石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 医療機関

被災地の医療を支えた穴水総合病院

能登北部地域医療研究所(穴水総合病院内)所長 中橋毅さん
体験内容
DMATなどの支援機関と連携し、被災者の健康管理に尽力
場所 穴水町
聞き取り日 2025年9月17日

地震発生直後の状況

ご自身はどのような状況で被災されましたか。

私は穴水総合病院の副院長なんですけど、金沢医科大学のほうでも仕事をしていて、両方にかかわっています。金沢の自宅で地震にあいました。

すぐ病院に連絡したんですが、携帯電話もうまくつながらなくて連絡が取れない。本来であればすぐ駆け付けなくてはいけないんですけど、十数年前の能登地震の時も、里山街道が通行止めになっていることを知っていたのと、夜道で危険を伴うと思ったので、情報を集めてから行くということで、当日は自宅で過ごしました

翌日は金沢医科大学病院に呼び出されて、富来病院が建物の被害を受けたので、富来病院の80人の入院患者さんを全部金沢医科大学で受け入れないといけないということになって、午前中はその受け入れ作業を手伝っていました。

携帯電話が時々つながったので、穴水病院の状況を確認して、大変な状況で、対応はできているが、足りないものがあるということでした。その時一番足りなかったのが抗生剤と破傷風のトキソイドです。汚染創のけが人が結構多く、家が崩れてきて、その中から救出されたりすると、傷口が泥で汚れていて、トキソイドを使わないといけないので、すぐになくなってしまったのと、その後化膿しないように経口の抗生剤を出したら、それも足りなくなったということでした。

翌日の朝一に私は穴水に移動しました。2日の昼に金沢医大の薬剤部長に足りないものを支援してほしいと頼んで、朝一病院に寄ったら用意をしてくれていました。

私が病院についたのは3日の昼頃でした。DMATの第1陣が3日の昼過ぎに来たので、その対応を始めて、本格的に災害対応に当たったという状況です。

私がいない間の病院の状況をお話しすると、災害直後から病院に負傷者が運ばれてきて、救急外来で対応が始まっているんですけど、本当に重症の方は、七尾か金沢市内まで運ばれていったんです。

そこまで重症でない方が穴水総合病院に来て、処置を始めていくと、津波警報が出て、やがて最大5mという大津波警報が出た。病院は海のそばなので3階あたりまで水が来るかもしれないということになり、3階の入院患者さんを5階に上げようということで、エレベーターも止まっていた中で移動させました

そうこうしている間に、町の住民の方も近くにそんなに高いところがないので、病院に避難してこられて、皆さん5階に上がられました。4階、5階の階段の踊り場などは、足の踏み場もないくらいに人があふれてしまったそうです。それでもけが人が来るので、5階の研修センターに救急外来から処置台を上げて何とかそこで処置をしたとのことでした。

病院は幸いにも停電しなかったので、明かりと暖房があり、電子カルテが使えたので、いろいろな患者さんのこれまでの情報が分かって、対応しやすかったというところがあります。停電しなかったのは不幸中の幸いかなと思います。ですが、固定電話が使えなかったので、救急隊からの連絡が入らなかったですし、こちらから外部への連絡もできない状況でした。それでも何とか当日は5階にこもって傷病者の処置をしながら、町の人達も5階のほうに避難していたということです。断水もしていて、トイレも使えなくて水道も出ないという状況ですけど、とにかく暖は取れて、周りに人がいて安心感があるということで、皆さん穴水病院の中で1晩過ごされたようです。

翌日になると、津波警報が解除されました。 病院は治療を行うことに力を注がないといけないため、避難所に指定されていません。しかし他の避難所は暗くて寒いので、皆さんは病院の中にとどまりました。5階からは降りてくれて、1階のロビーとか、外来の待合の長いすといったところで生活を始められたんです。

病院の中で断水しているトイレを使う方もいて、そうすると不衛生になっていきます。ごみも散乱し始め、病院職員がその対応に追われました。また、支援物資が届き始めるんですね。パンや新聞、飲み物といったものの管理や分配の仕事も病院の職員がやらなくては行けなくなりました。それが職員にとってはすごく負担だったと思います。

職員は医療をするためにいるわけですが、医療以外の仕事でそういった環境管理の仕事をやるのはかなり負担が強くなってきつかったと思います。2週間くらい避難者がずっといて、避難所のほうへ移動を呼びかけるんですけども、なかなか移動してくれないということでした。

