体験を語る
- 行政
様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った

| 場所 | 能登町 |
|---|---|
| 聞き取り日 | 2025年8月29日 |
地震発生当初~避難所の開設
聞き手
先日も大雨が降りましたが、能登半島地震による地盤沈下でどのような影響が出ましたか。
灰谷さん
宇出津港と小木港は、地盤が数十センチ沈下しました。通常、夏場の大潮になる時、潮位が大変高いです。大雨が降る時はさらにそこで低気圧が通っていて、雨水も増えるので、宇出津港や小木港は被害が大きかった。
聞き手
能登半島地震が発生し、避難するまでの状況を教えてください。
灰谷さん
1月1日の16時10分ですね。私自身は能登町の松波地区のあたりにある、妻の実家にいました。16時6分に5強の前震がありました。
私は小木地区の広域避難所になる小木中学校の鍵を持っていて、開設する役割を持っていましたので、16時6分から多分1分も経たないうちに、車で10分弱くらいの中学校に向かい始めました。
秋吉という、半分より少し手前くらいまで来たところで本震が起きたんです。国道249号を通っていて、100mくらい道がなくなった場所もあるんですけど、幸いだったのは、そこを通り過ぎて、川も渡り終えた後だったので、そのまま向かうことができた。途中、水産加工場から物が来て道路が封鎖された所はありましたけど、そこは超えて、だいたい16時半過ぎぐらいに中学校に着いて、避難所開設をする準備に入るような流れです。
聞き手
避難所に着いた後、開設して避難者の方の受付などをされたのですか。
灰谷さん
そのような簡単な時系列ではありませんでした。最初に迷ったのは体育館に人を入れていいのかということです。
携帯電話の電波もつながらないので、どれだけの地震が起きたとか、何が起こったか分かってない。
小木中学校まで、車でNHKを入れながら来ていたので、ちょうど本震のときは運転している最中でしたし、1分くらいの揺れで、私はもうどうなるんだろうみたいな揺れが起きたわけです。
皆さんも見られていると思いますが、NHKが珠洲市役所に設置した、飯田地区の様子を映すテレビの映像で、砂埃が舞い上がりながら建物が倒壊していく様子が映し出されていました。その2分後にはNHKで津波警報が出ている。12分後には大津波警報も出されていて、行く途中で大津波警報に切り替わった状態ですよね。行く途中も道路がどうなるか分からないようなところがいっぱいあったわけです。道路がでこぼこになっているところで、ジャンプした感じがあって車が空を向いたような場面もあるような状況でした。
中学校へ向かう際、最初の5強の時は、2人ペアの相方に電話して「防災服を着るかどうか」みたいな感じで喋っていたんですけど、それだけの揺れになってしまったので、とりあえず避難所を開設しようというモードに入っていました。
中学校の建物はガラスが割れている所が何箇所かありましたけど、体育館が大丈夫なのか最初は分からなかったから、避難者の方はどんどん来て、待ってくださいという話はしました。後から考えると耐震工事が終わっていたから大丈夫だと分かったかもしれません。
そのうちに、職員も何人か来たので、とりあえずホワイトボードを集めてもらって、正面玄関にホワイトボードを1枚設置して、そこに情報を書くことにしました。あとは武道場のところに物資があるのを知っていたので、鍵がなかったのですが、職員2人でとりあえず上から登って入り、皆さんに待ってもらっている間に、暖房器具やジェットヒーターとかがあるという確認をしていました。
その日の日の入りが午後4時45分頃だったので、次第に暗くなっていきました。30分強経っていましたが、避難者がどんどん来るし、サンダルで来る人や、ダウンとかそんなのも着てないような着のままみたいな人も当然来るので、入ることを判断する人は私しかいないわけですよ。想像してみて分かる通り、誰が判断しますかっていう状況でした。何かあったら私は全部責任を取らないといけないわけなので、どうすればいいかとても迷いました。あとは、先ほど言ったように珠洲の映像だけ見てきたので、街がどういう状態になっているか分かってない。幸いその日は、雨ではなくて、晴れていましたが、多くの人が来ていて、とりあえず中に入れないと無理だなと思ったので、入れる決断をしました。
