体験を語る
- 行政
孤立集落対応の実態と教訓

| 場所 | 輪島市 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月12日 |
地震発生当初
聞き手
地震発生直後のご自身の被災状況や当日していたことについて教えてください。
新甫さん
被災時は輪島ではなく滋賀県の高島町で車に乗っていました。
聞き手
その際は揺れを感じたりしましたか。
新甫さん
滋賀でも携帯の緊急地震速報が鳴ったので、車をいったん停めて外に出てみると揺れを感じました。その後実家に電話をして話を聞くと、かなり揺れたが大事には至っていないということで、滋賀からですけど一応輪島に戻ろうか考えているうちにもう一度大きな地震が来ました。そこでもう一度電話をかけると、輪島がかなり悲惨な状態になっていると分かり、早めに戻ろうと思って輪島方面に向かいました。
聞き手
ご実家にはご家族がいらしたのですか。
新甫さん
父と母が二人でいました。自宅には誰もいない状況でした。
聞き手
ご実家の損壊状況は、どのような様子だったのでしょうか。
新甫さん
実家は半壊で、自宅は一部損壊という状況でした。自宅はアパートで特に建物自体の被害はなかったかと思います。
聞き手
滋賀から輪島に戻られるまでの時間や、道路の状況など教えてください。
新甫さん
16時くらいに地震がきて実際に輪島市の市役所についたのは2日の18時くらいでした。滋賀から石川までの高速道路は通行止めになっていたので、金沢まで下道で行きました。
金沢までは4時間くらいかかったと思うので、1日の20時か21時頃についたと思います。そこから里山海道も通行止めになっていたので、下道で七尾を通るように北上して向かったのですが、七尾の中島町あたりで、土砂崩れによって国道が埋まっていたので、そこから先に進むことができませんでした。そこについた時にはもう暗い時間帯になっていて、おそらく細かな道を回っていけば、輪島に行けるのではと思ったのですが、山の方の小さい道を通っていくのは、地震がまた来た時に崩れると危ないと思いましたし、海の方は津波が来ると危険だと思い、安全なルートを確保することができませんでした。そこで、その日は、少し戻って中本町にいる知り合いのところに泊めてもらい、次の日の朝出てきたときには通行止めが解除されていたので、国道を通って輪島の方に向かいました。特に七尾から輪島まではすごく時間がかかりました。普段なら、1時間ほどで降りられるのですが、6~7時間くらいかかりました。
聞き手
輪島に戻られて、まずどこに向かわれたのですか。
新甫さん
一回自宅を見に行ったのですが、自宅に目立った損傷は見られなくて、次に親戚が集まる家があったので、そこへ向かいました。その家に親戚が集まっていたのですが、建物も親戚も大丈夫そうだったので、そこからすぐ市役所の方に向かいました。市役所についたのが18時頃です。
聞き手
ご両親も、親戚のお宅にいらっしゃったのですか。
新甫さん
両親含め、皆が固まっていました。
聞き手
ずっと親戚のおうちから市役所に通われていたのでしょうか。
新甫さん
自分は家に帰っていなかったです。最初の方は、ずっと市役所にいたものですから。その後は自宅のアパートが無事だったので、自宅に帰っていました。といってもあまり帰れていなかったですけど。地震で家がだめになってしまった職員は市役所にずっといる感じでした。
聞き手
市役所でどのように生活していたのでしょうか。
新甫さん
衣食住は、ここに避難所にもあるような服やマットがあったので、それらを持ってきて空いている部屋で寝ていました。非常食なんかを買ってきて食べていましたし、市役所のトイレも使えたので大丈夫でした。お風呂も自衛隊の仮設お風呂を利用しました。
聞き手
市役所についたときは、市役所内はどのような状況でしたか。
新甫さん
本当なら災害対策本部があるはずなのですが、災害対策本部を作るほどの状況にはなっていなくて、防災対策課のところが本部のような形になっていました。そこにホワイトボードをいくつか置いて被害状況を書き出していました。その時もまだ職員数は少なく、電話が鳴りやまない状況でした。
聞き手
