体験を語る
- 消防
道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動

| 場所 | 七尾市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月18日 |
ご自身のこと
石崎町に生まれ、工業系の大学を卒業した後、七尾市の消防本部に採用され、消防士として勤務しています。平成17年に救急救命士の養成学校に行かせていただき、それからは主に救急分野で活動してきました。現在は消防隊の隊長を担当しています。
災害発生当時の状況
地震当日は、休日で通常の勤務はありませんでした。元日だったため、妻の実家がある野々市市にいました。親戚みんなが集まり、これからご飯を食べようとしていた時に、まず、大きな揺れが一回ありました。それから「大きな地震だったね」と言っている間に、すぐに二度目の大きな揺れがありました。
すぐにテレビをつけると、震源地は能登となっていました。能登からはかなり距離が離れているのに強い揺れで恐怖を感じたのを覚えています。七尾市は震度6強を示し、職場では震度5弱以上の地震で職員の全員の召集が行われることから、家族を連れて実家を離れました。
現在、娘の進学に合わせ金沢市でアパートを借りて住んでいます。アパートに寄る途中、津波警報が発令されました。アパートへは山側環状線を通り向かっていました。山側環状線は、高台を通る道路で、近くにある大乗寺丘陵公園に入っていく車で渋滞していました。皆さん高いところへ移動しようということで、津波に対する意識があるのだと感じました。
その後、アパートに戻り室内に入ると食器棚が倒れて食器が割れ、テーブルの上にあったものが床に散乱している状態でした。やはり、アパートも強い揺れがあったのだと思いまいました。部屋の片付けを家族に任せ、自分は職場へ向かいました。
普段、金沢市から七尾市までの移動は、のと里山海道を使って1時間10分ほどです。いつも通り職場へ向かっていましたが、のと里山海道の白尾ICが通行止めとなっていました。アパートを出るときには、通行止めの案内はなく通行できるものと思っていましたが、通行止めになったことでだんだんと被害の大きさを感じてきたことを覚えています。その後は、国道159号線から職場へ向かい進んでいきました。その途中、能登へ向かう車は少なく、金沢へ向かっていく車がたくさんあったのを覚えています。
七尾市に隣接する中能登町まで来たところで、少しずつ道路の陥没等、道路状況が悪化してきていると感じながら向かっていました。職場に近づくにつれ道路状況が悪化し、さらに電柱が傾いていました。今にも倒れそうな電柱に被害の大きさを感じながらいました。自分の実家のことも心配で、実家に寄るか職場に行くか迷いましたが、結局、実家には寄らずに消防署に行きました。普段通れる道が通れず、迂回しながら、通常の倍以上、時間がかかり、到着したのは夜中の11時から零時頃です。
実家には父と母が住んでいますが、地震が発生してから職場につくまで、何度も自宅に電話したのに誰も出ない。高齢で、携帯電話を持たせていなかったため、連絡が取れない状況でした。両親がどうしているのかと思いながらとても気になっていました。今、思えば連絡手段のとり方を家族内で決めておくことも大事なことだと振りかえっています。
職場に着くと、消防署は避難所ではないですが、5階建てで、被災時には地域の方々が避難していて、30人はいたと思います。当時、津波の心配は少し治まり、避難してきた方々にお渡しするような物資の備えはなく、まず避難してきた方々を避難所に誘導していました。
本来なら、地域のコミュニティセンターや小学校などが避難所になっているのですが、最初のうちは情報がよく入ってこなくて、どこで避難所が開設されているのか分かりませんでした。少しずつ情報を整理して、近い避難所に移動してもらいました。車に乗せてお送りした方もいます。
完了したのは午前2、3時頃だったと思います。しかし、他にもいろいろなことがあり、少し休憩しようにも、ほとんどできない状況でした。
避難所の状況
救急出動の要請が多数ありました。怪我をされた避難者もいました。救急隊員は3名で編成されています。私は救急隊には編成されていませんが、傷病者が2階にいる場合等、事案の内容によっては消防車も救急隊の支援のため出動しました。
患者の救護に向かった避難所や地域のコミュニティセンターは、多くの人で溢れていました。避難者は廊下や大きなホールで寝ている状況です。
またコロナも流行し始めており、発熱を伴う症状で救急に来る方、救急搬送される方がたくさんいました。熱のある方は集まって隔離され、少し異様な状況に感じられました。
現場の対応
119番を受け付ける指令センターがあり、火災なら近くの消防車、救急要請なら近くの救急車を出動させるよう、指令役の方が指令を出します。通報が非常に多く寄せられましたが、すべてに出動することはできなかったようです。
いつもの道が通れなかったこともあり、通行可能な道路の調査も大変でした。暗闇の中、下手に動くわけにもいかない。いろいろなところから駆け付けた職員に情報を聞いて、通れる道をまとめた地図を作成して、活動しました。もちろん、次の日、明るくなってから、消防車両を使って、道路と消火栓の状況を確認して回りました。
消火栓はほとんど断水になりました。火災が発生した場合は、通常、消火栓を使用して拡大を防ぎますが、水が出ないため、防火水槽について一斉点検を実施しました。
病院での対応状況
公立能登総合病院と恵寿病院には、市内の大きな病院として、患者の受け入れをしていただき、大変助かりました。
病院でも水道が使えず、手元にある限られた水で対応していたと聞きます。そのため、多量の水を使用する人工透析などの治療については実施できず、地震が落ち着いてから、患者の搬送や他の病院への転院対応が行われました。
被災生活の状況
