石川県
令和6年能登半島地震アーカイブ 震災の記憶 復興の記録

体験を語る

TALK ABOUT THE EXPERIENCE
  • 行政

防災対策課として、刻々と変化する状況への対応と調整に奔走

輪島市防災対策課長(当時) 黒田浩二さん
体験内容
地震発生後、防災対策課長としてとりまとめを担当。県と市、住民の懸け橋となり、情報共有の重要性を実感した。その後自身が消防へ異動した事も相まって、住民が正しい判断で避難できるよう意識向上を図る事、経験者が少なくなる中で今回の自身の経験を継承していく事を今後の課題と考えている。
場所 輪島市
聞き取り日 2025年9月8日

地震発生当初

まずは被災当時のご自身の状況についてお聞かせいただけますか。

元日ということで、私は自宅にいました。16時6分に最初の地震があって、5弱でした。それで市役所に参集するために自宅を出て、自宅の近くに車を駐車していたんですけれども、駐車場に行って車に乗った際に本震が来たという状況でした。自宅周辺では電柱が傾き道路は地割れが起きました。
自宅には高齢の両親がいるので、一旦家まで戻ると、家族は家の中にいたので家から外に出して、徒歩で職場である市役所まで行きました。
両親については、自宅に兄もいたので後のことは兄に任せて、危なかったら近くの集会所へ行けばいいっていう話をしました。

職場に到着したらどういう状況でしたか。

なにせ被害の状況等が分からないっていう感じですね。ただ電話は少しずつかかってきていましたし、近隣住民の方も来ていました。職員の参集については、あまり登庁できてないような状況でした。道路も被害を受け、近くに橋もあるんですけど、50センチ以上段差ができていたので、車で来ることは不可能な状況の中で、集まった職員で、それぞれ必要な情報を収集していくという状況でした。

発災当日来られた職員の方っていうのは、道路も寸断されてなくて、徒歩でも来る事が出来る方々だったんですね。

そうです。多くが徒歩で来ていて、次の日の午後に来た人もいます。20キロぐらい歩いてきたと思います。参集できる職員が登庁して、町野地区の職員は付近の公民館に参集していました。

防災対策課としての対応

大地震発生時の行動については、あらかじめ「このように動く」といった事前のマニュアル等が策定されており、今回はそのマニュアルに沿って対応されたということでしょうか。

マニュアルは策定してあるんですけれども、実際は、参集できる人が限られてしまい、情報もなかなか集まらない中で、まず人命救助を最優先にしながら、やれる事から整理、調整し対応していきました。緊急消防援助隊、自衛隊、輪島には航空自衛隊もあるので、そういう方との調整を行いました。航空自衛隊の方はその日のうちに来ましたし、緊急消防援助隊や、広域緊急救助隊の警察の方は道路の事情で当初はすべての隊は入ってこられなかったんですけど、先着隊として普通車サイズの車両は当日の深夜に入ってきたと思います。
また、避難者の方への対応は、避難所の状況確認などをしながら、当日深夜まで登庁出来た職員で、まず優先事項を調整・設定し進めていきました。

最初に優先順位高く取り組んでいかれたことはありますか。

とにかく人命救助で取り組みました。

自衛隊の方などと、どのように連携や連絡を取られていたんでしょうか。

直接的な連絡はありません。石川県を通じて進めました。石川県が主になるので、消防、警察、自衛隊に関しては、石川県の方で取りまとめてもらい、私たちは、車を停める場所はあるのか、対策本部にする場所はあるのか、そのような事について調整する形でした。
基本的に警察、消防、自衛隊については自分たちで対応することになっているのですけども、被害状況などの情報がない中だったので、現在の状況を聞かれたりする事はありました。ただ、多くの車両が来られてもほとんど駐車するところも見つかりませんでした。輪島は小さい自治体で、大きな施設的なものというと学校、公民館、グラウンドになるのですけれども、そういった場所については既にほとんどが避難所になっていました。そして、学校の体育館や公民館などはさらに、避難者が来るわけですから、車は駐車できないということになります。輪島にはサンアリーナというプールと体育館を併設した施設もあるんですけど、そこも地震の被害で使えない、また、稲舟町の高校の施設へも道路が寸断していけないという状況でした。

