体験を語る
- 県民
学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営

場所 | 珠洲市 |
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聞き取り日 | 令和6年10月30日 |
地震発生当初
聞き手
地震が起きたときのことについて教えてください。
泉谷さん
飯田町は、震災発生当時かなりすごい被害でした。地震が発生したときは自宅にいて、また地震かと思ってテレビが倒れそうなのを押さえたりしていたんですけど、津波が来るから逃げろって電話が入って、すぐ外に出たら隣の家が倒れてしまって。避難しようにも避難路がないような、そういう人たちが町の中に何人かいて、皆さん向こうへ行ってみたり、あちこち行ってみたりして、何とか飯田小学校へ行こうとしたんですけど、たどり着かなかったという状態ですね。
避難所へ行く途中に市役所があり、すぐそばまで津波が来ているからすぐ市役所に入れと言われて、一旦入ったというような状態です。ほとんどの家が倒れて、すさまじい状態になっていましたね。
聞き手
津波が見えたのでしょうか。
泉谷さん
シーサイドというショッピングセンターが津波を全部受けてくれたので、こちら側は助かりました。
聞き手
市役所の前の道に津波が迫ってくる写真を見ました。
泉谷さん
あれが来たんですよね。すぐ横を山のほうに向かってたんで、市役所の上から見えたんでしょうね、上から声がかかったんです。
聞き手
どういう被害が一番多かったですか。
泉谷さん
建物は倒れているところがほとんどでしたね。飯田の町全体で見ると地震で倒れたところもありますし、津波で影響を受けたところもあるんじゃないかなと。
聞き手
学校に向かう道は車で渋滞しているということはなかったですか。
泉谷さん
私が向かっている時点ではもう家がほとんど倒れているので、車は走れなかったんじゃないかなと思います。歩いても行けないぐらいでしたから。飯田小学校までの道はかなりガタガタになっていました。
聞き手
避難所の状況を教えていただけますか。
泉谷さん
私は一旦市役所に入ったのですが、飯田地区は何か所かに避難指定場所があって、私は飯田小学校がメインの場所だったので、取りあえず避難所へ行ったほうがいいというので、その日の夕方にもう一人の方と2人で避難所に行きました。
避難所の中はかなりすごい状況で、指定避難所になっていたので200から250ぐらいの避難者予定だったところに800人近くの方が避難されていていました。
避難者は取りあえず小学校のグラウンドに集合しましたが、だんだん暗くなってくるので、中に入ろうということで、体育館の中へ皆さんに入っていただきました。
体育館に避難はしたのですが、飯田小学校の体育館の横に崖があり、今度は崖崩れが発生して、その体育館が危ないということになりました。じゃあ教室に入っていただこうということで、体育館に避難されている方々に各教室に分かれて入っていただきました。でも、800人もいるので教室はほぼいっぱいになってしまいましたね。
聞き手
教室の人の配置はどのようにされたのでしょうか。
泉谷さん
町内別に分かれて教室に入っていただきました。それが後々すごくよかったかなと思っています。やっぱり町内ごとですと結構まとまりもありますし、それぞれの町にコミュニティがきっちり出来上がっておりますので、その後もいろんなことを進めていくときにすごいやりやすい面がありましたね。
聞き手
避難者の中で、いわゆる要配慮者である高齢の方や障害の方、小さいお子さんというのはいらっしゃいましたか。
泉谷さん
まずは各町内に分かれて入っていただいたんですけれども、やっぱり高齢者とか、避難する途中に倒れた家の中から協力して連れて来た方々もいらっしゃいまして、そういう人たちをどうするかというというのが第1番目の問題でした。
例えば記録に残っているのでは、何か急性のくも膜下出血の疑いとかですね、動かすと気分が悪いとか、狭心症という方もいたみたいですし。肋骨に骨折の疑いがあるとか、避難のときはよかったんですけど、避難所へ来てから転んで鼻の骨を打って出血したとか、結構いろんな症状の方がいて、たまたま避難された中に看護師さんというか、そういう専門的な方が1人いらっしゃって、その人の指示を受けて対応に当たったんです。