小木中学校では、今の輪島市教育長が小木中学校に2011年の4月に赴任したときから防災教育をしていたので、体育館に入る手前で「中高生とりあえず来て間仕切りを体育館に設置してくれ」と言って、間仕切りを体育館に設置後に避難者を中に入れる流れをとりました。ただ、感覚としても体育館だけで皆を入れるのは無理だなと思っていました。
運がいいことに、生徒玄関の鍵が壊れて落ちていたので、そこから入って、職員室にあるマスターキーを使って教室を開けようとしたんです。職員室は鍵で閉まっていましたが、コロナもあって、換気をするために上の天窓みたいなところが開いていたので、消防職員に上がってもらって、鍵を持ってきてもらいました。
だいたい午後7時を迎えようとした時に貯水槽の水がなくなってしまいました。その時、私の頭の中ではトイレをどうするかなみたいなモードに入っていました。
これは皆さんにお伝えしないといけないことだと思うのですが、あのような地震が起こった後、全体の状況が見えていない中で、各個人が抱えている問題がどんどん上がってくるんですよ。その中でできることって限られるので、優先順位をつけないといけない。でも優先順位をつけるといっても、全体の見通しが立っているわけじゃないので、非常に難しい。私は当時、停電していたと思っているんですけど、体育館に入ってくれと言った午後5時くらいのタイミングには電気がきていました。
私は考えられなかったのですが、避難者の方は土足で入ってきていて、今から脱いでくれって言うと大変なことになるので、それはしなかった。午後7時頃に水が使えなくなるまで、3時間くらい、皆さん普通にトイレを土足で使っていたので、金沢から来た看護師さんが衛生的に悪いのではないかと私に言ってきたんです。ですが、私はそんなことを考えられる状況ではありませんでした。
まず、ここでパニックが起きたらいけないと思っていました。学校中は人でいっぱいになっていて、駐車場、道路も通ることができないくらい人でいっぱいでした。
ちょうど同じくらいの午後7時過ぎ頃に、小木地区の開業医の小木クリニックの瀬島先生が私のところに来て、救護所を開設したいとおっしゃったので、体育館の向かって右側にあるステージ横のところに救護所を開設してもらいました。瀬島先生から「看護師さんやお医者さんはいますか」という呼びかけがあり、歯科医の方が一人と看護師さん方が何人かいて、救護所は先生にお任せしました。
午後9時ぐらいには、もう水のことを解決しないと駄目やなって思いました。職員はあの時5人ぐらいいたような気がしますけど、トイレ問題をどう解決するかの知識を持っている職員はいなかった。ただ、動けるところで、消防団や若者がいたので、何か良い方法ないかっていう話をしました。消防のポンプ車も中学校に来ていたので、防火水槽から水を汲み上げてきてバケツで流すとか、そのような話をして、午後10時過ぎくらいに動き出したかな。
小木地区は800世帯くらいあるんですが、多分電気がついたのは50世帯くらい。9割以上は停電。だから小木の港周辺は真っ暗なわけですよね。港に行くと段差もたくさんあるし、金沢大学の臨海実験施設の所は道もなくなっている状況。その光景を見たときどうしようという気持ちになったのですが、とりあえず水を持って行こうということでバケツや水を確保し、消防団のプールを設置して、そこに水を入れて流す仕組みを作りました。午後10時を回った頃に白丸地区で火災が発生し、消防団はそこに駆けつける必要があったので、その分、人が減りました。
次は、食料の問題が出てきました。その時、電波はありませんでしたが、固定電話だけつながったので、役場に電話して備蓄品がないかという連絡を入れました。被害状況などを話している暇はありませんでした。1日目はそのような感じです。
聞き手
何名くらいの方が避難所に避難されてきましたか。
灰谷さん
1000人はいたのじゃないですかね。2日の時、名簿が確認できた人数が760名。ですが書いてない人もいるので正確な数は分かりません。だから、避難所をマネジメントするのが難しいわけですよ。いろいろな問題が突発的に起こっているので、それを判断する人がいない。ということは、私に全部集中するわけです。
私が一番覚えているのは、1日にある方からとにかく来てくれと言われて、校舎から出て、道路の端に止まっている車の所に行くと、その方は京都から来た観光客で、私たちどうやって帰ればいいですかってとても怒っていたんです。今それは優先順位が高くないので、私たちはそこまでの情報はないということをお伝えして戻りました。その方たちは、ガソリンのことを気にしていたのかもしれないですね。エンジンがかかっていれば、何かしらの情報はテレビやラジオで多分入っているわけです。私らも全く情報がなかったので、一旦そういうところをお伝えしました。