初日の段階では情報が限られる中で模索しながらの対応だったかと思いますが、2日目以降には、状況に変化は見られましたでしょうか。

とりあえず参集した職員で対応しました。私は災害対策本部の対応をしました。また、各課についてですが、例えば生涯学習課ですと、計画の中で避難所の担当になっているので、各施設の状況を確認して、現地に行ける範囲については避難所へ行き、避難状況を確認しました。当然市役所にも避難者が確か300人か400人ぐらい来ていて、避難者の対応をしながら、本部の業務もする状況でした。
市の職員は自席から見える範囲で20人位でした。
また、市役所に訪れ、近隣の人が家の下敷きになっているという駆け込みもありました。そういう命にかかわるものですと、消防に情報を共有しながら、被害や避難者の状況をホワイトボードに書き出し、避難者の数などを確認するということを、とにかく参集した職員で進めました。夜中までに、とりあえず参集できた職員で、本部の運営、避難所の運営、物資の受け入れについて少ない職員で割り振っていく形で対応する事になりました。

集まられた20名というのは、全体では本来どの程度の人数が集まる予定だったのでしょうか。

20人というのは、この私の見える範囲で、同じフロアにいる人の人数ですね。全庁的にですと、あの日は全員参集っていうような形になります。確か1日の最終的な登庁というのは、300人近くいる職員のうちの40パーセントくらいだと思います。
それは市役所に参集した職員、支所に参集した職員になります。当然帰省している職員は参集できなかったので、全体で100人にはならないかなとは思います。

そこから1日目から2日目にかけては泊まりがけで作業をされたという事でしょうか。

そうですね。皆さん泊まりで作業していました。全体を把握は出来ていませんが、最初の10日ぐらいは帰ってない職員も多かったと思います。

対応していく上での困難

最初の時期で一番大変だったこと、難しかったこと困ったことは何ですか。

とにかくマンパワーが足りなかったことです。それに尽きます。あとは被害状況がひどくて、物資を届けるまでに時間がかかりました。確か3日には県からの物資も来ていると思いますが、最初の頃は物資も届かないし、その後、物資がプッシュ式で来るのですが、それをさばく職員が足りない、避難者の方も多くいるので、その避難者の対応をする職員も足りません。小さな自治体です。人が不足するという状況が起きました。

支援の「プッシュ型」方式というのは、あらかじめ方針として定められていたものなのでしょうか。
それとも、状況の中で自然とそのような形になっていったのでしょうか。

県の方で準備してプッシュ式で送っていただきました。

初動の時期は、想像を超えるほどの混乱があったかと思いますが、そのような状況の中で、特に工夫された点や、支えとなったことなどはありましたでしょうか。

初動で何か工夫というのはなかなか大変でした。とにかく電話が頻繁になりますし、その電話の内容も救助要請の電話、他の地域からの問い合わせもあったりしました。身内の方からの問い合わせ電話もあれば、ニュースでもありましたが、Xの誤情報のようなものも入ってきたりもしました。そういう情報は避難者からも当然あるので、その中で一つずつ対応していく、当時はそういう状況でした。

発災から10日ほどで、ご自宅に戻れるようになるなど、徐々に落ち着きを取り戻す様子が見られたのでしょうか。

私の場合はですが、ちょうど帰ったのはそれぐらいのタイミングだったかなと思います。

時間の経過とともに変わっていく対応

では、地震が起こってから今までどういう業務をされてこられたかお教えいただけますか。最初は人命救助メインということでしたが。

防災対策課になるので、各所、各課からの情報を取りまとめました。あとは災害対策本部会議を開いて調整するということで、自身が直接現場に行って災害活動するということはあまりしていませんでしたね。

