体験を語る
- 避難所・避難生活
避難所運営を通じて、最悪の事態を考えて備えることの重要性を認識

| 場所 | 穴水町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年9月19日 |
地震発生当初
聞き手
ご自身がどのように被災されたのかをお聞かせください。
油谷さん
私の娘が里帰りしていて、お正月なんだけど、その日に北陸新幹線を使って帰る予定になっていたんです。なので、ちょうど里山海道にいました。
横田インターの直前で結構大きな揺れを感じ、とっさにそこが盛り土だと思って、そうでないところに移動しようとしたんですが、少し進んだ瞬間に次の大きな揺れがあって、これはただごとではないと感じました。
その時、ルームミラーから後ろの路面がひび割れしていくのが見えて、しかもそこにいた車がそのままずるずると落ちていく。揺れが収まってから、一人でその車を見に行くと、幸いなことに深く落ちていなくて、ひっくり返ることもなかったので無事だったみたいです。そうしたら、その車に乗っていた人が犬を抱えて上がってこられた。声をかけると体は大丈夫でしたが、もう一匹、犬がいるから、この一匹を預かってほしいとのことで、抱えて待っていたんです。その人も犬二匹も傷などはなかったのは幸いです。ただ、それ以上どうすることもできず、車の中で待っている家族のもとへ戻りました。


油谷さん
先に進めるのかも分からず、とりあえず横田インターまで行ったら、本当に愕然とするような光景を目の当たりにしました。横田インターのランプウェイで穴水方面に向かう道は通れそうだったので、その道を通って行きました。
どうも除雪関係の車両を管理する建物らしく、人がいたので話しかけると、インターの崩落で下に落ちた車の方でしたね。そこにしばらくいたんですが、トイレがなくて、ここにはいられないなと思いました。でも、こんな状態じゃ金沢方面にはもう行けないだろうな、できれば穴水に戻りたいなと考えました。
近くにロマン峠という道の駅があり、そこならトイレがあるだろうと思って行きました。幸い、道路は通れる状況で道の駅までは行けたんです。ただ、たくさん人が集まってきていて、水が流れませんから、トイレは言葉に表現できない状態でしたが、なんとか用を済ませることが出来ました。
それで、津波警報が出ていることは分かっていたんですけども、自宅も心配だったので、できれば戻りたいなという気持ちで、国道を通って穴水に戻りました。途中で片側通行となっているところや道路がひび割れているところもありました。
プルートに穴水公民館が入っていますので、そちらの様子も確認したいと思い、顔を出しました。そこに行くまでも大変な状況でしたが、なんとかパンクしないように向かいました。プルートの中に入ってみたら、事務室の中もどこから手を付けたらいいかも分からない状態でした。
それから自宅に戻ろうとしたのですが、どのルートも通ることが出来なくて、結局穴水の役場に戻ってきました。役場では3階の大ホールに皆さん避難されていましたね。非常電源を使っていたのか、真っ暗ではなかったです。
町職員
自家発電を使っていました。
油谷さん
明るかったんですけど、暖房がついていなくて寒かった。毛布と水と簡単な非常食をいただきましたが、パイプ椅子しかなかったですね。職員の方が一人いらっしゃって、必要なものはないか、どうですかとか聞いてくださりましたね。ただ、自分もどうしていいか分からなかったもので、一階まで降りて行って、職員の方に手伝うことはないかと聞いたんですが、役場も職員が揃っておらず、十分な対応がとれていない状況で、今お手伝いできることはないということで、3階に戻ってそのまま一晩過ごしました。
次の日の朝、ふと窓の外を見ると役場の隣の崖が崩れていて、崩れた土砂がケーブルテレビの壁にぶつかっていたんです。そういうのを見て、前の日は暗くて分からなかったけど、明るくなってみるとすごい被害があったんだなって改めて実感しました。
そこで、やっぱり帰ろうと試みるため役場を出ました。通行止めだったところも、土砂をどかして通れるようになっているんじゃないかと淡い期待を持っていたんです。ある道(国道の中居方面)を見てみると、何台か車が入っていく様子があって、通れるのかと思って行ってみると、なんと車一台ギリギリ通れる状況でした。その道を通って自宅まで戻り、妻と子をおろして公民館に向かったんです。
公民館も電話がつながらなかったのですが、LINEが通じるときがあって、職員と少しやりとりができ、一応、自分はこんな状況で、1月1日は公民館に顔を出せないとは伝えてありました。2日には、こっちに来られたから公民館に向かうということを伝えて、公民館へ向かいました。その晩は公民館に泊まりました。
ただ、3日は娘を送らないといけないので、お昼前に公民館を出発して、金沢方面へ向かいました。珠洲道路の方は通れるという情報があったのですが、すごく時間がかかりました。こちら側に向かってくる車には、全国各地からのレスキューの車や救急車などがいて、それを見た時はありがたかったですね。それと同時に、大変な作業が続くんだなと思いました。
金沢でその日のうちに新幹線に乗せるつもりだったんですが、お昼過ぎに穴水を出て、金沢についたのが夜の23時近かったんですね。もう一人の娘が金沢にいましたので、その家に泊めてもらうことにして、娘は新幹線に乗って帰り、私らは朝5時にそこを出て穴水へ戻りました。帰りもかなりの時間がかかりましたね。
3日の晩に一旦家に帰りましたが、その後ずっと公民館にいましたね。避難者の名簿は作っているのかと聞いたら、作っているということで、それを数えると、避難された方は、初日に117名いたということになります。
