのでしょうか。
保下さん
輪島高校などを使いましたね。それに、県土木事務所を使いました。また、能登空港も広域避難前の一次避難で使いましたね。常駐では使ってないのですが、1.5次、2次避難前の数日間、メディカルチェックなどを受けるために輪島消防署等、使えるところは使いましたね。
聞き手
特別支援学校を福祉避難所として活用するというような対応は検討されなかったのでしょうか。
保下さん
使ったとは思うのですが、それもセクションが異なってきますね。最初、道路の状況によって3つに分断されたのですよ。門前、輪島、町野という感じで分断されて、僕は輪島ゾーンを担当していたので特別支援学校を使ったかどうかの細かいところは、正確な情報が分からないというのが正直なところで、門前は門前に、町野は町野に地域復興から任せてあるので、僕は輪島市内の地域をまとめるみたいな感じでしていました。
聞き手
輪島地域の場合は、県の土木事務所や空港などの施設のほうが、避難所としては使い勝手がよかったということでしょうか。
保下さん
そこしかなかったのですよね。皆さん避難所や合同庁舎、ハローワークといった、空いている施設に避難する感じだったので。
聞き手
県の施設で使えそうなところに入っていってもらう感じだったということですか。
保下さん
もちろん集約はかけていきますよ。何日までには出ていってほしいと伝えて、そこを片付けて、使えるようにしてとかは僕もやらせてもらいます。
学校と避難所の共存
聞き手
高校や小学校などでは、1月初旬から授業が再開されたと思いますが、その時点で避難されていた方々は、どのように対応されたのでしょうか。
保下さん
結局話し合ってこのゾーンは使っていいですよとか、ここは学校が始まるから、何日までに移動しますとか避難所の方に言って、別のところが用意できたら移ってもらうみたいな感じで段取りはしていました。だから共存していました。
聞き手
避難所としてレイアウトを検討された後、学校関係者の方々とは、どの場所を使用してよいかなどについて、連絡や調整を行われるのでしょうか。
保下さん
レイアウトを考えたら大体何人入るか分かるのですよ。だから何人入るから、こことここの人たちは動かせてみたいな感じでサイクル形式でしたね。ここ壊れていたけど何とか片付けて用意できますとか、ここの教室には2m間隔でこう配置してここに談話室を設けて、テレビゾーンはここに、物資ゾーンはここというようにレイアウトを考えると収容人数は自ずと分かってくるので人数は確定します。
そうすると、ここに避難所は何人だから入れるか検討するみたいな感じの繰り返しですね。そうしたら、学校側からもう始まるので開けてくれと言われ、またレイアウトを組みなおすという感じでした。
聞き手
レイアウトを検討された段階で、避難所内のトイレに行列ができるなど、混雑するような状況はありませんでしたか。
保下さん
行列とかはできていなかったですね。トイレが詰まることはあったので、詰まりを解消するとかはしたのですけど、意外と混雑はなかったですね。皆、大概トイレに誰か入っていたら行かないし、空いたら行くみたいな感じでした。
聞き手
小学校の授業は、だいたいいつ頃から再開されたのでしょうか。
保下さん
学校となってくると、学校のセクションに聞かないと分からないのですが、だいたいで言うと1月の中旬ぐらいには、小学校の避難者は、白山の方にまとめて移りましたし、中学校の方も、教室を使っていた避難者を体育館に移動させる感じで始まっていましたね。ですから、1月中旬以降には始まっていたと思います。
聞き手
避難所が併設されることで、授業や体育館の利用などに支障はありませんでしたか。
保下さん
なるべく善処して動かすようにはしていました。でも、できなかった場合は、お願いして、例えば、この場所を使って体育してくれませんかとか提案もしますし、基本的には学校側も状況を受け入れて、お互い納得しながら対処するようにはしていました。話し合いをして、使いたいという気持ちも分かるので、優先順位の話をしますね。
こちらとしては、避難者のその人その人の状況を把握しながら、生活支援を行っていきますので、その時にここの窓口に行って聞いたらいいよとか二次避難行った方が良いよとか言ってあげたりしていましたね。やはり避難所生活に慣れていくと、だんだんそこが家になってしまって居心地がいいのですよね。支援も増えてきますし、炊き出しとかもあるし、居心地に慣れてきて、お互い知り合いになっていくとただの住み替えになってしまって、あくまでも避難所なのに、その人の根本的な解決にはなっていないのですよ。