情報収集して統括するということですか。

各課から情報を上げてもらい、道路の状況、避難所、被災調査、物資の状況など、各課で担当している業務について報告し合いました。それを集約して、市の災害対策本部会議で諮っていました。会議は毎日開催し、日によっては何回か開催した時もあるのですが、情報共有しながら会議を進めていきました。

データの集計なども含まれていたんでしょうか。

最初の頃はデータとまではいかないですね。もう手書きの資料で、簡単に作成できるようなペーパー形式でした。後半になると、各課それぞれから今日の状況について報告してもらい、それをプリントアウトして共有しながら会議を行いました。
今日の状況というのは、避難所・物資・被災状況調査・道路の状況など、また学校関連の状況についても報告してもらい、会議の中で共有しながら検討、調整し対応していくっていうようなところですね。

初動の時期には、情報を強く求めながらも、なかなか得られなかった場面もあったかと思います。そのような中で、特に「知りたかったのに把握できなかった情報」には、どのようなものがありましたでしょうか。

孤立集落が多く生じました。その孤立集落について詳細に集約して解消できるまでが、なかなか時間がかかりましたね。孤立集落には行くことが困難なので、そこは自衛隊に協力してもらって物資をヘリで運んだり、ヘリで行けないところだと、自衛隊の方に運んでもらったりっていう方法でした。

自衛隊を通して、そこの孤立集落の状況を聞いたりしたのですね。

自衛隊からの情報と、スターリンクや衛星電話を活用しました。行けないところは、自衛隊の方に衛生電話を持って行ってもらって、そこの地区の区長さんに衛生電話をお渡しして、定期的に連絡を取っていました。

地震発生から落ち着くまでの期間、作業としては同様の対応が継続して行われていたということでしょうか。

局面局面で状況も変わっていくので、その作業が必要ですね。発生から順に、各関係省庁の方も、輪島市に来られます。その方たちが来て下さった時に、経産省だと仮設トイレですとか、国交省ですと道路関係ですとか、皆さんが来られた時にこちらの状況や情報の提供が必要でした。
例えばここの避難所にトイレをお願いしますなど、こちらの状況や情報を共有しながら対応していくというような形でした。

そのような中で、高齢者や障害のある方などの要配慮者、いわゆる避難時要支援者・避難行動要支援者への対応について、優先順位の付け方はどのようにされていたのでしょうか。

そのことについては担当ではなくて、避難所については生涯学習課の担当で、高齢者ですと子育て健康課、福祉課が担当になるので、避難所で協力しながら対応してくれていました。当然、冬場の時期でコロナもありますし、インフルもありますし、ノロウイルスもありましたので、それぞれの課の皆さんに調整していただいていました。
応急対策職員派遣制度というものがあるんですけれども、全国からトータルで5万人ぐらいだったと思います。ブロックで職員を応援派遣する、その方たちが、先遣隊で3日か4日に来ていただいて、総括支援チームである三重県が、輪島市を支援してくれました。
物資については管理や搬入、避難所では運営が必要ですし、また被災の調査、建物の調査も当然しなくちゃいけないですし、それに関する生活再建支援制度関連の事務処理もありました。当初はそのような内容でしたが、時間が経過すると建物の公費解体などもありますね。だから最初の3日、1週間、2週間と、一応スケジュール的なものはあるんですけど、実際はスケジュールのとおり進まない。こういうふうにやりましょうと調整しながら、応援に来た方にも、できれば最初の1週間でここまで進めたいと調整するのですが、思ったように進まないのが実際ですね。避難所についても1人あたりのスペースが狭かったということもありました。

応援の外部の方にいろいろ頼んで進められたという事ですが、外部の方にやってもらいたいことと、輪島市、自分たちで集中してやりたいことの住み分けはあったのでしょうか。

輪島市は県との直接的な調整はやりますし、応援で来られた方には避難所の運営などのサポート、荷物の搬送や仕分けなどですね。
家屋の被害調査にしても、輪島市には1万世帯以上あり、1件1件やらないとなりません。そのような中、1月中旬頃には、被害調査で、100人以上は来てくれていたと思います。被害調査については、担当の税務課が情報共有しながら、応援に来てくれた方が実際調査していくという形で頑張ってくれました。案内については、市の職員がすべて同行するのは困難だったので、状況により対応していきました。また、支援に来た方と調整しながら、なるべく市の職員が負担にならないように、と協力してくれました。「応援の自分たちは短期ですし、市の職員の方は被災自治体で、災害対応は長期になるから、なるべく休息も取ってくださいね」って言葉もいただいていました。