電話はつながったのですか。
新甫さん
おそらく輪島市役所はずっとつながっていました。携帯などは機種によって繋がらないものもあったのですが、自分の携帯はつながっていました。auとかは全然つながらないこともありました。
聞き手
市役所にかかってくる電話の内容はどういったものだったのですか。
新甫さん
どこそこの家に行けない、道路が崩れていて行けないとか、行けない集落の中に家族や親戚がいる、道路の寸断によって集落まるごと孤立してしまっているといった電話が多かったです。
防災対策課としての対応

聞き手
そのような電話を受けて、防災対策課はどのような対応をされたのですか。
新甫さん
市内にそういったところがたくさんあったので、全部を取りまとめることを行いました。どこの地区に何人閉じ込められているといったことをすべて一回きれいに整理しました。
今までも雪の影響である集落に行けなくなり孤立集落ができてしまったこともあって、そういう場合の孤立集落は多くても数か所しかなかったので、適切に順番を決めて整理していたのですが、今回はものすごい数の孤立集落だったもので、なかなか整理しきれませんでした。
まず整理の段階で優先順位を決めなければならず、孤立集落のプロジェクトチームを作りました。市役所の中に救助する団体が沢山あって、警察、消防、自衛隊などそれぞれが孤立集落の情報を個別に持っているという状況だったので、その関係者が一回集まって全員が持っている情報を整理しました。まず全体像をつかんでから、ここの地域は高齢者が多いなど順番を決めて、孤立集落の解消に向けていったという感じです。
聞き手
そのプロジェクトチームが作られたのは、いつ頃だったのでしょうか。
新甫さん
プロジェクトが立ち上がる前から随時、行けるところには救助に行っていたのですが、行き当たりばったりで行っていても効率が悪いということで、1月10日にプロジェクトを発足しました。
聞き手
孤立集落のプロジェクトチームを立ち上げるというのは、防災対策課のマニュアルにあったのでしょうか。
新甫さん
その時に臨機応変に考えて立ち上がりました。プロジェクトチームを発足して、統制が効くようになり、各団体で持っている情報も共有できましたし、良かった点ではあると思います。自衛隊や消防の方は対策本部に必ず誰かがいる状況だったので、各団体の方々に声をかけてすぐに作ることができました。
孤立集落の救助
聞き手
孤立集落での避難生活や中の状況はどういった状況だったのでしょうか。
新甫さん
孤立してなくても電話は結構つながってなかったのですが、孤立すると特に通じないし、固定電話はまずつながらない、携帯も繋がらないという状況で、中で何が起こっているのかは全く分からない状況でした。
ただ、市の職員らが道路の状況を見に行ったりすると、土砂崩れや道路が崩落していることから、この先の集落は孤立状態だろうと分かったりしました。孤立集落内の状況が分かったのは、中にいる人たちが歩いて土砂崩れを自力で乗り越えて市役所まで来てくれた場合や、自衛隊が中に入ってその中の様子を見て中にいる人数などを持ち帰ってもらう場合でした。こうやって集まった情報で孤立集落のデータベースを作るということをしていました。特に自衛隊が中に入ってその状況を持ち帰ってくれるということが一番有益な情報だったと思います。
聞き手
孤立した集落は全体でどのくらいだったのでしょうか。
新甫さん
本当に孤立している数だけを数えるとたくさんあるのですが、輪島市として発表している数は、15地区です。正直、15地区のその1区の中にもたくさんの孤立があるので孤立した単位で数えると本当に大きな数になると思います。
聞き手
実際に孤立集落へ救助が行ったのはいつごろでしょうか。
新甫さん
孤立集落には、プロジェクトチームを作る前の初期段階から行っていたので、1月の2日か3日には救助が入っていたと思います。最初のころは、孤立集落内の全員を一気に救助するのは困難だったので、集落の中でも、怪我をしている人、高齢者で今すぐ病院に行かないといけないような人のみをヘリで緊急搬送する形で救助していました。
聞き手
孤立集落の方たちへの物資配達はどのようにしていたのでしょうか。