ですから、生活支援まで入って、一人ひとりヒアリングして、次のステップに行けるようにアシストしていくわけです。大変でしたね、避難所の出来事でも生活支援は、避難所設置・管理の感じではなくなっていると思いながらも他の人に協力してもらいながらやったりしていました。
聞き手
ご自身もずっと避難所に通われていたということですか。
保下さん
最初は市役所に泊まっていて、途中で、実家は潰れていなかったので、カチャカチャな状態ではあったのですが、それを片付けながらスペースを作って、母と一緒に暮らしていましたね。父は要配慮者だったので避難して、嫁さんと子供は二次避難に行っていました。
聞き手
ご実家は、電気やガスとか、インフラ系は大丈夫だったのでしょうか。
保下さん
最初は来ていない状況で、水も来ていなかったです。母親一人というのはなかなか大変だろうと思って、実家に行って色々教えながら、今日はここ片付けようという感じで暮らしていました。
聞き手
お母さまが避難所に行かれなかったのは、お父さまがいらっしゃったからでしょうか。
保下さん
父は透析で病院に通わなければならなかったので、1.5次避難に行っていて、母親は、最初避難所にいたのですが、人が多すぎて狭いし、実家がつぶれているわけでもないので、実家で寝ると言って最初はずっと車中泊していましたね。家の庭に車を停めて寝ていて、家が大丈夫そうだったので、安心してそこから家の中で寝るようになりました。僕も忙しく、あまり寝られていなくて、戻る時間もそれほどなかったのですが、実家に帰れるときに帰っていました。
聞き手
高齢の方も多かったと思いますが、建物の使いにくさや不便に感じた点はありましたか。
保下さん
バリアフリーはそこまで重要じゃなかったですね。トイレを並べられたらいいですし、もうまともなそのままの施設があったらいいですけど、地震で壊れていますからね。
何が重要かで言うとやはり喧嘩せずに仲良くやってくれるということじゃないでしょうか。体育館のような広いスペースがもっといっぱいあってもいいですし、冷暖房完備のところとかあればいいのですけど。学校なので断熱もそこまですごくなかったので、断熱があるに越したことはないですね。
聞き手
輪島市の小学校の体育館には、冷暖房設備は設置されていないということですよね。
保下さん
そうですね。教室にはあるのですけど、使えるところと使えないところがあるので、そのようなところは暖房としてストーブも準備しましたね。カバーはできるのですが、欲を言うとキリがない感じかもしれないですね。
聞き手
建築の立場から伺いますが、避難時に建物の面で『こうだったら良かった』と感じた点はありますか。
保下さん
建物が強くあればいいと思います。一つ一つの強度が高くというか、揺れに強いというか壊れない建物だと一番良いですね。あとは、非常用電源とかあるといいですし、耐震性に加えて、作り的には、バリアフリーの方が良いですし、バリアフリーだけど地震で壊れてしまうと意味がないので、結局は強い建物というのが一番かもしれないです。例えば、本当に配線が切れない作りにするとか、停電になっても太陽光から電源を引っ張れるとかあったらいいですけどね。
聞き手
太陽光発電を使っていた学校はあったのですか。
保下さん
なかったですね。なかったですけど、良く言うと気にならないみたいなところで、装備は強いほうが良いじゃないですか。いざというときに動くということがベストかと思いますけど。そうしても凝った作りにしてしまうと壊れやすいじゃないですか、デザインとかもこうした方がかっこいいとか、こういう便利機能がありますとか、やりたいじゃないですか、でも複雑になればなるほど壊れますからね。
聞き手
現在は壊れて使えないものも多いと伺いましたが、逆に『あって助かった』『これが良かった』というものはありましたか。
保下さん
暑さ・寒さとトイレですかね。必要な時にこういうのが用意できるということは重要だと思います。建築的に言うと夏は涼しく冬は暖かい作りですね。ガラスが多いと夏は暑くなってしまうし、窓が南側に多いと日差しが室内にたくさん差して暑いので庇があったらいいとか、でもあまり密閉しすぎると疲弊してしまうので、外の景色が見えた方が良いとかあるじゃないですか。開口部は物が入れられるように大きくとるとか日の入る向きを考えるとか、でも開口部を増やしすぎると耐震性がなくなってしまうから何か所かに絞るとかですかね。平屋の長い建物とかいいのかもしれませんね。前提としてはやはり壊れにくい建物ですけどね。いろいろな装備品も壊れにくくて配線も切れにくいとかですね。
聞き手
学校の中で、『これがあって良かった』と感じたものはありましたか。
保下さん