休息を取るっていう意味合いもありますよね。

はい。応援職員でも2週間の方もいれば1ヶ月の方など、期間もさまざまですけど、私らはずっと続きますからね。

なるほど、ありがとうございます。その期間に集中的に活動を行っていただいたということですね。被害調査などの活動については、1件ごとに連絡を取りながら把握されていたのでしょうか。

市役所内での混雑

被害調査については税務課が担当でやってくれていて、役割を振り分けていましたね。
とにかくこの市役所の建物内が混雑している状況でした。自衛隊、警察、DMAT、保健師さん等の関係者で。本来そういう状態にならないと思っていたのですが、この庁舎の中に全て来たという状態でした。
本来であればDMAT、JMATなどは県の保健所や、病院に行くと思っていたので。でも、病院にも避難者が集まり、さらに増えていますという事や、保健所は施設が使えなくて、市役所に集まる以上の人が来てしまい、結果としてDMAT、関係省庁、自衛隊、警察など多くが集まりました。本来なら輪島市の災害対策本部室があって、その他のスペースはその他の形で利用できればと思うところですけども、そのような状況になっていました。さらに、避難者の方もいます。避難者の方に帰ってもらうことはできないので、市役所から移動してもらうには、当然別の場所を準備して移動していただくこととなり、その中でいろいろ意見をいただくことになりました。

本当に道々に色々な人がここに集結してたくさんの事をやっていたという事ですね。

市役所に参集した者で、避難者の方に少ないながら水や毛布、非常食を配るという対応もしていましたね。発災直後の電話対応もそうですけれども、計画では担当でなかった業務についても、目の前にある業務に対応していました。本来ならば市役所は指定避難所ではないんです。ですが、避難所になっている状況だったので、そちらの対応もありました。

本来なら警察や自衛隊、DMATも、別々でスペースを確保してやってもらうっていうのが理想だったという事ですね。

理想では本来のスペースがあって、例えばこちらはリエゾンのスペースで、とそれぞれ必要な場所を確保できれば良かったのですが、リエゾン以外の方も皆さん来られていましたね。

そういった面では少しやりづらい面があったんですね。

そうですね。それで、場所を整理しながら少しずつ他の場所が使えるようになっていって、避難者の方にも移動していただいて、少しずつ解消し、会議や調整もできるようになりました。

会議する場所すら最初の方は無かったわけですね。スムーズになってきたなと思ったのはいつ頃ですか。

1週間ぐらいだったと思います。応援職員の方が来て下さって、協力していただいて、スペースづくりにも協力していただきました。

避難者の人は、徐々に出て行かれたんですか。

いえ、一斉にお願いしました。誠に申し訳ございませんが、移動の協力をお願いしますということで、すぐ近くの場所に移動をお願いしました。移動先も整理して、準備ができたので協力してくださいっていう流れでした。

具体的にその避難者はどこに移動したのでしょうか。

近くの輪島高校に移動していただきました。

DMATや警察などの関係機関の方々は、その後も現地に残って活動を続けられていたのでしょうか。

はい。

それは通常の形だったのでしょうか。

本当はもう少し少ない方が良かったですけど、スペースやりくりして、災害対策本部会議を、警察やDMATとは別の場所でできるように改善されました。

救助と支援の内容

先ほど消防署にいた方のお話を聞いたんですが、消防署と自衛隊と警察などは、それぞれが持っている地図が違うから、人命救助などは別々に動いていたと聞いたんですが、その内容についてご存じでしょうか。