ここまでが3日にDMATが到着して、医療活動を始めるまでの話です。

病院のスタッフの方は、地震が発生してからずっとそのまま働き続けたんでしょうか。

皆さん、病院から離れることなく働いていましたね。私は3日に病院に行って、1週間から10日間に1回ぐらい、金沢の自宅に戻って、洗濯と風呂に入って戻ってくるっていう形で、病院の当直室で生活をしていました。

里山海道が少しずつ復旧して曲がりなりにも走れるようになると、とても助かったなと思いました。医療従事者に限らず、被災して地元で頑張っている人がたくさんいたんですけど、断水がずっと続いていて、飲み物やトイレはなんとかなるし、お風呂に入れなくても体を拭くタオルなんかも支給されていましたが、洗濯物が結構貯まっていく。そうすると皆さん七尾や金沢辺りまで洗濯に行くんです。行ったついでに、お風呂に入って、温かいものを食べて、ちょっとリフレッシュできたんですよね。

穴水町内にずっと缶詰状態で3か月頑張れって言われると、結構きつかったんじゃないかなと思います。1、2週間に1回、洗濯物を持って、里山海道を通って、七尾や金沢まで行って、洗濯して、お風呂に入ってさっぱりして、温かいものを食べて帰ってくると、また頑張れるんですよね。それができたのは里山海道のおかげかなと思っています

私は今仮設住宅にいるんですけど、仮設住宅の入居が決まる5月くらいまでは、基本的に病院の当直室で寝泊まりしていました。落ち着いてからは、週末に金沢へ帰る形でしたけども、4月ぐらいまではだいたい病院の当直室にいたかな。

被災者への対応

被災者の対応はどのように行われましたか。

1月3日にDMATが来て、避難所に対していろんな支援をしていかないといけないわけです。町が用意している避難所のリストの中に50数か所あるのですが、病院は載っていませんでした。数日間、病院を避難所として考えなくてはいけないという発想がなくて、みんな病院は病院でやってくれていると思っていたのですが、実は病院が避難所として使われていると分かったのは1週間くらい経った頃です

朝のミーティングで、DMATが避難所にどういう人がいるかなどの対応を話していたのですが、最初のうちは、病院がリストから抜けていたので空白になっていたところがあります。理想としては、病院は避難所とせずに、医療を提供する場所として機能したほうが良いのですが、成り行き的に病院が避難所となってしまったことがあります。

それから、病院の避難者の中でも精神科の先生の対応が必要な方が出てきました。DPATも来ていたので、その人達に回ってもらわないといけなくて、特に問題になったのはせん妄を起こす高齢者の方です。そのような方が何人かおられ、夜中に独り言がひどくなったりもして、精神科の先生に対応をお願いしました。

私がいなかった1、2日は、地元のクリニックの先生が避難所を回って、体調不良者や治療中断がないように対応してくれていました。簡単な健康上の問題を抱えている人には、すぐ対応していただきました。それからお薬を持たずに避難されて、家に取りに帰りたくても、家が倒壊して入れないという方もおられて、治療を中断するとよくないような病気に対して、いつも飲んでいる薬かどうかは分からないけど、せめてこれだけでも飲んでくださいということで、地元の薬剤師さんとともに薬を配ってくれて、可能な限り、治療を中断しないようにしてくれました。

もう少し時間が経つと、DMATを中心に避難所を効率よく回るようになって、1~2週間経つと、薬剤師さんも避難所を回ってくれました。

そのころになると被災後の特例で、お薬手帳や飲んでいる薬の現物を薬剤師に見せれば、医療機関を受診していなくても、薬を処方できることになったので、薬剤師さんはそこでかなり活躍してくれました。

お薬に関しては、最初の3日間ぐらいは、足りない薬剤もあって大変でしたけど、4、5日経つと、中央の方にこの薬が足りないとかあの薬が欲しいと言えば、1、2日で届くようになったので、お薬が枯渇して足りないという状況はなかったと思います。

避難所で問題になったのは、まずコロナのクラスターです。クラスターが結構発生し、感染対策チームが来てくれて、避難所や施設をまわって、感染予防対策とゾーニングの指導をしてくれました。ただ、真冬だったので、換気を促すのに苦労しました。

