体験を語る
- 県民
想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月29日 |
地震発生当初
聞き手
地震発生直後の被害状況について教えてください。
樋爪さん
自分の町内は、ほかの町内に比べたら、家の倒壊は少なかったです。自分は、たまたま外に出ていて、車で家へ帰る途中に、パンクしたような変な感じがして、周りを見たら、電柱が揺れていて、地震だと思いました。家がすぐ近かったので、急いで帰ったんですけど、もう、家の瓦が全部落ちていました。昨年の地震のときも、棟瓦とかも全部落ちてしまって、修理したばかりなんですけど、それも落ちてしまった。揺れが落ち着いたので、家の中へ入ったんですけど、家の中は昨年の地震に比べたら、物もそんなに落ちたりしてなくて、よかったなと思って、しばらくしたら、またぐらぐらと来て、ふだんは、地震が起きたら避難行動取ってくださいとか、よく訓練でやっているんですけど、茫然として、何もできなくて、ただぼーっと机につかまっている状態でした。
揺れが収まって、津波警報の放送もあったから、急いで、車で飯田高校に向かったんですけど、飯田高校の方は、道が坂になっていて、車がずっと詰まっていたので、下の県民体育館で車を停めて、歩いて行ったんです。何で車が止まっているのかと思ったら、飯田高校の入り口のグラウンドへ行く道は車で上れるんですけど、地割れで段差ができていて、皆、グラウンドの方に避難しようと思っていたのが行けなくて、数珠つなぎで車が止まっているのが分かりました。
聞き手
他のところは家が倒れて道が塞がっているようなことはなかったのですか。
樋爪さん
それはなかったですね。町内では倒壊している家は少なかったので。訓練時はいつも飯田高校に避難していたので、そちらへ移動したんですけど、直地区の災害用品が、緑丘中学校前の倉庫に幾つかあって、区長会長の私がそこの鍵を持っていたので、緑丘に避難された方から、何か使えるものあるかもしれないから鍵を開けてくれということで、一旦家に戻って鍵を取って、中学校に移動して、倉庫からいろんな品物を出しました。
聞き手
倉庫の扉が開かないということはありませんでしたか。
樋爪さん
大丈夫でした。
聞き手
避難所はどんな状況でしたか。
樋爪さん
緑丘中学校では、何人も人がいて、各自、教室に入ったり体育館に移動したりして、だんだん日も暮れてきて、電気は来ないし、たまたま、中学校に、備蓄の灯油があったので、ストーブを出して、避難されている教室に振り分けたり、体育館にストーブを持っていったり、近くの家からストーブ持ってきたりという対応で、ずっとそこにいるような感じでしたね。
聞き手
教室に人を入れていったとき、どういうふうに分けられたのでしょうか。
樋爪さん
最初はもう皆さん適当です。家族で教室に入ったり、避難された方が、体育館のマットを持ってきては、ベッド代わりにしたり、てんでばらばらでしたね。
聞き手
例えば、高齢者の方や足の悪い方はこの部屋に集めようとか、場所を移動されるケースはあったんですか。
樋爪さん
そこまで配慮したかどうかはちょっと分かりません。たまたま、避難された方の中に、保健師の資格を持っている方もいたりして、そういう方が振り分けられたのかもしれませんし、中学校の先生方もいたり、正月で実家に帰っていた人の中に、中学校の養護教諭とかもいたり、中学生の子も、自分たちの学校なので道具がどこにあるか分かっていたりして、そういう人たちが協力して、色々お世話をしていたようです。

避難所の運営について
聞き手
避難所の運営はどうされていたのでしょうか。
樋爪さん
そういうのは数日たった後ですね。学校や職場が正月明けで始まるまでは、学校長や緑丘中学校の先生、それから、避難された市の職員の人たちが中心になって、今後のこととか、物資や支援のことは対応されていたような気がします。
人数が多過ぎて入れないとか、車中泊の方も何人もいて、ストーブも限られていたので、私も含めて、玄関のところで車座になって集まって、夜を明かしたような記憶があります。
あと、近場の人たちが、家から、正月のお餅とか余ったごちそうを持ってきて、みんなで分け合ったり、お店をやっている方に、余ったパンとか飲料水を善意で持ってきていただいたりして、みんなに配ったりしました。緑丘中学校は、発災当時、本当に、電気もなくて、それから水ももちろんなくて、隣の飯田高校は、自家発電装置があったのかな、暖房もあって、飯田高校はいいねという話はしていました。ただ、食料とか避難物資が運び出されたときには、飯田高校は車がずっとつながっていて、運ぶのも大変で、緑丘はスムーズに来られたので、そこで少し差があったみたいです。