最終的にやっぱり救急車で病院へ運ばなきゃいけないというので、救急車を呼んだんですけど、1日目の夜は集まってきた方を振り分けて各教室に入っていただくだけで大変で、たしか、救急車を呼んだのは次の日の朝11時でした。夜の7時に救急車がやっと到着したというような状態でした。その間何回か連絡したんですけど、200件近く連絡が入っているので順番でもなかなか大変だという話をしておりました。
聞き手
食事や水はどうされていましたか。
泉谷さん
200人分ぐらいの備蓄はあったので、初日は取りあえずそれを皆さんで分けたんですが、一瞬でなくなってしまう状態でしたね。
水も届いたんですけど、2リットルのペットボトルが来たんですね。水があればいいなと思うんですけど、ペットボトルでも人数分以上じゃないと、例えば2リットルのボトルが500本来たとしても800人じゃ分けられないんですよね。家族なら何とか一緒にとも言えるんですけど、そうじゃないときはその水を分けるコップが必要になる。数多くみんなに分けられるように、例えば500ミリのものを頂けたら助かったなと思いましたね。
そのときの問題としては、学校なので給食施設があるんですね。だから、水を分けるのに、給食の食器を使って分ければどうだという話もあって、給食室へ行こうとしたときに、次に使うときに何かあったら駄目だから入らないでほしいという話が出ました。こういう緊急の場合だから何とかならないかという話もしたんですけど、やっぱり駄目だという人がいて。
緊急の場合だから、そういうときは給食施設を開放していただいて、できたら料理とかもそこで作らせていただければもっと対応できたこともあるんじゃないかなと思うんですけど、給食室の使用は基本的にできなかったということですね。
避難所の運営について
聞き手
誰が避難所を主体的に運営するかといったことはあらかじめ決まっていたんでしょうか。
泉谷さん
一応、区長会を中心にふだんは訓練もしているんですけど、自分たちが被災してしまったので、区長さんに来て協力をお願いしますと言ってもなかなか難しかったのが正直なところでした。
協力できる人は協力してくださいという声が出て、10人ぐらいの人たちにいろいろ協力していただきました。避難してきた方の中の有志の方々です。
聞き手
それは地震発生、皆さんが集まってからすぐのことですか。
泉谷さん
集まってすぐのときは区長さんたちで1日、2日ぐらいはやっていたんですけど、なかなか継続は難しいというので、声を掛けたらいろんな人に来ていただいたということでしたね。
聞き手
どういった方々だったのでしょうか。
泉谷さん
飯田高校の先生に、非常に熱心な方がいらっしゃって、その人と一緒に町の人たちに声を掛けたら10人ぐらいの人たちに集まっていただいたと。それで、男性だけでは駄目なので女性の方にも何人か来ていただいて、できる範囲で協力をお願いしました。
聞き手
最初に協力を呼び掛けた方がいるのか、それとも自然発生的にそうなったのでしょうか。
泉谷さん
自然発生的にそうなりました。私は夜に避難所へ行ったんですけど、その時点では皆さん自主的に動いていらっしゃって、町内ごとに部屋を分けるのもその人たちにやっていただいたので、中にいる人に声を掛けて参加していただけたというのはよかったんじゃないかな。
それから食事等の分配や物資を分けるメンバーも必要だなということで、声を掛けてやっていただきました。
たまたま保健の専門職の方が避難していたので、その人の指示を受けられたのと、もう一つは、民生委員の方々に保健室へ詰めていただいて、おむつとかそういうものを保健室に取りに来てくださいという声掛けをしてもらうとか、それぞれの役割で動いていただける方がいたので、すごく助かりました。他県からの応援の方が大体3名単位で5日交代だったかな、入っていただいたのもすごく助かりました。
聞き手
それはいつからですか。
泉谷さん
5日から入っていらっしゃいましたね。
聞き手
どちらの県の方ですか。
泉谷さん
福井県ですね。
聞き手
地区の自主防災組織はどのような活動状況だったんですか。
泉谷さん
防災訓練として、今日、津波が来るとか地震がありますよって放送が入ったら避難すると。避難したら町内ごとに分かれて参加人数を数えたり。時々炊き出しじゃないですけど非常食を配布したりという、その程度なんですけど。でも、一番よかったのは、避難されたときに町内別に分かれていたのが、集まられても町内ごとに分かりやすかったんじゃないかなと。