もう一つ問題になったのはエコノミークラス症候群です。車中泊の人が結構いて、車の中で足を折り曲げて無理な姿勢で寝るとリスクが上がります。

でも、車の中で寝る理由として、自分のいびきがうるさくて、周りに迷惑をかけちゃうから、ほかの人と離れて車で寝るという人が結構いるんです。それで、エコノミークラス症候群に関しては、病院の有志が避難所を回って、「水分をとってくださいね」「足を伸ばして寝ましょうね」という話をしながら、エコーで深部静脈血栓症をスクリーニングして、血栓が出来ている人がいないか確認してくれました。それでエコノミークラス症候群に関しては、地域の避難所をだいぶ回ることができたんじゃないかなと思います。

それから、特に高齢者についてはフレイルですね。昼間に避難所に行くと、高齢者ばかりなんです。若い人はみんな片付けに出ていて、一生懸命、体を動かしているからいいんですけど、避難所に残っている高齢者はぼーっとテレビを見るぐらいしかすることがなくて、ほとんど動いてない。そうすると数日で足腰が衰えてしまいます。なので、病院のリハビリのスタッフが避難所をずっと回って、体操をしたり、運動を促したりしていましたね。

これもフレイルの関係で、足腰が弱い人は、お風呂もそうなんですけど、トイレが非常に困った。私たちは仮設トイレが来たから、仮設トイレに行けばなんとかなるんだけど、高齢者だと、トイレに行って用を足すにも、一人だと難しくて、誰かに一緒に付いてもらう必要がある人が少なからずいました。中に2人で入れるぐらいのスペースがあるトイレが2週間ぐらい遅れて到着して、そこからは介護が必要な方もそこでトイレができるようになったかな。

避難所で発生してくる問題として、感染症の問題、エコノミークラス症候群の問題、フレイルの問題ときて、あとは精神科の問題、まず不眠と頭痛、もう少し時間が経つと鬱などが出てくる。高齢者認知症のある人はせん妄が出るという問題もあって、その辺りはDPATの先生方にお願いしました。

DPATの先生方は、避難所は計画的に回ってくれるんだけど、病院の中は回らないんですね。病院の職員の中でも、かなり精神的に追い詰められて、ちょっと余震が来るともう怖くて震えちゃうような方もいたり、ご両親がまだ家で避難を続けていて、仕事中も親のことをずっと気にかけている方もいたり、あるいは将来どうなるんだろうということで仕事に手がつかないという職員がいっぱい出てきました。

外部から精神科の先生に来てもらって、職員にコンサルテーションをしてもらいましたが、なかなか自分から受けたいって手を挙げる人はいないので、精神科の先生が院内にQRコードの紙を貼ってくれました。スマホで読み取ることで、人知れずこっそり精神科の先生と繋がることができるような工夫をしてくれたんです。何人かはそれで精神科の先生とつながって、少しストレス軽減につながりました。そういったメンタルケアも結構必要になっていました

その後、避難所で問題になってくるのは災害関連死です。災害関連死で一番よく言われているのは脳心血管疾患、これは脳梗塞や心筋梗塞による突然死です。その後増えてくるのが誤嚥性肺炎とか感染症がこじれてなるもの。その後は、非常に良くないのですが、自死っていうのが出てきます。あとはまれに胃潰瘍や消化管潰瘍というのも出てくる。

脳心血管疾患は、もちろん身体的・精神的ストレスも大きな原因となるわけですけど、多くは、生活習慣病・高血圧・糖尿病とか脂質異常症のコントロール不良が引き金になります。今回も治療を中断してしまっている方、お薬がもらえていなくて、飲まずにしばらく放っているような方が結構おられました。そうした方の生活習慣病の治療をちゃんと継続できるように支援してあげることが大事だなと思います。

病院での疾病に関して、救急車で来る人は、最初の1、2日は怪我・外傷の方が多くて、その後は低体温とか低血糖、高血圧、血圧上昇が割と多かったと思います。

救急搬送は、少しでもこれはちゃんと治療がいると思ったら、穴水病院で無理に治療する以前に、可能な限り金沢方面に運んでくださいと言っていました。

広域搬送といって、大災害が起こった時に、被災地の医療機関は充分な治療ができないので、治療が必要な人は、可能な限り、被災地以外の地域の医療機関に運んで治療するというのが一つの原則になるんです。なので、救急車で来た人をそのまま金沢市の病院まで運ぶようなことはしょっちゅうやっていました。入院患者さんも、可能な限り金沢市内の病院に移して、医療資源が少ない被災地でやらなきゃいけない仕事を減らすことをしました。