たまたま、自主防災組織で、何かあった場合に備えて、昨年度、照明器具を買ってあったんですけど、ガソリンはなくて。結局、近くの方にガソリンを持ってきていただいて、体育館などの明かりは確保できました。
聞き手
照明器具はたまたま買っていたのですか。
樋爪さん
そうですね、あれはタイムリーだったなと、後になって思いました。
教室なんかはもう真っ暗でストーブの明かりぐらいです。そこから2日ぐらい経って、やっと電気が来たんだったかな。
水もなくて、一番困ったのは、やっぱりトイレですね。最初は皆さん、ふだんの生活どおり、トイレを利用するんだけど、水が出ないと流れない。それで、だんだんたまってきて、本当に大変でした。保健師さんから、これじゃ駄目だと言われて、一旦、全部取って、それから、ビニール袋で新聞紙を敷いてやりましょうという連絡を皆さんにしました。
聞き手
お風呂も入れなかったのですか。
樋爪さん
もちろん。例えば、金沢に行って洗濯したついでにお風呂に入ってくるとか、そういう形でないと。何週間ぶりかにお風呂に入ったっていう人がほとんどじゃないですかね。シャワーが中学校に2台設置されたんですけど、2、3週間経ってからでしたね。
あと、3日か4日に、高知県の会社の社長さんが駆けつけて、たまたま緑丘中学校の裏にあったため池の水をくみ上げて、飲料水に変える機械を持ってきてくださいました。
聞き手
避難されている方の水を、その機械で作ったということですか。
樋爪さん
そうです。水をくみ上げて、3分の1が飲料水、3分の2は生活用水になるという機械なんですけど、その飲料水を大きなポリバケツみたいなのにためて、それを玄関先に持っていって、皆さんはそこからペットボトルに入れていました。非常用の水もある程度入ってきていたんですけど、それがなくても心配ないくらい供給できていたんです。そのうち、そこが給水場になって、外部の方も取りに来ていました。
最初、社長が1人で全部やっていたんですけど、他にもいろいろ回るところがあると言うので、機械の使い方を習って、避難所にいる人と外部から取りに来る人たちのために、水の供給係みたいなことをしていました。
発災した後、最初はほぼ全教室と体育館に人が入っていて、これじゃ連絡体制もない、名簿の整理もしなきゃいけないということで、四、五日してから、どの教室に誰がいるかを把握した上で、各教室で責任者の班長を決めてもらって、夕方に班長会議をして、連絡事項とか必要なことを伝えて、班長から各教室の皆さんに伝えてもらうような形を取りました。
聞き手
避難されてきた方は最大で何人ぐらいいたのでしょうか。
樋爪さん
一番多いときで400人弱ぐらいですね。2次避難が始まったりして、少しずつ減っていきました。1月20日ぐらいに、学校長から、避難の方は皆さん体育館に行ってほしいと言われたときには、280人ぐらいでしたかね。
避難者の環境を整備するために、ベッドが提供されたんですけど、体育館に置けるのは170個が限界だということで、280人いたのでどうするということで、各班長から2次避難を勧めていただいたり、ベッド数がこれだけだということをお伝えして、何とかうまく収まったのですが、そのときが大変でしたね。
聞き手
部屋ごとの班長に避難所の運営方針を伝えていたのは、最初は先生方ということでしたが、その次はどういった立場の方だったのでしょうか。
樋爪さん
学校長から、正月明けたら学校も始まるし、市の職員も仕事があって、避難所の世話まではできないので、たまたまお手伝いをしていた我々に、避難所の運営をしてくれないかということで頼まれました。
その旨を班長さんたちに伝えて、当然、必要なことは学校や市ともいろいろ連携しながら、私と公民館長さんの2人が中心になって、あとはお手伝いしてくださる方とで何とかやりくりしていたんですけど、本当に大変でした。
一番大変だったのは、やっぱりトイレ関係だと思います。いろいろルールを決めて、班長さんに、四、五回したら、ちゃんと自分たちで始末して、新しいのに替えてくださいと言っても、してくれない人もいっぱいいるんですよ。始末するのが嫌だから。あと勝手にセットしてないところを使って垂れ流しにしたりとか。
あと、支援物資も、おにぎりとかいろんなものを持ってきてくださるんですけど、配給が皆さんに行き渡らないときもあって、2人に1個ですよと言っても、1人で幾つも抱え込んで持っていったり。毎日、非常食ばかりの時期もあったんですけど、またこんなんかとか、本当に、言っちゃ悪いですけど、ホテル代わりみたいな気持ちでいる人や文句ばかり言う人もいました。