私は、当時現場では無いのですが、基本は違うと思います。警察、消防、自衛隊と。捜索報告や、活動方法には違いもあると思います。初期は火災も発生していたので、消火活動をずっと行っていたと言っていたんじゃないでしょうか。

おっしゃっていました。

倒壊家屋からの救出もですが、最初に火災があって、鎮圧したのは、次の日の夕方だったと思います。とにかく火災をどうにかしないと、最初は消防署のポンプ車も3台ぐらいの出動だったはずですし、消防団についても現場に到着できた分団は少なかったはずですから、その中での活動でした。そのうちに緊急消防援助隊が来て、そして、自衛隊と協力して、情報交換しながら、すみ分けし、活動するということを行っていたと思われます。

災害対策本部としては、同じ庁舎内にDMATなどの関係機関が入っていたことで、連携や運営がスムーズに行えたという点はありましたでしょうか。

私自身は直接DMATとはそんなに情報共有はなかったですね。DMATには場所を提供したという形でした。

災害対策本部の業務として情報共有していく中で、局面が大きく展開した、転換点や出来事はありましたか。

大きくここが転換点という事は無かったですね。徐々にというか。ただ、私が元消防職員という事もあり、発災72時間というのは人命救助や孤立解消に意識がありましたね。

孤立集落の方の把握はどのように行われていましたか。

電話が繋がる場所もあったので、携帯電話や固定電話を利用して区長さんなどに、電話をしました。都会に比べ、地区の状況をよく知っているんですよね。例えば、今○○町のところに集まっていて、全員元気でいますといったような電話がありました。それ以外の状況が分からない集落は、先ほど話したように、自衛隊に歩いて行ってもらったり、ヘリで行ってもらったりして、状況を把握して、各地区の孤立状況を確認していきました。

今回は自主避難所が非常に多かったかと思いますが、その把握については、孤立集落の場合と同様の方法で進められたのでしょうか。

そうです。避難者のピークが13,800人ぐらいで、自主避難所や普通の住宅にも多く避難していました。だから避難所というか、避難している箇所といった方が良いですね。その数が約190箇所になっていると思います。

自主避難所を含め、避難所全体の状況を把握できるようになるまでには、概ねどの程度の期間を要したのでしょうか。

詳細なものですかね。

はい。というのも、自主避難所については、避難者の有無がすぐには把握できず、そのために物資が届かない、あるいは届きにくいというお話を伺ったため、どの程度の時期で全体を把握されたのかをお聞きしたいと思いました。

概ねの数字はおそらく相当早い段階からある程度は出ていたと思いますね。2日、3日ぐらいの段階で。何人っていう細かいところまでは情報が無くても、何箇所ですとか、何十人という人数では出ていたと思います。水は不足している状況でしたね。正月という事もあり食料は水に比べて用意があったみたいですね。

全体の状況を俯瞰して見られていたかと思うんですけど、今回の地震では複合災害とも言われていますが、輪島市の中でも地区によって状況は様々だったのでしょうか。

いろいろですね。まず輪島市自体が一時的に孤立に近い状況でした。大きい括りで言いますと、輪島の東部に町野地区があり、中心部に輪島市街があって、西部に門前地区があるんですけど、発災直後、金沢から入れたのは門前地区の方だけでした。輪島市街と町野は車両で入ってこれませんでした。物資も確か門前地区の方が早く入っているはずです。輪島市全体が孤立しているような状況の中で、市の防災業務担当として、自衛隊への情報提供や市の状況把握を行い、それを会議で諮るという形が徐々に作られていきました。最初の頃はなかなかスムーズにはいかず、形が整って来たのは少し経ってからです。避難所の対応については他の課がメインで活動してもらいました。輪島市の中でも様々な状況がという話ですが、避難所でいいますと、物資の種類や量、届くタイミングも、避難所によって違いましたね。

