体験を語る
- 県民
地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月28日 |
地震発生当初
聞き手
消防団として、どういうふうに活動に当たられましたか。
青坂さん
今回、私は分団の車庫まで行けなかったんです。発災後すぐ、着替えて車庫へ向かったんですけど、道路そのものはそんなに地震での被害はなかったものの、途中で津波に遭って、車庫までは行けなかったんです。
津波で建物が全部流されて道路を塞いでしまって、畑を回ったりなど、別のルートも何か所か回ってみたんですけど、地震の倒木や、地震の前にあった台風の倒木で道が塞がっていて、歩きでも厳しかったですね。
聞き手
活動に当たるまでの経緯を聞かせてください。
青坂さん
私はここからほとんど出られず、自宅に待機していました。
この塩津上野地区下出の地域は、最初の2、3日は完全に寺家の地内で動けなかったんです。3、4日目から、除雪のために重機を借りている方が瓦礫を押し出して、道路は取りあえず通れるようになりました。
ポンプ車は、分団長が三崎のデイサービスのところまで何とか移動できたんですが、それ以降、団としてまとまっての活動はなかったですね。地区ごとに分団員がいるので、ほぼ自主的に活動していたというか、団として動こうと思っても、結局みんな分断されていましたし。
道路がまず通れない。三崎から正院、飯田のほうへ回れるようになるまでもかなりの時間がかかりました。だから、何回か消防署から要請があったんですけど、その都度、何とか連絡を取れるようにして、各地区の団員に回ってもらうような形でした。通信網が、携帯電話もつながったり、つながらなかったりで、なかなか連携を取るのが難しかったです。
聞き手
何日目かでやっと連絡が取れたという状況だったのでしょうか。
青坂さん
そういうことではなくて、つながっている時間帯とつながっていない時間帯が結構ばらばらにあって、つながらない時間のほうが多かったんです。そうなってくると、連絡の取りようもないし、消防署から電話かかってきたとしても、こっちがつながらなかったらもう全然駄目でした。
聞き手
連携が取れない状況で皆さん自主的に動いていたということですか。
青坂さん
そうです。寺家地区でも何人か団員がいて、寺家の中でも集落が分かれているので、その中で活動するという形でした。
聞き手
火災の被害はありましたか。
青坂さん
三崎に関しては、幸いなことに、火災はほとんどなかったです。
地震で建物が倒壊して下敷きになったという人は何名かいました。私のところでも1人、専念寺の住職さんが本堂を見に行って、本堂の下敷きになりました。その日のうちに何とか救出できたのでよかったんですけど。
聞き手
消防団員としてはどういった活動をされていたんですか。
青坂さん
いま言ったような救助活動や警戒に回るといったことですね。
聞き手
そのほか、例えば警察や自衛隊との役割分担などはあったんですか。
青坂さん
そういうのは、特別なことはなかったですね。連携を取ろうと思っても、連絡がつかない。それが一番の問題でしたね。
聞き手
連絡が取れるようになってくるのはいつ頃ですか。
青坂さん
大分たってからですね。
聞き手
道路がつながってきてからは、消防団としての活動もできるようになりましたか。
青坂さん
正直なところ、団としてまとまって動くというのは、今回あまりなかったというか、あまりできなかったですね。
聞き手
なぜでしょうか。
青坂さん
連絡が取れるようになっても、常に連絡が取れているわけじゃなくて、途切れ途切れだから、地区の団員同士が自主的に巡回に回るとか、要救助者がいれば確認に行くとか、今回はほとんどそれがメインでした。
聞き手
集まって話合いをするということはあったんですか。
青坂さん
全然できなかったです。分団の車庫自体は、シャッターと屋根が壊れた程度で問題なかったんですけど、車庫以外にそういう場所はないし、集まろうにも連絡が取れないし、集まって何かするということはできなかったですね。
聞き手
消防団の方は皆さんばらばらに避難されていたんですか。
青坂さん
そうですね。最終的には、旧の本小学校のところにポンプ車を置いて、そこの1室を借りて、仮の待機所にしてもらって、そこに副分団長と、班長1人、団員1人いたので、そこを拠点にして、連絡を取り合ったりしていました。
聞き手