新甫さん
2日か3日にはヘリが行っているので、そのくらいから徐々に物資を配達しているという感じでした。

聞き手
孤立集落の生活のなかで、住民の方から寄せられた苦情や、大変なことなどありますか。
新甫さん
だいたいその地区ごとに避難所があって、その中に水や食料等物資はあったのですが、すぐになくなってしまうことや、孤立している場所によって食べ物や水がないということがあることから、物資がないと言われることが多かったです。また、急病人がいるとか、怪我をしている人がいるとか、寒かったので灯油が欲しいというのもありました。場所によっては、発電機を持っているところもあったのですが、発電機に入れる燃料がないということもありました。道路の修理への要望と、ヘリでの救助要請はよくありました。
聞き手
そういった方たちの意見を取り入れて救助に向かったということですか。
新甫さん
そうですね。ただ、言われたところから行くのではなくて、そこの地区には何人いるのか、高齢者が多いのかなど、状況を見ながら、救助しやすさも考えて、順番をつけて救助を行いました。
道路が崩落して行けないというのは、主な孤立の原因ですが、完全に道路を治すのに何か月もかかるところには、ヘリで向かうしかありません。行くとなったら、まず集落の名簿を作ってもらうなど、いろいろと準備がありましたので、そういうところは少し後からにはなってしまいました。
道路にある木を何本かよけるだけで集落にアクセスできるところは、すぐに入れたので救助も早くできました。大々的に山崩れや崖崩れが起こっているところは少し時間がかかってしまいました。
聞き手
その間、住民の方はどのように生活されていたのですか。
新甫さん
おそらくですが、集落内に集会所があったら、そこに皆が集まって生活していたようです。そこに皆さんで自宅にある食べ物等持ち寄って皆で過ごしていた感じです。
聞き手
避難所や集会所にも来られないような、自宅で孤立している方はどのように把握していったのですか。
新甫さん
親戚などがここの家に行けないし、電話もつながらないからおそらく中にいるだろうという状況がまずありました。そういった恐れのある場合は、自衛隊に中に入ってもらって、何人いましたなどの情報を持ち帰ってもらうこともあり、その場合は、自衛隊に備蓄食料を持っていってもらっていました。
あとは、普通の携帯電話が使えない時に、空が見えるところだったら使える衛星携帯電話が内部との連絡に役立ちました。
集落の代表者の人に名簿の作成と、その中でも今すぐ病院に行かないといけない人がいるのかいないのかということを把握してもらって、そのような方がいたら個別に消防のヘリなどでピックアップしに行きました。残った人達は、自衛隊と調整しながら何月何日にそこの地域にヘリで向かうので、何時ごろになったらどこかヘリが下りられそうなところに集まってくださいという感じで救助しました。
聞き手
人が住んでいない孤立した家の状況は、地域の方の情報で把握されたのか、それとも自衛隊の確認で分かったのでしょうか。
新甫さん
おそらくですが、自衛隊ではなくて、消防の方が入るときにとりあえずすべての家を見せてくださいと言っていたのです。どこにだれがいるのか分からないですし、実はもう一人いたとなると厄介なので、区長さんと情報を照らし合わせて、念のために空き家も全て確認していました。
聞き手
今後、孤立集落になり得る集落もあると思うのですが、そういう集落にとって必要だと感じる備蓄や備えは何だと思いますか。
新甫さん
基本的には、食料と水がまず大事なのかなと思いますけど、衛星携帯電話やスターリンクなどがあると、他の通信手段が使えなくなった場合でも使えるので、中の状況が分かるため必要かと思います。
聞き手
孤立集落からの要望で、救助の要請が多いとは思いますが、食料やその他に何か要望はありましたか。
新甫さん
燃料が欲しいというのはありました。発電機を動かすための燃料であったり、ストーブを使うための灯油であったりが多かったです。衛星携帯電話もスターリンクも結局電源が必要なわけで、燃料の要望が多かったです。
聞き手
孤立集落の方々は、自分たちで発電機を用意するなど、オフグリッドのような形で生活されていたイメージを持っていましたが、実際はいかがでしたか。