ただ、最初の頃は、金沢まで片道5、6時間かかったと思います。道の段差も解消されていなくて、少しスピードを出すと車が跳ねるんです。患者さんからすると怖いですし、内科系の疾患だったらまだいいかもしれないけど、例えば頸髄損傷で外傷があったりすると、損傷がさらにひどくなって、場合によっては頚髄に影響が出て、呼吸が止まることがないわけでもない。だからそういった患者さん、段差のある道を救急車で運ぶと非常に怖いです。帰りは患者さんを乗せていないから、穴水に向かって少し飛ばして帰ってくる。そうするとパンクしちゃうということが結構ありました。

あと、夜間の搬送は極力しない、雪の日の搬送も危険だから極力しない。そうすると搬送できるタイミングまで、病院の中で患者さんを待機させなきゃいけない。その分治療が遅れるんだけど、その患者さんたちを診るのが大変でしたね。DMATはかなり訓練された、優れた先生がいっぱい来ていたので、DMATの先生がしっかりと診てくれたからなんとかなったのかなと思います。

穴水病院に100人ほどの患者さんが入院していたんですが、ほとんど金沢方面の病院に受け入れてもらって、新たに病床・病棟を復活させたり、手術の予定を延期して受け入れてくれたり、そういった病院がたくさんあったことには本当に感謝しかないです。透析患者さんは、穴水病院は断水してできなくなったので、自衛隊に頼んで、透析が必要な人は全員金沢市内に運びました。

100人いた患者さんが最終的には30人ぐらいになって、そのぐらいになると、病院としてはだいぶ動けるようになる。こういったことで、被災地での医療負荷を減らしていきました。

それをやっていく過程の中で患者さんにも、転院の同意を得なきゃいけないですし、高齢の患者さんが結構多いので、ご家族にも了解を取って、転院先も言わないといけない。

ただ、携帯電話の番号が分かっているなら、なんとかなるんですけど、自宅の電話番号しか分からず、ご家族に連絡が取れない、どこに避難されているかもよく分からないで、同意が取れなくて、転院に踏み切れない方が結構いて、難しかったですね。

それから、患者さんのところに「金沢市内の病院に転院していただけますか」ってお話しに行くんですよ。そうすると「ここにずっといられないんですか」という答えが返ってくる。「他にもここで治さなきゃいけない患者さんもいて、可能な限り、そういった患者さんに力を注ぎたいので、あなたはできれば金沢市内の病院の方に転院してほしい」と言うと、納得はしてくれるわけです。

けど「どこの病院に行くんですか」と聞かれても、当日にならないと分からないんですね。「こんな治療が必要な男性の患者さんを受け入れられる病院はありませんか」ということで、本部で探してくれている。受け入れが決まったら連絡が来て、今日受け入れ先が見つかったから行きましょうとなるので、どこに行くか聞かれても、当日になるまで分かりません。そういうことで、ちょっと考えますとなって、なかなか話が進まず、転院の同意を得るのにすごく苦労しました

患者さんが最終的に転院に同意してくれたのは、昔からよく知っている先生と話をして決めたり、あるいは、看護師さんと話をして決めたり、これまで関係があった医療者との会話の中で、考えがまとまって同意が得られるところがありました。それはDMATの先生だけでは難しくて、普段から地域で患者さんと顔を合わせて、関係を作った人たちがいたからできたことなのかなと思います。

それからもうひとつ例を挙げると、施設で食欲がなくて、食べなくなった患者さんがいるので診に来てくださいということで往診に行ったんです。往診に行くと肺炎を発症しているみたいで、呼吸状態が悪くて、入院が必要だと思いました。

「入院して治療しないといけないです。入院となると金沢市内の病院に行かないといけなくて、搬送の手配をするから入院しましょう」という話をしますと、今は穴水病院が大変で、金沢の病院に移していることは分かってくださって、ただ、遠くの病院になると家族が面会するのも、いざという時に駆けつけることも難しいですし、「結構な年なので、何があっても構わないから、ここの施設にいさせてください。私の代わりに一人でもほかの人を治療してあげてください」とおっしゃられたんです。結局その方はその施設で治療して、そこで亡くなられました。