覚えているところ、覚えてないところいっぱいありますけど、とにかく情報がないことに対して、皆さん不安感が強い1日でしたかね。ただ、うちの中学校では、医療チームというか、小木クリニックさんが入ってくれたのはすごく大きかった。
聞き手
体育館に間仕切りをする方法を中高生は日々の防災教育で学んでいたのですか。
灰谷さん
そうです。ただ、間仕切りは足りない状態でしたね。
聞き手
灰谷さんは震災が起こる前は防災士のような資格をお持ちでしたか。
灰谷さん
持ってないですね。避難所運営のノウハウもありませんでした。私はただ避難所を開設する役に割り当てられていただけです。
聞き手
一番近いからですか。
灰谷さん
そうかもしれないですね。防災に関して知見などがあったわけではないです。2019年に山形沖地震があって津波注意報が出たときも、私は避難所開設をしました。夜10時くらいに津波注意報が出て、深夜1時くらいまで開設したこともあります。2022年に災害があったときも、一応避難所を開設しましたが、その時は誰も来なかったですね。これまでの避難所開設では、今回のように大規模なものは全く経験がないですが、鍵を開けたり毛布を配ったりくらいのことはしたことがありました。。
聞き手
細かい情報まで記憶されているので、そういう部署の方かと思いました。
灰谷さん
私はこうしたお話をする機会もあるので、情報の振り返り、整理は結構行っています。
避難所の運営
灰谷さん
小木地区は家屋の倒壊がなく、消防団が救助活動を行う必要がなかったので、避難所で活躍していただきました。
1月2日の時点で、感染症の胃腸炎と思われる子ども達も隔離していたんです。その方々のために医療用の隔離部屋として教室を使いました。
外国人が50名くらいいて、内40名がインドネシアの漁業実習生だったので、美術室を使ってもらい、ベトナムの縫製工場の人は体育館にいてもらいました。
最初の頃、1月1日、2日は乳幼児もいたので、授乳スペースやストレスケアも含めて教室を使いました。
ただ、電気はきていましたが、全部の教室では暖房が稼働できない。使える暖房もエラーマークが出たりしていたので、そのような部屋はだるまストーブを使いました。また、近所の人にも、だるまストーブや灯油を持ってきてもらうようお願いしています。そのようなことをしながら寒さを乗り越えていきました。
ここで起こる一番大きな問題はやはり医療。1月3日の午前3時頃に、瀬島先生と救護所で話していて、「灰谷さん、今750名以上がいますよね。私はこの状態が1週間くらい続くと数名亡くなると思います」と言われて、絶望に陥りました。いわゆる災害関連死が起きますよっていう状態です。私は先生がいるから医療に関しては大丈夫であると思っていました。瀬島先生は災害派遣医療チームであるDMATとして、東日本大震災の被災地にも行かれていた方だったので、そうおっしゃっていたことがものすごく衝撃的でした。
ありがたいことに、瀬島先生が医師会に連絡をすると言っていただいて、私は1月2日か3日の日中に日本医師会の理事の人と電話で話したんです。日本医師会の理事は数名いらっしゃるのですが、たまたまこの中部ブロックの方が、七尾の和倉温泉駅近くにある佐原クリニックの佐原先生で、私は佐原先生とお話をすることができました。佐原先生は、小木中学校の状況は厚労大臣にも報告してありますとおっしゃっていました。
1月3日の夕方6時過ぎには、日本医科大と日本体育大学によるAMATっていう医療チームが小木中学校に入ってくれました。この時点で医療チームは能登町のどこの避難所よりもたくさん入ってくれていました。
1月4日に新型コロナが発生しましたので、本当に医療チームがいてくれたおかげで助かった。当時コロナは5類になっていましたが、感染力が強いことにはなんら変わりはありません。集団でいますので普通の状況ではない。これは災害本部で最後に確認しましたが、1月10日には最大30人隔離しました。もう病院ですよね。