新甫さん
本当にワイルドな方、もともと電源も電気も水道もなく生活している人もいて、そんな方なら大丈夫なのですが、孤立集落の中でも電気や水道に頼っているような集落だと、その辺のインフラが寸断されると生活するのが少し厳しくなったりはしました。
聞き手
立地によって異なるのでしょうか。
新甫さん
もともと電気は大体どこも来ているのですが、水道が来ていないところに住んでいる人もいて、そういう人達が住む地域は、冬になるとそもそも外に行けないような地域で孤立に慣れている方もいました。でも慣れている方なんてほとんどいなくて、電気や水道がなくても平気な方は本当に稀でした。多くの人は、電気や水道が止まると、生活が成り立たないので早く脱出したいと思っておられたと思います。
聞き手
慣れている方は、孤立してもあまり支障がないものなのでしょうか。
新甫さん
助けに行きますと言っても、別に必要ないですって言うくらいでした。この辺のさらに田舎の方に住む方は、元々雪が降ったら出てこられないようなことが結構あるので、電気も発電機を持っているし、発電機用の予備の燃料なども最初から貯め込んでいたりしていて、食料もおそらく1週間くらいは生活できる量の備蓄は常に持っているそうです。場所によっては、なので、そういう方々は何というか、頼もしいです。
聞き手
孤立集落の中で、災害に備えて太陽光パネルや浄水槽など、特別な設備を備えていた家はありましたか。
新甫さん
特別なものは特になかったです。やはり田舎だと、農業をやっている家は、発電機を持っている人がいたので結構そのような備えを使用している方が多かったです。
たまたま家柄的にそのようなものを持っているということはありました。また、そもそも水道が通っていないような地域では、地区の中の井戸水を汲み上げて使っているところがあって、井戸が生きているところは意外と水が使えていたところもあったとは聞きました。
結局山崩れによって水源が閉ざされてしまうこともあるので、水源も被害を受けず、水源から家庭までの配管が奇跡的に大丈夫だったところは、意外と市街地よりも水を使えていたところもあるみたいでした。この辺もずっと水を使えていなかったですから。
聞き手
そうした方々の生活のあり方から、学べる点や参考になることはありますか。
新甫さん
ライフラインが途絶えても生活できていけるような準備をしておくことはかなり有効であると思います。
聞き手
孤立集落の状況は、主に区長さんが住民全員を把握されている形なのでしょうか。
新甫さん
区長さんがいないというケースもたまにありましたが、基本的には、区長さんが把握している場合が多かったです。そのため、区長さんに衛星携帯電話を渡して連絡を取り合っていまいた。ヘリの段取りができるまではとにかく頑張ってください、それまでは何か必要であれば自衛隊に食料や水などを持っていってもらうので、という感じで準備ができるまではとにかく頑張ってくださいとしか言えませんでした。
聞き手
集会所も場所によるとは思うのですが、一般的な避難所と同じような人口密度なのでしょうか。
新甫さん
場所によるのと、その集落に何人いるかにもよるのですが、集会所だと結構小さくて、避難所だったら大体公民館とか学校とか広い所が多いのですが、集会所は結構手狭な感じのところもあったと思います。そもそも輪島の避難所でも人口2万人想定のものなのに、多い時で1万3千人くらい来ていたのでとても狭かったと思います。発災して1,2日の間は、足の踏み場もないような感じだったと思います。
聞き手
孤立集落内で避難生活を続けていた方は、最長でどのくらいの期間だったのでしょうか。
新甫さん
孤立集落が解消されたのは、19日だったので、それまで居続けたことになります。
聞き手
そのような方々は、集落を出てどこに行かれるのでしょうか。
新甫さん