体育館ですね。広いとたくさん人が入れるし壁もないじゃないですか。細かく部屋が分かれていると、その分設置に時間がかかったりするのですよ。やはり広いというのが良いですよね。広いと確かに温まりにくく冷めにくいですけど、それは何とか機械でカバーできますからね。でもこのような時に機械を入れてどんどん電源を使うと電源の能力がパンクするのですよ。ドライヤーを使ってしまう人とか、勝手に家からオーブントースターを持ってきてしまったりする人がいるので、見えないところでショートしましたとか燃えました、どうしたらいいですかとかありましたからね。そんなことがないように電源オーバーにならないような対応もあればいいとは思いますね。いざとなったら発電機で行けるかとも思いますね。
太陽光と言ってもなかなか現実性がないかもしれない、お金がかかってしまったりするので。必ず震災には電力不足がありますからね。まあそれでも電力会社さんなどが頑張ってくれるので、電気はすぐに復活しますけどね。電気は回復が早いですけど、水道と下水って回復に時間がかかるのですよ。水道が直っても下水が壊れていたら、水流せないですからね。やはり水道と下水と道路はセットなのでこの辺のライフラインの早期解決も大切ですね。合併処理浄化槽とか簡易的なものがあればいいですね。お金があればこういった循環式のものを取り入れてもいいのかなとは思いますね。
聞き手
指定避難所と自主避難所を比べて、共通点や違いがあった点はありますか。例えば、電気やガスの確保などで違いは見られましたか。
保下さん
初期段階だとそういう事例が多いですね。でもそれを継続していても人数が半端じゃないので、物資は必要になってきますね。お正月とはいっても保存できるものはそこまでお家に無いですからね。物資は自衛隊さんと協力して届けましたね。
聞き手
自主避難所に物資が届かないことはなかったのですか。
保下さん
なかったですね、最終的には。何日かは届かない日はあるのですけど、その時は自分の家のもので乗り越えてもらっていましたね。孤立しているところにもヘリで物資を運んでいましたので。
聞き手
報道では避難所の環境が厳しいとよく言われましたが。
保下さん
移動手段がないのであれば孤立集落までヘリで運びますし、届けられるところには自衛隊さんと協力して届けるし、山が無理だったら海は使えるかとか自衛隊さんはなにがなんでも届けるのですよ。ミッションなので。
聞き手
地震の際に、特に大変だったことや辛かったことはありましたか。
保下さん
僕は分からないですね。自主避難所は回っていないので。逆に指定避難所はいつも通りという感じでしたね。
避難生活での人間関係
聞き手
避難所を集約したことで、混在によるトラブルや課題はありましたか。
保下さん
多少はありますね。自分の地域の人じゃない人が入ってくるから少しやりにくい感じもありましたし、そこでトラブルになったら解決していくのですけど、トラブルはありますよ、顔なじみのない人と暮らすのでね。
聞き手
避難所内で、音や生活音に関するトラブルはありましたか。
保下さん
音に関してだといびきとかありましたね。全員生活リズムが違いますからね。仕事で警備とかしていらっしゃる方は、いろいろやったりするので。でもそれは注意しながらで、別にトラブルになるほどのことはなかったですね。一人ひとりパーソナルスペースがあるわけで、皆同じ境遇ですからね。
聞き手
対応が必要だったのは、主に音や声のような問題だったのでしょうか。
保下さん
音ぐらいですね。でも音の大きい小さいは人によって感じ方が違いますからね。普段から旦那のいびきを聞いて寝ているので慣れている方もいれば小部屋の静かなところで寝ている方は音が気になるとというのもありましたね。
聞き手
小さなお子さんの行動などで、避難者の方から苦情が出るようなことはありませんでしたか。
保下さん
事前に周りに迷惑をかけてしまいそうな方は知らせていたりしますね。後は、もう早々と二次避難とかしている方もいますしね。そのままいらっしゃる方もいますけど、音に対しては、子供がいるのでごめんねという感じで、他の方も「いいよいいよ」という感じでした。だいたいは二次避難に行かれますので残られる方はだいたい高齢者ですね。やはり若い方は動きも早いですから、すぐに二次避難に行って、そこで生活して人口流出して、ニュースでも見ていらっしゃる通り、何十%が減るというのはそういうことで、問題にもなっていますけど、自然の流れなので仕方ないとも思いますね。
聞き手
避難者を集約する際に、改善できそうだと感じた点やご意見があれば教えてください。
保下さん