面的な大規模災害が起きたところで新型コロナが流行ったっていう最初の事例が多分小木中学校なんですよ。ただ、コロナが感染しましたっていう報告をしていいか、要は住民の方に知らせていいかどうか分からない。パニックが起きる可能性もある。1月5日の夜にならないと小木地区の電気は回復しなかったので、1月8日に医療チームから感染症の認定の看護師さんに来てもらって、避難している教室や体育館全部にお知らせをしていきました。
それまではクローズですが、感染症のアナウンスや貼り紙をたくさんしています。マスクをしてくださいとは言ったものの、マスクがないので、医療チームの方々がマスクを持ってきてくれたりしながらやっていきました。
あと、災害医療をやるために医師になられたカミムラ先生に、1月3日から7日まで職員室の私の横に座ってもらって、私は避難所全体、カミムラ先生に医療の部分をやってもらって、一緒に避難所を運営していました。
聞き手
外部から正確な情報が入りだしたのはいつ頃ですか。
灰谷さん
何をもって正確な情報と言えるか分からないですが、1週間くらい経ってからですかね。1月5日で電気は回復しましたが、携帯電話はなかなか通じませんでした。私が初めて役場に行ったのは1月9日です。
聞き手
トイレで防火水槽の水を使ったとおっしゃいましたが、その後、トイレはどうされていたのですか。
灰谷さん
1月2日からは水槽を準備して、小木小学校のプールから水を汲んでくるという仕組みができました。そこの段取りは消防団や若い方たちに任せています。1月5日の朝4時半くらいまでやりました。
ようやく私が寝られるかなという頃の朝4時半か5時になると毎朝トラブルが起こります。1月5日の朝もトラブルが起きたんです。下水管が詰まってあふれ出して、水を流すことができなくなりました。またトイレ問題が発生するかと思ったが、1月4日に、飯田町に住んでいる小木中学校の校長先生が来ていて、校長先生からトイレをどうしているか聞かれ、小木中学校の現状を伝えると、飯田の方ではビニール袋で新聞紙を膝の中に入れる簡易トイレを作って用を足しているという情報を得たので、それに切り替えようということになりました。体育館にいる社協職員さんや保育士さん、防災士の方に簡易トイレ方式へ切り替えるオペレーションをしてもらいました。
1月4日には、新潟県の三条市からトイレトレーラーが来ていました。私は2015年から9年間、地方創生を担当する部署にいて、外とのつながりを作って、まちづくりに生かし、関係人口を増やすような事業を行っていたんです。地震発生後、私はFacebookやInstagramを使って、小木中学校の状況をテキストで発信していて、以前から、つながりのあったインリージャパンの女性の方が、その発信を見て、何台かあるトイレトレーラーを小木中学校に持ってきてくださった。簡易トイレのオペレーションは回り出すまで時間がかかりましたので、三台あった組み立て式の簡易トイレも使ってやっていました。
またインフラが全て寸断されて、給水車が来られないので、待っていても飲み水が来ません。1月1日からどこも孤立していて、災害本部と連絡が取れなかった。ですので、1月3日、4日の時に2tトラックに1tのタンクを積んだ小木地区専用の給水車を作ったんです。旧内浦町の浄水場が動き始めたという情報が入ったので、そこに給水しに行きました。
小木地区ではイカ釣りの漁船漁をやっています。漁船は海水から水に変える浄水器も持っていて、タンクの中に水も入っているので、そこから2tくらいもらいました。内部のリソースでなんとかやっていこうとなっていたんです。
聞き手
外部からの支援がくるまでに、避難所の備蓄食料が底をつくことはなかったのですか。
灰谷さん
避難所で食料が配布できたのは1月2日の夕方からです。200食くらいアルファ米の非常食があったので、近所の人にお米を炊いて、おにぎりを作ってもらいました。あとはスーパーから水とかパンとかありったけのものを全部持ってきたんですけど、1人に対してアルファ米1つか、おにぎり1個か、食パン一切れか選んでもらって、持ってきたペットボトルのお茶をつけて渡しました。
聞き手
1日1食でしたか。
灰谷さん
1月2日はそうですね。1月3日は夜にまたおにぎりを炊いてもらうのと、地元の水産加工の方が汁物を作ってくれて、それを渡していったっていう感じです。3日以降、避難所ではずっと1日2食でいきました。1月3日の夜中23時に、物資として大量のパンが届きました。
聞き手
陸路で届きましたか。
灰谷さん