聞き手
食事は非常食のほかに、炊き出しもあったんですか。
樋爪さん
応援で来てくださる人たちの炊き出しはもちろんありましたし、野菜とか鍋とかを持ち寄って、それを自分たちで調理することもありました。
聞き手
調理できる環境はあったのですか。
樋爪さん
学校の家庭室がありました。ただ、ガスはなかったので、避難している農協の人に頼んで、ガスを持ってきてもらったり、大きな釜を家から探して持ってきてくださる人がいたりして、協力してくださる方もたくさんいたので助かりました。
聞き手
避難している方で、いわゆる要配慮者と呼ばれる高齢者の方とか、障害のある方はいましたか。
樋爪さん
いました。足の悪い方は、階段の上り下りが大変なので、1階の近いところとか、そういうふうにやっていたかな。
聞き手
高齢で介護が必要な方はいましたか。
樋爪さん
そういう方は、付き添いの方がほとんどいて、1人の方はいなかったですね。
聞き手
0歳、1歳ぐらいの小さいお子さんもいたのですか。
樋爪さん
いたかもしれないですけど、たまたま正月だから実家に来たという方が多くて、金沢とかまで時間をかけてでも帰られたんじゃないですかね。最初は、支援物資のミルクとかも使っていたかな。いたとしても、そんなには多くなかったと思います。
聞き手
コロナ対応はどうされていましたか。
樋爪さん
緑丘中学校では、感染は数名程度で、蔓延まではいかなくて助かりました。避難されていた方や県外からの職員の方に部屋を移ってもらったりして、感染者を隔離する部屋を用意して、2,3部屋で収まったので助かったんですけど、何十人と出たらもう対応し切れなかったなと思います。
聞き手
保健師の方からのアドバイスもあったんでしょうか。
樋爪さん
保健師さんの指導も聞きながら、学校と私たちで対応しました。
聞き手
段ボールの仕切りみたいなものがあったと思いますが、実際使ってみてどうでしたか。
樋爪さん
雑魚寝よりも当然快適ですよね。日本赤十字社だったかの指導で、衛生面を考えて仕切りを入れるように言われたので、避難者のみんなで組み立てました。それまでは、体育館のマットを早いもの勝ちで引っ張り出してきて寝ている人はまだしも、自分で持ってきた毛布で床に雑魚寝している人もいたから、それを思えば快適ですよね。
聞き手
やっぱり仕切りがあると大分違うのでしょうか。
樋爪さん
そうですね。ただ、管理する側としては、誰がどこにいるか見えないので、把握するのが大変でしたね。体育館の入り口に図を作って、名簿みたいに、誰がどこにいるか分かるようにしていました。
聞き手
仕切りの組み立ては簡単なのですか。
樋爪さん
簡単と言えば簡単なんですけど、ベッドはある程度、箱ができた状態で、それを並べるだけですが、柱を立てるのに結構、時間かかりましたね。
聞き手
班長は何人いたのですか。
樋爪さん
各階5部屋ぐらいあって、あと多目的教室とか保健室とかいろいろあって、全部で十何部屋かあったので、班長さんも部屋の数と同じくらいいました。体育館は広いので、区画を決めて、4人ほど班長を決めていたかな。
聞き手
各教室は何人単位の規模なのですか。
樋爪さん
10人ぐらいですかね。多目的教室とか広いところだと20人くらい。
聞き手
コロナの隔離部屋のほかに、こういう部屋が必要とかで工夫されたことはありますか。
樋爪さん
体育館にテントを立てて、そこで着替えたりしていましたね。
聞き手
テレビとソファー、机があるスペースは、いつ頃からあったんですか。
樋爪さん
最初から、ここのスペースはベッドを置かないで談話室みたいにしました。
聞き手
談話室をつくるきっかけはあったんですか。
樋爪さん
避難した時点で、その一角にテレビを持ってきて、くつろいている方がいたのと、食料を配るスペースも必要でしたので、ここは残そうということになりました。
教室棟は1階まで下りてきて、教室ごとにセットしたパンなどを代表の人に持っていってもらって、体育館の場合は、区画ごとに用意して、代表の人に持っていってもらうようにしていました。
聞き手
暖房など建物の設備は十分でしたか。
樋爪さん