聞き手
消防団はどのようなことをされたのですか。
泉谷さん
消防団はすごく助かりました。飯田消防団なんですけど、消防車を持って学校に避難していたので、救急車の代わりに消防車で運んでいただいて、公民館から荷物を運ぶときも消防団に協力をいただきました。
聞き手
消防団の車は何台ありましたか。
泉谷さん
消防車1台です。
聞き手
避難された建物や設備の状況はどうでしたか。
泉谷さん
たまたま飯田小学校は電気が来てたので、その点では他よりまだよかったのかなと思うんですけど、水が使えないので一番の問題はトイレですね。トイレを使ってはいけないって言うんですけど、スタッフが清掃して、何回も駄目だと言っても、どうしても使ってしまうので、後処理が大変でしたね。
あと、最初の頃は、敷く物もないし着る物もない状況で、体育館のマットとか利用できる物は全部利用してその場をしのぎました。布団を持って来ている方もいましたけど、少なかったです。
聞き手
トイレはどうされていたんですか。
泉谷さん
物資で簡易トイレが来たのですが、最初の頃は、多分、我慢できなかった人は学校のトイレを使われたんでしょうね。だからトイレが物すごいことになっていました。ひしゃくで汲んできたプールの水を流して使っていたのですが、それでもすぐに詰まってしまって。女子トイレは、トイレットペーパーは流さず、便器の横にごみ袋を設置し、そこに捨ててもらい便と尿だけ流すようにしたのですが、なかなか徹底されずにすぐに詰まってしまいました。
聞き手
仮設トイレが来てからの状況はどうでしたか。
泉谷さん
かなりの間は一緒でしたね。仮設トイレのほかに実際の便器でも、そこに1回1回持っていって使う、使い捨てみたいなのも配布していたんですけど、なかなか難しかったのかな。
聞き手
水回りということで、入浴やシャワーも最初の頃は難しかったと思うんですけど、最初はどうされていましたか。
泉谷さん
飯田の場合は、自衛隊のお風呂ができるまではほとんど拭くだけという状態でしたね。
聞き手
洗濯はどうされていたのですか。
泉谷さん
途中から洗濯機が入ったんですけど、それまでは洗濯機のあるところ、隣町のランドリーまで行くとか、避難してない人たちの家へ行くかでした。学校なので、洗剤を流さないで水だけにしてほしいとか、流してもいい洗剤だけを使ってほしいとか、学校の避難所で洗濯するのは非常に難しいと思うんですよ。
聞き手
避難したとき、電気は来ていたんですか。
泉谷さん
電気はほとんど大丈夫でした。ですから、暖房が効いたのですごく助かりましたね。それはほかとはかなり違うんじゃないかな。
聞き手
通信状況はどうでしたか。
泉谷さん
電気が来ているものですから、携帯会社がいち早く、充電器がいっぱい付いた基地局みたいのを設置して、携帯電話は結構自由に使えたと思います。
聞き手
避難所生活で困ったのはどういうことでしたか。
泉谷さん
一番はトイレの問題だと思うんですけど、あとは食事の問題で、確かに物資は届くんですけど、偏りがちなところもあったり、過剰に届くような物もあったりして、それ分けるのもかなり大変だったかなと思います。
聞き手
集団生活が長時間続く中で、避難者の方々に不満はありましたか。
泉谷さん
実際にはいろいろあったのかもしれないですけど、表には出てこなかったですね。ただ、団体生活になじめないような人が時々いて、その対応が結構大変でした。食事も、1人1個ずつと言ってもたくさん持っていったりとか。
聞き手
そういった理由で部屋を移ってもらうこともあったのですか。
泉谷さん
あまりなかったですね。ただ、だんだん人数が減ってきて、それから子供たちの学校が始まるので教室を空けてほしいというので、飯田小学校の場合は3階から空けていったんですけど、ある程度固まったりするときに、部屋を移ってもらうことはありました。
聞き手
人の移り変わりはあったのでしょうか。
泉谷さん
帰って来るという方はほとんどなくて、出て行かれる一方ですね。二次避難に行くか、家に電気や水が戻った人は家に帰られました。
聞き手
二次避難の人は、どうやって決めたのですか。
泉谷さん
我々の場合は、各教室を振り分けたときに、その部屋のリーダーを決めていただき、その人たちに毎晩6時ぐらいに集まっていただいて、今日、こんな案内が来ましたとか、皆さんのほうから何か行政に言いたいことはないですかという会議を毎日やっていました。避難者の方に、二次避難希望の用紙を配ったり、家の状態を調査したり、すぐ対応できるようにはしていたつもりです。