はい。能登町災害本部から届きました。その後は町の災害本部からだけでなく、町出身者の方からも物資が届きましたね。ただ、1日1食が限界でした。私はあまり食べていなかったですが、お正月三が日は皆さんおせちを食べられていたので、避難所の皆さんからあまり不満は出てきませんでした。翌日には津波警報が解除され、家に帰っておせちを持ってきて食べていたのではないかなと思います。水は、1月2日の夜に山水が出るという情報があったので、消防団の人にパンクしながら片道2時間かかる道を行ってきてもらいました。
聞き手
避難所の人数の推移は。
灰谷さん
1月4日に電気が通ったので、1月5日でかなり減りました。1月5日で400人ぐらいです。1月8日にコロナの感染者が出たことをお伝えしたので、そこでも人数が減りました。
電気が通った1月4日の夜8時には、子ども達に踊ってもらって、一瞬でしたが、みんなが元気になりました。
聞き手
避難所の人同士でもとからコミュニティーができていましたか。
灰谷さん
できていませんでした。バラバラではないですが、多くの人がいましたので。
聞き手
自分たちで自治をしたり、自分にできることは何だろうと探したりという雰囲気はありましたか。
灰谷さん
800人くらいいるところで、やろうと思いますか、という話ですよね。
聞き手
大人数だと難しいかもしれませんが、集落単位で区長さんが何かしらやられたりするのかなと。
灰谷さん
それは人が少ないからできることであって、これだけ多いと難しいですよ。飯田小学校は町内会ごとに教室を決めたという話を聞いて、そういうことをしていたらもう少し上手く回っていたのかなとは思います。
避難所はどういう場所かと言ったら、行く場所がない人たちが最後まで残る場所です。自分で判断し、自分で何かを求めて行動できる人たちは、早めに避難所から出たいと思って出て行きます。ですので、避難所でリーダーをできるような方は早めに出て行ってしまう。
内閣府防災を含めて自主で運営するということが基本ですが、かなり難しい。50人や100人の規模で入っている避難所であれば、町内会ごとに運営を任せて大丈夫かもしれません。小木地区はつながりが強いのでいけるのかもしれませんが、長い期間は無理でしたね。不満も出てきましたし。1月18日くらいに対話会を開きましたが、いつ水や物資が届くか分からないと言う不満がありました。
1月11日くらいから宮城県の職員さんが来て、その方たちが涙を流しながら「私らも一緒だったんですよ」とか「次はこういうことが起こりますよ」とかお話をされて、分からないことが分かるだけでも皆さん落ち着きましたね。ただ支援に来られる人たちも、5日とか6日でローテーションしていくので、仲良くなった時点で切り替わっていくという難しさがありました。強烈なリーダーシップがある人がいれば、コミュニティーの部分もうまくやっていけるかもしれませんが、非常に難しいと思いますね。
なぜなら、見通しが立たないですよね。ここまで頑張ればということになると、みんな気持ちが上向いていくんですが、それがない状態でしたので、そうはいかない。先ほど言ったように。自分たちが何かしたいって判断できて行動できる人から抜けていくので、そこは難しいと思いますね。
食事については、自分たちでやろうという動きも作ったんですが、炊き出しが入ってきて、例えばそれが3日間続くと一度リセットされてしまうなど、運用が難しかったです。
ウォーターサーバーや洗濯機などの物資も入ってきましたが、これらを運用する仕組みを誰が作るかという課題がありました。放置すると問題が起きるため、区長などと調整しながらルールを作ったんです。洗濯機5台は、町内会長などと相談し、区長さんと調整して時間割などのルールを決めてもらいました。しかし、避難所だけでなく在宅の人も利用しようとするため、「なぜ避難所だけ使えるのか」という声が上がり、区長から利用を断るように言われたりもしました。
聞き手
洗濯機などの家電は連絡なしに突然届くのですか。
灰谷さん
そうですね。当日でした。大規模災害が発生した場合、避難所にいる方、在宅避難をされている方、そして商売をされている事業者の方々の間で、「ギャップ(分断)」が生じます。このギャップをどうチューニングしていくか、限られたリソースの中でどこに力をシフトして動かすか、という判断が非常に難しかったですね。
途中、乾燥機付の洗濯機が届くんですけど、洗濯機も何分で回るか分からん、乾燥機もどれだけで乾燥するかも分からないものを1日だけ運用した。だけど、もうそれだけでなんで小木中学校だけ洗濯できるのか、みたいな声も上がってきて耐えられなくなってしまったと、区長さんから私の方に連絡があったので、緊急で区会を開いてもらって、区会での決定事項なんでと言ってやっていました。
