石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 消防

不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした

七尾消防署 署長補佐 酒井晋二郎さん
体験内容
消防職員として消火や救急などの活動に尽力
場所 七尾市
聞き取り日 2025年9月18日

ご自身のこと

私は七尾市高田町に住んでいます。平成6年に消防士になり今は七尾消防署に勤務しています。

発災時は元日であったため子供も帰省し、家族全員が家にいましたが、安否確認できないまま災害対応することとなりました。全員無事でした。

地震の発生と消防署の対応

七尾消防署では、震災当時私を含め12名が勤務していました。3名は救急出動中でしたので発災時は9名で待機していました。私は七尾消防署の当直で災害発生時は指揮隊の指揮隊長という立場でした。

午後4時5分頃の地震では七尾で震度3の揺れを観測しました。

緊急地震速報を受信した時点で、消防車両を車庫前に出しました。その際、管内の被害状況や七尾市の状況も考慮しつつ、また、当時は珠洲で群発地震活発化していたので、石川県広域応援協定に基づき奥能登方面へ応援に行く準備を進めました。

庁舎が倒壊した場合、車両も損傷してしまい、現場に出動する手段を失ってしまうため、緊急地震速報が発令された時点で、必ず車両を車庫前に出すようにしています。

しかし、16時10分に震度7の地震が発生しました。七尾市では震度6強を観測しました。このため、県内応援の準備をする状況ではなくなりました

七尾鹿島管内において、震度4以上の地震や津波注意報が発令された場合の行動計画が策定されているため、その計画に基づいて行動を開始しました。

消防庁舎は海の近くにあるため、津波注意報が出た時点で、私たちの車両や装備などを高地に避難させることになっていますので、全車両の移動を開始しました。

しかし、地震の影響で周辺道路は隆起、陥没、亀裂、さらには倒壊建物により塞がれ、移動ルートを模索することを余儀なくされました

その時、指令センターでは火災や救急の通報が多数寄せられていたため、移動を中断し、災害対応を行っております。計画通りの行動は中断せざる得ない状況でした。

活動の展開

震災当時は火災、救助、救急、緊急確認といった災害が複数同時に発生していましたが、地震による指令回線の不具合等で現場では混乱が生じ、他の消防署所や消防団の活動状況は、当日、指揮隊も完全には把握していませんでした

私は、指揮隊ではありましたが、発災直後は圧倒的にマンパワーが不足していたことから、「倒壊建物で高齢女性が取り残されている」という現場に単隊で対応しました。その方は足が不自由で移動が困難でしたが、幸い大きな怪我等なく直近の避難所に誘導しました。

「のと里山海道が崩落し複数車両が巻き込まれた」という事案があり、救助隊が現場に向かったものの、道路状況は悪化し、渋滞も発生していることから、現場に到着するまでに何時間もかかり、結局収束までに5時間を要することとなりました。怪我人等はいませんでしたが、里山海道本線は一部崩落により徒歩での活動となっています。

火災も発生しましたが、消火栓が機能せず、消火用の水は近くの川から汲み上げなければなりませんでした。しかし、津波による引き潮の影響で、川の水がなくなったところもあり、水を供給するのに苦労しております

隊員は水を探すために消防車を動かそうとしただけで「逃げるのか」と厳しい言葉をかけられることもあり、辛い経験をしました。ですが、「なんとかしてほしい」「なんとかしてあげたい」と思うところは住民も消防も同じであったと思います。また、当時は、誰もが経験したことがないことが起こり、皆、極限状態であったことから、それも仕方のないことだと思います

津波の危険がなくなったことから、消防庁舎を拠点として非番招集員24名と勤務員12名で活動することとしていました。

七尾消防署では消防隊4隊、救急隊2隊 指揮隊1隊に再編成し、各方面に活動展開しました。

まず、私たちが現場に向かうための道路について、どこが通れないかを把握する必要があります。発災直後の当日から消防車両が通れるルートの確認を始めました。

また、川、海以外の消防用水利(消火栓)は全く使えない状態で、防火水槽や地下水槽に本当に水があるかどうかも巡回して確認しました。これに加えて、避難状況や被害状況も調査しています。

消防職員としての責任

複数の災害に対応しなければならないため、発災時では災害対応する人員や装備が圧倒的に少なく、未対応の現場もありました

119番通報が殺到したため指令課では、通報内容から緊急度は判定し最も緊急度の高い現場へ優先的に消防車を出動させる「コールトリアージ」を行っております。

ガス漏れや車のオイル漏れ、火災でも救助でもなく、非常救急でもないものもあります。

事務所や研修室の広い場所で、一時的な休憩を取ることしかできませんでした。通常であれば午前8時半から午後8時半までの勤務体制でしたが、災害対応や警戒のため通常の勤務体制とは違う対応が必要な状況でした。

自分も含め災害に対応する職員は、果たして自分の家族は大丈夫なのかと心配していたと思います。そういった不安を抱えながら活動していたのだと思います。

非番で参集する職員も、被災した自宅や家族を残しほとんどの職員が駆けつけてくれていました。

緊急消防援助隊

緊急消防援助隊は奥能登へ入るために苦労していました。奥能登までのルート、燃料の問題、待機場所の問題、トイレ問題。私たちは直接関わることはありませんでしたが、受援側である奥能登消防をはじめ能登地区の関係課は大変苦労されたかと思います。

震災を経験しての課題・教訓

大津波警報が発令されるなか、浸水想定区域での火災、救助、救急といった現場活動が強いられましたが、浸水想定区域での活動に隊員は皆、不安や疑問を抱えながら活動していました

道路の損壊により消防車両の移動退避が難しくなり、適切な避難場所への移動が困難であったことから、整備が必要とされました。これらの問題点については多くの議論が重ねられ、改善策が検討されています。

今回の災害で学んだことは、対策の重要性です。

大規模災害が発生すると、自分の力だけではまったく太刀打ちできないのだと痛感しました。消防の手が届かない現場もたくさんあります。自分たちの地域は自分たちで守らなければならないという考えが必要なのだと思います。それを強く実感させられました。

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