石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 教育・学校

今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~

七尾市立天神山小学校長(当時) 種谷多聞さん
体験内容
学校長として天神山小学校での避難所設営や学校再開に尽力
場所 七尾市
聞き取り日 令和7年9月18日

災害時に学校がすべきこと

私は、現在、石崎小学校に勤めておりますが、当時は七尾市役所の近くにある天神山小学校で勤務しておりました。

当時の記録をお話しすることで、不快に思われたり、恐怖を感じたりされるかもしれませんが、少しでも、ご理解いただける部分があれば幸いだと思って、お話をいたします。

まず、結論から申し上げます。私は最終的に、学校がすべきことは5つだと考えました。

第一に、子どもたちが思考力や判断力を養い、自ら最善の策を考え高める学びの場を学校が提供すべきだと思います。

第二に、自ら命を守る知識を、単なる書面上のものにとどまらず、実際にマニュアルをきちんと実践することが重要だと思います。

第三に、目配り・気配り・心配りといった配慮の心を子どもたちに指導すべきだと思います。

第四に、古き良き七尾の市民としての誇りや文化の継承も大切だと考えます。

最後に、大人も子どもも手をつなぎ、地域の輪を広げていくことが重要だと思います。

学校は、分かりやすく楽しい授業や行事、イベントを重視すべきです。地震を経験し、子どもたちに様々なケアが必要な中で、一番大切なのは楽しい場を作ることだと感じました。子どもの笑顔が教師の心のケアにもつながります。

毎日の授業を充実させることが、子どもたちだけでなく教職員や地域の方々にとってもケアにつながると最終的に理解しました。このことを最重要課題として職員に伝えました。

地震の発生と津波警報

令和6年1月1日の16時過ぎに、ドンと大きな音がすると共に、家が揺れました。私は真っすぐ立てませんでした。「まずい」と思い、死を覚悟しました。スマホがウィンウィンと鳴り、テレビからは赤字で「大津波」と流れています。

気を取り直して直ちに部屋に戻り、ヘルメットをかぶって、防災用品が置いてある場所に行きました。

私の家は七尾市役所の近く、海抜0メートルほどの場所です。地区全体は海に近いため、津波の危険区域となっています。

隣に住んでいる高齢者の夫婦と猫を連れて、高いところへ避難しようと声をかけました。しかし、「2階にいれば大丈夫だ」と言うのです。震度7の地震があっても、七尾市の前の海に能登島があるから津波が来ないと考えていました。私は強引に車に乗せて出発しました。

自宅近くにも避難所の学校があります。しかし、海が見える程に近いです。勤務先の天神山小学校は海抜22メートルあり、大津波を避けるため、近くの学校ではなくて、勤務先に行きました

家の近くの信号はすでに消えていました。道路も渋滞していいたので、裏道で行きました。途中、アスファルトがサメの歯のように盛り上がって、道が途切れていましたが、天気が良く、まだ明るかったので、気付くことができて良かったです。

学校が避難所に

16時半に天神山小学校に到着しました。すでに運動場には多くの車が駐車していました。幸運なことに、停電はしていなかったので、学校を避難所にする準備を早く進めることとしました。

学校の中央入り口の玄関でガラスが割れ、破片が廊下に散乱していたのです。それを見て、私は、学校のガラスがすべて割れていたのではないかと、恐怖を感じました。

当然ですが、すべての防火扉が閉まっており、それを一つ一つ開けて、体育館までの道を探しました。火事は起こりませんでしたが、これは学校への侵入を防ぐことにつながりました

学校が空いていることを示すために、4階の電気をつけました。17時頃から続々と人が入ってきて、人々はまず体育館に集まりました。

学校には放送設備があり、校内放送を使ってアナウンスをすることができました。1階の入り口付近にはガラスの破片が散乱していたため、靴を履いたまま建物に入るように呼びかけました。

この放送設備は、校舎内だけでなく、外の運動場にも音が届きます。運動場では多くの人が車の中にとどまっていましたが、アナウンスを聞くことができました。「寒いですですから、各自で防寒の準備をお願いします」と、何度も呼びかけました。また、避難所には防災用の食料があることも案内しました。

杖をついている方や車椅子の方、子どもを抱いているお母さんなども、次々と体育館に入ってきましたが、混乱はありませんでした。最初に何でもアナウンスして行動を促したことがよかったと思います。

ありがたいことに、学校の近くにいた元教育関係者の方が、私が一人で対応していることに気付いてくれました。その方が「こちらでござや椅子を並べますから、場所を教えてください」と言ってくださったのです。