そのころには輪島の避難所もあまり空きがない状況だったので、市外の避難所に二次避難したケースはよくありました。例えば、どこかの地域から、ヘリで何回かに分けて輪島のマリンタウンというところに降ろしてもらって、そこから皆さんバスに乗って金沢方面に向かうという形もありました。集落の人は大体同じホテルとか、旅館とか、避難所に行ってもらう形をとっていました。やはり集落同士の知った人が近くにいるかいないかで、慣れない地域にいる分、支え合いがうまく働くので、なるべく同じ地区の人は、近いところに泊まってもらうことになっていました。
聞き手
大半の人は、二次避難や広域避難所に移られたと思うのですが、輪島の避難所に残った方はどういう方だったのですか。
新甫さん
孤立集落からだとあまりいないです。輪島の避難所に入っている方は孤立していなくて、最初に入った方々でした。しかも最初に入った方々で、輪島の避難所はいっぱいになっていましたので、孤立集落からは他の避難所に行った方が多かったです。輪島市の避難所は人が多くて狭いことに加えて、水も使えなくなると、トイレが汚れることもあって、簡易トイレもあったのですが、狭くて手も消毒できない状態だったので、感染症もかなり発生しやすい状況にありました。そのため、なるべく密度を減らすために、広域避難で他の地域に行ってもらうことに協力していただいたりしていました。
聞き手
孤立集落内にいた高齢者や、障がい者、要配慮者の対応はどんな風に行われたのでしょうか。
新甫さん
情報がないと何もできなかったのですが、集落内の家族や、自衛隊に配慮が必要な方いるかいないか、まず聞き出します。基本的にはその集落まるごと1日かけて救助するのですが、1日、待てないような方は、個別で小さめのヘリを出してその方だけ先に救助するようなことはしていました。基本的には配慮が必要な方は先に救助して、割と元気な方は、後からまとめて救助するような形をとっていました。
聞き手
先に救助された方はどこに避難されたのでしょうか。
新甫さん
福祉避難所もありますし、老人ホーム的なところが空いていればそこに入れてもらったりしていました。
聞き手
高齢者施設などに避難される場合は、基本的にご本人だけでの避難になるのでしょうか。
新甫さん
孤立集落に要配慮者だけがいるということはあまりなく、大体いつも面倒を見ている人がいらしたので、その人とセットで先に救助していました。なので、そのような方も一緒に避難したって感じです。ただ、老人ホームに当事者しか入れなかったりするとどこか近くの避難所に入ってもらうこともありました。
聞き手
小さい子供などで救助が必要なことはありましたか。
新甫さん
聞いていないです。ただ小さい子供たちも孤立集落の中に居ましたが、おそらく緊急的に運ぶ必要がなかったので、大人と一緒に救助したという感じでした。そもそも子供が少ない地域ですのであまりなかったですが、実際にありました。
聞き手
お子さんの中で、障害があって個別のスペースが必要な方や、いつも同じ場所で過ごす必要のある方の居室はありましたか。
新甫さん
なかったと思います。見たことないです。大体、高齢者ばっかりだったので、そういう人がいたのかもしれませんが、先に個別に緊急ヘリで救助されているはずだと思うので、私が関わった中ではいなかったです。
聞き手
お子さんのいるご家庭は、二次避難で市外へ避難される方が多かったのでしょうか。
新甫さん
自宅が全壊になった方々は、子供たちを連れて家族まるごと、どこか最寄りの避難所にいる方は結構いました。
聞き手
二次避難には、あらかじめ期限が定められているのですよね。
新甫さん
そうですね。もう帰ってきていると思います。
聞き手
その方々は、孤立集落に戻られているのですか。
新甫さん
戻っている方もいますね。千枚田の方に行く途中に、南志見地区といって人口が600から700人いるところがあるのですが、仮設住宅もその地区内に建っているので、ほとんど戻ってきて仮設で暮らしている方もいます。元の場所で住んでいる方もおられると思いますが、大概の方は、同じ地域のできるだけ近いところの仮設に入られる感じで暮らしています。
聞き手
お子さんを持っていらっしゃる方で二次避難に行かれた方も戻ってくる方が多いのですか。
新甫さん
戻ってくる方もいますし、戻ってこない方もいます。向こうの方が良いと帰ってこられない方もいます。
聞き手
二次避難に行かれる際は、避難先がどこになるのか分からないまま出発される場合が多いのでしょうか。