救急の現場ではトリアージというのをするんですね。まず誰から治療に入るか、優先順位付けをして、その人から順番に治療していきます。一番簡単なSTART法、緑、黄色、赤、黒みたいに色分けするものは、歩けたら緑みたいに機械的に治療の順番が決まっていくわけです。

被災して、全員を助けることができないときには、まず助けなきゃいけない人はあなた、次はあなたというように、順番を付ける。一番目の人が、二番目、三番目の人に順番を譲るということも災害時には起きて、さっきの人も、私はもういいから、次の人を助けてくださいという話になるんですね。

緑、黄色、赤みたいな機械的な順番でやれば、こちらも気が楽なんだけども、皆さんそれぞれ自分の中で考えがあって、その考えもまた尊重したいんです。それによって助けられる人が出てくる訳だけど、医療者としては後々「あの時もっと強く勧めたら助かっていたんじゃないか」と思うと、すごくもやもやするんですね。その辺りの災害医療のトリアージに関する部分が整備されてないというのが今後の課題だと感じました。自分の治療を他の人に譲った人は、おそらく良くない結末になりますから、こちらからも最大限に寄り添っていくことが必要になるだろうと思います。

私たちも、災害前にこういったことを想定したトレーニングをして、そういった時に自分たちが受け止められるように、考えを整理できる準備もいるんじゃないかなと思います。あるいは、もっと大きな視点で、災害を想定して、ひとりひとりが、その時に自分が何を大事にして、どう行動するかという、いわゆるACP(Advance Care Planning:終末期医療に対して、家族や医療従事者などが、本人による事前の意思決定を支援する取り組み)に近いような、非常時の自分の命の取り扱い方について、考え方の整理をしておくことも、もしかしたら必要なのかなと考えています。

外部の支援機関との連携

DMATなど様々な人が支援に入ってくる中で、地元の人はどのような役割を担ったのでしょうか。

地元の人間は、患者さんの理解を得るために、普段から顔見知りのような関係を持っている人が必要でしたね。それから、地域の訪問看護ステーションなど様々な施設と顔見知りなので、そことのコミュニケーションや連携の橋渡しとなるような役割もありました。
また、DMATの各チームで、毎日会議をしていて、そのときに、どの道が通行止めとか、解除になったとか、危険地域になっているという情報を伝えないといけませんでした。
だいたい、1チーム5、6人で、ドクター2人、看護師さん2人、連絡員2人とかで来ます。連絡員は「ロジさん」「ロジスティクス」と言っていました。だいたい5日ぐらい滞在して、次のチームに交代します。兵庫県から来てくれたチームは、「今回4回目です」と言っていましたね。
北海道から沖縄まで全ての県から来てくれて、DMATだけでも数百チーム、他にもJMATや日赤のチームなど、色んなチームを入れたら、延べ800チームぐらいは来ています。最大で穴水病院内にDMATが15チームぐらい滞在していたときもあります。
それだけたくさんのいろんな種類のチームをまとめて動かす必要があるということで、事前に訓練を受けた人たちが来てくれました。中心になっているチームのロジスティクスさんたちはものすごく優秀なんですよ。特別なトレーニングを事前に受けているので、現地での情報収集をして、そこに集まっている、いろんな種類のチームの役割をちゃんと決めて、指揮命令系統ができていました。それはそれは優秀な人たちでしたね。

色んな人が集まる中での困りごとはありましたか。

皆さん、同じ目標に向かってやっているので、そんなにぶつかるということはなかったと思います。偉い人が来るとちょっと緊張しましたね。JMATっていう日本医師会のチームがいろんな県から派遣されてきて、名刺をもらうと県医師会長みたいな人が自分から率先して来ているんですね。トイレは外の仮設トイレだし、宿泊はこの冷房が効かない会議室しかないんですけどと言うと、皆さん、「いいですよ」と言ってくれるんだけど、そういうのは恐縮しました。

会議の中で少し反対意見が出ることはありましたけど、そういったときも中心になってくれるロジさんたちが非常にいい受け答えをされていて、場が荒れない感じになるんですね。そういう意味ではうまくできたのかなと思います。