避難所の基本は自主運営ですが、大規模避難所では不満やギャップが生じやすく、避難者の中にも自主的に運営を担える人が少ないため、避難所が完全に自治で回るのは非常に難しいですね。
聞き手
学校が再開されるときに、避難所の運営とどう調整されたのでしょうか。
灰谷さん
正式な学校再開は1月22日か25日でしたが、1月11日に1時間だけ中学生が来る時間があったんです。1月11日時点ではまだ30人くらい隔離していました。その当時はゾーニングをせず、避難所と病院と学校があるみたいな状況だった。私は前年度にPTA会長をしていて、校長先生とも仲が良かったので、ゾーニングをどうするか、動線をどう取るかについてたくさん話し合いをした結果、校長先生に学校のことをお任せして、私達は避難所を運営しますという形になりました。校長先生は飯田に住んでいて、小木よりもひどい状況でしたので、時間外は家に戻ってくださいという話もしました。教頭先生や各先生方も能登町におられる先生が少なくて、輪島や珠洲にいる先生が多かったのでいろいろ大変でしたね。
被災経験を振り返って
聞き手
今回の能登半島地震の避難所運営などの経験を踏まえて、今後の災害で生かしていきたい教訓はありますか。
灰谷さん
今後の災害に備えるため、簡易トイレの運用方法など、細かい実用的な知見をマニュアルではなく、分野ごとに分かりやすく整理しておくべきであると思います。避難所において、中高生など若者に「トイレ掃除」や「安否確認オペレーション」といった役割を与えることが、避難所の機能が回る上で非常に有効でした。
役割を持つことによって、何もすることがない避難生活の中で、彼らにとってそれが大きな支えになります。役割を持つことは、避難者の一体感を生み、自発的な動きを引き出し、災害を乗り越える力につながりました。
災害が発生すると、必要なリソースは足りなくなります。私は、メディアの方とも知り合いで、現状を取材させてほしいと言われることもありましたが、情報をコントロールして外に発信していく必要があるため、お断りしていました。情報の公開は、避難者のプライバシーやパニックの問題とのバランスを取るのが非常に難しかったです。

伝える
- 体験を語る
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避難所・避難生活
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
佐野藤博さん
「これまで培った防災の知識を生かして、規律ある避難所運営につなげた」 -
(輪島市)澤田建具店
澤田英樹さん
「現場からの提言――避難所を「暮らしの場」に」 -
輪島市上山町区長
住吉一好さん
「孤立集落からの救助とヘリコプターによる集落住民の広域避難」 -
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「厳しい環境の自主避難所を皆さんの協力のおかげでスムーズに運営」 -
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「皆で力を合わせ、助け合って避難所を運営」 -
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「高齢者も多い学校の避難所で感染症対応を実施」 -
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「通信の重要性を痛感しつつも、多くの方の協力のもとで避難所を運営」 -
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「難しい判断も迫られた避難生活を経て、地区のコミュニティ維持に努める」 -
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「想定にない大人数の避難に苦労した避難所運営」 -
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「学校の運営にも配慮しながら、多くの方がいる避難所を運営」 -