そして、直ちに体育館の倉庫を開放して「マットでも跳び箱でも、あるものは何でも使ってください」と他の方にも言ってくださいました。瞬時に、体育館が避難所に変わりました

17時40分頃にはもう作業を始めていました。皆さんが協力して物を運び出し、寒い中で体育館を避難所として整えていました。ただ、校舎には入らず、運動場で自動車の中で待っている人もたくさんいました。

体育館から教室へ

体育館には、寒さや熱中症対策として、運動禁止の判断などに使う温度計が置いてあります。その温度計を見ると、5度から7度くらいで、とても寒かったんです。当然、私も徐々に体の芯から冷えて寒くなっていきました。

寒い中、避難所として準備を進めましたが、ふと「この寒くて何もない体育館で、このまま一晩過ごすのか」と思ったのです。

私は学校でも安全教育などを担当しています。サバイバルという面では、ご飯も大丈夫だし、酸素もある、水もなんとかなるかなと考えていましたが、一番怖いのは体温を維持できないことだと思いました。

しかし、各教室にはエアコンがありました。冷房専用としていましたが、実は暖房が使えることも知っています。そこで、構内放送で「各教室にはエアコンがありますので、教室にお入りいただければと思います。指定された教室には子どもの物がありますから触れないでください」と伝え、スイッチの場所をお知らせしました。1時間も経つと、体育館に誰もいなくなり、みんなそれぞれの教室に分かれて、段取りをしていました。

その時は、後で怒られてもしょうがないと思って、命を最優先に考えました。暖房をつけて良かったなと思いますし、来られた方はみんな「ありがとう」と言ってくださいました。後で、ここの局長からも「こうしたのは良かった」と言われました。

この体育館の避難所は、多分一番早く開いて、一番早く閉じた体育館の避難所です。これが地震発生後の「黄金の3時間(教育現場で言うところの、新学期が始まった直後の学習の基礎となる重要な期間)」の対応でした。

その後、市の担当者が来ました。その方は1月1日に休んでいて、いきなり「行きなさい」と言われたわけです。市の担当者も被災者ですし、お子さんもいらっしゃる女性の方ですから、気の毒に感じました。

それから1月9日まで、小学校避難所の管理は、七尾市の職員が1人、交代で対応していました。2交代制で、朝8時から夜8時までの方と、夜8時から朝8時までの方がいました。

職員は通常業務もこなしながら、避難所での業務も多くありました。皆さん、いろいろなクレームも受けていて、大変そうでした。心が苦しくなって辞める人がいるという報道もありましたが、それも納得だと思いました。

その後、支援者を支える仕組みが、都道府県をまたいで構築されて、埼玉県から複数名の応援職員が来てくださって、それからいろいろな市町村や県からも多くの支援者が来てくださいました。七尾市のワンオペ状態が解消されて、良かったなと思いました。とても感謝しています。

避難生活について

避難所ごとに状況はまったく異なります。非常によく整っている避難所もあれば、まったく整っていないところもあり、それは仕方がないことでした。

発災から2日目には、真空パックの乾燥米や即席米のおにぎりが届きました。お湯を入れるとおにぎりになります。最初に食べたときは美味しいんですけど、2回目からはあまり美味しくないのです。他に食べるものがなかったので、ありがたいと思いましたが、2日間はこれだけでした。

輪島や珠洲などは、かなり大変な状況だったそうですが、ここでは大きな被害がなかったことが一番の救いです。断水はしていましたが、固定電話もスマホも大丈夫でしたし、インターネットも問題ありませんでした。

七尾市内を見渡すと、ガソリンスタンドは大渋滞でしたが、こんな状態でも、ドラッグストアは開いていたので、そこで買い物をしました。店の方々はとても元気で、すごいなと思いました。

断水で一番困ったのは、やはりトイレです。水がないから流せない。当初は、みんなで学校のプールの水をバケツで運びました。しかし、プールの底が割れて、水が段々抜けてしまいました。

水洗トイレを流すのに、2リットルのペットボトル6本分の水が必要だということも改めて分かり、水を運びやすいように工夫しつつ、あちこちでトイレを使うと水が補充できないため、使うトイレを一つに決めて、使用は1回に限定しました

私の家には井戸があり、そこからは常に水が出ています。災害後、知り合いだけでなく、全く知らない人もポリタンクを持って大勢集まってきました。手を洗ったり、飲んだりするための水を求めて、行列ができたのです。この田舎にこんなに人が集まるとは思わず、驚きました。