型のようなものが、だんだん進めていく中で出来ていったという事ですね。

時間の経過とともに進んでいきました。必要なものも、3日、1週間、1ヶ月と、時間の経過とともに、どんどん変わっていきました。最初は本当に生活に必要な水ですとか、食べ物、寒さをしのぐ毛布みたいなものが必要ですけど、時間の経過とともに人間らしい生活をしていくために、少しずつ生活環境というのを改善していかなければならないですから、そうなると必要なものもどんどん変わってきますね。それに応じた物資を調整していくっていうようなものになってきます。

被災状況が落ち着いてきた時に、住民の方の生活再建支援について、具体的にどういう取り組みがされたかお聞きしてよいですか。生活再建支援というと別の課でしょうか。例えば、住民の方から来た要望やクレームなどはありましたか。

実際、発災直後は、再建というより、まず、自分が家から避難してきている状況の中で、とにかく食べる、飲むっていう事が第一です。ただ、時間が経過し環境が変わってきて生活が改善されていくと、自分の家はどうなるのかというステージに変わっていくので、その中で当然様々出てきます。被害調査は必要ですし。当初は被害調査というものではなくて、発災後の4日目ぐらいかな、応急危険度判定というものがあって、まずそれを実施していって、それ以降に被害調査というような形で確か実施していますね。それに合わせて災害救助法、被災者生活再建支援法の適用となり、被災状況に応じた支援というものを、石川県が国と調整して、支援について決めていきました。

災害対策本部で話し合う内容のトピックが時間とともにだんだん変わっていったのですね。

先ほど言ったように発災直後は人命救助から始まり、自衛隊とも協力している中で、自衛隊については、炊き出しをどうするかという調整や、お風呂も自衛隊にお願いしているので今後の調整と、準備をしていきました。

県と市、住民の懸け橋に

収集した情報を基に、県に対して働きかけや調整・交渉などを行うといった役割も担われていたのでしょうか。

石川県と自治体の市長をWEBでつないで毎日会議をやっていたので、その中で、それぞれの自治体が必要な支援をしていました。

そのお願いする中で何か特徴的な事柄はありますか。頑張ったこととか、輪島の特徴としてお願いしたようなことなど。

どこの自治体も同じと思います。やはり、人的支援と物資支援が大きかったかなと思いますね。断水が長く続いたことに対して、職員の派遣の要請を県にお願いしたりしていました。避難者の対応やインフラの整備、電気もなかなか戻りませんでしたし、そのようなことをお願いしました。

だんだん落ち着いてきた段階での大変だったことっていうのは、最初の初動の時期とまた変わっていったのでしょうか。

初動の頃はそのような対応になりますし、落ち着いてくると先ほど言っていた生活再建支援というものが大きかったですかね。道路の修繕とかインフラに関しては、建設部で進めて、避難者に関して言うと、初めてかなと思うんですけど、1.5次避難、2次避難を行ったので、その辺の調整もなかなか大変だったかなと思います。

それは災害対策本部としてはどういう関わりがあったんですか。

担当課で行っていたので、防災対策課で一部サポートするような形で、2次避難場所の調整などがありました。輪島の避難所にいても避難所の環境改善に時間を要するし、避難者の方の健康状態も悪くなるかもしれませんので2次避難お願いすることを、市長も広報で伝えていました。ただ、2次避難の受け取り方は市民の皆さん一人一人それぞれでした。そして、状況も変わってくると、増えていく対応もありました。

2次避難の受け入れ先の調整は。

調整については石川県でした。県が調整して、輪島市の方からは避難所からバスで避難者を送り出すという形で、その後は自家用車でも受け入れオッケーになったりと、変わっていきました。1.5次避難は、福祉施設の方もだいぶ被害を受けていたので、福祉の担当が検討、調整しながら、金沢方面の受け入れ先等について取りまとめて、災害対策本部会議で諮り、新たな課題についても石川県の方に状況を説明して対応をどうするか検討するという形が日々の流れです。あとは、ボランティアの対応もなかなか難しい問題でしたね。

ボランティアはどのように動いていったのでしょうか。

石川県の方で、調整していました。

最初の頃に、あまり来ないようにという話がありましたね。

来てほしいという思いは大きかったんです。でも、来ていただいても、車も止める場所もない、空き地(野営するような場所)もない、食べるものもない、飲み物もないという状況でしたので、なかなか来ていただけなかったです。