新甫さん
避難先は事前にわかりますが、行先は選べませんでした。行った先が合えばという話ですね。ただ二次避難に中にも市役所で斡旋するものもあるのですが、そういうのは向こうのホテルや旅館、体育館など場所を選べないのですけど、仮設住宅というのは、基本的には行政でプレハブみたいなものを作ってそこに住んでもらうのですが、仮設住宅の建設も間に合わないので、どこかの空いているアパートを仮設住宅とみなして入れる、みなし仮設住宅という制度があります。
しかし、輪島市内に空いているアパートなどほとんどないので、金沢などのみなし仮設住宅に入られる方がいて、そういう方たちは、金沢が良いと思って金沢に行かれるので、子供を金沢の学校に転校させてみたいな感じで、戻らない方もちらほらいます。それこそ市役所を辞めた人も何十人もいますので、最初から金沢に行って生活しているという方もおられます。
聞き手
孤立集落内で避難生活をされていた方の中で、当初はけががなかったものの、生活環境の影響で体調を崩された方などはいらっしゃいましたか。
新甫さん
おそらくいました。その辺は、災害対策本部の中では、分かりにくい部分ではあるのですが、災害関連死の中でも、地震が原因で後から怪我や病気になった方はいました。輪島市で直接死された方は、全員で101人いて、後から災害関連死に分類される方、審査会を開いて認定されていくのですが、地震後しばらく経ってから亡くなった人は100人を超えており、直接死された方以上に災害関連死者が出ているので、災害関連死をなくすということが今後のポイントにもなってくると思います。
聞き手
地震が原因の病気とは、具体的にどのような症状だったのですか。
新甫さん
怪我もありますし、地震後すぐに適切な治療を受けられなくて、後々それが響いて、災害関連死という形でお亡くなりになられる方もいました。あとは、当時から通院されていた方で、病院に通えなくなってしまって亡くなられた方もいます。地震の時に電気が使えなくなり、寒い状態でずっといたことや、避難所で感染症にかかってしまったことで、そこから体調が悪くなったりした方など、いろいろなケースがありました。
聞き手
感染症の点では、孤立集落内の集会所などで新型コロナウイルスの感染が発生した事例はありましたか。
新甫さん
おそらく1件もなかったのではないかと思います。聞いたことがないので。もしかすると、場所によってはあったのかもしれませんが、救助した時にそのような状況になっていたところはなかったです。この辺で行き来ができる避難所では、感染の伝染があったのですが、この辺の避難所は人がたくさん集まってきていたのもあってのことだと思います。孤立集落内は人も少ないですし、あまりなかったのだと思います。
孤立集落プロジェクトチームでの課題
聞き手
孤立集落のプロジェクトチームとして活動される中で、特に大変だったと感じることはありましたか。
新甫さん
情報の整理が一番大変でした。正直我々だけではすべてできないのです。自衛隊とか、消防の人とかに行ってもらわないと情報が分からないというのもありますし、報告が上がったところはメモをすれば良いのですが、誰からも報告が上がっていないけど密かに孤立しているところがあるのかないのかを探して明確にすることが大変でした。
輪島市の住民全員を調べるので良いのか、観光客で孤立してしまうことも結構あったので、そのような人はそもそも輪島市で把握できないですし。輪島市に住民票がある方は、一人一人確認すれば何とかなるのですが、今回は千枚田で観光客が何十人か孤立していたので、県外から来た人は分かりようがなかったです。なので、孤立集落の情報が、本当にこれ以外にないのかどうかを探すのが大変でした。
聞き手
観光客が孤立していたというのは、後から分かったのでしょうか。
新甫さん
自衛隊の人が入ってから分かったので、後からと言えば後からですね。
聞き手
観光客の中には外国の方もおられたのでしょうか。
新甫さん
外国の方もいたと思います。しかし、孤立集落の中にはいなかったと思います。
聞き手
今後も自然災害が起こった時に、今回の地震の教訓を生かして孤立集落への対応や、次に生かせることなどありますか。