携帯電話の電波は繋がっていました。ただ、先ほどもお話ししたように、何度も自宅に電話しても誰も出ないままでしたが、2日の朝に一度自宅へ戻らせていただき、その時に両親からの手紙が置いてあったので、ひとまず安否については大丈夫かなという感じです。
そこからは、3日の朝まで、24時間体制で仕事をしていました。その後、実家にも連絡が取れ、両親を迎えに行きました。そして、いったん金沢に戻り、買い出しをしました。
電気は比較的早く復旧しましたが、水道管の破損により断水し、水道が完全に復旧するまでに約5か月かかりました。大変な状況でした。
飲料水は、支援物資の水を使用していましたが、トイレや入浴については大変困りました。実家に井戸水があったので、トイレを流す際はそれを利用していました。
緊急消防援助隊として穴水町へ派遣
全国の消防職員が石川県に緊急消防援助隊として派遣されました。1月6日には、私も七尾鹿島消防本部の一員として、緊急消防援助隊で穴水町に派遣されました。
3日に仕事を終え、4日に連絡を受けて、現地に向かうよう指示され、「分かりました」と返事をしました。そして6日から緊急消防援助隊に参加しました。
6日のお昼に出発し、まず拠点となる穴水町に向かいました。しかし、まだ、どの道が通れるのかよく分からない。先に派遣された部隊や現地の関係者から通行経路の情報を受け取り、また、県からも通行可能な道路を指示されながら、穴水町に向かいました。
穴水町の消防署に到着した時点で夜の8時頃だったと思います。その日は宿泊し、7日からの救助活動の打ち合わせを行いました。
皆さんも、帰省したご家族が土砂に埋まったという報道をご覧になったり、お聞きになったりしたと思います。穴水町に入った際に、そのような現場が2カ所あり、到着時には、9名の方が土砂に埋まっている状況でした。7日の朝、日の出とともに活動を開始しました。
前日までは、道路から住宅まで全くたどり着けないような状況で、時間がかかったと聞いています。先着の部隊は、1月2日から活動を始めていました。現場を確認したり、資材を運んだり、重機を現場に入れたりするのは困難な状況だったと聞いています。本格的な活動を始めたのが6日だったということですね。
現場の様子はなかなか想像しにくいと思いますが、山が崩れてきて、100メートルも土砂が流れていました。建物が全部壊れ、土砂に押し流されてしまって、元の場所に建っていないんです。そんな現場でした。建物が倒れて、屋根が下になっているのを見たときは、恐怖というか、絶望というか、そういう気持ちになりました。
7日に、9名のうち7名の方を救出し、次の日には残りの2名も救出されて、全員を救助することができました。
船での移動について
船で行くにしても、救助のためには重機等もありますので、自衛隊の船など、かなり大きなものが必要になるという課題はあります。
しかし、実際に、うちの管内でも、能登島に行く橋が、2本あるうちの2本とも通行止めになっていましたが、建物の倒壊により埋まった人がいるかもしれないということで、船で渡って確認をしています。
これからは、船での移動も考えていく必要があるかもしれません。今後の訓練では、船での人員や資材の搬送といった内容も入ってくるのではないかと思います。
奥能登の状況
妻と娘がボランティア活動に何回か参加していて、奥能登まで送迎にいったこともあります。今年の6月頃にも行ってきたのですが、七尾と比べて、崩壊したままの建物も多かったり、道路もでこぼこが多かったりして、まだまだ復興は進んでいないなと感じました。
輪島の朝市の火災跡地も見てきたのですけども、何度も行ったことのある場所が全く違う光景になっていて、呆然としましたね。
地震からの教訓
阪神・淡路大震災のとき、私は学生でしたが、テレビをつけると、火災や高速道路が倒れた映像等といった報道ばかりが流れていたのを覚えています。まさか自分の住んでいる石川県でそんなことが起きるとは思いませんでした。
よく「72時間、つまり3日分は備えてください」と言われますが、今回の地震でも、支援物資が届き始めたのは大体3日後からでした。支援物資が届くまでの間は、自分たちの家にあるもので過ごすしかなかったのです。
この大きな地震を経験して、昔から言われているように、備えというものが大事だと感じました。
伝える
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
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「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
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「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
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「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
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「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
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「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
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珠洲市大谷地区 避難所運営者
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「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