聞き手
もともとの地区の人数はどれくらいなんですか。
油谷さん
600~700人くらいかな。正月で帰省客もおられたのでね。うちの公民館は狭いので、1日の晩はかなり人でいっぱいだったようです。
避難生活の開始
聞き手
避難生活の中で大変だったことや困ったことはありましたか。
油谷さん
避難された方の多くが高齢者で、特に女性が多かったんですけど、なんせ狭いので、プライバシーの配慮がうまくできなかったですかね。着替えをするにしても、パーテーションを作ればよかったんでしょうけど、スペースの余裕がなくて仕切ることが出来ず、人数が多い時はトイレを使って着替えをしてもらっていました。
心的な障害をお持ちの方もいたんですが、そういう方は、過ごしにくかっただろうなと思います。話すことも難しい人がいて、大勢の中で過ごすのはとてもつらかっただろうなと。人数が減っていった頃には、2階でパーテーションを使って、そこで過ごしてもらいました。
十分な対応ができなかったなと思います。感染症対策も、床に直接寝るのはよくないとは分かっていて、ダンボールベッドがあればましだったんですが、それも狭い場所でしたので、スペースをとってしまうようなものは置くのが難しかった。食事は、長テーブルを並べて、そこに座って食べてもらっていたんですけど、テーブルを並べるときは布団を片付けないといけない状況で、ベッドを置くとスペースをとってしまいますからね。人数が減ってきたら、支援でいただいたダンボールベッドをうまく使って過ごされていました。
聞き手
電気や水などの面はどうでしたか。
油谷さん
諸橋地区は停電がほとんどなかったんです。諸橋地区全体ではどこかであったかもしれませんが、諸橋公民館は間違いなくずっとついていました。暖房が使えましたから、すごく助かりましたね。石油ストーブもほとんど使いませんでした。
水は、上水道はきていませんが、井戸水があったんです。近くの家の方の井戸水が意外にきれいで、そこから提供してもらっていました。
次はトイレが問題になりますよね。その時は、配管が途中で壊れているんじゃないかとはあまり考えていなかったんですけど、流れていくから大丈夫だろうと判断しました。
トイレの水は、ポリタンクで運んできた井戸水を、ペットボトルに移し替えた上でトイレの前に置いておくんです。それで使い終わったら、男性用は流すだけですが、貯水タンク式のところはタンクに水を補充するという感じです。ペットボトルで間に合わなくなった時は、バケツに水を汲んできて、バケツとペットボトルを置いていました。高齢者もいましたのでバケツには水を入れすぎないようにしました。この井戸水も提供していただいたのですが、電気で水をくみ上げているのがほとんどなので、これもまた停電がなくてよかったんです。
ここで活躍された方が消防団員です。なんといっても避難されている方のほとんどが高齢の女性だったので、いろんな力仕事を消防団の方がやってくださったのでとても助かりました。
例えば、井戸水を運んでくるにしても、井戸まで200メートルほどありまして、それを何回もしないといけない。それから、しばらくすると町から支援物資が届くようになって、支援物資を近くの体育館に保管することになったんです。その体育館の中に支援物資を搬入するのが大変でしたが、これもやってくれまして、すごく助かりました。上水道が通るころまで、ほぼ毎日来てくれた方が一人いらっしゃいまして、本当に助かりました。
上水道が来ていないとき、自衛隊の給水車が来てくれたんですが、公民館の前のスペースが狭くて停められないので、タンクを外して押してこないといけない。消防団の方も、自衛隊の方を手伝って、率先して一緒に押して移動していました。
ただ、自衛隊の給水用タンクは意外と小さいんです。その補給のために関西方面の自治体から給水の支援に来ていましたが、大きなタンクローリーで水を運んできてくれていました。その補給車から自衛隊の給水タンクや配布用の給水袋に水を入れます。ある時から数多くの給水袋に水を入れておく必要が出てきました。その保管場所が近くの体育館だったのですが、それも消防団の方が担ってくれました。とても助かりました。
聞き手
消防団の方は、頼んで来てもらったのではなく、困っていることはないですかという感じで向こうから来てくれたのですか。
油谷さん
消防団って災害があったらすぐ動こうとされるんですね。だから、公民館には1日の夜に来てくれて、2日からはもう動き始めてくれました。
避難所の運営について
聞き手
避難所の運営に関わりだしたのは2日からですか。
油谷さん
途中で1日抜けていますけど、2日からですね。
聞き手
そこからどのようなことをされていたのか、教えていただけますか。
油谷さん
まず避難されている方の名簿を確認したんです。手書きされたものを確認して、一覧の名簿を作りました。

聞き手
どういう情報が書かれているのですか。
油谷さん
まず誰がいるのかということをきちんと確認しないといけないわけです。それから、誰がご飯を食べるのかということを把握していました。食事は、いつもおにぎりばかりでは、ということで、地元で差し入れしてくれた方もいたんですが、食事を出すことはなかなか難しかったです。
2日目になると、家の様子が気になってお昼ごろに見に行く方がいたんですね。1日の晩は117名いたんですが、次の昼には人数が減っていました。それで、戻ってきた方がおにぎりを食べるという感じで、朝、昼、晩で避難所にいる人数が変わってくるものですから、それに対応していましたね。仕事もありますから、男性は日中あまりいませんでした。