新甫さん
備蓄などは、孤立集落とか関係なく必要だとは思いますが、やはり通信手段の確保が大事だと思います。中の状況が全く分からないよりは、中と常に連絡が取れる状態になっていれば、こちらもどんな機材・資材を持って救助に行けばよいか分かったり、中に何人いるか分かればヘリの大きさや何機必要かが分かったり、孤立集落の中でヘリが無事に着陸できる場所があるのかないのか事前に分かったりするので、今回は通信手段がなくこのような情報は行ってみないと分かりませんでした。
聞き手
衛星携帯電話が有効だったとのことですが、今後、輪島市として非常時に備え、集会所などへの設置を進める予定はありますか。
新甫さん
集会所ではなく避難所にはなるのですが、そのような対策を行っている最中です。孤立しそうな避難所に、衛星携帯ではなく、スターリンクを設置する事業を今年度、防災対策課で行っています。
今後の計画
聞き手
輪島市として、今後の災害対応の方針や取り組みの方向性はどのように考えておられますか。
新甫さん
スタンスは大幅に変わると思います。今年度、防災対策課で地震の検証の取りまとめをしているのですが、今回の良かった点、悪かった点、いろいろあるのです。それらを踏まえて、今後の輪島市の防災のあり方をどうしていくか、結論が出てから決定していくので、今はまだ何とも言えませんが、今回の災害に対応したものに計画を直していく予定です。
聞き手
新しい防災計画が決定するのは何年後くらいになりそうですか。
新甫さん
今年度中には、検証結果が出るはずなので、来年度くらいには新しい計画に反映されていくと思います。
聞き手
今回の地震を受けて、今後最も大きく変わると考えられる点はありますか。
新甫さん
被害想定は全くもって変わります。これまでの被害想定は、1日2000人くらいで見積もっていたと思うのですが、今回の避難者数は1万3000人ほどいましたので完全に想定外でした。そのため1万人を超える想定で非常食の用意などを行う予定ですので、何倍も変わりますね。
聞き手
少し分野が異なるかもしれませんが、指定避難所についても、これまではおおよそ2000人規模を想定して割り振られていたという理解でよろしいでしょうか。
新甫さん
そうですね、2000人がベースになっています。ただ、1万3000人でも避難所には全員入るのですよ。いろいろな地域に避難所がある状態で、地域の統一なく無理やり避難所に押し込めば入るのですが、もちろん現実的ではないので、これから避難所の場所などもう一度整理していく形になるのではないかと思います。いま使えていない避難所などもあると思いますので。
聞き手
利用できていない避難所というのは、建物が損壊していたという理由によるものでしょうか。
新甫さん
そういうことです。
聞き手
今回の災害対応において、最も中心的な役割を果たした避難所はどこになるのでしょうか。
新甫さん
輪島の方でいうと、輪島中学校とか河合小学校ですかね。特に一つだけが中心になっているというイメージはないのですが、お風呂にずっと入れていない状況で、自衛隊の仮設のお風呂に入れたところが輪島中学校とかだったので、そうういう意味では、中心と言えば中心だったかもしれないです。
聞き手
自衛隊の仮設のお風呂が設置されたのは輪島中学校と鳳至小学校以外にもあるのですか。
新甫さん
たくさんありました。門前の方にもありましたし、輪島の方だといろいろと点々としてありました。どこにあったかの正確な情報は、防災対策課に聞けばわかるかと思います。
復旧・復興への課題
聞き手
先ほど通信が重要というお話もありましたが、復旧・復興で特に課題だったことは何ですか。
新甫さん
すべてが課題のようにも感じますが、避難所や地区、通信の問題も、そもそも災害に強い道路を作っておけば、孤立はしないですし、災害に強いインフラを整備していれば、水も使えて電気も使えて、道路も行き来が可能なわけです。しかし、なかなか難しい話でもあるので、ダメになった時のことを考えて避難所数を増やしたり、避難所内の備蓄の想定人数を増やしたり、もちろん通信手段の備えも必要だったと思います。
聞き手
今回の災害で防災対策課として得られた最大の教訓は何ですか。