広域避難所は今回関係されていましたか。

広域避難所については確か県の方で調整しているはずです。
避難関係は復興推進課が担当ですけれども、広域避難については全部県が調整していたと思います。県が準備して輪島市が送り出すという形です。

1.5次避難所も2次避難所も広域避難所も、今回行ったみなし福祉避難所も、輪島市では対応があったのでしょうか。

県が中心となり輪島市が協力していました。みなし仮設住宅の事務もやっていました。また、アパートを借りた時の賃貸契約に関連する事務をやっていました。

今年からは消防のお仕事にうつられたと伺いましたが、異動前の最後の方のお仕事はどのようなことがメインになっていきましたか。

最後の方ですが、災害対策本部会議の開催が減っていき、業務が落ち着きだした頃に、豪雨災害が発生したため、再び、災害対策本部会議を開催するようになりました。

奥能登豪雨の発生後、県および輪島市としては、どのような具体的な対策を取り決められたのでしょうか。
たとえば、道路の復旧を最優先とするなどの方針が定められたのかについて、お聞かせください。

なかなかそこは難しいですね。道路については、国道、県道があり、県道は県の管理になりますし、市道は市の管理になるので。

市民にとってはどこがどうとは分からないので、全部身近な市役所に言ってこられますよね。

いつ直るの、なんで答えられないのという問い合わせはありました。

防災対策課として重要なこと

災害対策本部のお仕事の中で、ご自身が大事に取り組まれたことは何かありますか。

なるべく情報を集めて、その情報を関係者間で共有するというようなことですかね。なかなか共有が難しいですからね。

共有の難しさっていうのは、例えばどういうことがありますか。

それぞれ自分の担当部署で検討し対応を決定しがちになるので、それぞれの部署の課題について、全体で共有することです。誰かが知っていて、誰かが知らないっていうことは、意外と起こりがちなので、そうならないようにすることですね。

今回の地震でもそういうことがありましたか。

ありましたね。そんな細かいこと言っても仕方ないって思う方もいるとは思うんですけども。

細かいことも共有されていれば、もう少しスムーズに対応できたんじゃないかなということも。

それも今後の課題の一つですけども。

本当にいろんな情報がある中で、どの情報をみんなと共有して、どの情報が大事かっていう優先順をつけて、どう共有するか、それをやっていくうちにだんだん洗練されていくという事ですね。

他の課にも何かしらの関連があるんです。だから、避難所の方はこういう状況ですと共有する事は重要です。避難所では多分大した問題ではないと思うかもしれませんが、意外と他課では関係あったみたいな事があるんです。だからそれぞれ必要なことは報告しているのです。
現在このような課題があります、その課題について対応とスケジューリング、何をいつまでを目処に、みたいな共有をきちっとする。短いスパンのものから、長いスパンのものまで共有していく事は、やはり大事です。どうしても時間の経過とともになくなっていってしまいますからね。

部署ごとに「当たり前」と思ってしまっていることがあり、そうした点が共有されにくい面もあるかと思います。特に行政機関では、縦割り構造のために情報共有の重要性が一層高まるように感じます。防災対策本部は、そのような情報や対応を統括・調整する重要な役割を担っておられたのですね。
現在は消防に異動されたとのことですが、業務内容としては全く別の分野に携わっておられるのでしょうか。

違いますね。消防の業務は災害活動に関連するもので、災害現場に出動して活動し、その活動内容を報告書にまとめる業務があります。ただ、年齢的な条件や、消防本部職員になると、出動が少なくなり事務的な業務も多くなります。業務の中心となる現場が消防と市役所ではちょっと距離があるかなと感じます。だからクレームと感じるようなものについては消防署では少なく、ありがとうと感謝されることが多いです。

なるほど。確かにそれはあるかもしれないですね。

消防の業務は、1人負傷者を救助し、医療機関に搬送して収容すると現場活動が終了となり、市の業務は、その方の、これから先の生活のサポートや、今後の市民への対策となるイメージです。