電気が来るまでは全然駄目でしたね。ストーブも四、五個しかなくて、灯油を入れたら使えなかったりして、結局、持ち寄って対応していたんじゃないかな。灯油も最初は学校に備蓄があったので、それで対応していたんですけど、すぐになくなって、皆さんが持ってきてくださったり、支援してくださる方が持ってきてくださったりして、それでもなかなか追いつかない時期もあったんですけど、何とか対応していました。その後は、自衛隊も来てうまく供給できるようになったんかな。こっちが困ったことを市に伝えても、対応がなかなか追いつかなくて、例えば、仮設トイレが来て、定期的にくみ取りに来てくださいって言っても、1日1回だったり、市も大変だったんでしょうけど、擦れ違いのようなことも結構ありましたね。
聞き手
擦れ違いというのは例えばどんなことですか。
樋爪さん
仮設トイレのこともそうですし、私が担当していた水の供給も大変だったんですよ。ため池の水を機械できれいにした飲料水をタンクからバケツに入れて、避難者用に中学校の玄関まで、結構な距離を運ぶことの繰り返しでした。避難されている方に協力を求めても、数人しか協力してくれないので、大変でしたし、そのうち、市がここを勝手に給水所にして、外部の方にも水を供給してくれって言われて、対応できないから時間制にしました。給水所にするなら人手が足りないと言っても、なかなか人を派遣してくれなかったです。
聞き手
御自身も、最初は教室に避難されていたのですか。
樋爪さん
私の家は、幸い、正月から電気が来ていました。地震が起きてすぐ避難したんですけど、電気を消し忘れた箇所があって、家へ荷物を取りに行ったときに、もう電気がついていました。他にもそんなうちが何軒かありました。
私は、たまたま避難した中学校が大変だったので、そこで当初2日ほど徹夜でお世話していたんですけど、さすがに疲れて、家に電気が来ていたから、一旦、帰って、家で寝泊まりしていました。
朝から晩まで避難所に詰めて、寝に帰るという生活を1か月やっていたんですけど、疲れてきて、文句も言われるし、やってられないなと思いました。家の状態は、去年の地震よりも今年のほうがひどかったんですけど、判定は一部損壊で、去年は準半壊だったのに、何で今年は一部損壊なのかなと。2回ほど再調査をしてもらったんですけど、駄目でした。
あと、上下水道が全く駄目で、一、二年はもう復旧しないだろうと皆さんもうわさしていましたし、疲れたし、みなし仮設のアパートに申し込んで、もう別のところへ行くことにしました。給水も、中学校の用務員さんがうまくやってくれる環境ができて、外部から取りに来る方も少なくなってきたタイミングを見はからって、自分の仕事ももうないということで、もう一人の区長さんに任せました。
その後も、嫁さんが仕事をしていたので、週に3日、4日ほど金沢に行って、3日ほどこっちに来たときは、中学校にお手伝いに来ていたんですけど、残っておを世話してくださる方も、避難者用の弁当の配付とか結構大変だったみたいで、申し訳ないなと思いました。
聞き手
教室と体育館では、どちらの方が、環境がよかったのでしょうか。
樋爪さん
やっぱり教室の方が、暖房が効いていて暖かいですし、体育館はストーブだけだったので、途中からはジェットヒーターも焚いたりしていたんですけど、本当に寒いんですよ。だから、最初から、体育館にいる方はもう諦めていましたけど、教室に避難された方は、体育館へ行くのは嫌がっていました。学校が再開して体育館に移動する際にも、体育館の人たちを優先的にしようとしたら、それが面白くないというクレームもあったりしました。
結局、先に体育館にいる方に、奥のほうから詰めていただいて、教室から移動した人を順番に割り当てしながら、最終的には移動しました。私たちが、人数も割振りした後で動いてもらったんですけど、なかなか分かってもらえないこともありました。
学校の運営との兼ね合い
聞き手
学校が再開するときはどうでしたか。
樋爪さん
学校から体育館に行ってくださいと言われたので、通路の横側の3部屋は足の悪い方とか、体育館のトイレまで行けない方用に確保をお願いしました。反対側の1階の教室棟も、隔離用に何部屋か空けてくださいとお伝えしたんですけど、それは駄目でしたね。
聞き手
時期的にはいつ頃のことですか。
樋爪さん
20日前後だったと思うんですけど。教室にいた避難者が、体育館へ移ってからじゃないと学校が再開できなかったので。実際は、生徒自体が昔に比べたら少なくなったので、全教室を使っているわけじゃなく、空き教室も幾つかあって、県外の職員の方の寝泊り用にも使っていたみたいです。
聞き手
学校と避難所の関係性についてはどうでしたか。
樋爪さん
強いて言えば、例えば、我々としては、学校に来ている子供たちにも炊き出しを食べてもらえればいいんじゃないかなと思ったんですが、学校からは、生徒用に弁当も来ているので大丈夫ですと言われました。