それができるようになったのはいつ頃ですか。
青坂さん
1か月ぐらいしてからですね。私もそうですけど、この地区の人間は寺家塩津上野集会所に集まって、そこからほとんど身動きできなかったんです。
聞き手
拠点ができてから、何か活動状況が変わったということはありますか。
青坂さん
そんなに変わったことはないです。結局のところ、防犯と火災予防のための巡回でした。ある分団は毎日やっていたらしいですけど、私たちは道路状況もまだそこまでよくないので、毎日とか全地区を回るのはさすがに難しくて、週に1回くらい、集まってやりました。それも、団員自体が被災して集まるのも難しくて、三、四人はいないと回るのも、なかなか大変なので、回れない日も何日かありました。
聞き手
人がいれば本当はもっとやりたいということもありましたか。
青坂さん
ふだんからすれば頻度は減りましたよね。三崎の団員は当時で28人いたんですけど、やっぱり避難してこっちにいなかった人も結構いて、残っていたのは半数ぐらいかな。そこから、市役所関係の人は仕事もあるので、残りは10人いるかいないか。
聞き手
活動する上での課題として、連絡が取れないことのほかに、何か難しかったことや困ったこと、用意しておけばよかったものはありますか。
青坂さん
用意しておけばよかったものというと、瓦礫の中から人を助け出すときにいろいろな道具が必要になってきますよね。いろんな道具があるんですけど、大型のチェーンソーなんかは燃料も要るし、家の中で振り回すのも難しいでしょう。小型のバッテリー式の小さいチェーンソーがあると結構便利かな。私はたまたま、建築関係の仕事をしていて、車に道具一式を積んでいたので、専念寺の住職さんを救助するときは、結構電動工具などを使いました。ポンプ小屋には、例えば、倒木があったときに道を開けるためのチェーンソーなどは常備されてはいるんですけど、そこへ行くことがまず無理でしたし、用意してあっても1台か2台でしょうし。
田舎なんで、皆さん大体そういう道具は自宅のほうに持っているんです。だから、ずっと前の台風のときでもみんな個人で道具を持ってきて、何班かに分かれて回って、倒木処理とか色々しましたけど、今回の地震の場合だと家自体が崩れたり、家が大丈夫でも納屋が崩れたりして道具が出せないというのが結構あったので。
聞き手
消防団で、被害が起きたときにどう行動するかという、マニュアルもあると思いますが、活用できましたか。
青坂さん
マニュアルどおりにはいかないですね。実際はみんな動けなかったので、車庫の近くの人間がポンプ車を移動しました。
聞き手
マニュアルではどういう行動をする想定なんですか。
青坂さん
震度4以上の地震があれば、まず車庫待機。そこから、消防署から要請があれば、何班かに分かれて地区を巡回して被害状況の確認という流れです。
聞き手
それが今回、連携も取れないし、車庫にも行けなかったということなんですね。
青坂さん
そうです。消防署からこういう案件があるから行ってくれないかという連絡が来ても、私自身がまず動けないし、動けそうな団員のところへ連絡しようとしても、連絡がつかない場合のほうが多かった。3日目ぐらいからたまに連絡が取れるようになって、こういう連絡が来ているけど回れるか、みたいな感じで伝えていました。
聞き手
途切れずに連絡が取れるようになったのは、1か月ぐらいたってからですか。
青坂さん
そんな感じですね。
避難生活について
聞き手
この地区は孤立していたんですね。
青坂さん
津波でさらわれた家屋がみんな道路を塞いじゃったから、完全に孤立しました。海岸線を回る道路しかメインの道路がなくて、山のほうへ上がっていけば、畑を開墾したところから、寺家ダムを挟んで大屋へ抜ける道と、狼煙へ抜ける道があるんですよ。私も、川上本町で津波にあってから戻るに戻れない、行くに行けない。山のほうから、取りあえず1回車庫行かなきゃいけないと思って向かったけど、それも駄目で、しようがないから自分のところへ戻ろうかなとなりました。もう夕方5時を回っていて、ほとんど真っ暗でした。
聞き手
御自宅には戻れたんですね。
青坂さん
裏へ出る道が何とか通れたので、戻ってきてみんなと合流しました。
聞き手
指定避難所である旧の本小学校でなく、自主避難所である集会所に行ったのはなぜでしょうか。
青坂さん
本小は指定避難所にはなっているけれども、本小へ行くのが無理だったんです。