日常的に困ったこととして、病院の中の清掃会社さんが、社員の人がいなくなって撤退しちゃったんです。病院の中はゴミが溜まり放題だし、トイレはそのままだし、それを病院の職員がずっと対応しなきゃいけないのが結構きつかったと思いますね。

3月の半ばぐらいに、やっと2人ほど清掃会社から派遣の人が来てくれて、清掃が始まったけれど、病院の中にはずっと入院患者さんがいますし、清潔な環境をずっと保たなきゃいけないんですが、なかなか難しかったですね。

あとは、厨房の真下を断層が通っていたせいで壊れてしまって、本当に温めて出すだけみたいな食事しか患者さんに出せなかった。やっぱり栄養士さんは患者さんにしっかりした食事を食べてもらいたくて、それができないのがとても辛かったみたいですね。3月ぐらいから少しずついろんなものが出せるようになったんだけれど、まだ断水していて食器洗い機が使えなかったので、食器は全部発泡スチロールの使い捨てのものでした。発泡スチロールとなると急に美味しくなくなるんですよね。入院患者さんに心温まる食事を食べてもらえなかったことは、特に栄養士さんにとってはすごく辛かったのかなと思います。そこまでが被災してから3か月ぐらいの話になりますね。

他機関との連携や多職種連携において、災害時、特に気をつけたことはありますか。

被災地全体のいろんな職種の連携はDMATさんがうまく指揮をしてくれたと思います。普段やっている多職種連携みたいな、栄養士さんに栄養指導してもらうようなことはなかったですね。薬剤師さんは結構忙しかったと思うけど、検査技師さんなんかは検査が止まっていたりするので、トイレ掃除やゴミ捨てとか、病院の中の環境整備のところを見なくてはいけなかった。

職種の連携というよりも、同じ現場にいる被災者同士で支え合わなきゃいけないということのほうが大きかったんじゃないかなと思います。みんなそれぞれ身体的・肉体的ストレスを抱えてやっているので、そこにちゃんと気を配ってあげなきゃいけないのはもちろん、被災している家族を支えながら病院の仕事をしてくれている人も結構いるので、そういうところまで理解してやってあげないと難しい。

外部のDMATさんが病院に入ってきたときは、病院のシステムか、DMATの仕組みで動くのか、どちらでしょうか。

主に、入院患者さんはもともとの主治医がいるので、病院のシステムで動いたところです。救急患者さんは、ここで入院してすぐ手術するということはなくて、緊急の人は、金沢の病院に転送していたので、DMATさんが中心になって動いていました。

カルテはややこしいところがありましたね。例えば、施設に入っている人が、入院せずに「施設でもう看取りにします」となって、DMATの先生が看取りに行ったとき、死亡診断書に自分のの病院、自分の名前を書いて死亡診断書を発行するのかということが少し問題になりました。その時は一応看取りをすると決めた段階で、穴水病院の患者さんという位置付けにして、穴水病院から患者さんの状態を見に行って、穴水病院が施設または在宅の看取りの方針で診るということにして、死亡診断書までいくことにしましょうとなったんですね。だからそこは病院のシステムで動いたかなと思います。

大きな災害があったときに病院がどう動くかのマニュアルはもとからあったのでしょうか。

災害対応マニュアルはあったけど、全然機能していないし、みんなそれを見ている暇もなく、やることが目の前にどっと来るので、とにかくやらなきゃいけないことをやるので精一杯でした。みんな事前に読んでいないし、今回は見ながらやってもあまり役には立たなかったと思います。

穴水町の医療に関する現状と課題

病院の機能は、半年ぐらいでなんとか持ち直したというところです。4月から透析も動かせるようになったし、5月あたりからは手術室も動かせるし、内視鏡もできるようになってきて、7月からは付属診療所も動かせるようになってきて、病床数はちょっと減らしたんだけど、被災前に病院がやっていたことは曲がりなりにもなんとかできるようになりました。災害関連死に近いような健康被害が出てくるので、その対応を少しずつしていかないといけない段階に入ってきたということです。