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「避難生活を通じて、防災の重要性を再認識」 -
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珠洲市上戸区長
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「全国からの支援に支えられ、
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珠洲市宝立町区長会長
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「避難所の運営にあたって」 -
鹿頭地区区長
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「想定100人の施設に300人:西浦防災センターの自主運営の実態」 -
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「地域で守った避難所――領家コミュニティセンターの運営」 -
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「原発と海が近い避難所」 -
福井区長
前川悟さん
「区長が語る支援の光と影――やすらぎ荘避難所の現場から」 -
町居区長 村松弘之さん、熊野公民館主事 山古正美さん、谷神区長 相畑 毅さん、熊野地区会長 山本秀夫さん、日用区長 大瀧俊定さん、毅さんの奥様 相畑 美恵子さん、赤十字奉仕団委員長 山本洋子さん
「地域住民の力と支援者の力で乗り切った避難生活」 -
志賀町議会議員
堂下健一さん
「街の人だけの避難所」 -
地頭町区長
坂野満さん
「避難所と仮設住宅でのコミュニティの作り方」 -
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「避難所運営を経て、地域のつながりの大事さを再認識」 -
能登町防災士会会長
寺口美枝子さん
「防災士の知識が災害時に生きたと同時に、備えの必要性を改めて感じた」 -
白丸公民館長(当時)
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七尾市矢田郷地区まちづくり協議会 防災部会元会長、石川県防災活動アドバイザー、防災士
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行政
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輪島市復興推進課(当時)
浅野智哉さん
「避難所運営・広域避難・交通復旧の実態と教訓」 -
輪島市上下水道局長(当時)
登岸浩さん
「被災後の上下水道の復旧とその体験からの教訓」 -
輪島市生涯学習課
保下徹さん
「災害対応・避難所運営の課題と連携」 -
輪島市環境対策課
外忠保さん
「災害時の環境衛生対応で感じた多様性への課題」 -
輪島市防災対策課長(当時)
黒田浩二さん
「防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走」 -
輪島市防災対策課
中本健太さん
「災害対応と避難所運営の課題」 -
輪島市防災対策課(当時)
新甫裕也さん
「孤立集落対応の実態と教訓」 -
輪島市文化課長(当時)
刀祢有司さん
「文化会館での物資受け入れ業務と、文化事業の今後の展望について」 -
輪島市土木課長(当時)
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「技術者としての責任を胸に、被災直後から復旧に奔走」 -
能登町職員
灰谷貴光さん
「様々な方の助けを受け、避難所運営という重責を担った」
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輪島市復興推進課(当時)
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消防
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七尾消防署 署長補佐
宮下伸一さん
「道路の損壊をはじめ、過酷な状況で困難を極めた救助活動」 -
七尾消防署 署長補佐
酒井晋二郎さん