聞き手
道路が寸断されていたからですか。
青坂さん
それと遠いからです。この辺で一番近いのはみさき小学校、その次が三崎中学校。三崎中学校と本小なら距離的にはあまり変わらないんです。今回は完全に津波で道路が寸断されたので、みんな各地区の集会所に避難しているんじゃないですかね。指定避難所へはほぼ避難してないです。まずできなかった。
津波が来たのはすぐでしたからね。1波目は分からなかったんですが、私が遭遇したのは2波目かな。一番大きかったのはそれじゃないかなと思います。
聞き手
そのときには、もう皆さん集会所に集まっていらっしゃったのですか。
青坂さん
塩津上野自体が高台なので、塩津の人たちが上野へ上がってきた格好になるのかな。川本も高台ですし、大浜は海岸沿いにあるんですが、集会所までは波が上がらなかったと聞いています。
聞き手
人が多過ぎて横になることもできなかったということはありましたか。
青坂さん
部屋も大広間が2つ、8畳ぐらいの個室が1つあるので、狭くて横になって寝られないということはないんですが、地震発生直後、最初の2、3日ぐらいは、塩津上野はランプの宿から避難してきた人も何人かいたので、男の人たちはほとんど外で車中泊をして、女の人やお年寄りを中に入れてという感じでしたね。
聞き手
そうすると、知った人と知らない人がごちゃ混ぜになった感じだったんですね。
青坂さん
そうです。1月3日か4日だったか、何とか道路が通れるようになって、金沢まで行けるようになったという情報を聞いて、金沢へ向かった人が何人かいました。いろんなところをくねくね曲がりながら、地割れしている道路や崩落している道路もいろいろありましたし、里山海道も全然駄目で、ずっと遠回りして何とか行ったという感じで、結構時間はかかったみたいでしたけどね。
聞き手
集会所では、大部屋に雑魚寝という感じだったんですか。
青坂さん
お年寄りなどは、どうしてもベッドじゃないと寝られないということもあったので、ベッドを用意して別の部屋で休んでもらって、あとの人は大部屋で雑魚寝という形でした。たまたま、そういう部屋があったからできたことだというのはあるんですけど。
聞き手
どのぐらいの広さの部屋ですか。
青坂さん
小さい部屋は8畳。大部屋だと、15、16畳ぐらいの部屋が二間です。
聞き手
基本は男性、女性で分けていたと。8畳の部屋には高齢の方が何人いたんですか。
青坂さん
3家族で使っていましたね。
聞き手
上本町集会所は住民の方が洗濯機など色々持ってきていたんですけども、こちらはどうでしたか。
青坂さん
幸いにして、集会所自体はほとんど無傷だったんですよ。だから、トイレも全然傷んでいなかったし、水回り関係もほとんど傷んでいなかったので、煮炊きとかトイレに関しては、水と電気さえ確保できれば一応生活できる状態ではあったんです。電気は発電機で何とかしていましたけど、一番の問題はお風呂でしたね。集会所なので入浴施設なんてないですし、各家もみんな傷んでいるし、断水もしていましたし。井戸はあるにはあるんですけど、結局電気がないとポンプも動かせない。小さい子供が2人いて、途中から、たらいにお湯を沸かして体を拭く程度ならできるということになって、女の人たちも体を拭く程度はできたと思います。
聞き手
仮設のトイレなどは特に来なかったのですか。
青坂さん
仮設のトイレは、地元の事業者が持ってきてくれて、設置してあったんですけど、さっきも話したように、水さえ確保できればトイレは全く問題なかったです。
聞き手
山水や井戸水を使ってということでしょうか。
青坂さん
ほぼ井戸水で、あとは、雨水をためておくか。最初の頃はもう完全に井戸水でしたね。食事にも井戸水を1回沸かしてから使っていました。
聞き手
電気については、発電機を持ってきたのですか。
青坂さん
たまたま、それなりに大きい発電機を持っている人がいたので、最初はその人のを使わせてもらいました。そのうち、物資で発電機も来て、私たちの消防の車庫にも置いてあります。最初は、旧本小学校の避難所で使っていたんですけど、いろいろ物資が来て、発電機も間に合うようになって空いたからということで借りていきました。発電機1台ではきつかったので、2台使っていました。ボランティアの方にも発電機を借りていたんですけど、何かあったときの予備を置いておこうということで。結局は使わずに終わりました。
聞き手