1日の夜は遅くまで起きていて、2日目の朝は少しゆっくり寝ようと思っていたのですが、みんな水を汲みに来て、家の前がざわざわしてきました。それからずっとそういう状態でした。

人と人とが、不安な気持ちのときに、少し会話をしたり、挨拶を交わしたりして、昔の言葉でいう「井戸端会議」が地域を支える力なのだなと、改めて思いました。今までは言葉として知っているだけでしたが、実感として知識に変わりました。

皆さん渋滞を避けるために、24時間体制で、時間をずらして来られる。夜は暗くて、井戸の辺りには電気が繋がっていなかったので、懐中電灯のようなものを透明のポリ袋に入れて、2リットルのペットボトルを切った中に入れて使いました。光が広がるので、吊り袋にすると、夜でも明るく光ります。

2月15日ごろまで、七尾市は水道が使えず、井戸の辺は混雑したので、地域の人たちが自発的に動いくれたのです。これが町内会の力、地域の力だと思いました。

蛇口を作ったり、風が吹くと寒かったので、ブルーシートで風よけを作ったり、洗濯をする人にも対応されました。また、たまたま自分の車のカーポートがあって、雨の日も雪の日も仕事ができましたので、本当に助かりました。ちなみに、井戸についてはNHKが取材に来て、全国放送で流れていました。

ご自宅の井戸を利用される方々

途中から避難所では調理室を使うようになって、鍋から湯気が上がっていました。カレーライスやスープなど、温かい食事が避難所の皆さんに笑顔をもたらして、「食べる力は生きる力」と感じました。

皆で協力し、1月半ばにはメニューを掲示するようにしました。私自身が食事を作るわけではありませんが、メニューを示すことで「今日は何が出るか」という見通しを持ってもらうことが、少しでも気休めになったと思います

また、大手企業の支援はとても素晴らしかったです。ガストやすき家から、お弁当などが届きました。本来はここで寝泊まりしている人たちのために提供されたものですが、地域の方々も並んでいました。

そして、弱い立場の人たちにはなかなか支援が行き届かないことも目にしました。

ある日のドラッグストアのレジでのことです。お年寄りのご夫婦に、店員さんが「かごに水が三本ありますが、ここで買わなくても、公共のホールに行けば、2リットルの水はもらえますよ」と言ったのです。

私もそうだなと思いましたが、そのご夫婦は「私たちは車がなく、ペットボトルの段ボールは重くて持てないので、ここで買います」と言いました。

車がなかったら大変なのだなと思いました。水がもらえるところまで行けない人もいるのです。それで、そのご自宅までペットボトルを運ぼうとも思ったのですが、結局何もできませんでした。

行政が拠点ごとにいろいろな支援物資を配布していて、感謝していますが、もう一歩、生活弱者やお年寄りなど、車のない方の困りごとに寄り添った支援を今後は検討していかなければならないと思います。

学校運営の状況

まず天神山小学校の児童の安否を確認したいと思ったのですが、デジタル技術のおかげで、意外と簡単にできました

らくらく連絡網という連絡用のアプリを起動してみたところ、意外にも皆さん電波が通じていて、返事がすっと戻ってきました。児童と職員の安否確認ができて、少しホッとしました。

ただ、教職員の被害状況から見ると、少し外れにある中島町など、同じ七尾市でも、場所によって全く被害の程度が違うのだなと思いました。

学校としては、私は午前中、教職員は午後から勤務していました。時間帯を調整して、家庭に支障が出ないようにしました。

また、水の確保の面やトイレが使えないこと、道路の状況もよくないことから、たくさんの職員が来ると混乱が起きて、二次災害の危険もあったため、職員には、できるだけ家にいてもらい、まずは本当に手伝ってくれる方だけが来るように指示を出しました。来ていただく方には、どの時間帯の担当で、何をしてもらうかをはっきり指示しました。

学校の再開に向かって

学校長として、学校を再開するうえで、まず道が危険だと思っていました。毎日、昼間にいろいろな道を通って確認しましたが、道路は危ない状態で、道路を歩いている子どもたちはほとんどいません。

校内に目を向ければ、各教室では避難されている方が寝泊まりしており、体育館や運動場も避難所として使っていました。さらに、避難されている方の生活スタイルがさまざまで、夜遅くまで起きている人もいれば、朝早く起きる人もいるのです。