エコノミークラス症候群の予防やフレイル予防の活動は今でも少しずつ継続しています。生活習慣病の治療中断とか状態悪化した人を定期的に回ってスクリーニングする対応も続けていて、被災直後はDMATが中心になってやってくれたんだけれども、最終的には能登北部の保健所を中心に、町と地域の医療機関や介護施設が一体になって、穴水町の医療介護福祉連携会議という組織を作って、活動を進めているところです。主に町の保健師さんたちがいろんなところを回ってくれて、介入が必要な人を拾い上げてくれています。

私も日曜日に仮設住宅にいると、保健師さんが回ってきたから出たら「居てよかった」って言われて、「夜はゆっくり眠れていますか」「食事はちゃんと取られていますか」「何かお薬は飲まれていますか」といったことを聞かれました。だいたい災害関連死のハイリスクグループというのは仮設住宅の独居高齢男性なんですね。だから私も該当するんだけど、体重を測られて、多分半年後ぐらいに回ってきた時に、また体重を測って減っていたりすると、要注意になると思います。

それから、コミュニティをうまく育てることが大事になってくるんですね。町はかなりそれを頑張ってくれているし、いま穴水町に来てくれているボランティアさんも積極的にそういった活動をしてくれています。

能登はもともと地域の集落で、一緒にコミュニティで生活をしていて、ちょっと生活が不安定になっている人がいると、周りの人が気を使って見守っているんですよ。1人暮らしで、ちょっと大丈夫かなと思ったら、「肉じゃが作ったんですけどどうぞ」って渡しながら様子を見に行って、「食べ物を食べた気配が全然ないな」とか家の中を見て帰ってきたり、地域で結構支え合っていたりするんです。

それが被災して皆さん避難所にいったん避難しました。中には金沢市内の避難所に避難している人もいます。そういった人たちが仮設住宅に申し込んで、それが当たって、去年の5月以降から入ることになったんですね。そうすると、元々のご近所さんが入っているか分からない。

今まで「洪水警報で避難してください」みたいなのが町中に放送で流れたら、「あそこのばあちゃん、耳遠いから聞こえてないかもしれないし、見に行って、避難誘導も一緒にしてやらないとな」とかみんなでやっていたんだけど、仮設住宅だと、どこに耳の遠い人が住んでいるかも知らないし、なかなか助け合うことができないんです。だから、地域でお互いを見守りながら、生活していけるようなコミュニティを早く作っていかなきゃいけないというところです。今は、各避難所の集会室・集会所で、男の料理教室やミニコンサート、ゲーム大会とかがあって、地域の人たちのコミュニティを育てている段階なのかと思います。

今後への教訓

避難訓練とか、真剣なトレーニングは事前に必要なんじゃないかと思います。能登空港の救難訓練や原子力対策災害の訓練も毎年やっているけど、DMATの人たちが来て、あっと思ったことがあります。余震があるじゃないですか。そのとき「余震だ」とか言うんじゃなくて、さっとヘルメットを被るんですね。やはり事前にちゃんと意識づけがされているんだな、また、そういう意識付けができるような準備がいるんだなと思いました。

災害対策マニュアルも、別に悪いものではないので、事前にみんなちゃんと理解しておくことと、それから災害の実感を持って、一度マニュアルに目を通しておく必要があります。災害が起こった直後、要するに起こってから数時間の間、どう行動するかというのは災害対策マニュアルみたいなものが大事なんじゃないかなと思います。電気のブレーカーを落とすとかね。

そこからしばらくすると、今度はBCP(業務継続計画)ということになる。病院としての機能が失われたとき、完全に復帰するまでの間、どうやって病院の機能を維持するか、『基幹型BCP』と言うんですけど、それが必要なんです。それは介護施設や介護事業所、あるいは訪問看護ステーション、あるいは調剤薬局と、それぞれの施設ごとに持つべきものです。それを持った上で、今は『地域BCP』というのを作ろうと思っています。地域全体で、災害があった後にどういう風に地域で必要な機能を維持するかということですね。

例えば在宅で酸素療法する患者さんがいて、大規模停電になって、酸素の機械が動かなくなったというときに、「うちの介護施設にこれだけの酸素の余裕があるから、これを使ってもらえます」とか、あるいは「うちの施設には非常用の発電機が一個あるので、これを回すことができます」ということを迅速に情報共有する。それぞれの機関でBCPを作って、最大限の対応をするわけだけど、それでも足りない部分を地域の横の連携で埋めていけるようなBCPはいるだろうなと思っていまして、手を付けたところです。

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