「不安や課題に直面しながらも、消防職員として全力で責任を果たした」 -
輪島消防署(当時)
竹原拓馬さん
「消火活動・救助活動の経験から職員一人ひとりの技術向上を目指す」 -
珠洲消防署 大谷分署 宮元貴司さん
「拠点が使えない中、避難所の運営にも協力しながら活動を実施」 -
珠洲市日置分団長 金瀬戸剛さん
「連絡を取り合えない中で、それぞれができる活動をした」 -
珠洲市三崎分団長 青坂一夫さん
「地区が孤立し、連絡も取りづらい中で消防団活動に苦心」 -
珠洲市消防団鵜飼分団長 高重幸さん
「道路の寸断など厳しい環境の中、救助活動に尽力」 - 珠洲消防署 中野透さん、源剛ーさん 「殺到する救助要請への対応と緊急援助隊の存在」
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珠洲市若山消防団長
森定良介さん
「救助活動や避難所運営での苦労や課題、
災害への備えの重要性を再認識」 -
能登町消防団副団長
金七祐太郎さん
「災害に備えて、「自分の命を守る力」を持つことの重要性を痛感」
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七尾消防署 署長補佐
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警察
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医療機関
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
山端潤也さん
「令和6年能登半島地震の経験 ~過去の災害に学び 活かし 伝え 遺す~」 -
輪島病院事務部長(当時)
河崎国幸さん
「災害対応と病院の今後の地震対応にかかるBCP」 -
珠洲市健康増進センター所長
三上豊子さん
「支援団体と協力し、全世帯の状況把握や、
生活支援を実施して」 -
珠洲市総合病院
内科医長・出島彰宏さん、副総看護師長・舟木優子さん、薬剤師・中野貴義さん
「2人で立ち上げた災害対策本部と過酷な業務」 -
志賀町立富来病院 看護師・川村悠子さん、事務長・笠原雅徳さん
「物資だけでは解決しない~災害時のトイレに必要な「マンパワー」と「経験」~」 -
(能登町)小木クリニック院長
瀬島照弘さん
「能登半島地震における医療対応と教訓」 -
(能登町)升谷医院 院長
升谷一宏さん
「過酷な環境下で診療にあたり、多くの方の健康を支えた」 -
柳田温泉病院事務局長
野村清一さん
「設備が損傷し、人手も限られる中での入所者対応」
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(七尾市)公立能登総合病院 診療部長
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教育・学校
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七尾市立天神山小学校長(当時)
種谷多聞さん
「今こそ、真の生きる力の育成を!~能登半島地震から 学校がすべきこと~」 -
珠洲市飯田高校2年生
畠田煌心さん
「ビニールハウスでの避難生活、
制限された学校生活、そんな被災体験を未来へ」 -
珠洲市宝立小中学校5年生
米沢美紀さん
「避難所生活を体験して」 -
珠洲市立緑丘中学校3年生
出村莉瑚さん
「避難所の運営を手伝って」 -
志賀小学校 校長・前田倍成さん、教頭・中越眞澄さん、教諭(当時)・岡山佳代さん、教諭・野村理恵さん、教諭・側垣宣生さん、町講師(当時)・毛利佳寿美さん
「みなし避難所となった志賀小学校」 -
能登町立柳田小学校長
坂口浩二さん
「日頃からの地域のつながりが、避難所運営の土台に」
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七尾市立天神山小学校長(当時)
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企業・団体
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ボランティア
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関係機関が作成した体験記録