聞き手
最初は避難所に800人ぐらいいたということですけど、時間が経つとどうなりましたか。
泉谷さん
1月1日に851名の方が避難されて、次の日には763名になっていますね。3日目には508名で、次に480というふうに減ってきて、10日ぐらいになると266名になっています。1月1日は、住民だけじゃなくて帰省している人や旅行者もいました。困ったのは、日本語が分からない外国人の方がいらっしゃって、大使館に電話してと言われたり、結構いろんな方がいました。
聞き手
インフラが復旧して皆さんが自宅に戻られたのはいつ頃のことでしたか。
泉谷さん
1月末ぐらいで100人、90人ぐらいになっていますので、その頃からじゃないですかね。
聞き手
仮設住宅ができて、そちらに移る方もいましたか。
泉谷さん
飯田小学校の仮設住宅が今月やっとできましたので、数日前にこの避難所は閉じました。
聞き手
最近まで避難所を継続されていたのですか。
泉谷さん
自宅が全壊した人たちは行くところがないので、仮設住宅ができるまではここにいました。
聞き手
最後には何名ぐらいが残られたのですか。
泉谷さん
5月で18名になっていますから、最終的に10名ぐらいじゃなかったかな。
学校の運営との兼ね合い
聞き手
飯田小学校の場合は、小学校を運営しながら避難所としても使っていたのですか。
泉谷さん
そうです。
聞き手
小学校の再開のタイミングで、学校とのやり取りなど大変なことはありましたか。
泉谷さん
校長先生がすごく協力的だったのでやりやすかったと思います。我々もできるだけ子供たちに影響がないように、教室も空けたいと思うんですけど、避難している人数分、必要なところもありますから、例えば給食用の食堂なんかは一番人が入っていたんですけど、ここは空けないとまずいなという感じで教室に割り振るというようにしていました。
聞き手
学校としては、教室をできるだけ空けたいということだったのですか。
泉谷さん
二次避難等で子供たちもまだ全員はいないけど、最低限これぐらいの教室は欲しいという校長先生の希望に合わせて空けていきました。
聞き手
教室以外についてはどうでしたか。
泉谷さん
仮設トイレとか自衛隊の風呂があったときはいいんですけど、途中で撤収されて、その後、シャワー室を学校の中庭みたいなところに設置したので、そういうのはそのままお願いするという感じですね。
聞き手
学校生活が始まった中で特に何かトラブルはなかったですか。
泉谷さん
それは多分なかったと思います。学校が始まったら、子供たちが、皆さん体操しましょうみたいな放送を朝に流してくれたり、一度、6年生が肩もみましょうかといって回ってきたり、何か遊びましょうって来たり、皆さん避難されてどうですかって質問に来たりして。
聞き手
足の悪い方、車椅子の方もいらっしゃったんですか。
泉谷さん
最初の頃はトイレに行くにも車輪のついた椅子に乗せたりしていたんですけど、途中から車椅子が借りられました。
聞き手
何名ぐらいいらっしゃったのですか。
泉谷さん
二、三名じゃなかったですかね。
聞き手
その方々は二次避難などのタイミングでどこかに移られたのでしょうか。
泉谷さん
結構早い時点でおいでなくなったので、二次避難されたのかな。ちょっとその辺は分からないです。
聞き手
車いすの方は1階の部屋に入ってもらったのでしょうか。
泉谷さん
はい。
聞き手
車椅子ではなくても、足が悪い方などは下の階にということもありましたか。
泉谷さん
そうですね。あと、最初の頃は、小型のペット、小型犬とか猫は避難者と一緒にいたんですけど、保健師さんの指摘で、衛生上みんなと一緒にいるのはよくないからというので、途中からペット専用の部屋をつくったのと、大型犬は最初から玄関のところを仕切って、そこにいてくださいというふうにしました。
聞き手
そのほかに、部屋についての工夫はありましたか。
泉谷さん
コロナの方が数名出られたので、専用の部屋を1部屋つくりました。仮設トイレもその部屋の横に一緒に置きました。感染が増えるかもしれないので、大きめの部屋にしましたが、あまり増えなかったので、飯田の場合はまだよかったですね。管理も徹底してやりましたので。
聞き手