学校用に仮設トイレが来たときも、生徒が帰るまでは、避難されている方は使わないでほしいということもありましたね。
聞き手
トイレも、生徒用とか壁に貼ってありましたね。しっかり扱いを分けるという方針だったのですね。夏の時点では、体育館の半分は避難所の方がいらっしゃるけど、半分のコートは部活動に使うということもしていたと聞きました。
樋爪さん
それは今もやっているんじゃないですかね。避難している人も少なくなって、日中はほとんどいませんので、今は部活もやっているんじゃないですかね。
被災経験を振り返って
聞き手
今回、いろいろ経験されて、振り返ってみて、今後の課題などはありますか。
樋爪さん
3年連続で災害があって、自主防災組織も、本当にしっかりしたものを作っていかなきゃいけないというので、市全体として取り決めをして、自治会としては、各地域で話合いもして、市に提出はしたんですけど、本当に、絵に描いた餅というか、全く機能してなかったなと。
今後を見据えて、最初はできる範囲で積み上げていくような形で自主防災組織を考えていこうということで、地震前は初年度で、ある程度の概要をつくって提出してもらえればいいと言われていたので、災害があったときの個別避難計画だけしっかり立てて、例えば、要介護者を支援する人をちゃんと決めて、その人たちが声を掛けて避難しようというのを各町内で決めて、それをメインにして作ってありました。ただ、避難所が開設されたときに、誰が主体になって、事細かく、誰がどんな担当をするということまでは決めていなかったんですよ。区長とか防災士の免許を持っている人で、ここが避難所になるだろうから、なったときには、みんなでやっていこうくらいのことしか作っていなかったので、蓋を開けてみたら、実際、ここは全然避難所になってない。小学校とか中学校が避難所になることを全然想定していなくて、学校が避難所になったときには、区長の誰と誰が担当するというところまでは全く決めてなかったので、本当に行き当たりばったりでした。ただ、緑丘中学校は、私たちの地域に建ってますけど、他の校区の方たちも避難しているので、本当は私たち直地区の区長以外の方々も一緒になって、避難所の運営もしてくれてもよかったのにという思いはあります。そういう、ほかの地区の避難所との連携も大事だなと思います。
直地区では、やっぱり役割分担というか、細かなところまで決めていなかったのは反省していますね。野々江と熊谷と岩坂って3地区で直地区って言うんですけど、岩坂のほうは岩坂で、岩坂公民館に避難者さんが集まられて、大変だったようです。
市から指導されて、各地区に何人も防災士資格を持った方がいて、本来ならば、防災士さんを中心に自主防災組織を考えていかなきゃいけないんですけど、現状は、任期が2年の区長がやっている。たまたまその年だけ区長として防災の役割もして、2年たったら、また新しく別な方がやるという仕組みになっているので、それも問題かなと思います。今回、我々がつくった自主防災組織は、何もならなかったということはないですけど、あまり機能しなかったなというのは反省ですね。だからといって、今後どうしようかというのも、まだないんですけど。
毎年、防災関連の補助金を頂いて、各地区で必要なものを備えたりしていたんですけど、たまたま、昨年度は照明器具を買ったので、それは本当に機能したなと思っています。
あと、地区で避難所開設の訓練もして、ベッドを作ったり、非常食を実際に食べたりもしたんですけど、全然無意味だったなと思っています。一番大事なのは、やっぱりトイレで、使えるようなトイレを備蓄しておいて、実際に災害に遭ったときは、こういう使い方をしなきゃいけないとか、そういうのは本当に必要だなというのは、災害に遭ってみて実感しましたね。
私も避難所の手伝いをして、3週間ぐらい、全く風呂に入ってなかったんですけど、一月後にアパートで暮らして、いつもの日常生活へ戻ったときの幸せというか、普通に水が飲めたり、風呂に入ったり、トイレが普通にできたりっていうのは、本当に幸せだなというのはつくづく思いましたね。

伝える
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県民
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珠洲市宝立町区長会長
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