これまでのご経験の中で、「やっていて良かった」と感じられたエピソードがあればお聞かせください。お話を伺っておりますと、非常にご負担の大きいお仕事だと感じます。

やっていて良かったことですか、なかなか難しいですね。自分は現場の方が嬉しいことが多いと思います。感謝されるということは、避難所ではあったと思います。ただ、私は避難所にほとんど行っていません。避難所に行くと、いろいろ言われるかもしれませんが、多分、ありがとうと言われることも多いと思います。ただ、自分は、ほとんど市役所内に居たためそういう機会があまりありませんでした。

来た情報を処理して、アウトプットして、を繰り返すという事ですね。でも絶対に欠かせない重要な役割ですね。

そうです。もう缶詰みたいな感じになっていましたね。

リフレッシュをしよう、といったことにはならないんですか。

そんな意識はなかったですね。

応援職員が来てちょっと休暇取りましょう、という時くらいですか。

やらなければいけないという気持ちがずっとありました。ずっと市役所に寝泊まりしていたので、どうしても意識が業務に向いていました。

日本は地震大国であり、いつどこで発生するかわからない状況にあります。そのような中で、今回の大地震のご経験から、「このような備えをしておくと良い」「こうした点に気をつけるとよい」と感じられたことがあれば、お聞かせください。

今回の行政的な立場で言えば、準備不足だったところもあると思います。今後は物資などで足りないものは準備していかなければならないと思います。地震に備えた環境整備、ハードの面、ソフトの面、両方必要になると思います。ハードの面というと、今話した物資や施設、設備になりますし、ソフト的な面というと、地震を経験し業務に取り組んだので、この経験を生かして、職員の今後の研修や継承というような、次の世代に継承していくということが大事だと思います。地域全体として、今の奥能登地域は、災害に対する意識が高いと思います。何時災害が起こるか分からないと思い、そして災害が起きたときのために準備しておくという意識が大事だと思います。このことは、住民の方も、当然私たちも同じです。
避難指示が発令されたときに、自分たちは直ちに避難する必要があるかかどうかを皆さん考えてほしいです。例えばですが、避難指示が発令されたら避難しなければならないと考えるケースが見受けられます。避難しなければならないのは危険な場所におられる方になるので、安全なところにいる人は避難する必要はありません。だから個々の知識や意識を向上するためにも、講習会や研修会に参加してもらう事が必要です。

今のお話はちょっとドキッとしました。避難指示が出ると避難しないといけないのかなっていう気持ちになりますね。

そうです。テレビでも言っている通り、避難指示が発令されたからといって、安全なところにいる方は避難する必要ないんですよね。また、大雨の場合の避難指示、津波の場合の避難指示、状況によって避難対象も違います。
例えば、アパートを借りるときに、この範囲が浸水想定区域ですよ、この範囲が津波区域ですよというように説明してくださいます。その説明を聞くと、自分の住んでいるアパートに津波は来るのか、雨降ったら浸水するのか、そのような事を意識するきっかけになります。まず自分の住んでいるところがどういう危険が予想される場所なのかを考えれば、おのずとどのようなものを準備するか、どこに避難すれば良いのかという事が分かってくると思うので、災害に対する意識を地域全体で底上げしていくことも必要かなと思います。

最後の質問です。今回の輪島市の防災対策課だからできたこと、良かったことがあったら教えていただきたいです。

輪島市役所以外についてはわかりませんが、輪島市役所内の職員間の連携は十分取れていたと思います。平成19年に発生した能登半島地震、あの当時の災害対応経験者が今も勤務していて、今は部課長になられている方もいます。あの当時に若かった皆さん、そして、当時の30代の方も勤務していて、その方たちは災害業務に対し自然に対応していると感じました。このことは、過去の経験が強みになったのだと思います。ですが、私が市役所から消防課に異動したように、経験者は異動等に理由で減少していくと考えられるので、継承していくことが重要で必要なことと思います。

当時のことを語る黒田さん

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