スムーズにいけばそれに越したことはないのですが、皆さんそれなりに努力はされていると思いますし、感謝しかないのですけど、受け入れてくれるホテルもありますしね。二次避難なんて知らない人同士入るわけで、男女で分けないといけなくなって旦那さんと奥さんが離れるとか言う場合もありますので、家族単位で避難できる方法があればいいとは思いますね。でもこれは個人的な意見で、避難所解消にも手伝っていただいているわけですし、その中で最善を考えてくれて行っているので、僕らとしては特にないのですけど、知らない人同士が一気に入りますから、このような部分を配慮していただければね、夫婦で一緒に居られるとかあったらいいですけどね。
聞き手
避難の際は、ご家族は同じ場所で過ごされるのが一般的なのでしょうか。
保下さん
男女で別れると思います。だから家族形態によってはビジネスホテルが良いとか、小さい小部屋の方が良いとかあるのでしょうけど、そこは配慮しても良かったのかなとは思いますね。
聞き手
一次避難のときは、基本的にご家族一緒に避難されるのですか。
保下さん
そうですね、男女関係なく。二次避難についてはですね、今広域避難について聞かれましたので、それはそういう意見として、個人的な意見ですが。非常に感謝していますね、いろいろ協力していただいたので。
聞き手
二次避難に行かれた後は、担当から外れる形になるのですか。
保下さん
そうです。そこまで追いつかないですね。
教訓と今後への提言
聞き手
今回の地震で、組織として、また個人として得られた教訓があればお聞かせください。
保下さん
被災された方とのコミュニケーションですよね。コミュニケーションにもいろいろなものがあるじゃないですか。ただしゃべるだけじゃなくて相手のことを気遣うことなどをコミュニケートすることですね。知らない地域の方と一緒に入るわけですから、コミュニケーションのなかで、この人はこうでとか、個人情報かもしれないですけど、そういったコミュニケーションで避難所の場を作っていくというのは結構大切ですね。
一時的な生活を作ってあげないとだめなので、尊重しながら、ある程度ストレスを溜めないようにすることが大切ですね。やはりトラブルになることもあるので、コミュニケーションの中に多少のユーモアも必要ですね。若い人がいればいるだけで笑顔になれるというか、肩をもんであげたり足をもんであげたりとかそういうようなことは重要ですよね。人間やっぱりストレスたまりますし、そのストレスを軽減していくことは一人じゃできませんから、いろいろな人に協力してもらってやっていくというのが重要かもしれないです。
いろんなことにストレスっていうのはあって、生活が壊れた、仕事が壊れた、家族が壊れた、家も壊れたみたいに、大規模災害になると色々壊れることがありますから。そういうコミュニケーションでストレスを解消していくことが重要だと思うし、一番言いたい、伝えたい事ですね。
聞き手
輪島市だからこそできたこと、また逆に輪島市だからこそ難しかったことはありましたか。
保下さん
パッと言われると分からないというのが正直なところなのですけど、輪島市だからどうこうとかではない気がします。強いて言うなら全体的にシャイなのですね。田舎の人だから輪島だけの話ではないと思うのですが、シャイなのでシャイの壁を少しずつ崩していくうちは大変でしたけど、僕は、いろいろな話を聞いたり話したり、いろいろな人を巻き込んで、話したりするのはできるので、もともと他地域同士にある壁を取り除くことをしたりしていましたが、やはり同じ地域同士だと壁がないので楽な部分はありましたね。
聞き手
地域のつながりがあったことで、支援や調整がスムーズに進んだ部分はありましたか。
保下さん
そういう人もいるし、そうでない人もいるという交じり合った場所が避難所だと思うので、もちろんそのような場合もあれば、ない場合もあるとは思います。個人個人で言うと、市職員もシャイだったりするのですけど、どうしても知らない人の方が多いですからね。輪島市に限らずだけど、こういうところが苦労するところだと思います。ただどうしても市職員も他の市町の職員も、初めての人が多くて、その初めてで対応するから、やはりそこは人生経験とか、いろいろ自分の中での体験、個人個人で変わってくるのかと思いますので、避難所対応もその変わってくる中でベストを尽くすことが大切かなとは思います。
おそらくその人がどこに入るかでも全く変わると思うし、共通したアプローチは難しくて、共通した指示でやっていくと、その人の負担にもなりかねないので、個人個人でのパフォーマンスとしてやっていただくことなのですよね。だから何かが正しいとかはなくて、良い方向に向けた最善のアプローチをしていくということですね。正しいことを強要するとハラスメントに当たりますからね。