コロナになった方は何名ぐらいですか。
泉谷さん
たしか7名じゃなかったかなと思います。静かにいてくれればいいんですけど、黙って出歩くような人がいて、それが大変でしたね。
聞き手
小さいお子さんはいらっしゃいましたか。
泉谷さん
いました。
聞き手
夜泣きとかは大丈夫だったのでしょうか。
泉谷さん
あまりそういう苦情はなかったです。
聞き手
子供向けのプレイルームのようなスペースを作ったりはしましたか。
泉谷さん
途中から図書室とかが空いてきたので、小学生ぐらいの子たちと遊んだり勉強を教えたりするグループの方に、毎日のように来ていただきました。
聞き手
給食室は使えなかったということですけど、支援物資の調理などはどうされていましたか。
泉谷さん
調理は無理でした。食器も最初は駄目と言われたんですけど、教育長に電話したら、使っていいと言われたので、使わせていただきました。でも水が出なくて洗えないので、全部ラップをかけて、使ったらラップだけ捨ててくださいというふうにしていました。
あとは炊き出しに来ていただいたのと、たまたま、飯田は珠洲ではまちなかの方なので、コンビニの配達車が1日に来たんですけど、配達できないということで避難所に上がってきて、本部に確認したら荷物を下ろしていいと言われたので、それを頂きました。その後、スーパーの方から、地震で棚から落ちてしまった商品がもう売れないということで届きました。ですから、避難所としてはほかと違って恵まれていたのかな。
2日目、3日目ぐらいでそれもなくなりそうなときに、自衛隊の物資が届きだしたんですよ。ですから食べ物に関しては恵まれているといいながら配布していました。
ただ、届く物資が本当に非常食というかそのまま食べるような物で、もう一つは、賞味期限が今日までとかそういうのばかりでしたね。
聞き手
飯田小学校以外の避難所と連絡を取り合ったりはしましたか。
泉谷さん
そういうのはないですね。飯田町の人が避難しているところに連絡を取りたいと思っても取れないので、たしか一度、他の避難所に行って、飯田の人いますかって聞きに行きましたけど、よく分からない。飯田町の近い避難所へ行く人と、津波が来たので、避難場所になっている飯田高校へ行くという人も結構いましたね。
聞き手
地区の中で避難所のすみ分けがあったりはしないのでしょうか。
泉谷さん
ないですね。川があるんですけど、川から向こうの人は、避難訓練のときも向こうへ避難されますので。
今後に向けた課題
聞き手
今後に向けての課題やこうしていけたらいいなという展望があれば教えていただけますか。
泉谷さん
こういう地震は何年に1回かだと思うんですけど、やはりきちっとした避難計画を作っておかないと、今後同様のことが起きると対応が難しいんじゃないかなというのと、学校を避難所にした場合に、こういうときは学校のものを使っていいみたいなことをある程度決めておかないと対応が難しいと思います。
それと避難路にしても実際、今までの避難路は全然使えなかったので、避難路も含めてどうしていくか。避難所の受入れも実際どう運営していけばいいか。今回、行政の方はどなたも来られなくて、1人、たまたまうちの町内で市役所に勤めた人がここに避難していたので、その人が一生懸命動いていましたけど、ある程度連絡網とかを用意しておかないと大変かなと。
運営スタッフも、たまたま、そこにいた人がお願いしますって言ったら来てくれたからいいので、もし今までどおり区長さんがやってと言っていたら、1人も残らなかった。ほかの避難所へ行っている方もいますし。
防災グッズもあるにはあるんですけど、防災倉庫に行ったときにまず開けられなかったんですね。仕方がないので壊して開けたんですけど、そういうことも含めてもう一度、しっかりと防災計画を立てないと大変なことになるんじゃないかと思います。

伝える
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県民
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「避難所の運営にあたって」 -
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珠洲市宝立町区長会長
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