最後のほうは、入浴はどうされていたんですか。
青坂さん
自衛隊の入浴支援とか、野々江のあみだ湯みたいな、銭湯が再開したし、みんなそっちへ行っていました。それ以外は、川上本町で仮設の風呂を造ったので、そこへ入りに行ったりしていました。
聞き手
ボランティアの方が来られたのは、どのぐらいたってからですか。
青坂さん
比較的早かったですね。親戚関係の個人的なボランティアが多くて、金沢のほうから、結構いろんな援助をしてもらっていましたね。
聞き手
物資を持ってきていただいたりしたのでしょうか。
青坂さん
そうですね。水や食料などを。
聞き手
食料についてはどうでしたか。
青坂さん
ちょうど正月だったので、料理などをみんなで持ち寄って、食料が乏しいということはなかったんですけど、それがいつまで続くか分からなかったので、塩津上野の区長さんと、台所を仕切る人を1人決めてもらって、その人に管理してもらう形でずっとやっていました。
聞き手
物資で困るものはありましたか。
青坂さん
薬かな。寒い時期だったから、風邪などが怖かったんですけど、幸いにしてそんなにひどくなる人はいなかったです。
聞き手
コロナやインフルエンザはどうでしたか。
青坂さん
ほとんどなかったですね。
聞き手
お年寄りや小さい子供、障害のある方など、いわゆる要配慮者の方はいらっしゃいましたか。
青坂さん
多少介護の必要な人はいましたけど、幸いにして、そこまでひどい方はいませんでした。小さいお子さんがいる家族もいました。
聞き手
小さい子はどこにいたのでしょうか。
青坂さん
大部屋でみんなと一緒にいました。
聞き手
夜泣きとか、子どもがいて大変なことはありましたか。
青坂さん
誰も気にしていなかったです。逆にお母さんのほうが周りに気を遣っちゃって。
聞き手
高齢の方の介護とかはご家族がされていたんですか。
青坂さん
そうです。ボランティアとか介護の方に来てもらうということも特になかったので。ふだん家にいても大体そういう形なので、その延長という感じかな。
聞き手
最終的に2次避難所などに移られたのですか。
青坂さん
落ち着いてからは、最終的に皆さん自宅へ戻る形になりました。塩津上野の地区で、地震で倒壊した家は1軒なんですよ。裏山が崩れてきて、駄目になった家も1軒ありますけど、それ以外の家はほとんど、被害は受けていても、倒壊まではなかった。
聞き手
火災と道路のほかに被害はありましたか。
青坂さん
寺家地区に関しては、海岸線は津波の被害のほうが大きいです。地震で家が何とか大丈夫でも、津波で倒れたというのがほとんどですね。
聞き手
津波の被害への対応について教えてください。
青坂さん
もう、対処のしようがないですよね。私も、川上本町の道の駅がある辺りで津波に遭ったんです。そこからすぐ山のほうへ逃げて大丈夫だったんですけど、あれで結構倒れた家があって、それでもう完全に道路が寸断されて、どこも行けなくなったというのが問題でした。
あとは、倒れた瓦礫の処理が結構遅かったんですよね。たまたま地区で除雪用に重機を借りていたから、瓦礫を押して通れる道はできたんだけど、公のものはなかなかこっちに来なかったですね。被害があったのはここだけじゃないので、役所もほかのところの対応で一生懸命だったんだろうし、情報収集しようにも連絡も取れないような状況でしたけど、本当はもうちょっと回ってもらいたかったなとは思います。
聞き手
瓦礫の処理はどなたが主にされたのでしょうか。
青坂さん
ほかの地区のことはちょっと分からないですけど、ここに関しては地元の人間で連携を取りながらやったみたいです。
聞き手
外からの支援というのはあまりなかったのですか。
青坂さん
ほとんどなかったですね。
聞き手
来られなかったというのもあるんですかね。
青坂さん
来られなかったのか、そこまで手が回らなかったのか、たまたまそういう機械を借りていて、できる人間がいたから、逆にこちらのほうから、何とかできるから応援はいいと役所のほうに言ったのか。
区長さんが結構、頑張ってやってくれたみたいです。重機を借りていたのは区長さんと同じ川上地区の人だったので、連携を取って動かれたんじゃないですかね。
聞き手
青坂さんは、御自宅の被害はどんな感じでしたか。
青坂さん
結構古いうちなので、ぱっと見は分からないんですけど、床も抜けて、張り替えたりしました。被害の判定は半壊でした。
聞き手