避難している数はだんだん減っていき、1週間たつと朝は20人くらい、夜は40人くらいでしたね。親戚のところへ行ったり、自宅を直して帰られる方もいたりして、1月の終わりくらいにはかなり減っていました。最後に残られたご夫婦が、2月4日の朝に出られて、公民館での避難者は0人になりました。そして役場に連絡して、諸橋公民館は避難所としての役割を終えたんです。約1カ月程度の避難所運営でしたね。
聞き手
食事の材料はどのように準備されていたんですか。
油谷さん
ある程度は地元の方が提供してくださったんです。農業されている方から、お米だけではなく野菜なども何回も提供していただきましたね。外部の方が、町外や県外から支援物資として持ってきてくださることもありました。
諸橋公民館が助かったのは、横にある「清水の里」という介護施設のオーナーが、田んぼや畑も幅広くされていて、避難所の方だけでなく、地域の方にどうぞと言って、野菜なども提供してくれたことです。そのため、公民館では広報活動をしつつ、受付名簿を作り、誰が何を持って行ったのか記録しました。制限するわけではないんですけど、どれくらいの人が持って行ったのか気になったためです。なくなったら補充をするとオーナーの方から言われていたので、職員と連携しながらやりました。結構長く、2月いっぱいまで続きましたね。
その後も支援物資がたくさん届いたので、支援物資を地域へ配布することを考えたんです。どういう人に配布するか考えたときに、地域の民生委員が担当している方々に、困っている方が多いのではないかということで、まず対象にしました。その次は、もっと他にも困っている人がいるのではないかということで、直接そういう情報が入ってきたりもしていたので、区長さんの意見を参考にして、リスト作りをしていきました。
貰いに来て、と言ってもなかなか取りに来られない方も多かったので、宅配という形をとりました。それも、エリアが広いですし、人数も多いので、区長さんの意見をもとにリストを作成し、民生委員の方に、リストをもとに物資を配布してもらいました。
最初のうちは毎日持って行ってもらったんですけど、人数が増えてからは2日に1回にしました。さらに、給水袋の水も配ることになって、ペットボトルならまだ運びやすいですが、給水袋は1つ5リットルくらいあって大変だったと思うんでけど、配布したんですね。それに関しては民生委員さんにご苦労をおかけして、文句も言わずにやってくれたので頭が下がります。それに民生委員の配付活動をお手伝いする方も出てきました。
消防団員の方、民生委員の方、そして食事の話も出ましたけど、材料を提供していただいた方もたくさんいますし、作ってくれた方もいます。有志の女性の方ですけど、避難されていた方ではなくて、自宅に戻って過ごしている方です。
公民館の女性職員が一人いて、最初その方がおにぎりを握ったりしていたんですけど、一人ではとてもできず、手助けが必要ということで自主的にやりましょうかと言ってくれた方々が出てきました。その中に一人、食生活改善推進員の方がいて、高齢者向けの食材やメニューを考えてくれました。そういうことがすごく助かっていました。

油谷さん
メニューもあまり毎日同じでも、ということで工夫してくれていましたね。固定のメンバーが2~3人でしたけど、他は入れ替わりでやってくださいました。
実はそのメンバーで炊き出しもしています。遠くにいる人が公民館に来にくいということで、じゃあこちらから行けばいいのではとなり、少し外れにある2つの地区に炊き出しに行きました。
諸橋公民館は、1カ月くらい避難所としての役割を果たして、その後は物資配布の拠点とまで言っていいかわからないですけど、そういう場所になっていましたね。そこは、いろいろな団体と協力しながらやっていました。本当にたくさんの支援団体に来ていただきました。
聞き手
支援団体はどのような活動をされていたんですか。
油谷さん
飲料水や食品、生活用品など様々な支援物資を届けてくださいました。そのほかに、避難者や地域の方を対象に足湯をしてくれたり、お茶を飲みながらおしゃべりする場をつくってくれたりしました。演奏してくださる方も多かったです。様々な方が来てくださいました。
聞き手
避難生活で困ったのはどういったことですか。
油谷さん
物理的に狭かったということを除くと、停電しなかったことや水も割と用意できたこともあって、生活上困ることはあまりなかったですね。トイレも一応使えましたし。
一人一人を見ると、過ごしにくそうと思われる方もいたんですけど、自分たちでは対応しきれませんでした。ペットを連れている方もいたのですが、狭いこともあって、夜は車で過ごしてもらう形でしたね。そういうプライバシー的なことでは、十分に対応できなかったと思いますね。
聞き手
運営のノウハウや段取りで困ることはなかったですか。
油谷さん
反省点が多いです。実際に地震が起こったときにどうしたらいいか、今まで真剣に考えたことがなかったんです。一応、自分も防災士の資格は取っているんですけど、防災士として動けていたかと言われると、動けていなかったと思います。学んだことが出来ていたかと言われても出来ていなかったと思います。あまり生かせたとは思っていないです。
その場をどう乗り越えるのかということで頭がいっぱいで、その時の判断でやっていたことが多かったのかなと思います。実は、震災が起こる前に避難所運営の本をもらっていて、これは必要だなと思って、少し目を通して棚にしまったんです。でも、それをすっかり忘れていました。それを開いて確認していたら、もっとよかったのかなって思いますね。それは、自分としては反省しています。