トイレは一部だけ使えるようになりました。でも、ほとんどの水道は使えず、手洗いもほとんどできません。給水車が毎日来ていました。

そうした中で、どう学校を再開していくか。

児童についてもいろいろと話を聞いたのですが、避難所で生活を続けている人もいました。金沢に避難した人たちもいました。道路の状況がまだ悪くて登校に不安を感じている家庭もありました。「もし学校でまた何かあったらどうしようか」と不安に思っている方もいました。

そして教職員も被災者なのです。自宅が崩れた人、自動車が壊れた人もいます。私もそうでしたが、断水している家庭も多く、当然、お風呂には入れませんし、洗濯もできません。給水にも行かなければならなかった。

ですから、教職員にはできるだけ早く帰って、自分の生活を整えてほしいと思いました。また、心は元気なふりをしている人もいました。みんな、こうした状況だからこそ、余計に頑張らなきゃと思う雰囲気がありましたが、「無理をせず、できることをやりましょう」と声をかけました。

とても難しい状況でしたが、学校を再開するとなると、あるものでやっていくしかなかったのです。何を最優先にすべきかを考え、職員には次の二点を強くお願いしました。

一つ目は、現在の天神小学校は、学校でありながら、避難所でもあるということです。「学校が避難所になった」という考え方ではなくて、避難所として使われている一部をお借りして、これから学校の勤務をするという意識で臨みました

教育活動を再開するという立場ではありましたが、避難者の方がいる以上、常に避難者最優先の視点を持ってくださいと職員に伝えました。なんとなく、学校の先生ということで「私たちは学校だから」「教育だから」と教育を最優先に考えがちなんです。それはプライドとして大事なことかもしれませんが、今いる方々は、家がダメになってしまい、ここが救いだと思って来ているのです。避難している人たちのことを最優先にしませんか、という話をしました。

避難所内でも「学校が再開すると、ここで寝ている人は追い出されるのではないか」という声がありました。あちこちでそうした噂が出て、これが人間関係のトラブルのもとになると思ったので、私はそれに対して、教育委員会の名前で、1月19日から学校を再開するが、今住んでいる教室には、そのまま居ても大丈夫ですよ、という通知を出してもらいました

大きな紙に書いて、皆さんが見えるところに貼りました。これを周知徹底して、避難所生活を続けている方が気兼ねなく学校で過ごせるようにしたのです。噂や憶測を防ぐために、やはり事前にきちんと説明しておきたいと思いました。そして、保護者の皆さんにも当然周知しました。

そして、学校を再開するにあたって、もう一つの点として、今はできることを頑張りましょうと伝えて、理想的なプランを全力で作るのではなく、その時点で全体としてできる内容をすべて取り込んで、最高のプランを作るように頑張りました。

学校の再開

私は「ディズニーランド作戦」と呼んでいましたが、学校再開初日には、ディズニーランドのように、入り口の前に列をつくり、10人単位のグループで静かに入ってもらいました。

学校再開時の様子

本校では、通常は全学年が制服ですが、ほとんどの家庭が洗濯できない状況だったため、服装は自由にしました。そして、危ない場所もあるため、ヘルメットの着用を推奨しました。

また、学校沿いの道が危険だったため、運動場を開放して、車での送迎を許可しました。通学経路などにも、さまざまな変更を行っています。

普段であれば、子どもたちは携帯電話を職員に預けることになっていますが、もしもの時に保護者と連絡が取れないと困るので、自分の責任で、携帯電話を持っておくようにしました。

そして、子どもたちには、寝ている人もいるから、廊下などで走り回ったり、大きな声を出したりしないように気をつけてねとお願いしました。

給水車でトイレの水も確保できました。トイレの水が確保できなければ、再開はできませんでしたね。まずは一安心して、階段ごとに職員を配置し、子どもたちが走らないようにしました。

給食はありませんでしたが、最初は簡単な昼食として、セブンイレブンのおにぎりが配られました。本当にありがたかったです。一日目はおにぎり、二日目は、パンやおにぎりという形で届きました。少しずつ水道が復旧してきて、給食らしい形に近づいていきました。

学校を再開したときの子どもたちの会話が印象的でした。久しぶりに会って、「どこにいたの?」「親戚の家にいた」と話す子もいました。「高岡のお風呂に行った」「氷見のお風呂に行った」という話もたくさん出ましたね。それから「早く学校に入って遊びたい」という声もありました。この言葉を聞いたとき「学校を開いて本当に良かったな」と思いました