では、修理が終わるまで避難所におられたということなんですか。
青坂さん
自宅へ戻ってきてから修理したんです。戸の入り口も、柱が傾いているので、戸を閉めたときに隙間が出ないように、ものを挟んであるんですよ。この家自体もちょっと前のほうへ傾いています。鴨居も外れて落ちる寸前だったのを戻したりしました。
聞き手
大分直されたんですね。
青坂さん
家族はもう思い切って潰したらと言っていたんですけど。
聞き手
今後も、この家に住み続けるというお気持ちですか。
青坂さん
どうなるか分かりませんけど、今のところは。この家自体も古くて、私が生まれる前からあるうちだから、次が来たらもう駄目だろうなという感じです。
聞き手
自宅には、避難所が閉まってから来られたということですか。
青坂さん
1家族だけ、山が崩れて家が潰されて、家に行くことができないということで、しばらく避難所で生活していたんですけど、仮設住宅が完成して、そちらへ移れることになった時点で、避難所を閉鎖したという感じです。その少し前ぐらいから家へ戻ってはいたんですけど、1家族だけであの集会所を使うのにはちょっと抵抗があるということで、晩御飯だけ一緒に食べに行っていました。だから自衛隊の食事の支援もそこまでは続いていたんですよ。それがなくなるというのを境にして、避難所を閉じました。3、4か月してからのことです。
聞き手
ほかの方も、避難所が閉鎖したから、家に戻られて修繕を始めたのですか。
青坂さん
大体そうですね。最初のうちは集会所に7、8家族はいたんですけど、少しずつ落ち着いてきてから、だんだん家に戻っていって、最後の1世帯が仮設住宅に移る時点で閉めました。
聞き手
避難所で一緒に食事を取られる方はほかにもおられたんですか。
青坂さん
うちともう二軒ぐらいかな。
聞き手
金沢などへ避難する選択肢もあったかと思いますが、どうでしたか。
青坂さん
そういうのは全く考えていなかったですね。
聞き手
ここだともうみんな顔なじみだからというところもあったんですかね。
青坂さん
そうですね。
聞き手
避難所で生活している方で、ほかの避難所に移ることはなかったんですか。
青坂さん
ほかの避難所へ移った人はほとんどいないですよ。
聞き手
これがあればよかったということはありますか。
青坂さん
言い出すときりがないけどね。発電機にしても何にしても、個人の持ち出しばかりだったので、やっぱり発電機ぐらいは、いざというときのために地区で1つ置いてあってもいいのかなとあのとき思いました。たまたま、今回は個人で貸してくれる人がいたからよかったけど、みんながみんな持っているわけでもないし、持っていたとしても小さいもので、一晩つけっ放しにできるような発電機なんてなかなか持っていないですしね。
豪雨について
聞き手
豪雨でまた避難所に避難された方はいらっしゃるんですか。
青坂さん
豪雨で避難したという人はいないです。ただ、川が氾濫して道路が寸断されて、また3日ほど孤立したんですよ。小さい川なんですけど、専念寺の横の川の両サイドがえぐれて、車が通れなくなって、行き来が全然できなくなりました。狼煙のほうも、狼煙から向こうの東山中なり、横山から大屋に抜ける道は崖崩れで通れなくなって。この地区でも3日ぐらいは丸々孤立しました。多分、孤立したのは塩津上野地区だけだと思います。寺家でも、ほかのところは普通に道が通れたので。
聞き手
集会所をまた避難所として再開したのでしょうか。
青坂さん
それはなくて、みんな自宅にいました。高台なので、洪水の被害はほとんどなかった。1軒だけ、高台の下のほうで川があふれて、家の前の道路も削れて避難した家はありますけど、それも、同じ地区の中に実家があって、そこへ一時避難しただけで、 集会所を使うということはなかったです。
聞き手
豪雨のときも消防団として何か活動をされたのですか。
青坂さん
そのときは、巡回して被害状況を確認しました。一通り回って被害状況の報告をしてからは待機です。2日目の日曜日の雨のときも、自宅待機と消防から言われて、何か要請があれば出動という形だったので。三崎に関しては、被害はないということはないけど、上戸みたいな大きい被害はなかったですね。ただ、地震があってから立て続けに豪雨が来たので、みんな大分参っています。

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