避難所としては、何が必要かということを考えながら動くようにしていましたね。また、最初のほうは対応しきれなかったんですけど、後で行方不明にならないように、退室される方に、次どこに住まれるのかを確認するようにしたんです。問い合わせが来たことがあって、誰々さんがそこにいますかって言われたときに分からなくならないようにしました。
今後への教訓
聞き手
今回の災害をふまえての教訓や伝えたいことなどはありますか。
油谷さん
もしも、こんなことがあったらということに備えておくことが大切です。幸いにも停電が無かったけど、停電していたら電気製品が使えないけどどうするのか、被害が大きすぎて外部との行き来が出来なくなったらどうなるのか、通信手段はあるのかというような最悪のことを考えて備えることが出来れば本当はいいんだろうなと思います。
でも、自分達だけでは限界があるので、町役場がどこまで考えているのか、実際どのような対応をとるのかを知っておくことですかね。公民館で全部をやろうとすると経費も人手もかかりますので、最悪のことを考えて、ある程度できる範囲のことはできるようにしておくべきだと思います。
伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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「避難所の運営にあたって」 -
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
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「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
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「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
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「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
兜公民館長(防災士)
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「防災士の知識も活かして、避難所を運営」 -
比良地区区長(防災士)
坂尻忠秀さん
「地域のつながりを生かして避難所を運営」 -
上出地区区長
宮森正人さん
「皆で知恵を出し合って自主避難所を運営」 -
諸橋公民館館長
油谷清治さん
「避難所運営を通じて、最悪の事態を考えて備えることの重要性を認識」 -
能登町立高倉公民館長
田中隆さん
「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
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神田幸夫さん
「白丸公民館における避難所運営を経験して」
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
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登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
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「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
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外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
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「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
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刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
延命公丈さん
「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
-
珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
穴水消防団長
濱出泰治さん
「消防団が率先して動いたことで、避難所運営もスムーズに」 -
穴水消防署員
吉岡邦範さん
「避難者の皆さんの協力と緊急消防援助隊の応援のおかげで、消防としての災害対応に尽力できた」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長
中橋毅さん
「被災地の医療を支えた穴水総合病院」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
-
(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