でも災害ってハラスメントが多くて、皆でこれやらないとダメだとか、あれをしないとダメだとか、通常なら絶対にハラスメントになるようなことも、災害現場だと優先事項が変わってきて、その人の人権を侵害されやすいのですよ。だからそのようなことには気を付けて、いろいろと理解することが必要かと思いますね。正しいことを言おうとして、あなたは家を建てたらダメだとか、何かを絶対した方が良い、絶対あなたは老人ホームに入った方が良いとか、その人とその人は違うから、正しいとは思っても言えないじゃないですか。お互い同意していれば、ある程度良い方向に行くとは思うのですけれど、バリアフリーじゃないといけないのか、いやバリアフリーも壊れるから無意味だとか、でもどっちが正しいかと言われたら、こっちのコストを安くできるならこっち側のコストを上げられるとかありますし、だから何方向にも考えを持っておいた方が良いと思いますね。
正しいことはいつも一つとは限らないというか、誰かの言っていることがすべて正しいわけではないとかあるじゃないですか。こういうのが、ユーモアって言うのだけど、こういうユーモアを避難所で話せるか、職場で話せるか、同僚と話せるか、親と話せるかとか、いろんな人に話せるというのがまさに避難所では重要かと思います。
聞き手
2007年の地震で得られた教訓が、今回の対応に活かされた点はありましたか。
保下さん
それ、よく聞かれるのですけど、前回の地震に比べて今回の地震は規模が全然違いますし、状況も違いますしね。前回は家も公共施設も壊れはしましたけど、そこまで壊れていませんからね。今回は、全部壊れてしまっているので、全然違うと言いますか、比べられませんよね。本当に軽トラとスポーツカーぐらいスペックが違うのですよ。ビルと普通の家くらい違うというか規模が全然違いましたので、比べるのはナンセンスかもしれないと思いますね。前回体験してこれが使えたということも、今回は使えなかったとか、今回は前回よりも結構な人数がお亡くなりになられましたけど、金沢で置き換えると本当に5~6万人死ぬようなレベルですから、周りの家とかが全部壊れている中で、運よく自分は生き残れたみたいな感覚ですからね。
聞き手
今回のような大規模災害を踏まえて、課として今後に生かそうとしている取り組みや教訓はありますか。
保下さん
生かしたいですね。やはり人が欲しいですね。何事もイメージだけでは、実現するのは難しくてやはりマンパワーとコミュニケーションですね。手伝いに来てくれる人もたくさんいますけど、そのような方を有効に使えないとあまり効果を発揮しないと言いますか、そういった意味で一人手伝ってきたら二人で動けるような体制を取っておくというのは重要かなと思います。
あと、他の市町の人との関係性ももっと深くしておきたいということもありますし。コミュニケーションをできる間柄にしていくということが重要ですね。コミュニケーションができれば、自分の知らない人とでも工夫してやっていけますからね。AIに聞けば全部答えてくれるような時代ですけど、コミュニケーションというのはAIでもなかなか進化しにくい部分でもありまして、僕たちが進化していかないといけない部分でありますから、皆がやりやすい場を作るということが重要だと思います。
明るく、笑顔でしゃべられるような人って好きになっちゃったりするかもしれないじゃないですか、だからそれだけ重要なのですよね。どの場でもユーモアって一番重要で、まじめな話や重要な話、きつい話をするときも多くの人が自分に酔ってしまって、そういう話し方をしてしまうのですが、ユーモアがあると結構切り抜けられたりしますし、鍛えた方が良いと思います。

伝える
- 体験を語る
-
避難所・避難生活
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
-
七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
-
行政
-
輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
-
輪島市復興推進課(当時)
-
消防
-
七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
-
七尾消防署 署長補佐
-
警察
-
医療機関
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
-
教育・学校
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
-
七尾市立天神山小学校長(当時)
-
企業・団体
-
ボランティア
-
関係機関が作成した体験記録