新甫さん
とにかく備えです。十分な備えが重要だと思います。今回の地震に対して備えていなかったわけではないのですが、想定が甘かったので、いつやってくるか分からない最大限の災害に向けた備えをしておけば、もう少し対応がうまくいったと思います。
聞き手
今回の地震で、輪島市だからできたことや、この地域ならではの対応などあれば教えてください。
新甫さん
輪島の地域ならではというと孤立集落がたくさん発生してしまったこともあるのですが、人口的にものすごく多いわけではないので、地域の情報がすぐ入るということは輪島ならではの良さだったかなと思います。大体どこのエリアにどんな方が住んでいるかは、市の方で分かっていたので、地域の特性や全体像は掴みやすかったです。例えば東京だったりすると、何十万、何百万人もの人がいてどこの誰だか全くわからないと思います。そういう点で、輪島市では、本気を出せば、住民一人ひとりを調べられるのでそういった点では強みかと思います。
聞き手
2007年にも地震を経験した輪島市だからこそ、今回の対応で実現できたことや活かされた点はありましたか。
新甫さん
地域で孤立していたところもそうなのですが、皆で支え合って、食べ物を持ち寄って、何とか救助されるまで頑張っていたので、このように頑張れることは、前回の経験から地域で支え合わないといけないことが根付いていたのかなとは思います。市役所周辺でも、孤立していないところでも、地域の集会所がないようなところでも、誰かの大きなガレージがあるところに皆さん集まって炊き出しをしているところもあったので、地域の繋がりが強いというのは、田舎ならではのことだと思います。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
珠洲市蛸島公民館長 田中悦郎さん
「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
珠洲市正院避難所協力者 瓶子睦子さん、瀬戸裕喜子さん
「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
珠洲市宝立町区長 佐小田淳一さん
「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
珠洲市大谷分団長 川端孝さん
「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
珠洲市日置区長会長 糸矢敏夫さん
「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
珠洲市蛸島区長会長 梧 光洋さん 蛸島公民館館長 田中 悦郎さん
「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
珠洲市飯田区長会長 泉谷信七さん
「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
珠洲市上戸町区長会長 中川政幸さん
「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
珠洲市若山区長会長 北風八紘さん
「防災訓練の経験が避難所運営に生きた」 -
珠洲市直区長会長 樋爪一成さん
「想定と異なる場所で苦労しながらの避難所運営」 -
珠洲市正院区長会長 濱木満喜さん 副会長 小町康夫さん
「避難者・スタッフ・支援者の力を結集して避難所を運営」 -
珠洲市三崎区長会長 辻 一さん
「普段の防災活動が災害時の避難に生きた」 -
珠洲市大谷地区区長会長 丸山忠次さん
「防災士の知識も生かし、多くの方と協力しながらの避難所運営」 -
珠洲市大谷地区 避難所運営者
坂秀幸さん
「孤立集落における自主避難所の運営に携わって」 -
珠洲市上戸区長
今井 真美子さん
「全国からの支援に支えられ、
防災士として避難生活をサポート」 -
珠洲市宝立町区長会長
多田進郎さん
「避難所の運営にあたって」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