一番緊張していたのは先生たちです。皆が頑張りすぎてしまうので、少しブレーキをかけるよう、配慮しなければいけませんでした。

学校が再開してからは、各学級で算数などの勉強をやりたがる様子もありましたが、それはしなくていいという方針にしました。

まずは命を最優先にすることが大事だという気持ちで、各教室で「自分の命は自分で守る」という意識を何度でも繰り返し伝えてくださいとお願いしました。そうした意欲や知識を子どもたちに身につけさせる、絶好の機会だと思ったのです。校内放送でも何度も繰り返して伝えました。

また、給食がなかったので、授業は午前中の2時間だけにして、学習は算数や漢字など基本的なものだけで、子どもたちのストレス解消につながる活動を取り入れるようにしました。

事前の調査で、夜眠れないなど、子どもたちが何に困っているのか分かっていたので、それに寄り添った指導もお願いしました。

子どもたちが「登校できてよかった」と喜び、その姿を見た大人たちも喜んでいる様子を見て、本当に良かったなと思いました。命の大切さを改めて考える場になりました。

避難されている方からも、子どもたちが気を使ってくれてありがたいという声をいただき、狙いの一つは達成できたな、子どもたちが大人を元気にしてくれるのだなと感じました。

先生たちは「頑張ろう」と声を掛け合ったりしていました。学校に来て子どもたちとやり取りをすることで気分がすっきりしたという先生もいました。自宅の片づけで、震災ゴミを出すのに駐車するだけで3時間待たされたという先生もいましたが、「学校に来ると疲れるけど楽しい」と言ってくれて、学校は本当にいろいろな人を笑顔にする場所なのだなと思いました。

こうして、学校再開は本来の予定から10日ほど遅れましたが、なんとか実施することができました。全体の約83パーセントの子どもたちが、初日に登校しました。震災に負けずに取り組めたことが嬉しかったです。こうした取り組みを通して、ふるさとを愛する心を育てたいなと思いました。

地震の前に、大谷翔平選手が提供した大谷グローブが届いていました。お披露目する予定でしたが、地震があってできませんでした。3個ではキャッチボールをするにも足りませんので、学校でもいくつか購入し、交代で使いながら、みんなが仲間とキャッチボールを楽しめる場を設けました。

今の子どもたちはキャッチボールをあまりしないので、少し難しかったようです。相手のことを考えながら投げることを意識するよう言いました。キャッチができて良かったという気持ちを意識してもらえれば良かったなと思います。

そして、2月には「6年生を送る会」も、何とか通常どおりに行うことができ、保護者の方にも参加していただくことができました。

その後、無事に卒業式を行うことができました。この地震の時でしか言えないことがあると思って、私は式の前に「自分たちの学校の体育館で卒業式を行えるということは、当たり前のようで実はとてもありがたいことです」という話をして、喜びと感謝の気持ちを持つべきだと伝えました。また、こういう時だからこそ、これまで大切に育ててきた人やものを大切にしましょう、困った時や迷った時、苦しい時には、自分の勇気を信じていろいろなことに挑戦してほしいと伝えました。

災害を経験して得た教訓

学校の再開については、単に再開するだけではなく、また、子どもたちにただ我慢をさせるのではなく、それをいかに理解できる形で落とし込むかに配慮しました。

2月22日ごろまで、避難所として利用された方もいました。教室が宿泊場所になって使えないこともありました。子どもたちには大変不自由な思いをさせましたが、避難者の方々がそれぞれの事情で学校に寝泊まりしている姿を知ることだけでも、子どもたちにとっては大きな学びになったと思います。今は分からないかもしれませんが、いつの日か、当たり前のように自分の学びの場があるという幸せやありがたさを感じてもらえたら嬉しいです。

私としては、この地震で多くのものを失いましたが、大きな教訓を学びました。やはり学校としては、今できることに最善を尽くさなければならないと感じています。

算数ができたり、学力テストで高い点を取れたりすることも大切です。体を動かすことも大切ですが、私たちは人の中で生きていくので、この地震を通して、社会の中で、どうやってうまく、仲良く生きていくかが本当に大事だと改めて感じました。子どもたちの笑顔や「よかった」と思える瞬間を増やすことが、子どもも大人も手を取り合い、また、それを広げることにつながります。

よく「生きる力」と言いますが、これからどんな困難な時代が訪れても、自分の力を信じ、他者と協力し、折り合いをつけながら、しなやかでたくましく生きていける子どもたちを育てる視点が大切だと感じました。

分かりやすく楽しい授業を行うことで、今こそ真の「生きる力」を育むことが、学校がすべきことだと思っています。

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